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猪頭破落戸始末
悪を斬るか 酒を飲ますか
しおりを挟む冬吉と仗助は二人とも傘を持って歩いていた。
草間と目当ての店、猪頭はそれほど離れてはいない。
仗助は煮染めと煮魚の入った重箱を、冬吉は柄樽を下げている。
実を言えば、十日に一度の休日か、その前日にはよく二人で猪頭に顔を出しているのである。
それ以外の日は、暖簾を下げた後で、互いの考えた新しい肴で一杯やるのも習慣になっていた。
お夏はそれを喜ばないのだが、本人にも酒を覚えさせて、口を塞いだのである。
仗助はそれほど酒は強くない。
一方、お夏は冬吉に負けないほど酒に強い。
祖父である小助や、その娘である仗助の妻は酒に強かったので、母方から受け継いだ素質であるのだろう。
「しかし、冬吉っつぁん、まだ十七の娘に、あんな通な呑み方を覚えさせて良いもんなんだろうか」
「いや、仗助さん。私は十五からこんな感じでしたよ。生国じゃあ、鱒の鮨でやってたんだから」
鱒鮨は江戸期に北陸あたりで作られたものである。
独特の風味があるので、なかなかに好き嫌いはあるが、これで酒を十五から呑んでいたと言うのなら、相当好き者だと言えるだろう。
「娘が酒好きになって、それで身持ちを崩したら……責任とって貰いますぜぇ」
「いや、その、心配ないって。大丈夫ですよ」
ちらりと人の悪い笑みを浮かべてから、仗助は『冗談ですぜ』と言って前を見た。
草間と猪頭は同じ通りの端と端にある。
当時の江戸の町人街はその境目で木戸で仕切られており、境界は明確であった。
木戸の両横には木戸番と自身番があり、番太郎に見張られている。
ただし、本所だけでなく、多くの木戸番や自身番は結構良い加減なので、木戸が閉まる刻限が過ぎた後の通行も、相当遅くなければ見逃してくれるし、居酒屋の深夜営業についても、寛容に見てくれていた。
その分、店でのトラブルについては、直接話にでも行かない限り見て見ぬ振りである。
猪頭の戸が開いていた。
そして、騒がしい叫び声が聞こえた。
冬吉と仗助は顔を合わせた瞬間、全力で駆け出す。
「猪五郎とか言う業突く張りの爺いはテメェかっ!」
「なんだぁっ、テメェらはっ!?」
独眼の猪五郎の異名通り、一つしかない眼が入り口にいる五人を睨みつけた。
酒を呑みに来たと言う様子ではない。
五人とも人相の悪い男たちである。
旗本の子弟であろう。
武士の場合、次男三男は運よく婿養子先が見つかったり、何がしか手に職をつけることができなければ、一生部屋住という肩身の狭い生き方が強要される。
そういう連中は持て余し者として実家では嫌われ、他人には馬鹿にされ、拗ね物になってしまう場合が多い。
親や兄に小遣いをせびり、その金を酒と博打と女につぎ込む。
小遣いをせびれなくなると、何がしかの悪さをしてその資金を得るようになるから、厄介なのだ。
どうにでもなれという気持ちで生きているから、喧嘩早く、簡単に刀を抜いてしまう。
入ってくるなり、猪五郎に怒鳴りつけた男は、すでに刀の柄に手が行っている。
がなり立てるだけで、特に道理のあるような苦情を言っているのではない。
単に喧嘩を売りに来ている風であった。
『若え頃なら、眼力だけでこんな奴らは、ちびったもんだったんだがなぁ』
猪五郎は内心で思った。
無頼を相手に商売してきたのだ。
理由有無にかかわらず、こうした輩の理不尽な暴力が及ぶことは珍しくない。
それでも一人でやってこれたのは、『独眼の猪五郎』の迫力と腕っぷし、それに加えて、無頼でも平蔵や丹斎のような、気のいい連中が店の味方だったからである。
とは言え、自分の眼力と腕っぷしの方は最近は自信が無くなってきていた。
歳には勝てないのだ。
店にとっては運よく、無頼共にとっては不運なことに、今この場には、気のいい常連、それも剣術絶倫の二人がいる。
すでに二人は片膝をついた姿勢になり、刀を手元に寄せていた。
『取り押さえられねぇことはねぇが、五人同時に抜かれると怪我人なしというのは厳しいな』
『おやっさんが危うい。最悪、突っ込んで一人二人は切り捨てるしかあるまい』
平蔵と丹斎の視線だけでのやりとりである。
『いざとなれば、切り捨てる』
この覚悟は武士のみのものであろう。
これは、武士全体について、不文律のように存在していた『思想』である。
武士は帯刀を許され、無礼討ち、上意討ちなど、状況によっては殺人が公認されている身分である。
武士たちが何故この特権を持っているかと言うと、『悪を切る』役割を担っていると言う考えからであった。
江戸幕府が成立した頃、戦国の世に生まれた多くの流派の剣客達が、兵法書を残しているが、そこには、『悪を切る』という思想が記されていることが多い。
江戸柳生の創設者である柳生宗矩の著書『兵法家伝書』にも、剣を学ぶ意義の一つとして記されている。
流派を問わず、剣術を極めんとする者は、『悪を切る』ことを躊躇わない。
それこそが、武士の存在意義であるからだ。
それによって、後に罪に問われることがあろうと、『ええい、ままよ』と思い切ってしまうのが、江戸の武士道と言うものであった。
武士は侍、浪人を問わず、治安維持の任を帯びており、そのために帯刀と切捨御免の殺人権を保持していたと言って良い。
それでも、平蔵は刃傷沙汰は避けたい。
面倒でもあるし、怪我人死人は出ないに越したことはないのだから。
先頭の男が刀を抜いた。
一触即発のその刹那、
「ええと、まあまあ、何にお怒りかは分かりませんが、気を鎮めて下され」
いつの間にか入り口から入ってきた風采の上がらない男が、穏やかな調子で仲裁に入った。
「そんな物騒なものはお仕舞いください。あ、ほら、猪五郎さんも落ち着いて」
凄まじいほどのとぼけぶりである。
最も緊迫したその瞬間に割って入り、あえて雰囲気をぶち壊す。
これは仗助の得意技であった。
一度いきり立った気迫も、間を外されると、再び引き締めるのには時間がかかる。
「猪五郎さん、落ち着いて。また何人も死人がでちゃあ、よくないですよ」
「いっ……?」
破落戸共が焦る。
この時点でこやつらが、この猪頭をよく知らないと言うことがわかる。
さすがに滅多にないが、過去には猪頭での刃傷沙汰で、死人が出たことはないでもない。
それは随分前の話だが、もちろん、やったのは猪五郎ではない。
客同士のいざこざである。
だが実際のところ、本気で怒らせれば、猪五郎も見た目通り結構恐ろしい男なのである。
この破落戸共は、猪五郎の恐ろしさも知らずに喧嘩を吹っかけてきたのだ。
「ささ、落ち着いて」
そう言いながら、仗助は猪五郎に向き直り、片目をつぶって見せる。
破落戸共には見えないように、すっと懐に手を入れ、一気に振り向き、掴んだ粉を思い切りぶちまけた。
「い、いてぇっ!なんだっこれはぁっ!」
「ゴホッゴホッ、ぶえっくしっ!」
「ひ、ヒィぃぃっ!」
前方にいた三人を、煙のように目潰しの粉が包み込む。
これは仗助特製の目潰しである。
暴力の苦手な仗助は今でも護身用に持ち歩いているのだが、目潰しと言うものの、痛いのは目だけではない。
芥子や唐辛子、さらには山椒などを細かく粉にしたもので、顔にかけれられてしまえば、目だけでなく、鼻から口から、ありとあらゆる粘膜を刺激する。
目は腫れ上がり、口に入れば喉が焼けて咳込み、鼻に入ればくしゃみが止まらない。
とにかく、いきなりぶっかけられては、たまったものではないのだ。
「それっ!」
この隙を手練れの三人が見逃すはずがない。
顔を腫らした三人のうち一人は、平蔵に腕を捻り上げられた上に、首を締め落とされた。
もう一人は、中村丹斎が達人らしく、鳩尾に拳をめりこませで当て落とす。
最後の一人が一番ひどい目にあった。
猪五郎がいつも脇差のように腰に刺している長いすりこぎ棒で、まず鼻っ柱をぶったたき、うずくまったところで後頭部に一撃を入れた。
喧嘩慣れしている猪五郎であるから、後頭部への一撃は手加減しているが、鼻は確実に潰れたことだろう。
後ろの二人には目潰しがとどかなかったが、何もすることはできなかった。
すっと、いつの間にか一人の背後に冬吉が立っていた。
拳でコツンと軽く頭を叩くと男が振り向き、片手で刀を振りかぶった。
冬吉は慌てない。
一撃を左にかわし、その手首を掴んだ刹那、体の向きをくるりと変えて、もう一人の方向に投げ飛ばした。
手首と肘をひねりながらの投げは、同時に肩の関節を外している。
もう一人は下敷きになって呻いているところを、仗助が転がっていた剣を拾って突きつけていた。
「よくもまあ、この方々がいる店に喧嘩を売りに来たもんだねぇ。荷が勝ちすぎってもんだぜ」
今になって、冬吉はそこにいるのが平蔵と丹斎であることに気づいた。
「長山様に丹斎先生まで。出過ぎた真似をいたしまして」
「いやいや、お陰で死人を出さずに済んだ。仗助が入ってきてかましてくれなきゃ、一人二人は切り捨ててたわ」
平蔵の言葉を聞いて、仗助に刃を突きつけられていた男の顔が引きつった。
「で、誰の差し金なんだい?」
尋問を始めたのは仗助である。
後ろにいた二人は昏倒していない。
とりあえず、全員、それぞれの帯で後ろ手に縛り上げてからの尋問である。
「お前らは若いから知らんと思うがな、この店は昔からお前らみたいな輩相手の商売をしてんだ。荒ごとには慣れているし、問題起こすやつは、本所には寄り付けねぇようになるんだぜぇ」
「そ、そんな……」
「だから、話せ。お前らは喧嘩の売り方も下手くそだ。誰か裏にいるって言っているみたいなもんだぜぇ」
珍しくドスの聞いた声で脅しをかける。
演技力という意味では仗助は、なかなかに味のある良い役者である。
おそらく、舐役をしていた盗人時代も、この技が役立っていたに違いあるまい。
「誰かに嵌められたってぇんなら、まあ、手打ちにしてやってもかまわねぇがダンマリ決め込むってんなら、お前らにもこいつを試すことになる」
仗助は懐に入っている小袋を取り出した。
緩い結び目を解くと、強烈な刺激臭が漂ってくる。
顔を引きつらせながら、気絶したままの仲間の顔を見ると、目や唇が火傷をしたように腫れ上がっている。
一人は鼻も潰れている。
一種異様な、化物に近い顔であった。
「や、やめてくれ。話す、話すから……」
話し始めた男は平田小三郎と言った。
御家人の三男坊である。
他の仲間も同様で、家柄もさして良くないし、素行も悪いとなれば婿入りの話もくる筈がない。
徒党を組んで歩き回り、あちこちの喧嘩を吹っかけては、強請り、たかりの類で小遣いを得て安い酒を呑む。
そんな荒んだ若者達である。
「何日か前に、頼まれたんだ。この居酒屋の親父を懲らしめてくれば、金をやるからって」
こうした若い無頼の輩というのは、現代でいうアウトローの若者であるから、金さえ払えば大抵のことはやってのけた。
様々な嫌がらせや、商家なら他店の営業妨害など、汚れ役を簡単に引き受けてくれる。
後ろ暗いことをする連中にとっては、便利な存在でもあったのだ。
「どこのどいつだ?」
「ちょっと離れたところにある、ぼろい寺の坊さんだよ」
猪五郎と仗助が同時にポンと手を叩いた。
「あそこの生臭坊主かっ!この前払いをしぶりやがったんだ。叩き出したのを根に持ちやがったか」
「うちも出入りさせねぇようにしてますぜぇ。菜飯屋をやってた頃も。坊主の癖に大酒食らっといて金払いがわりぃから」
最近の本所では有名なたちの悪い坊主なのである。
由緒正しい大寺ならともかく、小さい寺には素性怪しい坊主というのもよくいるものだ。
「でもだ、ここを襲ったら金をやるというのも、まあ、ひでぇ話だな。そんな金あるわきゃあねぇし」
「へ?」
猪五郎の言葉に平田はきょとんとした。
「あの貧乏寺じゃあ、坊主も金はねぇ。だから、あちこちで難癖つけてタダ酒食らおうとしてやがんだ。嵌められたな。お前ら」
「舐められたぁもんだな。とりあえず、嫌がらせにでもなればってこったろうが、お前さんらは使い捨てだ」
平田はガックリとなった。
もう一人の若者は、この男だけ武士のなりをしていないが、先頭にいた首領格の男の家の奉公人らしい。名は松七と言った。
冬吉に外された肩は、もうはめられている。
松七は気を落とすよりも、怒りに震えていた。
「う、うちの若を騙すなんて、あのクソ坊主っ!」
「騙される若様も悪いが、それを忠告できねぇ奉公人も悪いぞ」
平蔵がギロリと睨んだ。
とは言え、冬吉は彼らと同年代だが、残りは四人ともが、若い時は似た様な破落戸だったのである。
こういう若者に対しては寛容であった。
「ま、とは言え、お前達のことはまあいい。寝てる奴らも起こして、酒でも呑みながら、生臭坊主をどうするか考えようや」
こう切り出したのは猪五郎である。
猪五郎からすれば、こういう無茶な手合いの相手というのは慣れている。
むしろ、冬吉の様なしっかりした若者よりも余程馴染みがあり、扱いにも慣れていた。
そもそもが猪頭はこういう連中に酒を呑ませる店なのだ。
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