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道場破面倒始末
御指南差し上げたい
しおりを挟む昼餉の時刻も終わり、人々が眠気を模様し始める頃、如何にも古兵と言った風態の男が慇懃に礼をし、風呂敷に包んだ木箱を下げて草間を出て行った。
先日、お夏や仗助が世話になった、大身旗本水野家の用人を務める男である。
尚武の家風で名高い水野家の用人であるからか、剣の腕も立つようで、若い頃は血気盛んな主人と同様に、相当に派手な暴れ方をしていたらしい。
水野家の祖先は尚武と言うよりも、傾奇者のような風態で手下を連れて闊歩する旗本奴として有名だった。
風割り蒸しを売り始めてからさらに十日。
その人気は鰻登りで、居酒屋としての営業に差し障りがあるほどであった。
これでは居酒屋とは言えないと言う冬吉に、お夏が昼営業を提案したのである。
風割り蒸しを食べにくる客は女性が多い。
女性が夜間に居酒屋に出入りすると言うのは、江戸の世ではあまり好ましい行状ではないから、昼から開けていれば、夜には来なくなると言うのは理屈である。
さらに、あまり出来は良くないが頑丈で大きさの揃った湯呑みと、その蓋を大量に仕入れてきて、お持ち帰りでも提供できるようにした。
お夏は手が空くたびに、なかなかの達筆で湯呑みに『草間』の二字を入れている。
湯呑みは後日返してくれれば、支払いの一部から湯呑み分を返す仕組みだ。
贈答用にと、大工の伊八に頼み込んで、簡素だがなかなか上品に見える木箱まで用意してもらった。
中は薄い板で仕切りもつけており、六つか十二の湯呑みが入る二種がある。
もはや、この辺りの名物と言った様子で、お土産物として大変重宝されていた。
江戸の世は、礼儀正しい武士や商人が知人を訪問するときには、たいてい何某かの手土産を用意する。
日本の和菓子は、茶道の発展によって洗練されていったが、同時にこうしたお土産の習慣も、大いに和菓子屋を盛り立てたことだろう。
水野家ではお夏たちの様子を見にきた当主が、すっかり風割り蒸しを気に入ってしまい、どこに出掛けるにも、これを欲するようになった。
水野家だけでなく、近隣の商家でも同様だから、仕込んだ分は飛ぶように売れていく。
おかげで、冬吉は一日に二、三回は風割り蒸しを作らねばならず、蒸駕籠も大きなものを改めて用意しなけばならなくなった。
遅くまで飲んで帰った後、女房のご機嫌をとるためにお持ち帰りする酒飲みも多い。
ついでに、湯呑みを返しにくることを口実に、もう一度草間の暖簾をくぐれるのだから、大変理に適ったものであった。
さらに風割り蒸しだけでなく、仗助の作る菜飯も評判となった。
菜飯には田楽か、冬吉の作る煮染めがつく。
どちらも味が濃いので、昼間の本所に多い肉体労働者たちには嬉しいものだった。
煮染めは日持ちするので数日に一度まとめて作るが、昼営業もなかなか忙しいのである。
しかし、今日は冬吉はいなかった。
元々冬吉が夕方からしか店を開けなかったのは、本人がなかなかに忙しいからである。
三日に一度は道場に通う。
また、他の一日は浅草の柏屋で、親のない子供達に包丁のことを教えている。
それ以外にも、仕入れを兼ねた釣りもやり、手のこんだ仕込みをしたりすることを考えると、一人ではとても昼まで開けていられなかったのだ。
人を雇うと言うことで、そう言う気ままな生活ができなくなることも、お夏達が奉公することに難色を示した理由であった。
「冬吉さんは今まで通り、道場通いは続けてください。柏屋の子達に料理を教えるのと、釣りは仕入れと一緒ですから、仕事ですよね」
冬吉はお夏と仗助にも名前を呼ばせている。
本来、二人にとって奉公先の主であるから、『旦那様』と呼ぶのが普通だし、台所を預かる包丁人の頭でもあるから『親方』でも良い。
しかし、冬吉は二人にそれは許さなかった。
年齢もお夏よりは上というだけで、仗助とは親と子ほどの差があるし、そもそも人の上に立つことが面倒で仕方がなかった。
よって、名前を呼ばせ、過度に卑屈な態度も望まなかったのである。
これは草間を始めたときに、お静に言ったことも同様であった。
なので、口ごたえをしようが、意見を違えようが、冬吉は怒ることはない。
ただ、困った顔をして、少しだけ拗ねた態度になるだけである。
「ど、道場通いは、仕事とは言えないし」
少々どもりながら言い返すが、お夏は引かなかった。
「冬吉さんの作る肴は、たくさんの人たちを幸せにします。冬吉さんの剣は、不幸に見舞われた人を救うことができます。どっちも大事なことですよ」
実際、冬吉の剣にお夏と仗助は救われたのだ。
これは、冬吉にとっては大変ありがたいことなのだが、先日、伊八がぼそっと呟いたことが気になって、少々変な意地を張りたくはなった。
『なんだか半分ぐらい、草間がお夏っちゃんに乗っ取られた気もしなくもねぇな』
とは言え、冬吉は今まで通り道場に通いながら、他にも十分時間を使えるようにはなったのである。
さして広く無い道場の中では、激しい撃ち合いが行われていた。
対峙する二人以外は真剣な目つきでそれを見ている。
押されているのは、冬吉であった。
相手は冬吉と背丈こそ同じだが、肩幅の広いがっしりとした剣客らしい体つきの男だ。
打ち込みの鋭さなら冬吉である。
だが、受けの巧さは相手の偉丈夫の方が数段上をいっていた。
草間から、さして離れていないこの樋口道場は、『念流』の道場だ。
念流は『庶民のための剣術』を標榜し、関東一円、特に上州で盛んな流派であった。
庶民のためのものであるから、敵を倒すことよりも、身を守ることを第一としており、それゆえに『受け』を重視している。
冬吉が幼少より研鑽してきた中条流とは違うもので、そうであれば、冬吉が念流の技にこだわる限り、相手の男にかなわないのは自明のことであった。
冬吉は江戸にたどり着くまでの放浪の時期も、どこかの道場の世話になったときには、そこの流派の技にこだわり、外法となる技は使わなかった。
冬吉が道場に通う目的は、誰かに勝つことではなく、技の習得そのものにあるからだ。
包丁のことでもそうだが、冬吉は技術、術理、つまり方法論を知ることに関心を持っている。
勝つことそのものは結果であって、どうやって勝つのかの考え方そのものが関心ごとであり、他流の技を覚えつつ、後になって、自分なりの工夫を加えていくというのが、今日で言う、ライフワークなのである。
「だいぶよくなった。他流を学んだことのある者は、なかなかその癖が抜けぬものだが、冬吉さんにはそれがほとんどない。おそらくは、念流の技にこだわらなければ、私でも危ういと思うのだがね」
稽古が終わった後で汗を拭きなら、偉丈夫の男、木村矢太郎はそう言った。
樋口道場は門弟十人に満たない小規模な道場で、通う者もほとんどが武士では無い。
武士はいても、浪人か貧乏御家人の子弟という程度である。
念流は庶民の流派であるから、それは珍しいことでは無かった。
しかし、道場主である老剣客、樋口正助と師範代の木村矢太郎はなかなかの腕前だ。
樋口という姓は、念流宗家のものであるが、正助によれば血縁はなく、若い頃に宗家から樋口姓を許されて名乗っているものだという。
矢太郎は家督を継げぬ御家人の次男坊であるが、諸方で代稽古を請け負っており、生活は豊かとは言えなくとも、困るものではない。
正助も矢太郎も剣の腕だけでなく、人柄も良い。
それゆえに冬吉は門弟にこそなっていないが、礼を尽くして、道場に出入りする許可を得ることができたのである。
「念流は護身の剣であるから、受け重視。しかし、冬吉さんの強みは足運び。特に入り身にある。相手の攻め手を受け止めて凌ぐより、かわして懐に入り込む方が、本来ではないかね?」
冬吉の剣技の本質を、念流の技しか使わない中で看破して見せたのだから、これだけでも、矢太郎の腕前が知れよう。
そろそろ稽古も終わりという頃、道場に迷惑な客が現れた。
庶民相手の念流の道場にはたまにあることで、腕に覚えのある浪人や旗本の放蕩息子だのが、道場破りを気取ってからかいにやってくるのだ。
「一刀流、大野久太郎と申す。樋口先生に一手ご指南いただきたい」
言葉面だけは丁寧だが、口元にはあざけりの笑みを浮かべていた。
まだ若い、それでいて尊大な態度の男である。
「まず、当道場の師範代、木村矢太郎の相手をしていただこう」
「かまわんっ!その後でお相手いただこうか」
傲慢不遜な態度でそう言う大野は、身なりも悪くなく、おそらくはどこぞの旗本の子弟ではないかと思われた。
歳の頃は冬吉と同じ。
取り巻きの若者も同様である。
身なりはいいが、素行は良さそうもない。
立ち会いは、圧倒的に矢太郎が有利であった。
一刀流を修めたといい、素人でないことはわかるが、攻めが荒すぎた。
むやみやたらに打ち込まれるのを矢太郎は落ち着いて全てをいなす。
苛立った大野が不用意に上段に振りかぶった刹那、胴に強烈な一撃が打ち込まれる。
ただし、寸止めであった。
「よろしいか」
二人は、そのままの姿勢で硬直していた。
明々白々の大野の負けである。
無言を、負けを認めたと受け取った矢太郎が、木刀を引く。
大野が平伏するかのようにその場にひざまずいたのを見て、頭を下げた刹那……
「木村先生っ!」
門弟たちが騒いだ。
大野は頭を下げた矢太郎に平伏したように見せかけて、すねに木刀を打ち込んだのある。
片手打ちとは言え、向こうずねに思い切り打ち込まれては、たまったものではない。
打たれたところは、見る見る間に青黒く腫れ上がる。
「卑怯なっ!」
「だまりなさいっ!」
騒ぎだした門弟たちを沈めたのは師の樋口正助である。
「木村の油断が、隙を生んだだけのことです」
「しかしっ!」
「先生のおっしゃるとおり。それがしの不覚だ。騒ぐな!」
矢太郎の言葉に一同が黙ると、正助が立ち上がった。
すでに老いた小柄な体から、火がついたように剣気が立ち上っていた。
「私が立ち会いましょう。しばし待たれい」
正助が本気になったのがわかった。
大野の技量を見てのことではない。
こうした輩は懲らしめねばならぬという気持ちからである。
準備に取り掛かろうとした正助を冬吉が押しとどめた。
「先生、お待ちください。ここは私が……」
名乗り出た冬吉を見て正助は驚いた顔をした。
腕は良いが控えめで、自分から出しゃばるような男ではないからだ。
「しかし、冬吉さんは……」
「たしかに、正式に入門はしておりませんが、木村さんは身内も同然。是非に」
正助は許した。冬吉の腕前はわかっている。
本来は矢太郎に劣るものではないこともである。
「この道場の者ではないが、樋口先生にお世話になっている冬吉と申します。先生の前に一手ご指南さしあげたい」
「ご指南さしあげたいだと?」
挑発である。
稽古着を着けているとは言え、髷を見れば町人風なのだから、こんなことを言われては、頭に血の上りやすい大野が黙っていられるわけがない。
「ここでは念流の稽古をしていますが、元は中条流を修めております。その技を以てお相手いたしましょう」
「ふんっ! 町人風情がっ! なにが中条流よっ」
中条流は小太刀の技が有名ではあるが、それだけのものではない。
普通の太刀や長刀、槍や柔術も含まれる総合的な流派である。
冬吉はこの道場の定寸の木刀を構えた。
「やぁっ!」
大野は懲りずに大上段から思い切り面に振りおろしてきた。
矢太郎を相手にしたときと同じにだ。
矢太郎はこれを受けて凌いだが、冬吉のやりようは違った。
踏み込んできた刹那、最初の一撃を振りおろす前に自分から踏み込み、木刀の尻を正確にたたいて見せたのだ。
大野の木刀は後方にとばされ、大きな音を立てて床に落ちた。
「よろしいか」
矢太郎とは違い、首筋に木刀を当てた形で冬吉は問う。
ぎりぎりと歯ぎしりをした大野の右手が動いた刹那、パァッンと言う音ともに、大野の手の甲が叩かれた。
「ぐ、うぐぁぁっ!」
大野は懐に隠していた小刀を抜こうとしたのである。
それを見逃さずに容赦なく打った一撃は、手首をひねっただけのものであったので、骨を砕くほどのことはないはずだ。
「お帰りいただきましょう。これ以上、道場を汚すわけにはいきません」
冬吉の言葉に、取り巻き達がうずくまる大野を助け起こし、すごすごと帰っていった。
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