剣客居酒屋 草間の陰

松 勇

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菜飯屋後始末

あまぁい茶碗蒸し

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 まだ日は登りきっていない。

 草間は十日に一度の休みであった。
 冬吉は大きな丼ぶりの中で、卵の白身を溶いていた。
 長い菜箸でしゃかしゃかと手早くかき混ぜる。
 淡雪あわゆきのように、ふんわりとするまでかき混ぜねばならない。

 なかなかに手間がかかる。
 毎日出すなら手伝いが必要だろう。

 しかし、やらねばならなかった。
 今回は多少意地になっているところもある。

『冬様の、あまぁい茶碗蒸ちゃわんむしが食べたいです』

 まだ十七の頃、そう言って懐いてきた少女のことが思い出された。
 妹のように甘えてくる少女にせがまれて、何度も作った品なのだ。

 しかし、さすがにそのころと全く同じ物を作る様では、成長がないと言うものだ。

 それに、今は子供のために作っているのではない。
 若いとはいえ、居酒屋に出入りする程には大人の女たちを唸らせねばならないのだ。

 大きめの湯呑みに、まず出汁とみりん、豆乳を混ぜた黄身を入れる。
 次に上から、泡立てた白身に少しだけ出汁を合わせたものを注ぐ。
 これが多すぎると後から溢れてしまうので慎重に注いでいく。

 それを、湯呑みごと蒸籠むしかごに入れて蒸す。
 蒸籠と蓋の間にはさらしを挟んで、水滴が湯呑みに入らないようにした。


 冬吉は十日に一度の休みは、普段なら少し遠くまで足を伸ばして食べ歩きをしたり、店を出すのに世話になった料亭の主人や、長谷川平蔵にご機嫌伺いに行く。
 閉じこもることは好まない。
 せいぜい夕刻あたりに翌日の仕込みを始めるぐらいで、あまり厨房に立たないのだ。

 今日は特別だった。

 草間を始めて以来、最大の試練かもしれない。
 いや、最も有意義な挑戦であるかも知れなかった。


「お早いですね」

 そう言って、若い娘が風呂敷ふろしきの荷物を持って勝手口から入ってきた。

 年の頃は十七、八。
 別嬪べっぴんとまでは言えないが、はきはきとした小気味よい所作の町娘らしい町娘である。

 名はおなつ
 
 十日ほど前から、料理人の父親と共に草間で働くことになった娘だ。

 お夏の客あしらいは好評で、すでに近所では男からも女からも人気者である。
 冬吉の追っかけ娘たちとの軋轢あつれき懸念けねんしていたが、そう言うこともなかった。
 すでに、草間の看板娘として定着したと言って良いだろう。

 細やかな気遣いと、気風の良さでなかなかの接客を行うお夏だが、冬吉には妙に素っ気ない。
 元々冬吉の方は若い娘には素っ気ないと言うか、あまりかかわらないようにするタチなので、風邪から復帰したお静婆も、毎日菜飯を炊いている父親もハラハラしていたのだ。

 しかし、仕事には支障はなかった。
 今風に言えばビジネスライクな関係と言うやつだろうか。

「おはようございます」

 挨拶だけは丁寧な冬吉だが、それ以上は話そうとしない。
 腕を組み、やたらと真剣な表情で蒸籠を睨んでいる。

 蓋を開けて蒸し器から取り出す頃合いが重要なのだ。
 七年も前に一度作っているとは言え、相当に失敗を重ねた。
 まして、店で出すのだから、形が崩れただけでも使い物にはならない。



 お夏は、風呂敷から中身を取り出した。
 少し大きめの壺である。

 中身は棒茶。
 茶の茎の部分を集めたものだ。

 棒茶はほうじ茶にして飲む。
 上方では一般的だが、江戸ではあまり浸透していなかった。
 しかし、江戸の近辺の茶に茎がないわけではない。
 需要がないと言うことは安く手に入ると言うわけで、追っかけ娘の父親が営む茶葉問屋から、壺一つ分を手に入れて来たのだ。

 それを試しにと懐紙かいし一匙ひとさじ乗せて、軽く炙る。

 ほうじ茶は甘味があり、普通に入れた茶よりも刺激が少ない。
 食事中の飲み物としても都合が良く、酒を飲まない客には、有難いものであるはずだ。


『今だ!』

 冬吉は蒸籠の蓋を開けた。
 さらしを使って火傷に気をつけながら、中の湯呑みを取り出していく。

 出来は上々。

 白身の表面を薄いで平に整形する。
 おそらくは綺麗に黄身と白身の層ができているはずだ。
 湯呑みは水を張ったたらいに入れて、冷やし始める。

 水飴の壺を用意した。
 冷めたらこれを上から垂らす。

 茶碗蒸し、と言うよりも卵豆腐に近いものだが、そこに水飴を垂らすことで、酒の肴が娘たちを喜ばす菓子となる。

「甘い物を食わせとけば、女は黙ると思ってません?」
「……」

 手厳しい言葉に絶句する。

 水飴は結構どこの家でも薬として常備していたと言う。
 滋養強壮剤や胃薬として扱われていたが、確かに、『騒ぐ妻女さいじょを大人しくさせる薬』と言う認識も、世の男たちの間にはないでもなかった。

「もう少し、食べる前の見た目にも工夫があると、娘さんたちは喜ぶと思いますよ」

 こちらに顔もむけず、棒茶を乗せた懐紙をゆすりながら言う。
 店に出ている時以外のお夏はこんな娘なのであった。



 お夏と丈吉が草間に奉公することになったのは、菜飯屋の騒動の翌日のことである。

 あの晩、予想外に早く菜飯屋を捕り方が取り囲むことになったのは、清水門外の役宅まで戻ろうとした十内が、道の中程でばったりと平蔵に出くわしたからである。
 平蔵は草間に呑みに行くつもりでだらだらと道を歩いていたところだったのだ。
 よって服装は着流しで、長谷川平蔵と言うより、長山平三郎のものであった。

 話を聞いた平蔵は役宅には戻らなかった。
 それでは間に合わぬと思ったのだ。
 平蔵は懇意にしている旗本の邸宅に向かった。

 この頃の本所はまだまだ新興開発地域であった。
 もしくは度重なる大火からの復興地域という方が実情に合う。
 江戸の町は何度も大火で焼けており、そのたびに再建されている。

 本所は江戸開府の頃、そもそも江戸の範疇に入っておらず、本所奉行所の所轄で、江戸の町を預かる町奉行所の施政も及んでいなかった。

 それが江戸の一部となるべく宅地化が始まったのは元禄げんろくの頃(西暦一七OO年前後)であるが、その頃には一部の旗本の屋敷が移されていたのだ。
 『赤穂浪士事件あこうろうしじけん』で有名な吉良上野介きらこうずけのすけもこの時期に本所に引っ越して来ている。
 もっとも、吉良上野介は「江戸の外れに追いやられた」と不平を手紙に書いたりしているから、まだまだ郊外と言って良い場所であったのだろう

 とは言え、吉良家は四千石の大身の上、旧将軍足利家きゅうしょうぐんあしかがけ傍系ぼうけいの家柄であり、高家こうけとされていた。
 そんなお偉方さえ居住していたのであるから、本所には他にもいくつもの旗本の邸宅があったのだ。
 


 平蔵が訪ねたのは、七千石の大身旗本、水野伊勢守みずのいせのかみと言う人物のところである。
 六十を過ぎた老人だが尚武の志厚く、悪く言えば血の気の多い爺さんである。

 平蔵が事情を説明すると二つ返事で、頭数を集め、自らの出馬を申し入れて来た。

 よって、菜飯屋を取り囲んだ捕り方は、平蔵自身と山根十内やまねじゅうないを除けば、全て水野家の者や奉公人とその子弟であった。

 尚武の家柄とは言え、捕物には素人である。
 それでもいないよりは遥かにマシであるし、冬吉が先に行っているのだから、取り囲みさえすればどうにでもなる。
 平蔵と十内もそう考えていたのだ。


 幸いにも、にわか捕方が活躍するのは、全てことが済んだ後の後始末だけであった。

 草間で転がされていた二人と、菜飯屋で酷い傷を負わされた三人は水野家で一晩幽閉ゆうへいされ、翌日には清水門外しみずもんがいの役宅の座敷牢ざしきろうに移されることとなった。

 お夏と丈吉も、とりあえずその晩は水野家に保護されたのである。

 途中、たどり着いたときには事が済んでいたと知った水野老が、冬吉を召し抱えたいなどと騒ぐ一幕もあった。


 お夏と丈吉は翌日には五人の凶賊きょうぞくとは別に役宅に送られ、事情を詰問されることとなった。
 庭に通され縁台の上に着流しで、だらしなく座る平蔵をいぶかしく思いながら、お夏と丈吉は平伏した。

 平蔵の穏やかながら、嘘や無言を許さぬ詰問に丈吉は正直に答えた。
 お夏はほとんど何もわかっていないのだから口の挟み用はなかった。

「マムシの剛三は、あっしのことを恨んでいたんでございやす。隙間風の親分のせがれであるのに、どこの馬の骨とも知らぬ、あっしの方が頼りにされている事が許せなかったようで」

 そう丈吉が語ったことに、お夏は驚かなかった。
 丈吉が思わず叫んでいたのだ。

『この親殺しが』と。


 隙間風の小助には二人の子がいた。
 男女の双子である。

 母親については丈吉も知らなかった。
 どこぞの宿場しゅくば飯盛女めしもりおんなだったと言う。
 小助は若い頃、若気の至りで宿から女を攫ったと言っていた。

 と言っても、その後は女の方も小助について行ったのだ。
 攫ったとは言っていたが、女は小助と、手を取り合って逃げ出したのかもしれない。


 小助は女と一緒の間は盗みを働かなかった。
 どうやら方々でとびとして働いていたらしい。

 元々経験があったのかもしれない。
 隙間風の通り名は常人ならぬ身軽さからのものだ。
 鳶の経験があるなら、それもわかる。
 盗人同士は、そういった経緯はお互いに聞き出したりはしない。

 しかし、翌年には妻とは死別している。

 時代が時代である。
 現代でも双子の出産には多少のリスクが伴う。
 産科では通常の分娩ぶんべん時よりも、何名かの医師が余計に立ち会ったりする。
 長らく双子が畜生腹ちくしょうばらなどとさげすまされる存在だったのも、そのことと関係があるのかもしれない。
 母親を死なせる子としてだ。
 そこから本来の意味は忘れられ、産んだ母親まで蔑まされることとなったのではないか。

 産後の日だちが悪く、はかなくなった妻を見とった小助は盗人に戻った。
 乳飲子ちのみごを抱えて盗人ができるはずがない。
 小助は世話になっていた鳶の親方に赤子を預けて旅立った。

 若かったのだろう。
 素性怪しい小助を受け入れてくれた、尊敬もしていた親方に預けておけば安心だと思っていたのだから。

 小助は仕事の合間にまめに手紙と銭を送っていたが、直接会いに行こうとはしなかった。
 子の顔を見て後ろ髪など惹かれては、盗人など続けられるものではなかったのだ。

 それから二年、手紙の返事が来なくなったことに不安になった小助が訪ねたとき、親方夫婦は亡くなっていた。

 たちの悪い浪人が、僅かな銭のために殺したのだと言う。
 何を思ったか、その男は赤子を二人とも攫って行った。
 近所の百姓たちの証言である。

 小助は必死に双子を探し、七年の歳月を経て男の方、剛三をやっと見つける事ができた。
 剛三はどう言う経緯かはわからないが、江戸深川の香具師やしに飼われていたのである。

 育てられていたのではない。
 飼われていた、と言うのがあっている。
 飯は食わせてやるが、裸同然の格好で、寺社の門前で水をかぶる。
 それを見て同情した客に、香具師からつまらない物を買ってくれるよう懇願する。

 そんな生活を長らくしていた子供に、真っ当な大人になれと言うのは酷な事だろう。
 小助は香具師から強引に剛三を引き取ったが、十四の頃には堅気にすることは諦め、せめて本格派の盗人として育てようと苦心していた。

 盗人を育てるなら、頭にならなければならない。
 小助が手下を集めて仕事をするようになったのはこの頃からである。
 双子の妹の方はどうしても見つからなかった。
 

「ものの巡り合わせってぇもんは、わからねぇもんで、あっしも似たようなことになったんでさぁ」

 丈吉はここで少し照れて頭をかいてから話を続けた。

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