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第一章
幽霊屋敷③-1
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薄いレースのカーテンを通り抜けて、無数の光が降り注いだ。
綾奈は起き上がると、大きく伸びをする。
昨夜はよく眠れなかったせいで疲れが残っている。
このまま部屋で寝ていたい気分だが、学校を休むわけにはいかない。
不承不承、制服に腕を通す。
綾奈の通う白藤《しらふじ》高校の制服は、桜色のカッターシャツに深紅のネクタイ、アイボリーのブレザーに薄墨色のスカートと、お洒落で女子に人気だ。
ここの制服が着たいと受験する人も少なくない。綾奈も気に入っている。
制服のおかげで学校へ行く苦痛も少しは和らいでくれているが、集団生活の場が苦手なのは相変わらずだ。
モタモタと着替えていると、下から母の美紀子《みきこ》の怒鳴り声が聞こえてきた。
「綾奈、早く起きなさい!遅刻するわよ」
ヒステリー気味な声に急かされ、綾奈は慌てて服を着て階段を駆けおりた。
洗面所で顔を洗っていると、背後に気配を感じた。
顔を上げて鏡を覗き込むと、自分の後ろを影が通り抜けるのが見えた。
誰かいる。
綾奈は恐る恐る奥の風呂場に首を向けた。
もしも視線の先にいるのが幽霊だったらどうしようなどと考えながら目を遣る。
風呂場の擦り硝子のドアの前には、ケイがちょこんと座っていた。
「なんだ、またケイなの。もう、昨日から私を驚かせて、イジワルね」
文句を言いながらケイを抱き上げる。
ケイの額におでこをくっけて頬を膨らますと、ケイは知らん顔でそっぽを向いた。
「おはよう、綾奈。ケイもおはよう」
「お兄ちゃん、おはよう。今日は早いね。まだ夏休みなのに」
「ああ、今日は前期の成績が返される日だから、学校に行くんだ」
「そうなんだ。じゃあ、駅まで一緒に行ってもいい?」
「いいよ」
玲の出掛ける時間に間に合うように、綾奈はいそいそとダイニングに入った。
「ほら、早く食べちゃいなさい」
席に着くなり美紀子の小言が飛んできて、綾奈は眉根を寄せる。
「わかってる。だから急かさないでよ」
焼け過ぎて茶色いトーストにたっぷりとマーガリンを塗って齧ると、ジャガイモのポタージュのカップスープを啜った。
カップスープは粉っぽく、ミルク感が少なくてあまり美味しくなかった。
自分でカップスープを作る時は温めたミルクを使うけど、面倒臭がり屋な美紀子はポットのお湯で作っている。
水の分量もきちんと計らずに適当に入れるので味が薄かったり濃かったりとまちまちだ。万人の好む味に開発されたレトルト商品ですら、美紀子は満足にちゃんと作れない。
不味いカップスープを机に戻し、綾奈はさりげなく自分の前から遠ざけた。
「おはよう、母さん」
「おはよう、玲。朝ごはんできているわよ」
さっきとは打って変わって、優しい態度で美紀子が玲に声をかける。
頭がよく優秀な兄は母のお気に入りだ。彼にはめったにヒステリーを起こさない。
綾奈は母の贔屓にいつもウンザリとさせられる。
女親はやはり娘より息子の方が可愛いものなのかもしれない。容姿秀麗となれば尚更のことだ。
今にはじまったことではないとはいえ、この扱いの差には辟易とする。
綾奈は不機嫌を隠せずに眉を顰め、短く溜め息を吐く。
「どうした?綾奈」
目敏く妹の表情の変化に気付いた玲に声をかけられ、綾奈は慌てて笑顔を浮かべる。
「なんでもないよ、お兄ちゃん」
「なら、いいけど。カップスープ、飲まないのか?」
「うん、いらない」
「そうか、じゃあもらうよ」
綾奈のマグカップを手にとり、一口飲んだ玲は苦笑した。
「綾奈が飲まなかった理由がわかったよ」
小声でそう呟きながらも、スープを残さずに飲み干した玲に綾奈は少し申し訳ない気持ちになる。
「ごめんね、私が残したから」
「いいよ、綾奈。それより早く朝飯を食べろ。俺と一緒に駅まで行くんだろう?」
「うん」
綾奈は朝食を終えると歯を磨き、前下がりのショートボブの黒髪を丁寧に梳かした。
仕上げにラズベリーの香りのヘアカクテルで髪を整える。
二階の自室に鞄を取りに行くと先客がいた。
ケイが窓辺に座っている。
背筋を伸ばし、金色の瞳でじっと遠くの一点を見詰めていた。
「スズメでもいるの?」
綾奈はベッドに上がってケイの横へ並ぶと、ケイ同じ方角を見た。
視線の先には寂しげにポツンと高台に建つ屋敷があった。あの幽霊屋敷だ。
ケイは幽霊屋敷を睨んだまま動かない。
口を半開きにして牙を見せ、威嚇するように歯を鳴らす。
「ねえどうしたの、ケイ。何を見てるの?」
頭を撫でながら話しかけてみたけれど、ケイは反応せずにじっと屋敷を睨んでいた。
あの屋敷に何かいるのかもしれない。もしかして、ミコトサマだろうか。
俄かに寒気に襲われた。
屋敷を見るのをやめさせようとケイを抱き上げようとする。その時、階下から玲に呼ばれた。
「綾奈、そろそろ出掛けるぞ」
「あ、はーい。すぐ行くから」
慌てて机に置いてあった鞄を手に取り、綾奈は踵を返した。
部屋のドアを閉める前にもう一度ケイに目を遣る。
いつも玄関まで見送りにきてくれるケイは、こちらを見向きもせずに相変わらずじっと窓の外を睨んでいた。
「行ってくるからね、ケイ」
首を捻りつつケイに一声かけると、綾奈は階段を駈け下りた。
玄関には既に靴を穿いた玲が綾奈を待っていた。
「ごめんお兄ちゃん、待たせちゃった」
学校指定のダークブラウンの皮靴を穿きながら綾奈が謝る。
「気にするな。それにしても珍しいな、ケイが見送りにこないなんて」
玲が首を伸ばして階段の方を見遣る。
「そうだよね。ケイ、私の部屋から窓の外を見てて動かないの」
「へえ、鳥でも見ているのか。それとも、気になる猫でもいたかな」
「さあ。なんだか幽霊屋敷の方を見てたみたいだったけど」
「幽霊屋敷を?友達か恋人の猫でもいるのかもな」
「そうかも。あそこは広いし、めったに人も来ないから猫の遊び場所になってるかもしれないね」
玲の言葉に胸のさざめきが消えた。
ケイがミコトサマを見ていたかもなどと考えて怯えていた自分が馬鹿馬鹿しい。
「いってきます」
綾奈と玲は揃って家を出た。
綾奈は起き上がると、大きく伸びをする。
昨夜はよく眠れなかったせいで疲れが残っている。
このまま部屋で寝ていたい気分だが、学校を休むわけにはいかない。
不承不承、制服に腕を通す。
綾奈の通う白藤《しらふじ》高校の制服は、桜色のカッターシャツに深紅のネクタイ、アイボリーのブレザーに薄墨色のスカートと、お洒落で女子に人気だ。
ここの制服が着たいと受験する人も少なくない。綾奈も気に入っている。
制服のおかげで学校へ行く苦痛も少しは和らいでくれているが、集団生活の場が苦手なのは相変わらずだ。
モタモタと着替えていると、下から母の美紀子《みきこ》の怒鳴り声が聞こえてきた。
「綾奈、早く起きなさい!遅刻するわよ」
ヒステリー気味な声に急かされ、綾奈は慌てて服を着て階段を駆けおりた。
洗面所で顔を洗っていると、背後に気配を感じた。
顔を上げて鏡を覗き込むと、自分の後ろを影が通り抜けるのが見えた。
誰かいる。
綾奈は恐る恐る奥の風呂場に首を向けた。
もしも視線の先にいるのが幽霊だったらどうしようなどと考えながら目を遣る。
風呂場の擦り硝子のドアの前には、ケイがちょこんと座っていた。
「なんだ、またケイなの。もう、昨日から私を驚かせて、イジワルね」
文句を言いながらケイを抱き上げる。
ケイの額におでこをくっけて頬を膨らますと、ケイは知らん顔でそっぽを向いた。
「おはよう、綾奈。ケイもおはよう」
「お兄ちゃん、おはよう。今日は早いね。まだ夏休みなのに」
「ああ、今日は前期の成績が返される日だから、学校に行くんだ」
「そうなんだ。じゃあ、駅まで一緒に行ってもいい?」
「いいよ」
玲の出掛ける時間に間に合うように、綾奈はいそいそとダイニングに入った。
「ほら、早く食べちゃいなさい」
席に着くなり美紀子の小言が飛んできて、綾奈は眉根を寄せる。
「わかってる。だから急かさないでよ」
焼け過ぎて茶色いトーストにたっぷりとマーガリンを塗って齧ると、ジャガイモのポタージュのカップスープを啜った。
カップスープは粉っぽく、ミルク感が少なくてあまり美味しくなかった。
自分でカップスープを作る時は温めたミルクを使うけど、面倒臭がり屋な美紀子はポットのお湯で作っている。
水の分量もきちんと計らずに適当に入れるので味が薄かったり濃かったりとまちまちだ。万人の好む味に開発されたレトルト商品ですら、美紀子は満足にちゃんと作れない。
不味いカップスープを机に戻し、綾奈はさりげなく自分の前から遠ざけた。
「おはよう、母さん」
「おはよう、玲。朝ごはんできているわよ」
さっきとは打って変わって、優しい態度で美紀子が玲に声をかける。
頭がよく優秀な兄は母のお気に入りだ。彼にはめったにヒステリーを起こさない。
綾奈は母の贔屓にいつもウンザリとさせられる。
女親はやはり娘より息子の方が可愛いものなのかもしれない。容姿秀麗となれば尚更のことだ。
今にはじまったことではないとはいえ、この扱いの差には辟易とする。
綾奈は不機嫌を隠せずに眉を顰め、短く溜め息を吐く。
「どうした?綾奈」
目敏く妹の表情の変化に気付いた玲に声をかけられ、綾奈は慌てて笑顔を浮かべる。
「なんでもないよ、お兄ちゃん」
「なら、いいけど。カップスープ、飲まないのか?」
「うん、いらない」
「そうか、じゃあもらうよ」
綾奈のマグカップを手にとり、一口飲んだ玲は苦笑した。
「綾奈が飲まなかった理由がわかったよ」
小声でそう呟きながらも、スープを残さずに飲み干した玲に綾奈は少し申し訳ない気持ちになる。
「ごめんね、私が残したから」
「いいよ、綾奈。それより早く朝飯を食べろ。俺と一緒に駅まで行くんだろう?」
「うん」
綾奈は朝食を終えると歯を磨き、前下がりのショートボブの黒髪を丁寧に梳かした。
仕上げにラズベリーの香りのヘアカクテルで髪を整える。
二階の自室に鞄を取りに行くと先客がいた。
ケイが窓辺に座っている。
背筋を伸ばし、金色の瞳でじっと遠くの一点を見詰めていた。
「スズメでもいるの?」
綾奈はベッドに上がってケイの横へ並ぶと、ケイ同じ方角を見た。
視線の先には寂しげにポツンと高台に建つ屋敷があった。あの幽霊屋敷だ。
ケイは幽霊屋敷を睨んだまま動かない。
口を半開きにして牙を見せ、威嚇するように歯を鳴らす。
「ねえどうしたの、ケイ。何を見てるの?」
頭を撫でながら話しかけてみたけれど、ケイは反応せずにじっと屋敷を睨んでいた。
あの屋敷に何かいるのかもしれない。もしかして、ミコトサマだろうか。
俄かに寒気に襲われた。
屋敷を見るのをやめさせようとケイを抱き上げようとする。その時、階下から玲に呼ばれた。
「綾奈、そろそろ出掛けるぞ」
「あ、はーい。すぐ行くから」
慌てて机に置いてあった鞄を手に取り、綾奈は踵を返した。
部屋のドアを閉める前にもう一度ケイに目を遣る。
いつも玄関まで見送りにきてくれるケイは、こちらを見向きもせずに相変わらずじっと窓の外を睨んでいた。
「行ってくるからね、ケイ」
首を捻りつつケイに一声かけると、綾奈は階段を駈け下りた。
玄関には既に靴を穿いた玲が綾奈を待っていた。
「ごめんお兄ちゃん、待たせちゃった」
学校指定のダークブラウンの皮靴を穿きながら綾奈が謝る。
「気にするな。それにしても珍しいな、ケイが見送りにこないなんて」
玲が首を伸ばして階段の方を見遣る。
「そうだよね。ケイ、私の部屋から窓の外を見てて動かないの」
「へえ、鳥でも見ているのか。それとも、気になる猫でもいたかな」
「さあ。なんだか幽霊屋敷の方を見てたみたいだったけど」
「幽霊屋敷を?友達か恋人の猫でもいるのかもな」
「そうかも。あそこは広いし、めったに人も来ないから猫の遊び場所になってるかもしれないね」
玲の言葉に胸のさざめきが消えた。
ケイがミコトサマを見ていたかもなどと考えて怯えていた自分が馬鹿馬鹿しい。
「いってきます」
綾奈と玲は揃って家を出た。
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