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第一章
幽霊屋敷②
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風呂から出た綾奈は、ベッドに入る前に夜風にあたろうと窓を開いた。
窓から入ってくる風は夕方より冷たく、爽やかだ。心地良さに目を細めていると、夜の闇に紛れて窓から何かが部屋に飛び込んできた。
「きゃっ」
驚きのあまり、ベッドに尻もちをついた綾奈に不法侵入者がすり寄る。
柔らかな毛の感触、よく見ると入ってきたのは飼い猫のケイだった。
「なんだ、ケイか。もう、驚かさないでよ」
「ニャオ」
金色の目がじっと綾奈を見詰める。
指で顎の下を撫でると、ケイは気持ち良さそうに喉を鳴らした。
黒猫だから闇の中で姿が見えにくかったからしょうがないかもしれないが、それにしても飼い猫に驚いて叫ぶなんて我ながら情けない。
「どうした、綾奈。何かあったのか?」
兄の玲《れい》がドアから顔を覗かせた。どうやら隣りの部屋にまで悲鳴が聞こえたらしい。
「ごめんね、お兄ちゃん。ケイが窓から帰ってきて驚いちゃっただけなの」
綾奈が手をあわせて謝ると、玲はほっとしたような表情を浮かべた。
「そうか、お前の悲鳴が聞こえたから何かあったのかと思ってびっくりした。何もなくてよかったよ」
「起こしちゃってごめんね」
「かまわないさ、どうせまだ起きていたから。それよりも、何かあったらいつでも俺を呼ぶんだぞ。助けに行くから。それじゃあ、おやすみ、綾奈」
玲は優しく綾奈の髪を撫でると、端正な顔に優しい笑みを浮かべて部屋を出ていった。
ちょっとしたことでも頼っていい。玲はいつもそう言ってくれる。
優しい兄にずっと甘えっぱなしだ。
玲がちょっと悲鳴を上げただけで飛んできてくれるのは、彼が優しいというのもあるのだろうが、自分が余りにも頼りないのも理由の一つだろう。
高校生にもなって兄に心配をかけっぱなしなんて情けない。
もう少ししっかりしなくては。綾奈は小さく溜息を吐いた。
部屋の電気を消すと、窓を開けたままベッドに横になった。
家の前の道の街灯は切れかかっていて、点いたり消えたりとお化け状態だ。
真っ暗になったかと思えば、とつぜん強く光って薄いレースのカーテンに影を映す。
それが少し怖いので、早く直して欲しいが自治会の予算がないから直せないらしい。
高校生になった今でも暗闇が少しだけ怖い。闇には何かが潜んでいる気がする。
今では大丈夫だが、昔はよく一人でトイレに行けなくて、一緒の部屋で寝ていた玲を起こしてトイレについてきてもらっていた。
怖がりは大人になり、現実主義になるにつれて治っていくものなのだろう。
いつか夜の闇をまったく恐れなく日がくるはずだ。
兄を心配させないためにも、一日も早くそうなって欲しい。
綾奈は目を閉じた。瞼の裏の暗闇は不思議と怖くない。
眠りに落ちようとした瞬間、瞼を通り抜ける強い光に襲われた。
街灯の光とは違う、目を灼くような強い光の刺激だった。
いったいなんの光だろう。雷だろうか。
不思議に思いながら、綾奈は起き上がって窓の外を覗いた。
空は雲一つない星空で、月が煌々と地上を照らしている。
「気のせいかな」
開けっ放しだった窓を閉めようとした時、綾奈の大きな瞳に遠くの屋敷が飛び込んだ。
例の幽霊屋敷だ。
普段は窓から外を眺めても、遠い位置に建っている幽霊屋敷なんて気にならない。それなのに今夜は何故か無性に気になった。
夕暮れにあの場所の近くを通った時と同じ感覚だ。
鮮明に網膜に焼きついた屋敷は、ぼんやりとした光に包まれているように見えた。
屋敷から白いユラユラとした蜃気楼のようなものが立ち昇っている。
「なに、あれ―…」
目を凝らしてじっと見詰めていると、奇妙なことに気が付いた。
白い靄がところどころ輪郭を持っている。
まるで無数の手が蠢いているようだ。
窓枠に座ったケイも、じっと屋敷を見ていた。
ケイの黒い瞳孔が真丸になっていく。
殆ど黒に浸食されたケイの目が、じっと屋敷の方を見詰めて動かない。
急に怖くなってきて、綾奈は思わず二の腕を擦った。
手のひらにざらついた感触が返ってくる。
腕を見ると、鳥肌がたっていた。
いやに冷たい風がカーテンをくぐって部屋に入り、綾奈の前下がりなショートボブの黒髪をサラリと揺らした。
風に乗って暗い声が聴こえてきた。
不明瞭で意味が分からない、あるいはただの呻きだったようにも聞こえる声。
単なる風の悪戯だろうと思うが、なんだか薄気味悪い。
幽霊屋敷の人影、白い手のような靄、そして暗い声。
塵が山と化すように、小さな恐怖が増殖していく気がした。
窓を閉めて勢いよくカーテンを引くと、綾奈は頭から布団を被って固く目を閉じた。
ケイはまだ窓枠から外を眺めていたが、暫くすると綾奈の足元に潜り込んで、丸くなって寝息を立てはじめた。
足に触れる温もりに気持ちがゆっくり落ち着いた。
人影も靄も声も、ぜんぶただの気のせいだ。
恐怖心が大脳に作用して、恐怖を具現化させているに違いない。
自分を無理やり納得させると、綾奈はさっさと寝ようと努めた。
まだ蒸し暑い季節にも関わらず、頭から被った布団から抜け出せない。
暑いとは思わなかった。首筋と手足が冷えて寒さすら感じていた。
もうとっくに日付が変わっている。早く寝ないと明日授業中に眠たくなる。
しかし、眠ろうとするほど、意識がはっきりとしてくる。
瞼の裏の闇に、今まで聞いた怖い話やホラー映画の幽霊の姿が浮かんでは消える。
テケテケや口裂け女の定番の幽霊に混じって、長い黒髪に白い着物の女の幽霊の姿がおぼろげに浮かび上がる。
たしかこれはミコトサマだ。あの幽霊屋敷にでる幽霊だ。
話の内容は思い出せないが、間違いない。
闇に浮かぶ幽霊たちに恐ろしさが増す。
目を開けようかと思ったが、眠れなくなりそうだったのでやめた。
脳内を巡る妄想を振り払い、玲の顔を思い浮かべた。
優しい兄の微笑みに恐怖心が消えていき、綾奈は静かな眠りに落ちた。
窓から入ってくる風は夕方より冷たく、爽やかだ。心地良さに目を細めていると、夜の闇に紛れて窓から何かが部屋に飛び込んできた。
「きゃっ」
驚きのあまり、ベッドに尻もちをついた綾奈に不法侵入者がすり寄る。
柔らかな毛の感触、よく見ると入ってきたのは飼い猫のケイだった。
「なんだ、ケイか。もう、驚かさないでよ」
「ニャオ」
金色の目がじっと綾奈を見詰める。
指で顎の下を撫でると、ケイは気持ち良さそうに喉を鳴らした。
黒猫だから闇の中で姿が見えにくかったからしょうがないかもしれないが、それにしても飼い猫に驚いて叫ぶなんて我ながら情けない。
「どうした、綾奈。何かあったのか?」
兄の玲《れい》がドアから顔を覗かせた。どうやら隣りの部屋にまで悲鳴が聞こえたらしい。
「ごめんね、お兄ちゃん。ケイが窓から帰ってきて驚いちゃっただけなの」
綾奈が手をあわせて謝ると、玲はほっとしたような表情を浮かべた。
「そうか、お前の悲鳴が聞こえたから何かあったのかと思ってびっくりした。何もなくてよかったよ」
「起こしちゃってごめんね」
「かまわないさ、どうせまだ起きていたから。それよりも、何かあったらいつでも俺を呼ぶんだぞ。助けに行くから。それじゃあ、おやすみ、綾奈」
玲は優しく綾奈の髪を撫でると、端正な顔に優しい笑みを浮かべて部屋を出ていった。
ちょっとしたことでも頼っていい。玲はいつもそう言ってくれる。
優しい兄にずっと甘えっぱなしだ。
玲がちょっと悲鳴を上げただけで飛んできてくれるのは、彼が優しいというのもあるのだろうが、自分が余りにも頼りないのも理由の一つだろう。
高校生にもなって兄に心配をかけっぱなしなんて情けない。
もう少ししっかりしなくては。綾奈は小さく溜息を吐いた。
部屋の電気を消すと、窓を開けたままベッドに横になった。
家の前の道の街灯は切れかかっていて、点いたり消えたりとお化け状態だ。
真っ暗になったかと思えば、とつぜん強く光って薄いレースのカーテンに影を映す。
それが少し怖いので、早く直して欲しいが自治会の予算がないから直せないらしい。
高校生になった今でも暗闇が少しだけ怖い。闇には何かが潜んでいる気がする。
今では大丈夫だが、昔はよく一人でトイレに行けなくて、一緒の部屋で寝ていた玲を起こしてトイレについてきてもらっていた。
怖がりは大人になり、現実主義になるにつれて治っていくものなのだろう。
いつか夜の闇をまったく恐れなく日がくるはずだ。
兄を心配させないためにも、一日も早くそうなって欲しい。
綾奈は目を閉じた。瞼の裏の暗闇は不思議と怖くない。
眠りに落ちようとした瞬間、瞼を通り抜ける強い光に襲われた。
街灯の光とは違う、目を灼くような強い光の刺激だった。
いったいなんの光だろう。雷だろうか。
不思議に思いながら、綾奈は起き上がって窓の外を覗いた。
空は雲一つない星空で、月が煌々と地上を照らしている。
「気のせいかな」
開けっ放しだった窓を閉めようとした時、綾奈の大きな瞳に遠くの屋敷が飛び込んだ。
例の幽霊屋敷だ。
普段は窓から外を眺めても、遠い位置に建っている幽霊屋敷なんて気にならない。それなのに今夜は何故か無性に気になった。
夕暮れにあの場所の近くを通った時と同じ感覚だ。
鮮明に網膜に焼きついた屋敷は、ぼんやりとした光に包まれているように見えた。
屋敷から白いユラユラとした蜃気楼のようなものが立ち昇っている。
「なに、あれ―…」
目を凝らしてじっと見詰めていると、奇妙なことに気が付いた。
白い靄がところどころ輪郭を持っている。
まるで無数の手が蠢いているようだ。
窓枠に座ったケイも、じっと屋敷を見ていた。
ケイの黒い瞳孔が真丸になっていく。
殆ど黒に浸食されたケイの目が、じっと屋敷の方を見詰めて動かない。
急に怖くなってきて、綾奈は思わず二の腕を擦った。
手のひらにざらついた感触が返ってくる。
腕を見ると、鳥肌がたっていた。
いやに冷たい風がカーテンをくぐって部屋に入り、綾奈の前下がりなショートボブの黒髪をサラリと揺らした。
風に乗って暗い声が聴こえてきた。
不明瞭で意味が分からない、あるいはただの呻きだったようにも聞こえる声。
単なる風の悪戯だろうと思うが、なんだか薄気味悪い。
幽霊屋敷の人影、白い手のような靄、そして暗い声。
塵が山と化すように、小さな恐怖が増殖していく気がした。
窓を閉めて勢いよくカーテンを引くと、綾奈は頭から布団を被って固く目を閉じた。
ケイはまだ窓枠から外を眺めていたが、暫くすると綾奈の足元に潜り込んで、丸くなって寝息を立てはじめた。
足に触れる温もりに気持ちがゆっくり落ち着いた。
人影も靄も声も、ぜんぶただの気のせいだ。
恐怖心が大脳に作用して、恐怖を具現化させているに違いない。
自分を無理やり納得させると、綾奈はさっさと寝ようと努めた。
まだ蒸し暑い季節にも関わらず、頭から被った布団から抜け出せない。
暑いとは思わなかった。首筋と手足が冷えて寒さすら感じていた。
もうとっくに日付が変わっている。早く寝ないと明日授業中に眠たくなる。
しかし、眠ろうとするほど、意識がはっきりとしてくる。
瞼の裏の闇に、今まで聞いた怖い話やホラー映画の幽霊の姿が浮かんでは消える。
テケテケや口裂け女の定番の幽霊に混じって、長い黒髪に白い着物の女の幽霊の姿がおぼろげに浮かび上がる。
たしかこれはミコトサマだ。あの幽霊屋敷にでる幽霊だ。
話の内容は思い出せないが、間違いない。
闇に浮かぶ幽霊たちに恐ろしさが増す。
目を開けようかと思ったが、眠れなくなりそうだったのでやめた。
脳内を巡る妄想を振り払い、玲の顔を思い浮かべた。
優しい兄の微笑みに恐怖心が消えていき、綾奈は静かな眠りに落ちた。
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