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第三章

贖罪の涙

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「ここが病室だよ。俺は先に医師と話がある。先に入っていてくれるかい?」
 
「はい」

 そういってロナルドがその場を後にすると、アレクは目の前のドアノブに手をかけた。

 周囲にひとの気配はなく、辺りはしんと静まり返っている。部屋の中からも物音ひとつ聞こえてこない。それがアレクの心にゆっくりと影を落としてゆく。

 ずっと会いたかった。でも同時に会うのが怖かった。
 
 ゴドリュースの毒によって昏睡状態なのはわかっていたことだ。回復だって容易なことじゃないと理解している。それでも、現実としてそんなマーリナスを目の当たりにするのは怖い。

 それでも。それでも。ひとめ会いたくて。

 アレクは小さく震える手でノブを回した。ノブの回る音と共に開かれるドア。

 徐々に開かれていくドアの隙間から見えたのは大きな窓だった。

 誰かが換気のために開けていったのか、暖かな風に吹かれて純白のカーテンが絶え間なく波打ち、その傍では花瓶に生けられた色とりどりの花が小さく揺れていた。

 ロナルドはまだ見舞いにきたことはないといっていたけれど、誰があの花を飾ってくれたのだろうか。

 そんなことを考えながら一歩一歩部屋の中に足を進めていく。揺れるカーテンの下にはベッドがひとつ。そして硬く瞳を閉じて眠る、マーリナスの横顔。

「マー…リナス」

 唇から漏れた言葉は震えていて、アレクは思わず口元を手で押さえつけた。押さえつけた手もまた小さく震えていたが、全身の震えが止まらなかった。

 知っているのは自分をみつめる群青色の優しい瞳。心配してくれるときの真剣な表情。何度も自分に触れてくれた温かな指先。そして、笑顔。

 最後にみたマーリナスの顔はどうだっただろうか。地下街へと続く階段での別れ。

 触れた唇も抱きしめられたときに感じた体温もまだちゃんと覚えている。最後まで自分に勇気を与えてくれたマーリナス。だけどあのとき、マーリナスはどんな表情をしていたのだろう。

 共に過ごした時間は短くても、感情の移りと共にアレクは様々なマーリナスをみてきた。だけどここにいるマーリナスはそのどれとも違う。こんなマーリナスは知らない。

 生きているとわかっているのに生気を感じられない。まるで人形のように横たわるマーリナスは、ただ静かにそこにいた。

 初めて医療棟にきたときは、ロイムが亡くなってしまったこと、呪いのこと、これからのこと。胸の中は不安と悲しみでいっぱいで、愚かにも生にしがみついて生きてきてしまったことを後悔していた。
 
 そんなことをしなければロイムは死なずに済んだんじゃないのか、自分と出会わなければあんなことにはならなかったんじゃないのか。自分がこの国にこなければ……

 次々と脳裏に浮かび上がる思いは悔やんでも悔やみきれないものばかりで。深い深い闇の中に墜ちていくようだった。
 
 そこに手を差し伸べてくれたマーリナス。

 その手を取ったことは果たして正解だったのか。

 自分に安寧を与え、幸福を与え、傷つかないように守ってくれた。呪いの代償による行為はいまやふたりの間で当然のものとなり、交わす度に喜びを生み出してくれる。
 
 だけど――

 ベッドの傍らに腰掛け、アレクは悲しげな表情で眠るマーリナスをみつめる。
 
 開かれた窓から運ばれるそよ風に群青色の髪の毛を揺らし、硬く瞳は閉ざされたまま。頬には小さな擦り傷があった。
 
 マーリナスの頬にそっと伸ばした手をアレクは触れる寸前で止めた。
 
 こんな風にしたいわけじゃなかった。少しでもマーリナスの力になりたいと思った。喜んで欲しかった。害虫のような自分でも誰かの、大切なひとの力になれることがあるのなら、そのために頑張りたかった。

 マーリナスの……笑顔がみたかった。
 
 結局自分がしたことはなんだったのだろう。
 
 誰よりも自分を想ってくれたひとを傷つけただけだ。
 
 必死に自分を守ってくれようとしていたのに、自分は無様にもさらに穢れを背負って戻ってきた。約束を破り、このひとの気持ちを裏切り、そして傷つけた。
 
 自分にはもうマーリナスに触れる権利などない。いまはただ、一刻も早い回復を願うことしかできない。

「ごめん……なさ…い」
 
 揺れる紫色の瞳からぽつりと一粒の涙が零れ落ちた。
 
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