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第一章

幸せの影

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 それから日中はあてがわれた仕事をこなし、朝夕の食事どきにマーリナスと会話をするという日常がアレクに訪れる。

 マーリナスもアレクも徐々に打ち解けて饒舌じょうぜつになり、主に共通の話題であるロナルドについて笑いながら話すことが多くなった。

 それはとても心穏やかで幸せな時間。

 ただひとつ不思議なことに、あの日以来マーリナスからキスをされていないのに、何日たってもアレクの体調はすこぶる良好のままだった。

 こんなことは今までなかった。マーリナスになにか不思議な力でもあるのかと思ったが、きっと違うだろう。

 ではなぜなのか。それはある日、唐突に明かされることになる。

 まだ太陽が地平線に眠る、夜明け前のできごと。

 ギィ……というドアの軋む音にアレクは目を閉じたまま意識を浮上させた。

 音を立てないようにゆっくりと静かに足を進める気配に、アレクは息をひそめて布団の中で体を強張らせる。

 その気配はアレクの真横で足を止めると、しばらく身動きせずにじっと佇んでいたが、不意に顔のそばのスプリグがギシッと軋んだかと思えば、不意にやわらかくて温かいものが唇に重なり合った。

(え……)

 それはしばらくアレクの唇をふさぐと、溶けるような熱い吐息をもらして離れた。

 内心動揺するアレクに気づかず、気配は徐々に遠のいていく。

(誰なの?)

 廊下の明かりを取り込みながら再びドアがギィ……と軋む音を立て、アレクは布団に隠れるようにして薄目を開くと扉の前に立つ人物を目にした。

 そこにいたのは――

(マーリナス……)

 ドアの奥にマーリナスの姿が消えたのを確認して呆然としなから身を起こしたアレクは、耳の先まで真っ赤にして口元を押さえこんだ。

「うそ……いつから?」

 初めてキスをしてから何日たったのだろう。もしかして毎日こうして自分が寝ている間にキスをしてくれていたんだろうか。

 実のところ、アレクにはひとつ悩みごとがあった。

 それはまたあの症状がでてしまったときに、どうしようかということだ。

 何度も何度も「またお願いします」なんて自分からいい出しにくいし、マーリナスだって困るだろう。

 それに初めてしたときは意識が朦朧もうろうとしていたからあんなことができたけど、正気を保ったまま面と向かってマーリナスとキスをするなんて、想像しただけで心臓が壊れそうになる。

 だから寝ている間にキスをしてくれるのは精神的に助かる……助かるんだけど。

「これじゃあ、いつまでもありがとうって言えないじゃないですか……」

 消え入りそうな声でつぶやいて、アレクは布団に顔を突っ伏した。

 それから毎日アレクは夜明け前には目を覚まし、目を閉じてマーリナスを待ち構えた。

 マーリナスは毎朝四時にアレクの部屋を訪れ、キスをして静かに部屋を去っていく。

 朝日が射しこまない薄暗い部屋の中、いつの間にかギィ……というドアの軋む音を心待ちにしている自分にアレクは気がついた。

 その音が聞こえると、とても嬉しい気持ちになる。

 今日もきてくれた。

 その喜びと唇が重なり合うときの幸福感が、いい表しようもなくアレクの心を温めるのだ。

 そしてそしらぬフリをしてダイニングに向かい、マーリナスと笑いながら朝食をとる。

 昼間はロナルドが家にきて仕事の進行状況を確認しながら新しい仕事を教えてくれたり、くだらない雑談をして笑わせてくれる。

 バレリアの呪いを受けた自分が、こんなにも幸せな日々を送れる日がくるなんて思いもしなかった。

 そんな身も心も満たされた日々を送っていたある日。

 アレクは一枚の苦情報告書を手に取っていた。

 そこには『地下街のモーリッシュ・ドットバーグが上層に頻繁に姿を現すようになっており、危険なので注意喚起を促してほしい』というものだ。

 モーリッシュ・ドットバーグ。

 アレクはこのスタローン王国の生まれではないし、土地勘だってあまりない。

 知り得る人物といえばマーリナスとロナルド、そして顔を合わせたことはないが、この家の使用人メリザの三人くらいなものである。

 だがアレクはその人物の名を知っていた。

 なぜならその人物は寝入っていたアレクとロイムを無理やり捕縛し、バロンに売った人身売買の闇商人であったからだ。
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