【完結】でも、だって運命はいちばんじゃない

ちかこ

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 ……大丈夫、発情期はまだ先、一ヶ月はある筈、不安定な周期とはいえ、こんなにすぐに来たことはない、大丈夫な筈。
 そう頭ではわかっているのに、数十秒もしない内に心臓がばくばくしてきた。
 このひとの近くにいたらだめだ、離れなきゃ、かえ、帰らなきゃ。
 わかっているのに足が動かない。
 力が入らなくて、すとんと地面にへたり込んでしまう。
 やばい、これはやばいやつ、どうしよ、タクシー……タクシー呼んでおけばよかった、智子先生はおれの体調をわかってたんだろうか。
 今からタクシー呼んでも乗せてくれるだろうか、いや、無理だろう。ヒートの来たオメガを乗せてくれることなんてそうない。
 どうしよう、花音、智子先生、花音、かのん……

「あ、あの、あ、おれ……」
「大丈夫?送ってこうか」
「へ、あ、え……?え、え、なん……」
「そこの駐車場、車停めてるから。あ、連れいる?」
「いな、いない……」
「立てる?」
「た、立て、たてっ、たて、る、」
「立てないか」

 ほら、と差し出された手は掴めない。
 掴める訳がない。
 目の前の男がおれをこうさせた張本人だというのに。

「このままじゃ駄目でしょ、ほら、連れてってあげる」
「か、かのん、かのん呼ぶ、から」
「かのん?ああ、あの双子の……相変わらず仲良いねえ」
「なん……」

 なんで知ってるの、そう訊く前に躰が浮いた。
 男が抱え上げたからだ。
 近くなったかおを見上げても、視線があって、またにこりと笑われても、それでも誰だかわからない。
 中学生以降のおれは殆ど誰かと関わることはなかった。
 でもだからといって小学生の頃の知り合いという訳でもなさそうだ。

「花音ちゃん呼ぶより俺が連れて帰った方が早いでしょ」
「でも」
「噛まれてもいいの?」
「……!」

 慌てて首輪の上から両手で覆う。
 少しバランスが崩れたけれど、男はおれを落とすことなく体勢を立て直した。
 噛まれていい訳がない。ないんだけど。

 いい加減に番を作りなさい、智子先生のその言葉を思い出す。
 乱用して薬の効かなくなった躰をコントロール出来るのは番しかいない、番を作るしかない。
 番が出来れば、コントロール出来れば、仕事も出来る?クビにならない?もうこんな、惨めな思いはしないですむ?
 それなら……

「噛まれた方、が、楽、かも……」
「は」
「あ」

 思わず口にしてしまったことに、今度は口元を手で覆う。
 なんてことを呟いてしまったんだ。
 しかもアルファの目の前で。こんなに近くにいるというのに。

「や、あ、あの、そういうつもり、じゃ、なくて……その、」

 最悪だ、これではアルファを漁りに街に出て来たオメガのようではないか。
 そんなつもりじゃない、アルファなら誰でもいい訳じゃない、養ってほしい訳じゃない、おれはただ普通の、そう、普通の生活がしたいだけで。
 ……その普通がオメガだと難しくて、更におれみたいな馬鹿だと余計困難にしてしまっただけで。

 かさ、と手にした袋から音がした。
 病院で貰った薬だ。それを今飲んだとしても遅いし、なによりおれには効かないんだけれど。

「薬持ってるの?病院帰り?……乗ったら飲んで、それ」
「う、は、はい」

 まあ効かないんですけど、なんて言える筈もなく、車の後部座席に下ろすと男はすぐに自販機で水を買い、戻ってくる。
 ……連れてこられたとはいえ、車の中は当然ながら男のにおいがして、下腹部が重くなったような気がした。
 これはまずい、本格的にまずい、何も考えられなくなっちゃう。
 震える手で薬を出し、水で流し込む。抑制剤の効かないおれからしたら相手に見せる為のパフォーマンスでしかない。
 避妊薬はただのお守りのようなものだ。
 何でもないかおで口の端から零れた水を拭った男は、家どこ、と訊いてくる。
 答えていいか迷ったものの、ここまで来たらもう早く家に戻るしかないので住所を答えた。
 カーナビにそれを入れながら、近くで良かった、とまた笑う。すぐに着くね、と。

 走り出した車に揺られ、横になってていいよというお言葉に甘えて座席に倒れた。
 横になった後部座席から彼のかおは見えない。
 けれど時折掛けられるその声は不思議と安心するようで、変なアルファでなくて良かった、と思った。いや十分変なアルファではあるのだが。
 背も高く、面の良い男だった。加えてこの状況での行動、態度。もしかしたら既に番がいるのかもしれない。
 優良物件は早くに押さえられることが多い。きっと彼は慣れてるのだろう。オメガにも。
 良かった、きっとおれは運がいい。 


 ◇◇◇

「話せる?部屋どこ?」
「ん……んう、う?」
「何階?」
「は、ち」
「八階ね」
「んん……?」

 ぺちぺちと軽く頬を叩かれ、男のかおが視界に映る。
 暫くぼおっとしているとそのまま抱えられ、次は見慣れた景色が飛び込んできた。
 ああ、マンションに着いたようだ。
 歩けるのに。そう思ったけれど、思っただけ。実際はこんなふにゃふにゃした思考でまともに歩ける訳はないだろう。
 でも流石に……オートロックまで、エレベーターまで、エレベーターを下りるまで、部屋の扉を開けるまで、玄関まで、リビング、いや、と最終的には寝室まで運ばれてしまった。
 自分の部屋に、彼のにおいが混じったようで、ん、と身動ぎしてしまう。
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