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 ──というのを、今、たった今、頬を叩かれた瞬間に思い出したのだ。
 おれは遠田えんだ伊吹いぶき、そして今はイヴ・エル・ミシャール。
 学園の卒業パーティのクライマックスで婚約者のこの国の王太子、ジャン・ドゥ・デキュジスに婚約を破棄される、これはジャンルートというやつだ。

 ……遠田伊吹は死んだ、あれ、なんでだっけ、川で死んだような記憶だけはある、溺れたんだろうか。死の間際なんてそんなに覚えてないものなのだろう。
 それから、
 イヴの記憶。
 ゲーム内で出て来たものだけではなく、生まれてから今までの、ゲームでは描かれてなかったことまで全て。
 イヴは攻略キャラクター全員と交流があった、その彼等についての記憶と、ジャンルートの記憶がある。それもゲームでは描かれてなかったものも。
 他の攻略キャラクターのものは、イヴとしての記憶ではなく、プレイヤーとしての伊吹のプレイ内容としての記憶だけだ。つまりこちらに関しては詳しい内容まではわからない。
 イヴとして生まれた時からの記憶と、伊吹としての死ぬまでの記憶。
 どちらも自分のようで、頭が混乱した。
 夢のようだと思った。
 伊吹であったことは間違いない。
 でもイヴも自分なのだ、そうとしか思えない程、記憶に違和感がなかったし、おれはイヴとして考え、イヴとして感情が揺れ、今まさに動揺しているのは、急に思い出した伊吹としての混乱と、婚約破棄によるイヴとしての驚きやかなしみ、そして羞恥、さみしいとか辛いとか、そういったジャンや周りへの気持ちのせいだった。

 このゲームはおかしかった、この手のゲームをしたことのないおれでも首を捻った程。
 主人公がプレイヤーの場合、はっきりとしたキャラデザインはないものも多いと思う。ぼんやりとした輪郭しかないものもあるくらいだ。
 自分を置き換えてする恋愛ゲームなら、自分ではないキャラデザインは邪魔になる。
 名前も自分で決められるので、自身の名前を入れるひとも多いのではないか。
 このゲームはそうではなく、主人公はしっかりかおも出され、名前もアンリ・ル・オーフレイと決まっており変更すらも出来なかった。
 女性向けBLゲームなのだから、それは自身を置き換えるタイプの恋愛ゲームではないということなのだろう。
 そこまではわかる。
 アンリを気に入った男とくっつけるゲームだというだけ。

 不思議なのはイヴのかおがはっきりと描かれていなかったこと。
 主人公と当て馬と、普通なら逆では?と思ったものだ。
 イヴのキャラデザインとしては、小柄で少し明るい髪色と、ちょっとした区別のつもりだろうか、目元の黒子のみが目立つ。

 クォーターのおれの髪色とその黒子の場所が同じで、何だか親近感を持っていた。
 名前も似ているじゃないか。
 イヴといぶき。
 昔は……まだ構われていた小さい頃は母さんに、いぶちゃん、と呼ばれていた。それを思い出したりもした。
 性格を重ねる程彼の心情は描かれていない。
 ただこのゲームで周りから嫌われてしまう程、彼が酷いことをしたとは思えなかった。
 それは彼と同化してしまった今も。次々に頭に浮かぶイヴの人生は、周りのひとと余り関わらずに生きてきたおれよりもはっきりと嫌な言葉を投げられるようなものだった。

 イヴは避けられている。気持ちの悪い少年だと。

 卒業パーティのクライマックス、イヴはアンリに責められ、ジャンに婚約破棄を宣言される。男同士の婚約者等突っ込むところでもなかった、ここはBLゲームの世界、そういうものなのだ。
 おれもこのルートは当然通ったけれど……というか王子様ルートなんて多分いちばん王道だろう、プレイするだけなら少し突っ込みを入れる程度で済んだが、自分が経験するとなると別だった。
 大して痛くはない頬。
 けれど周りからの刺さるような視線、誰も助けてくれない惨めさ、しんとした空気の中でたまに漏れる本音、ジャンの冷たい瞳、声、覚悟していた筈なのに過呼吸にでもなりそうな程動揺するイヴの心臓。
 イヴのことなんてゲームでは殆ど描かれなかった。
 ジャンとアンリの仲を邪魔するイヴに卒業パーティで婚約破棄を宣言し、その後ふたりは仲良く暮らしました、で終わり。
 婚約破棄をされた瞬間のイヴの心境も、その後も、描かれなかった、それは他のルートもそう。

 他のルート。
 幼馴染のも、
 後々騎士団に入る友人のも、
 教師のも、
 攻略キャラクターたちはおれを苦々しげに見つめるか、視線を逸らすか。
 ジャンルートであるにも関わらず、……アンリと多少関わった皆は、おれを、イヴを助ける必要なんてないと思ってるのだ。

 それが辛かった。
 イヴは……自分はそんなに皆にきらわれていたのかと。皆が見ていたのはイヴの能力だけだったのかと。

 暫く動けなかったおれは、ジャンの溜息で漸く我に返った。
 動揺したままの、少しひっくり返ったような声で、その件は自分が決められることではない、また後日にしてくれと、その場から逃げるように広間から去ることしか出来なかった。

 背後からはやっぱりだとか、酷い奴だだとか、アンリがかわいそうだとか頑張っただとか、そんな言葉ばかりが聞こえてきた。
 誰ひとりイヴを追い掛けてもこない。

 この国を支えていた筈のイヴを、誰も。
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