リスティリア救世譚

ともざわ きよあき

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第三章・真章 混濁たるティタニエラ

第十話 憎んで、妬んで、悔やんで、許せなくて②

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「ソウシ!」
 リシアが総司の元へと飛ぶ。瓦解し、原形をとどめない精霊の現身の残骸は、やがて空へと消え失せるだろう。
 神獣ジャンジットテリオスは空を舞い、まだ油断なくその残骸を睨みつけながら旋回する。救世主とその相棒の注意が外れてしまった今、かの神獣は彼らの代わりに気を引き締めていた。
「問題ない……!」
 総司の傍に駆け寄ったリシアは愕然とした。
 そうたやすくは傷つかない総司の体が、肌の露出した部分が、全体的に軽い火傷と細かな裂傷を負っている。レブレーベントの国宝たる「ビオステリオスの体毛で作られた上着」はさすがの耐久力だが、少なくともリシアは、総司がここまで激しく傷ついた姿を見たことがなかった。精霊の現身を打倒した瞬間、中心にいた総司に襲い掛かった力はそれほどの激しさを伴っていた。総司の損傷はそのまま、ミスティルの力がどんなにすさまじいものだったかを端的に示している。当然、彼でなければ――――
「立たないで! とにかく座って!」
 攻撃の余波に巻き込まれずに済んだらしいベルが、総司の体を支えて座らせようとする。だが、総司は手を伸ばしてベルを押しのけた。
「なんっ――――」
「まだだ」
 ぞくりと、ベルの背筋に冷たいものが走った。
 リシアがかっと目を見開いて、総司を護るように彼の前に立ち、剣を構えた。
 総司と同じく、いや総司以上に傷つき果てたミスティルが、ゆらりと立ち上がっていた。
 全身から黒い魔力を煙のように立ち上らせる様は、まさに不吉の象徴だった。
 単独で総司とリシアを相手取り、互角以上の戦いをやってのけた彼女は、恐ろしいことに全開ではなかった。
 彼女自身の力も、“悪しき者の力の残滓”によって獲得した力も、その大部分を精霊の完全顕現のために割いていた。彼女が大規模な魔法を使うとき、精霊の現身の力を借りていたのは、彼女自身の力がそちらに移り始めていたためだ。
 そして今、精霊の現身は打倒され、彼女は大きく力を削がれた状態となっている。つまりは、相当衰弱した状態である。
 そのはずだが――――
 リシアの足が、床に根を張ったように動かない。今突撃すれば或いは、ミスティルを組み伏せることも可能かもしれない。
 頭ではわかっていても体が動かない。顔を片手で押さえつけたミスティルの、指の隙間から覗く憎しみのこもった眼差しがリシアの体を硬直させる。
 これがあのミスティルなのか。余裕の表情は既に消え失せ、燃え盛る憎悪の炎を前面に押し出した彼女は、相対してみればあまりにも恐ろしかった。
「もうここまでだ、ミスティル」
 今にもとびかかってきそうなミスティルへ、リシアは静かに声を掛けた。
「たとえ私たちをここで殺したところで、『精霊の器』はもうない。これ以上は無意味だ」
「無意味?」
 リシアの言葉を受けて、ミスティルは少しだけ笑った。その笑みもすぐに消え失せ、彼女は叫ぶ。
「いいえ、リシアさん、無意味だなんてとんでもない――――こんなところで、終われるわけがないでしょう!」
 裂帛の気迫がリシアを打つ。総司をかばうように立つベルも、その気迫にあてられた。尋常ではない。魔力のみならず、彼女が纏う気迫そのものが規格外だ。
 生物としての格の違いを突き付ける、強烈な強者の気配。
「ここであなた達を殺し、もう一度最初からやり直す……! あなた達さえ、あなたさえいなければ、誰も私を止められないのですから!」
 リシアの顔に、何とも言えない、憐れむような表情が浮かんでいた。
 ミスティルの「理由」は知っている。それでも思わずにはいられない。
 どうして、そこまで。ヒトを恨む気持ちはもちろんわかる。その感情を持つなと言うのはあまりにも酷だ。ミスティルの内に秘める憎しみは、ある意味では持って当然のものであり、それ自体を否定するつもりはない。
 しかし激しすぎる。あまりにも強すぎる。
 細かな事情も、互いのパーソナリティも違いは確かにあるが、リシアとミスティルの境遇は似ている。それでも、ミスティルの激情を全て理解することは出来なかった。彼女をこれほど突き動かすのは、本当に母を殺したヒト族への憎悪、それのみと断じれるのか。
「どうして……ミスティル、どうしてそんなに……!  “ここで勝ったところで意味がない”んだ、目指した先には何もないのに!」
「わかってますよ!!」
 懇願にも似た、リシアの必死の訴えを、叫び声でかき消す。ミスティルの慟哭が、壊れ果てた“次元の聖域”に虚しく、悲しく響いた。
「あなた達を殺しても、ヒトを殺し尽くしても、全ての命を薙ぎ払ったって! 母さんは帰ってこない、私には何も残らない! そんなこと――――そんなこと、言われなくたってわかってますよ!!」
 憎悪と悲愴の天秤が、悲愴に大きく傾いた。
 ミスティルの本音がようやく聞けた。
「でも収まらないんですよ! 受け入れられないんですよ! 私じゃない誰かの幸せが、喜びが! 私にはもう及びもつかないその感情を、当たり前に持てる誰かが、数えきれないぐらいたくさんいるこの現実が! 憎くて妬ましくて堪らないんです! 全部叩き潰してやろうって――――そのために生きているんだって自分に言い聞かせていなければ、私が私じゃなくなるんです!!」
 ミスティルが里の外に出て、ヒトの世界を覗いた時に見たのは、「下賤な輩の悪意ある姿」ではなかった。
 幸福そのものの、当たり前にそこにある日常を、たくさんの幸せを目の当たりにしてきた。だからこそ、彼女の激情に火がついてしまった。
 それはきっと、客観的に見れば信じられないぐらい幼稚な心情だろう。
 他の誰かが幸せだったところで、“代わりに”ミスティルが不幸になるわけではない。他の誰かが、ミスティルの「幸福になる権利」を奪っているわけではない。
 理屈ではないのだ。悲愴に暮れるあまり、幸せだった頃の感情すらも、遠い日の思い出の中に置き去りにしてしまったミスティルにとって、そんな理屈は問題外。
 暴走する負の感情をとどめる術を知らないまま体と力だけが成長した彼女にとって、幸福な他者への嫉妬の念と、それに被せた激しい憎悪だけが生きる糧になってしまった。それは言い換えれば、褒められた感情ではないにせよ、その激情があったから彼女は今日まで生きてこれたということでもある。
「憎くて妬ましくて……だけじゃない、と思うな、俺は」
「ちょっと、まだ動いちゃダメだって……!」
 ベルの制止を振り払い、ガン、とリバース・オーダーを瓦礫に突き立てて、総司が気合を入れた。リシアの肩を掴んでぐいっと引き下がらせて、指の関節を鳴らしながら前に出る。
「おい――――」
「もう終わったようなもんだ」
 勝敗は既に決した。戦意を失っていないミスティルではあるが、その気迫は強がり以上のものではなかった。総司も傷ついて、疲れ果ててはいるものの、彼の体力もまた規格外だ。今の弱り切ったミスティルでは、ここから逆転する未来はない。
「でもまあ収まらないっていうんなら、気のすむまで付き合ってやるさ」
「……そうか。では任せる」
 総司がミスティルの前に立った。
 周辺を旋回していたジャンジットテリオスが、比較的損傷の少ない聖域の残骸に降り立って、その翼をたたむ。静寂な瞳は、未だ戦意を失わないミスティルへと注がれていた。手を出す必要はなさそうだと、既に警戒は解いているようだった。
「どうして……私の邪魔をするんですか」
 総司を睨み、ミスティルは言う。
「見ました、さっき。少女の手を握って泣くあなたを」
「そうか。お互い様だな。俺もお前が泣いてるところを見たよ」
「愛するヒトだったのですよね」
「そうだな、初恋の相手だ」
「だったらあなたにもわかるでしょう!? 愛するヒトを失ったあなたなら!」
 総司は冷静な表情のまま、ミスティルの慟哭を受け止める。
「幸せそうな恋人たちを、夫婦を見て、思ったことはありませんか!? 自分もそうなれるはずだったのにって! 自分はもうそうなれないのにって!」
「悪い、ミスティル」
 総司は真面目な顔で、高らかに、ミスティルに負けず劣らずの大声で言った。
「お前が言ってることの意味はわかるけど、正直あんまり共感はしてねえ!」
 ミスティルがギリっと歯を食いしばった。
「わからんでもないんだよ。羨ましいと思ったことはいっぱいあるし、実際のところ、羨ましいってのは妬ましいってのと紙一重なんじゃないかとも思う。けど」
 総司は憤然と言い放つ。
 総司に理解を求めるのは無駄なことだ。何故なら彼は真逆だったから。
 他人の幸福をどうのこうのと考える余裕すらなく、ただ死にたいと。同じところに行きたいと、願っていたから。
 未熟な彼なりに、死に場所を探していた自分の心に一応の折り合いをつけているから、未だ幼稚なミスティルの少しだけ先を行く先輩として言葉を掛ける。
「他の誰かの幸せを壊したい、とまでは思わない。それは当たり前の倫理観だし、きれいごと抜きにしても単純だ。他人の幸福を引き算したところで、お前に足されるわけじゃない」
「だから、そんなことは!」
 ミスティルが駆け出した。弱っているとは思えない、凄まじい勢いだった。想定外の速さ、勢いに、総司がハッと目を見張った。
「言われなくても、わかってるんですよ!」
 タン、と地を蹴り、ぐるんと体を回したミスティルの渾身の回し蹴りが、鋭く総司の顔面に繰り出された踵が、見事に入った。彼女の細い体が生み出したとはにわかに信じがたい威力。総司は鮮やかに吹き飛ばされて、地面に突き刺さる瓦礫に激突した。
「かんっぺきに入ったけど! 馬鹿じゃんアイツ!」
「まあ無防備が過ぎたな。自業自得だ」
 むくっと上体を起こした総司は、目が回りそうになりながら首を傾げた。
「あれっ。おかしいな……肉弾戦なら普通に圧勝だと思っ――――おぉぉぉぉう!」
 ミスティルの蹴りが再び総司の顔面を狙った。ギリギリで身をかわした。瓦礫を蹴り砕く威力。直撃すれば大惨事になっている。
「自分じゃなければそう言えますよ! でも私もあなたも当事者でしょう! だったらわかるじゃないですか、そんな簡単に割り切れないってことぐらい!」
 流石にもう総司の油断もない。ミスティルの拳も、蹴りも、見切って受け止めていく。彼女のやり場のない感情と共に受け止める。
「この感情を押さえつけようが、感情に従ってしまおうが結果は同じで――――何も残らなくて! だったら、いっそ――――!」
「いい加減に……」
 ミスティルの大振りの拳を身を屈めて鮮やかにかわし、総司が拳を固めた。
「しろっつの!!」
 ミスティルの鳩尾に、総司の右ストレートが決まった。ズドン、と鈍い音が聞こえた。ミスティルの体が浮いて、先ほどの総司と同じように宙を舞う。
「女の腹殴るなんて何考えてんの!!」
「加減はしてるって! どっちの味方だベルテメェ!」
「どっちもだよバーカ!」
 ミスティルの意識が飛ぶことはなかった。気を抜けばすぐに動かなくなりそうな体に鞭を打って、立ち上がる。未だギラギラとした輝きを失わない目が、総司を睨みつけている。
「もう十分だよミスティル、もうやめて!」
 ベルの言葉が届くことも当然、ない。
 ミスティルは再び駆け出すと、総司の徒手空拳をさっとかわして彼を押し倒す。
 総司に馬乗りになって、ミスティルは彼を容赦なく殴りつけた。
「ぐっ!」
「わかってるけどわからないんです! こうする以外になかったんです! 感情に従ってしまわないと私はもう何も出来ない……! だって……!」
 何度も、何度も。総司を殴りながら、ミスティルは泣いていた。何度も殴って、総司の胸倉をがっと掴んで、ミスティルは泣きながら叫んだ。
「私が考えて、“こうした方が良い”って思った選択は、今まで一度も正解だったことがないんだから!」
 ミスティルの母レムスティアの行動は、母親としては褒められたものではなかったかもしれない。愛する夫を失ったことは想像を絶する辛さだっただろうが、レムスティアには幼い娘がいた。妻としての嘆きはわかるが、母としての責務を思えば、何とか自分を奮い立たせて娘のために生きなければならなかった――――ミスティルの言う通り、他人事ならそう言えるだろう。だが、レムスティアにそこまでの強さがなかった。
 なかったから、再び母として頑張るために、ほんの一時だけ傷を癒す時間が必要だった。ミスティルのためにこそ、レムスティアには夫の死の嘆きを癒す何かが必要だった。彼女の行いが悪いとまでは誰にも言えない。
 レムスティアの願いを受け入れて、彼女を里の外へ出したクローディアも悪くない。レムスティアがいない間、ミスティルの面倒はクローディアが見て、レムスティアの代わりに見守り続けた。
 悲劇の後、ミスティルを見守り続けた里の皆も、もちろんミスティルも、誰も悪くなかった。
 けれどミスティルは割り切れなかった。選択肢を間違え続けたミスティルにとって、「考えて決める」ことはトラウマになっていた。
 総司が素早く体を起こして、ミスティルの背に片腕を回した。
 かつてルディラント王が自分にそうしてくれたように、少し乱暴に、がっとミスティルを抱きしめた。
 ミスティルは大人しくしていない。総司の胸元を殴って、上着を爪が食い込みそうなほど握りしめながら押し返そうとした。
「憎くて妬ましくて、そして悔しかったんだ」
 歯を食いしばり涙を流すミスティルが激しく抵抗する。総司の言葉がミスティルの逆鱗に触れている。彼が言おうとしていることがそれこそ図星で、ミスティルが言われたくないものだとわかったからだ。
「自分へ向けられたお母さんの愛情が、“その時”はお父さんへの愛情に負けてた。そしてお前は結局お母さんを止められなかった。それが悔しかったんだろ」
「わかったような口を――――!」
「“あなたならわかるでしょう”って、わかってほしそうにしてたのはお前じゃねえか」
 ミスティルの背を強めに叩いて、総司は続けた。
「憎くて妬ましくて、悔しくて! そして何より!」
 決戦開始直後の、リシアの言葉に対する、ミスティルの過剰なまでの反応。
 そして最後、爆発の中で溶け合い、互いを見せ合ったあの光景。総司はミスティルの複雑な心境の中にある、単純明快な原動力を悟っていた。
「何より許せなかったんだ。お父さんより愛してもらえなかった自分が、お母さんを止められなかった自分が――――“そうできるだけの力があったのに”護ることも出来なかった自分が許せなかった!」
 リシアとミスティルの境遇は似ているところがあったが、リシアの言葉はミスティルの逆鱗に触れていた。
 その理由。
 リシアには力がなかった。ミスティルにはあった。
 大規模な復讐を企てる力、ではなく、“護れるだけの力”が、ミスティルには当時も十分にあったのに――――結局、何も出来なかった。母を護れるだけの力はそのまま、母を止められるだけの力でもあったが、結果としては何も出来なかった。
 その悔恨と自分自身への憤怒こそが、ミスティルの憎悪の根底にあった。だから言葉だけでは止まらないし、仮に彼女が暗い野望の全てを達成したところで何も得られない。そんなことでは、彼女は解放されない。彼女が最も憎んでいるのが自分自身である限り、ヒトを害したところで何も得られない。
 彼女を過去の呪縛から解放できるのは、他ならぬ彼女本人だけだ。
「……まあ、何はともあれ。今回は俺の勝ちだ」
 ついに、抵抗する力も失って。
 ただ総司の胸元で、歯を食いしばったまま泣き続けるミスティルへ、総司は静かに声を掛けた。
「お前がいつ自分を許せるようになるのかはわからないから、それはとりあえず置いといて。この戦いは俺の勝ちだ。だから俺の邪魔はするな」
 決着と見て、リシアがゆっくりと二人の元へ歩み寄る。エルフに貰った伸縮自在の縄、トルテム。まさかミスティルを縛るために使うことになるとは思っていなかったが、しかし念のためである。
「最初に言った通りだ。確かに一発殴った。あとはエルフの皆に任せる。頭下げて回って、そこから先は――――ま、なるようにしかならんだろーな」
 総司がそっと、ミスティルの体を抱え上げた。リシアが遠慮がちに、トルテムを使ってその両手をキュッと縛る。髪で隠れたミスティルの顔には、なんの表情もなく。未だ止まらない涙が流れ落ちるだけで、何も抵抗しなかった。
「大丈夫……?」
 ベルがミスティルに声を掛けるが、ミスティルは無反応だ。
 総司とベルが顔を見合わせる。総司はゆっくりと首を振った。ベルは少し悲しげに笑って、
「それじゃあ、まあ……帰ろっか」
「おう」
 ジャンジットテリオスが羽ばたき、四人のすぐそばにドシン、と着地した。
 くいっとその首を動かして、「背中に乗れ」と合図している。
「うえ、マジ!? 送ってくれんの!?」
「これはありがたい……しかし、ちょっと憚られる気もするんだが……」
「良いじゃねえか、甘えようぜ。悪いなジャンジット、最後まで世話になる」
 四人を乗せて、神獣は飛翔する。壊れ果てた聖域を後にする。
 妖精郷ティタニエラにおける「最後の戦い」は、これにて幕引きとなった。
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