8 / 27
第8話「その手に花を」
しおりを挟む
此処は蒼い世界。翠の世界。
貴方が生まれて、私が生きる。そしていつも、月が巡る私の世界。
どこにいるかも分からない。でも、決して黙りはしない貴方たち。
ねえ、私を、見つけられますか。
雷のような荒々しいノックが扉を震わせた。壊されてはたまらないといった様子で、部屋の主は扉へ向かった。乱れた服もそのままに、警戒もなく扉を開いた部屋の主に、来訪者は皮肉めいた言葉を吐く。
「よく眠れているか?」
長い炎の髪をなびかせ、カイムはその部屋に足を踏み入れた。
彼が入ってきたのを確認すると、部屋の主はあまりいい顔はしていなかったが、形式的に言葉を発した。
「何の用だカイム」
「立ち話をさせる気か? 目立って仕方がないと思うがお前はそれでいいのか?」
ヒルはふっと笑いをもらすと、円形のテーブルの上に散らばったままの本やら資料やらを片づけ始めた。カイムはその行動や、乱雑な本棚に視線を移動させる。
くっくっと嘲笑うかのように肩を揺らすカイムを、ヒルは軽く睨む。
「さっさと用件を言え」
「ふん、そう急かすな。おもしろい話を持ってきてやったというのに」
カイムは手に持っていた筒状に丸められた紙を、おもむろにヒルに差し出す。どうやら新聞のようで、その隅々に文字がびっしり敷き詰められている。ヒルはそれを受け取ると、言われる前に広げ、紙面に目を通した。
「聖王国の新聞か」
骨ばった指が紙面を摘み、一枚目を開く。
そこには、歌劇女優と思われる女性の不倫に関する記事が載せられていた。
「これがどうかしたのか?」
「どこを見ている。そこじゃない。もう一枚めくれ」
ヒルがもう一枚頁をめくると、一面に国王アルフレッドの写真と、"各国、各種族に公式の悪魔狩り依頼"の文字が掲載されていた。
「アルフレッド……」
ヒルは、低く名を呟く。新聞を持つ手に力が入る。
「それが今の王の名か」
ヒルは新聞の記事に目を通し始め、幾度となく使われている"悪魔"の二文字に口を結ぶ。
「この世界に星の数ほどある国や種族、全てに書面が行ったとは考えがたいが、それでも効果は十分だろうな」
カイムの言葉に、ヒルが続ける。
「手を打って協力しそうなのはマラカイデス大陸の国々、後は幾つかの民族か」
「こうなると敵はますます増えるな。人間の"フリ"をしないと表も歩けなくなる……おっと、今のお前たちは見た目は人間と変わらないな」
その発言を聞き、ヒルは不快に思ったが口にはしなかった。反論しても、意味が無い。つまらなさそうにカイムは新聞を取り上げると、頁を戻し、女優の顔をまじまじと眺めながらこう言った。
「さっさと王都を攻め落とせばよかったのだ」
「できるか。お前が言うような力押しが通用する相手ではない」
「なら、策を練るか?」
カイムが意味深に言うのを見て、ヒルは目を細める。
「お前に何か策がある。だからわざわざ俺の所に先に来たんだろ」
「察しがいいな、そうだ。無知なお前達に英知を授けてやる」
永き悠久の時を生きるカイムの経験や知識は半端ではない。だがそれを使うべきときに使うことは余りない。気が向いた時、思い立った時のみだけだ。それがまた、理解しがたい竜族の特徴ともいえる。
「だがあれにそれを成し得る器量があるかどうかだ」
「あれとはリリスティアのことか」
カイムは無言に頷く。
「ふん、察しのいい貴様のことだ。もうわかっただろう」
「だが、あそこは」
ヒルの顔が曇る。カイムの言う"何か"にためらいを見せた。
「リリスティアには俺から話してやろう。貴様はあの軍師に話をつけろ」
だがカイムはヒルの返事も聞かぬうちに、勝手な自己完結を以て部屋の扉へと向かった。
「おい待てカイム」
慌ててヒルが制止するも、カイムはその言葉に蓋をするかのように扉に手をかけ、勢いよく開けはなつ。そして、不安な表情を見せるヒルに、その赤く鋭い瞳を向けた。
「俺はお前とは違う。お前のように、無駄な時間を過ごす気はない」
荒々しく扉が閉められると、部屋の中はヒル一人だけになり、石造りのせいもありよりいっそう冷えた空気に包まれた。
「……だから、なんだ。お前と違って俺はこうするしか出来ないんだ」
彼にしか分からない、目には見えぬ楔が幾つも体の周りに打ち立てられているような。ヒルはそんな気分の中、悔しそうに顔を歪めていた。
* * *
「でやあああ!!」
勢いの良い若い男の声が、晴れ渡った空の元響き渡る。
ヴァイス王城のある一角、兵士達が訓練する為に造られた円形の訓練施設では、男二人が今まさに剣を交えていた。
訓練施設は、それほど広さはない。少し手狭と思えるそこで、男達は土煙を上げながら存分に剣を振るっていた。
若い男は重そうな両手剣をしっかりと握り、力一杯に剣をぶつける。そんな若い男の剣撃を表情一つ変えずに、受け止めていくもう一人の男。手に持つ剣は変わった形をしていたが、やけに細身で、ともすれば折れてしまいそうだ。だが、男は器用にそれを操り、金属音を響かせながら立ち回る。
彼らの周りにはその様子を見守る仲間達。安全を考慮し、訓練場をぐるり囲んだ観客席ともいえる場所で腰を据え落ち着いてはいるものの、目を逸らすことなく食い入るように見つめている。
「すっごいね~。あたし剣のことはよく分かんないけど、すごいのは分かるよ」
ベリーが感心した声を上げた。
「ヒルに習っただけあって、レイムは剣に関しちゃかなりの腕があるからな」
傍らで退屈そうに頬杖を膝についているライザーがぼやく。その台詞にベリーは目をぱちぱちと瞬きさせ、ライザーの顔を下から悪戯っぽくのぞき込む。
「キンパツは剣使えないの?」
ベリーは、まるで何かおもちゃを見つけた子供のように楽しそうに笑う。ベリーの思惑に気づいたライザーは、そっけなく言葉を返した。
「使えねえからなんだよ悪いのかよ」
どうやら剣を扱うことにはあまり慣れていない彼は、ベリーのからかうような言葉にも過剰に反応した。それが滑稽なのか、ベリーは口を押さえクスクスと笑った。
「笑うなバカが! ったく……ことあるごとに絡みやがって」
「あはは、ごめんごめん。そんな怒らないでよキンパツ~」
ベリーは全く詫びた様子も無く、ライザーの肩を二回ほど軽く叩いた。
「なら黙って見てろ! テメェがバカなこと言ってる間に、あの昴って奴にレイムが押されてきてんじゃねえか」
ライザーにそう言われ、ベリーがすぐにそちらに目をやると、確かにレイムが苦しそうな表情を浮かべ、防戦一方の展開になっていた。
「くっ……」
昴の振るう刀は軌跡を描きながら、レイムの防御の弱い場所を正確に突いていく。息が上がりつつあるレイムとは対照的に、昴はまるで人形のように無表情だった。そうして、喋りもしない。
普通ならば剣を打ちつける瞬間は咄嗟に気合いにも似た声が出るものだが、この昴という剣士は全く無表情のまま、刀を振るい続けている。
「あ、アンタなんで平然としてんスか!!」
「無駄口を叩くな」
やがて、頃合いを見たのか、昴はその刀を右下方から一際強く振り切った。
「うわっ!!」
強い衝撃が剣先からレイムの両手首に伝わり、びりびりとした細かい痺れに変わった。足を踏ん張りその場に留まろうとするも、衝撃に押されどうしても後ずさってしまう。
「病み上がりでそれだけ立ち回れられるのなら、上等だ」
昴はそう言って刀を鞘に納め、衣服の乱れを整えた。
よく見るとレイムの体にはあちこち包帯が巻かれている。見た目ほど傷は深くないのだろうか、明らかに負傷者だと見てとれるその外見にも関わらず、レイムはやたらと元気に両手剣を肩に担いだ。
「へへっ、褒められるとやっぱ嬉しいッスね!」
力が抜けたようにレイムが表情を崩す。それを見ていたライザーとベリーも、苦笑いを浮かべた。
「しかしいきなり来てヴァイスの傭兵になるなんて……何考えてんだあいつ」
あの後、昴がリリスティアに自信を傭兵としてここに置いてほしいと頼み込んだらしい。とはいっても、昴は世闇という種族の長だ。いきなりそんなこと言われてどうぞどうぞと言えるわけがない。と、誰もが思っていたのだが。
「いいんじゃないデスか~ってあの意地悪眼鏡が言うなんてね~」
手で丸い眼鏡の形を作り、ベリーが言う。何を考えたのか、レオンがその場で快諾したのだ。その時のリリスティアといえば、手放しに喜んでいた。
「あいつのことだから、どうせ上手いこと抑止力に使えそうだとでも思ってんだろうな」
「でもそれは本当かもね~。……しかもアメリのお父さんなんでしょ」
やり方としてどうかとは思うが、昴自身も何かしら考えがあってここに置いてほしいと言っているのは間違いない。それが娘であるアメリに関係することだということも、本人は隠す様子もない。
だが、昴の剣の腕は本物だ。活発に動いていたレイムとは違い、彼はその虚を見極め体力を無駄に減らさず戦っている。
腕は立つが猪突猛進なレイムにとって、昴から学ぶことは多かったのだろう。嬉々として昴に質問をぶつけているようだ。だが昴は短く答えるのみで、さっさと話しを終わらせようとしている。
「……あんな冷たくあしらわれてるのに、めげないね」
「あいつは昔からあんな感じだ」
呆れたようにベリーが言うと、ライザーは欠伸をしながら腕を頭の後ろに回し、腰を据えている椅子の背もたれに深くもたれかかった。
ちょうどその時、訓練場の扉を荒々しく開け放ち、その顔にかけた光る眼鏡を中指で押し上げながら、レオンが現れた。レイムと昴がいる場所より高い位置に造られた観覧席の更に上にあるその扉は、ギイと錆びた音を立て不気味に閉じた。
「おや、レイム君。こんなとこにいマシたか」
「れ、レオン軍師……」
レオンの声や表情は至って穏やかだったが、彼が何のためにここに現れたかを瞬時に理解したレイムは、青ざめながら後ずさる。
「おかしいデス。君には怪我が治るまで部屋で大人しくするように言ったハズなんデスが」
レオンはそう言いながら、観覧席の間に通る幾つかある階段をゆっくりと降り始める。
「その、寝てばっかだと体がなまって……」
「骨折数カ所に打撲、捻挫。果ては内蔵破裂しかけたヒトのいうことじゃ無いデス」
低くなるレオンの声にレイムはますます後ずさり、ついにはわざとらしく昴の背に隠れてみせた。それでも昴は表情を変えず、されるがままで。
「も、もう元気ッス! 竜族は回復が早いんスよ!」
「回復したかどうかは医者の俺が決めることデス。まったく、昴サンも無茶させないでクダサイよ~?」
レオンは両腰に手をあて、ため息を吐きながら昴を見る。
本当はレイムの方から昴に剣の相手を申し込んだのだが、彼は弁解することもなく、一つ返事をした。
「……ああ」
「ま、皆に剣の指導をしてくれるのはかなり助かってるんデスけどね。おかげで訓練の負傷者は増えてマス。もうちょっと手加減、どうデス?」
「そうか」
「いやいやそうかじゃなくて……まあいいか。ほらレイム君! さっさと戻ってクダサイ」
「はーいッス」
上から下に力が抜けたようにレイムはうなだれ、とぼとぼと昴から離れていった。
レイムが訓練場から出たのを確認すると、レオンはやっと笑みを見せ、残された昴に手を振りながらこう言った。
「じゃあ昴サン、他の兵士の訓練頼みマス」
「……次は誰だ」
昴は観覧席に居る兵士達にじろりと目を移す。そして余裕の面構えで、彼らに低く言い放った。
兵士達は恐怖に震え上がり順番を譲り合ったが、その内諦めたかのように何人かが彼の教授を受けに昴の佇む訓練場に向かった。
* * *
土臭い訓練場とはうって変わり、豪華な装飾が細部に渡り施された上品な部屋では、分厚い本とにらめっこをするリリスティアの姿があった。
「……という理由から、この国の政治は王と軍部総指揮官、軍師宰相の三人に委ねられているわけだ。分かったか? 元々そんなに人口が多い国ではないが、民の中にも代弁者を」
「ヒル……」
「ん?」
珍しく眼鏡をかけ、その片手に本を持ち、教師のような格好をしたヒルがそこに居た。
椅子に座り本を持つリリスティアの傍らで、まるで家庭教師でもしているかのように立ったまま返事をする。
「どうしたリリスティア。何か分からないことがあったか?」
「そうじゃなくて、その、少し……」
リリスティアは目の前のテーブルに積まれた山盛りの歴史書を睨んだ。そのうんざりした様子に気づいたヒルは、笑いながら彼女の持っている本を取り上げ、テーブルに置いた。
「はは、疲れたなら早く言え。無理して詰め込んでも身に付かない」
そう言われ安堵したのか、リリスティアは軽く腕を上げ伸びをした。その間にも、ヒルはあらかじめ用意されていた紅茶をカップに注いだ。その香りがリリスティアの鼻をつき、喉の渇きを訴える。
「歴史が古くて驚いた」
「だろう? まあ、敵が動きを見せない今が勉強の機会だからな。だが少し休憩だ。ほら」
カップを目の前に奨められ、リリスティアはそれを手に取り、ふうふうと息を吹きかけ一口飲んだ。
「美味しい」
「そうか、よかった」
ヒルが柔らかな笑みを見せると、リリスティアの頬は何故かうっすらと紅潮した。それは暖かい紅茶を飲んだ為なのかどうかは、分からない。
「お前は飲まないの?」
カップを持ったままリリスティアがヒルを見上げる。
「俺はいいよ。ゆっくり飲め」
ヒルはリリスティアの頭を子供にするように優しく撫でる。そして空いている椅子に腰を下ろし、長いため息をつきながら眼鏡を外した。
「目、悪かったの?」
リリスティアが問う。
「少しだけ。見えにくい時があるが普段はそうでもない」
会話が終わると部屋に沈黙が漂う。
その雰囲気に耐えられないのか、リリスティアはひたすら紅茶を口にし、あっという間に飲み干してしまった。
だが、リリスティアが落ち着かない理由はそれだけではなかった。二人がいる部屋の中は本棚が所狭しと並べられ、その中には小難しそうな本が寿司詰め状態。
気慰め程度に部屋の隅に置かれた観葉植物が唯一の暖かみ。後は、壁に掛けられた深い色味のマントに、普通よりも背丈の大きなベッド。
ふいにそれが目に入りリリスティアは咄嗟に目を逸らす。すると丸いテーブルを挟んで正面にいるヒルがきょとんとした様子でこちらを見ていた。
「お前の部屋は本しか無いのね」
「まあな、なかなか殺風景だろう。だが落ち着く」
ここは、ヒルの私室だ。リリスティアはあの戦いの後、王国に動きがあるまでの時間を利用し、必要な勉強を始めたのだった。
「王国軍に動きは?」
「いや、まだ目立った様子はない。とはいっても、今我が国には諜報部が無い。情報を制することができない状況なのは致命的ではあるが……自然の要塞とも言うべきアルゲオ山脈と霧の谷があることが救いだな」
確かに、ヴァイスに攻め入ろうと思えばまずあのアルゲオ山脈を越え、さらに大平原を抜けなければならない。見つからずに近づくなど、現実的に考えて無理な話だ。
だが、王国軍が引き上げたとはいえ、まだ戦いは終わってはいない。
リリスティアは以前から感じていた焦りを消し去るためにも、進んで勉強を始めた。勉強だけではなく、王としての立ち居振る舞い、何もかもに意欲的に学んでいる。
「しかし、お前は飲み込みが早いから助かる」
そう言われ、リリスティアは再び眉を寄せた。
「その代わり、政治はレオンとお前に任せきり。それが嫌」
早く、役に立ちたい。剣にしろ学にしろ、自分は中途半端なのだから。
剏竜であるヒルと誓約したにもかかわらず、リリスティアは王としての力を使いこなせてはいない。そもそも、それをどうやって扱うものなのかすらリリスティアは分からない。それだけが、王たる証にも関わらず。
「力を自在に使えるようになりたい」
「え?」
突然の話の切り換えに、ヒルは思わず目を丸くする。
「あの日発揮したような力を自由に扱えるようになりたいの」
「……ふむ」
するとヒルは、テーブルに積んであった歴史書の中からひとつを取り出し、おもむろにページを開いて見せた。
開かれたページにはおとぎ話の挿し絵のような竜の姿。光を纏い、天空を飛翔している姿が描かれている。ヒルはそのページに書かれた文章の一節を読み上げ始めた。
「竜は王と共に。竜は竜にして竜にあらず。刻印を受けし使者也」
ヴァイスの王は代々不思議な力を使いこなせる。だが力を使うには剏竜との誓約が必要だ。剏竜を従えて初めて、王は王となる。
「どんな力が使えるかは、王によって違う。誓約の儀式の時にその本質が分かる。お前は、枯れた花を蘇らし、大地に力を与える……元に戻す力だろう」
「私の父はどんな力を持っていたの?」
すると、ヒルは微笑んだだけで答えなかった。だが、なぜかそれはいつもの笑顔ではないことにリリスティアは気付いてしまう。
聞いてはいけないことだったのだろうかと迷っていると、ヒルは静かに口を開いた。
「ジオリオ陛下が力を使ったのはたった一度だけだった。常に、剏竜が王を支えていた。出来れば、俺もそうありたいものだ」
「そう……」
これ以上は、聞けなかった。ヒルの横顔はどこか寂しそうに、本の表紙を見つめていた。
「自在に使えるようになるのは相当難しいんじゃないのか」
まごつくリリスティアに、ヒルはあっけらかんとした様子で答えてみせた。
「魔法と同じだ。念じればいいんだ」
「私、その……魔法は使えなくて。試してはみたんだけど、昔からなぜか全然使えないの」
リリスティアがそう言うと、ヒルは思わず声をあげて笑った。
そして、目の前で顔をしかめるリリスティアをなだめるようにこう言った。
「教えてやるから」
ヒルは部屋の中を見渡し、その隅に置かれた観葉植物に目を留めると「これがいいな」と言い立ち上がった。
ヒルはその観葉植物の鉢の部分に手をかけ、部屋の中央に移動させた。彼の腰のあたりまで背丈のある植物は、ずいぶん生い茂っているもののどこか物足りない。葉の青みも曇っているように見える。
「まさか、これを再生させるとかいうんじゃ」
「ああ、きっと一番簡単だ」
何がどう簡単なのだ、とリリスティアは返したかった。
魔法を学んだことが無い彼女にとっては、そもそも念じるということがどういうことなのかすら分からない。
リリスティアが一人頭の中で様々な理論を打ち立てていると、ヒルが言葉を発した。
「出来るさ。順に説明する」
ヒルはそのままリリスティアの背後に回ると、彼女の体の左右からその手を植物に向けてつきだした。合わせるように、リリスティアも手を前に出す。
「うまくいけば良いものが見られるかもな」
「良いもの?」
「あとのお楽しみだ」
ヒルの方に顔をうねらせると、彼は優しく微笑みを返す。
リリスティアは妙なくすぐったさから、素早く視線を逸らした。
「目を閉じて」
言われるがままにリリスティアは瞳を閉じた。
視界が闇に染まると、まるで真っ暗な部屋に一人いるようだった。だが、その闇の中に蒼く光る何かが在るのを感じた。
その光は小さく燭台の灯よりも弱々しかったが、やがて段々とその質量を増し、こちらに近づいてくる。眩しくはない、どちらかというと木漏れ日のような柔らかい光だった。
暗闇の中、光がリリスティアに触れた。すると体の中に、急に強大な力が溢れ出てくるのをリリスティアはリアルに感じた。血液が異常に早く流れているようで、高揚する心の臓。
鼓動が大きな音を立て始める。
「そう、そのまま。その力をこめろ」
リリスティアは熱くなる自分の手に意識を集中させる。再生の力だといいながら、それはまるで炎を中に宿しているようだった。
「怖がらなくていい。それはお前の力だ」
ヒルがそう言うと同時に、リリスティアの手から淡い蒼の光が滴となって植物に降り注いだ。その滴が植物に触れると、曇りがかっていた緑は青々とした色に変わり、太陽を初めて見つけたかのように勢い良く上に向かって成長する。
恐る恐る瞳を開けたリリスティアは、目の前の植物の変化に気づき感嘆の声を上げた。
「すごい!」
「な、出来ただろ」
リリスティアが最も驚いたのは、その植物に真白で大きな牡丹のような花が咲いたことにだった。頂上に凛として咲き誇り、花弁の中央には美しい丸い宝石のようなものを乗せている。
「良いものって、これのこと?」
「ああ、久しぶりに咲いたのを見た」
リリスティアは花をまじまじと見つめる。以外に花が好きなのか、やけに興味津々だ。
「欲しいのか? ミリアに言って活けてもらおうか」
ヒルが聞くと、リリスティアは首を横に振った。
「このままでいい。綺麗だから」
何気なくそう言ったリリスティアの台詞に、ヒルは何故か顔を曇らせた。
「……そうか」
ヒルはリリスティアの頭に手を置いた。優しい顔で、リリスティアを見る。
リリスティアは、今まで出会った誰にも、こんな表情を見た事はなかった。見つめるほどに、胸が詰まる。
「なんでそんな顔をするの?」
するとヒルは、僅かに笑みを浮かべた。
「お前を見ていると、自然とこうなる」
「何故?」
「さあ。けどリリスティア、見てみろ」
ヒルはおもむろに、鏡を指差した。
壁にかけられた、小さな丸い鏡。ヒルはそれを取ると、リリスティアに手渡した。綺麗に磨かれたそこに、リリスティアの顔が映ると、ヒルは囁いた。
「お前も、同じような顔をしている」
そこには、頬が弛んだ、楽しそうな自分。
リリスティアは急に恥ずかしくなり、鏡をヒルの胸に押し付けて隠した。自分に表れるこの妙な反応は何なのだろうか。
彼が笑うと、顔が熱くなる。これも、誓約したから表れるものなの?
リリスティアが彼の顔をまともに見れずにいると、ヒルはいつもの優しい笑みを浮かべた。
そうしてる内に、ヒルはその緋色の瞳をまっすぐリリスティアに向けた。その意図が分からないリリスティアは、じっと次の言葉を待っている。
こんなに近くで、正面から見つめ合うことは今までも何回かあったが、今日はやけにリリスティアの胸が高鳴る。彼の部屋にいる所為で緊張でもしているのだろうか。
いや、彼の部屋だからといって何を緊張する必要があるのだろうか。
ヒルとリリスティアの関係は、王と総指揮官。または、ヴァイスの民と剏竜。それ以外に何もない。リリスティアは、息が詰まりそうでどうしようもなかった。
やっとヒルが語り始めようとした頃には、リリスティアはまるで子供のように極端に顔を逸らしていた。
「そういえば、今まで、ずっと一人だったのか? その、セイレがいなくなってから」
「仮の父と母とは、折り合いが悪かったから」
ヒルは、また少し顔を曇らせる。
「よく頑張ったな」
重く響くその一言。
リリスティアは少し思案した後、ぽつりと呟いた。
「寂しいとか、辛いとかは分からなかった。一人が当たり前だったし、姉さんを探すことに必死だったから。別に、頑張ったなんてことはなかった。いつも、自分の好きなように行動していたし」
それ故に、一人だった。
何も持たず、何も積み上げず。ただ毎日を消化することに、必死だった。
「でも、今は少し寂しいかもしれない」
「そうなのか?」
「この国は、人がたくさんいるから」
次の瞬間。
リリスティアの視界が真っ暗になった。ふわり、と頬に当たる柔らかな衣服の感触。反して、強さを持った鍛えられた体の感触。頭と背に回された、大きくて優しい両手。まるで羽毛に包まれたような温もりが体全体を浸食していくと、同時に意識もまた侵されていくのを感じた。
「ちょ……ちょっと!」
抵抗をしているつもりなのか、リリスティアは自分を包み込むその体を押し返そうと身をよじらせる。だが、彼の腕はリリスティアの華奢な躰をしっかりと抱きかかえ、自分の胸の中に支配したまま離そうとはしない。
何故か力が入らない自分の躰。頭では拒否しているのに、躰が言うことを聞かない。まるで、こうされて喜んでいるかのように。
ヒルは黙ったままで、それが余計にリリスティアの何かを焦らせる。
「ヒル……は、離して」
「ようやく、守れる」
「え……」
耳元で囁かれ、リリスティアの躰がぞくりと震えた。
「この腕で……近くで、お前を。大切な、王の子を」
「な、何を……」
ヒルは、その腕の中でもがくリリスティアをさらに強く抱きしめた。見た目にはあまり分からない、筋肉質な太い腕がリリスティアの体に食い込む。完全に二人の体と体が密着した為、リリスティアはもう身動きが取れなくなってしまった。
ヒルの胸にぴったりくっついてしまっている顔をなんとかよじらせ、リリスティアは彼を見上げるが、紅い前髪が垂れ下がっている為、その表情がよく分からない。
「ヒル、あの……」
再度小さく彼の名を呼んでみる。すると、ヒルはやっとその腕の力を緩め、リリスティアの背中に回していた両手を二の腕に滑らせ、距離を置いた。
「悪い。けど、本当に嬉しいんだ。使命を果たせるから」
そう言うヒルの瞳は、申し訳なさそうに歪んでいた。
それに、何故か辛そうに見えるのは気のせいか。リリスティアはどう答えていいか分からず、無言で頷いた。二の腕に置かれたままの手のひらは熱く、自然とまたリリスティアの頬が紅潮する。
「お前は私に軽はずみな行動を取りすぎる」
「え?」
「変なことを言ったり、今みたいに抱きしめたり。そんなことをするものじゃないでしょう。そ、その……王と家臣……なのに」
言いながらも、リリスティアの顔はますます熱を帯びる。
ヒルはそれの言い訳を探す為黙り込むでもなく、すぐに言葉を返した。
「王と家臣なら、抱きしめ合ってはいけないのか?」
「そうではなくて!」
「普通だろう。お前も、いつでもしたい時に触れてくれていい。俺に」
「はぁ!?」
リリスティアはつい素っ頓狂な声を上げてしまい、気が抜けたように目を丸くした。対してヒルは口元に意地の悪い笑みを湛えている。
含み笑いを浮かべるヒルに、リリスティアは嫌悪感いっぱいに眉をひそめた。初めて会った時に見たような意地の悪い笑みに、心が苛立った。
「しかし、背の割には本当に細いな。朝飯をちゃんと食べないからそうなるんだ」
ヒルは片手をリリスティアの口元にやり、そのまだ汚れのない唇をついっと撫でた。その仕草をする時のヒルはどこかカイムにも似た意地の悪い顔で。
あまり冷静ではない心境のリリスティアは瞬時にその手を思い切り払いのけた。きつく払われたヒルの手が僅かに赤みを帯びる。
「何を見ている何を!」
「体を見ていた」
即答されると何故かますます腹が立つ。リリスティアは彼を睨み倒す。
「怒るなリリスティア。そんなに嫌だったのか?」
ヒルが僅かに悲しそうに眉を下げるものだから、リリスティアは睨みながらも返す言葉に詰まる。
「気にいらない!」
「気にいらない?」
「知らないから分からない! その……お前みたいに経験豊富な男には分からないだろうけど!」
リリスティアは頬を染めたまま、まるで自分が自分ではないような感覚に襲われていた。胸の中でやけに五月蠅く響く鼓動が耳障りだ。片手でその胸を抑えてみても、音が小さくなる気配はない。
ああ、鏡を見たい。私は今一体どんな顔をしている?
こんな私は知らない。私はもっと、冷めた人物だった筈。
「いい加減にして……は、恥ずかしい……から」
リリスティアはその両手を胸の前で組み合わせ、絞り出すような切ない声でそう発した。
以前の彼女を知る者が、今の彼女を見たならきっと疑念に満ちた声を漏らすだろう。何故なら今ここにいる彼女は、本当にどこにでもいそうなくらい、まるでかよわい女性にしか見えないのだ。
気恥ずかしそうに目を逸らし、頬を紅潮させ、自分を守っているかのような体勢で。
「見るな!」
「そう言われてもだな」
「勉強は終わりだ! 私は戻る!」
精一杯に毅然とした態度をとろうとしているのだろうが、その表情のままでは棘のある台詞も効果が無い。
「リリスティア、聞け」
部屋を出ようとするリリスティアの前にヒルが立ちはだかり、扉をふさぐ。
「わ、分かったからもう退いて。私は部屋に戻る」
「リリスティア」
「退け! これは、お、王としての命令だ!」
リリスティアは感情のままに言葉をぶつけた。
王という立場を利用してでも、今はここから離れたい。こんな自分を認めたくはないから。
彼から離れさえすれば、きっと元の私を取り戻せる。だが、そんな簡単な物ではないと、頭の隅でシグナルが鳴っている事に彼女は気づいていただろうか。
それでも動かないヒルを押し退けるようにして、リリスティアはその後ろの扉のドアノブに手をかけた。早く早くと急かす心のままに、それを押そうとした刹那。
彼がその扉の上部に手のひらを思い切り叩きつけ、大きな音を鳴らした。それにより驚いたリリスティアの動きは静止した。音の余韻だけが残る沈黙した部屋の中、ヒルの穏やかな声が響いた。
「お許しください、陛下」
「な……」
「抱きしめずにはいられなかったのです。陛下が、そんな顔をなさるから」
その一言が、リリスティアの何かを縛り付けたかなど言うまでも無かった。
あとはもう、ただ必死に扉を開けて、駆け出すことしかできなかった。
逃げたというのだろうか、これは。
何から逃げたのかは分からない。だけど、私は現に"彼"の前から逃げるように走ってきたじゃないか。
熱が冷めやらぬ頬に右手を当てたまま、リリスティアは城の中のどこへ続くとも分からない回廊を歩いていた。太陽はまだ高く、昼間の所為もあってか城の中は割と人気が多い。すれ違うのはあの戦いで共に戦地に赴いた兵士や、ミリアが着ていたような衣服を着た女性。皆リリスティアを見ると頭を下げていく。
「慣れない」
与えられた名前に未だついていけてない自分が歯がゆいのか、リリスティアは自然と早足になった。そんな自分に、みんな甘すぎるのではないか。
リリスティアの頭にヒルの顔が浮かび、また頬が熱くなった。
「……意味が分からない」
リリスティアはそのまま窓枠に顔を伏せこんだ。 その瞬間だった。
「わっ!!」
背後から突如大声がしたかと思うと、同時に両肩を強く叩かれた為、リリスティアは飛び上がった。油断していた為、驚きに満ちた顔を見せる。
「はっはー、してやったりッス!」
「びっくりした……レイムか……」
リリスティアが訝しげに振り返ると、悪戯が成功した事を満面の笑みで喜ぶレイムが居た。体中至る所に真新しい包帯が巻いてあるが、怪我人らしくない動きを見せる。
「何してたんスか?」
「別に……」
「女王様がんなとこでボーッとしてちゃダメッスよ!」
「貴方こそ、怪我はいいの?」
話を変える為、リリスティアは彼の体に目をやった。するとレイムは腕を上に上げ、ぶんぶんと振り回す。
「どうッスか!?」
「無駄な心配だったみたいね」
とことん呆れた顔でリリスティアは言ったのだが、レイムはまるで気にした様子はない。
「さっき訓練してて軍師に連れ戻されたんスけど、なんか呼び出されてどっか行っちゃったから抜け出してきたッス! よかったら、後で一緒に訓練場に行かないッスか? 楽しいッスよ!」
「そうね。いいかもしれない」
このレイムという男の底抜けの明るさは、リリスティアには眩しすぎるものだった。
何故なら彼には影が見えない。
ベリーとは違い、心のままに発言し、行動している。相手がどう思おうが、構わない。いつまでも引きずらない。気にしない。
ただ単純なだけなのだろうが、それは"純粋"と紙一重のものだ。全く持って竜族の性質は理解しがたい、とリリスティアは思った。
「ああそうだ! あの、陛下には心配かけて申し訳無かったッス。」
急にレイムがしょげた表情で、頭上に上げていた手を下げた。
「謝ることは……」
「でもおかげで陛下を守れたッス!」
レイムが心から嬉しそうに微笑む。橙色の髪色と相俟って、太陽のように。
「私にもっと指揮能力があれば、ああはならなかった」
「それは俺も同じッスよ! でも、誰も死なない戦いなんて無いッスよ」
それは、かつて一度は自分の頭の中で思ったことのある台詞なのだが、他人に言われると、やけにダメージを喰らう。
死者が出るのが当たり前、それが戦争。 それを割り切ってやったのだが、リリスティアは、どうにも捨てられない自分の甘さが嫌になった。たとえ攻められたから反撃した、と言っても、第三者から見ればどちらも好んで剣を取った、としか見えないだろう。
「レイムはなぜ私によくしてくれるの?」
「女王様は不思議な質問をするッスねえ。う~ん」
レイムは人差し指で頬を掻いた後、リリスティアの横に移動し、窓枠に背を向けた状態で体重を預けた。そしてリリスティアの顔をのぞき込むように背を屈めた。
「俺がなんでこの国にいるか、聞いたッスか?」
「いいえ、貴方のことは、カイムの弟ということしか聞いていない」
首を横に振るリリスティアを見て、レイムはあっけらかんとした様子で話し始めた。
「俺、昔……っつてもかーなーり昔ッスけど。ここに捨てられてたんスよ」
無表情ながらリリスティアの顔色は僅かな変化を見せる。それを見越していたかのように、レイムは慌てて言葉を続けた。
「ああ、人間と同じに考えちゃ駄目ッスよ! 竜ってのは、弱肉強食の世界ッスから。生まれた時に体が弱かったりすると、ふつう~に捨てるんス。そのまま竜の世界にいても、殺されるだけッスからね」
リリスティアは到底理解が出来なかった。
だが確かに今の彼の姿は人型であって、本来の姿はあの中庭にいる彼らのように、牙の生えた恐ろしい竜の姿。
勘違いしてしまいがちだが、彼らは"竜"という未だ未知の部分が多い種族なのだ。
「ははっ、俺よっぽど弱かったんスよ」
レイムは情を誘うような喋り方はしていない。むしろ、笑い話のごとく明るく喋り続ける。別に悲しみを押し隠しているわけでもなく、過去の出来事をただ淡々とリリスティアに話している。
「けど俺が生きてることを知ったカイムさんが迎えに来て……ちょっとだけ、竜の谷に居たんス」
「じゃあカイムが来るまで、ここでどうやって生きていたの?」
「決まってるじゃないスか! ヒルさんが育ててくれたんスよ!」
「ヒルが?」
「子供の扱いには慣れてたみたいで、死にかけてた小さい俺を一生懸命看病してくれたそうッスよ」
「へえ……」
小さな竜を抱くヒルを想像すると、少しおかしくもあった。
「あー……そんで、何の話しだっけ。あっ、つまりッス。俺が迷い無く戦えるのは、ヒルさんやリリスティア陛下が好きだからッス!」
レイムは照れくさそうに頬を緩めた。
その横顔は、鍛えられた体に反して、まるで少年のように幼い。
「あ! 変な意味じゃないッスよ!」
「ふふ、わかってる」
「へへっ! それに、恩人であるヒルさんが何より大事にしてるリリスティア陛下の為なら、俺は何も迷うことなく突っ走れるッス!」
「……レイム」
「あ、今笑ったッスね。もっとそんな顔したほうが皆喜ぶッスよ?」
人差し指で鼻をはじかれ、リリスティアは目を丸くした。
自分のことを陛下と呼びながらこのような振る舞いをするレイムだったが、その笑顔を見ているとリリスティアは怒る気にもなれなかった。
まさかレイムとこんな話をするとは思わなかった。彼はその風貌の為、ふざけているように見えるが、言っていることは意外にもまともだ。いつもそうだ、とは言い切れないが。
「ずいぶんと仲が良いな」
その空気を一瞬にして破壊するかのように、彼が現れた。
「カイム」
彼が現れると、回廊から人気が無くなる。
嫌っているわけではないのだが、彼を恐れてのことだ。
視界の端で、兵士や女官達がそそくさと距離を取っていく。
「仲良いッスもん、ねーリリスティア陛下」
「そ、そうなの?」
そう言いながら、レイムにさりげなく肩に手を回されたが、リリスティアはなんとも無かった。レイムもまた、ただ友好的な意味でそうしているからに過ぎない。顔は、いつもの明るい笑顔で。
「ほう……レイム、お前もえらく身分違いな相手を好むようになったな」
「あのね~なんでもカイムさんの主観で見ないで欲しいッス」
「俺に文句を言う暇があったらさっさと病室とやらに戻れ。あの軍師が手に術用ナイフを持って歩き回ってる」
「なんっでそれを先に言ってくれないんスか!!」
それを聞いたレイムは一瞬にして青ざめ、リリスティアから手を離すと左右を見渡し、カイムの歩んできた方向へとバタバタと騒がしく走り去った。
「落ち着きの無い奴だ」
ほどけかかった包帯をたなびかせ走り去るレイムを目で見送りながら、カイムは溜息を吐いた。
そして、その反対側で自分の顔をやけにじろじろと見てくる者に気づくと、不敵な笑みを浮かべた。
「どうしたリリスティア。俺の顔に見惚れたか」
「違う。似てないなと思って見ていたの」
「レイムとか? ……ふん」
即答されカイムはつまらなそうにしていたが、その長い髪をかきあげると、レイム同じくリリスティアの横に位置を取った。ふわり、女物の香水の匂いが鼻をつく。カイムの体は、いつも違う匂いがしている。相手となる人物は、余程きつく香水をつけているのだろう。
「なに……」
「レイムには笑顔を見せたくせに、俺には見せないのか?」
「レイムは根は紳士だ。お前と違って」
眉を寄せるリリスティアを見て、カイムは益々増長する。
「なら、俺も紳士に話すとするか」
不意にリリスティアは片方の手首を掴む。
「言ってる側から……離せ!」
「少し確認したいことがある」
有無を言わさず、リリスティアはカイムに連れ去られた。抵抗を試みたが、竜の力は圧倒的で、手首に跡が残ってしまった。
連れてこられた場所は、どこか寒々しい回廊の先。
行き止まりになったその先に見える扉は、ほこりが被っている。
「ここなら話の邪魔が入るまい」
カイムはその扉に目をやる。
「話とは何?」
少し距離を置いた所からリリスティアがそう言うと、カイムはその瞳だけを彼女に向けた。
彼の瞳は同じ赤でもヒルとは違い、まるで薔薇のような真紅だった。
「この戦いについてだ」
戦いと聞いてリリスティアの顔が僅かに強ばる。カイムはそのまま話を続けた。
「お前は同盟調印式の時にこう言ったな。戦いを止めたい、自分達が悪魔でないことを知らしめたいと」
「ええ」
「戦いを、どう止めるつもりだ?」
途端に、カイムの言葉尻が強くなる。
「王国軍はまた着実に戦力を増強させている。次の進攻が来る日はそう遠くはないだろう。その時、どうする?」
「それは……」
即答できないリリスティアは、彼と合わせていた目をふいに横に逸らした。そんな彼女を追い立てるように、カイムが言葉を被せる。
「レオンやヒルに任せるか」
「なっ……」
「そんなことで、戦いが止められるのか? 戦争は子供のままごととは違う。今まさにそこで起きている現実だ。現に、先の戦いの影響は世界の至る所に出ている。良い意味でも、悪い意味でもな」
窓から流れてきた風が、カイムの赤く長い髪を揺らす。強い口調で語る彼は、まさに竜族の王たる威厳を兼ね備えていた。
「お前は責務を果たせるのか?」
容赦ないカイムの言葉がリリスティアに突き刺さる。彼も王として幾多の戦いをくぐり抜けてきたのだろう。話の内容から、それは容易に伺えた。
悔しい。
それは、カイムにそう言われたからではなく。カイムの言葉に、そうとしか返せない自分が。
彼の言う言葉は、すべて図星で。
これからまた戦いが始まっても、ヒルやレオンのように動ける自信がまだ無い。いくら勉強していても、それは紙の上での事。
リリスティアには力や技はあれど、"王"として必要不可欠な"統率力"が欠けている。今まで自分勝手に生きてきたのだから、当然といえばそれまでだ。だが、もうそんな甘えは許されない。
彼女は国の復興の責任をその両肩に乗せた"ヴァイスの女王"なのだ。
大いなる責任を乗せた両肩は、あまりにも頼りなかった。
「ヒルに甘えるなリリスティア」
いきなり彼の名が上がり、リリスティアは顔を上げる。
「なんだと?」
「ヒルは、お前を守るためにある。守り導き誘う。そう位置づけられている存在だ」
カイムの言い方はどこか曖昧だが、リリスティアにもなんとなく意味はとれた。
「ヒルが私にはあまり厳しくないのは知ってる」
彼は、優しい。
冗談を言いながらも、真綿で包むように彼は自分に接する。言葉も、行動も全てそう。
「だけど甘えるつもりはない」
「ほう? だが、俺にはどうも、お前は奴に対してよからぬ情を抱いているようにしか見えないのだがな」
「な……っ」
カッ、と瞬く間にリリスティアの頬が染まった。面と向かって指摘され、みるみるうちにリリスティアの心中に波が立つ。
「違うか?」
「違う!」
何を言い出すのか、この男は。ヒルとは、まだ会って日も浅い。
カイムが妖しく笑う。だがリリスティアはいきり立って否定をする。
「私とヒルは王と臣下だ!」
それは本心か、体裁か。だがどちらにせよ、リリスティアはヒルの事になると、妙に感情が高ぶる。拳を握りしめながら、自分の言った台詞に一人心を痛めていた。
「そうか、ならいい」
たきつけた割にあっさりと引くカイムに、リリスティアは気が抜けたように握りしめていた手の力を抜いた。
「今の言葉、忘れるなよ」
「どういう……」
「気にするな。お前の意志は確認出来た」
「……何を」
「ふっ、それでいい。情など抱いたところで、貴様は王。いずれ正統な身分の男を番にするのだからな」
カイムは満足げに鼻を鳴らし、リリスティアに近寄り髪を一房手に取った。前よりもまた長くなったその髪は段々と青よりも銀の色味が増している。
「それを、わざわざ言いに来たのか」
震える声が、辿々しく言葉を紡ぐ。
「いや? それだけではない。お前が真に王としての責任を果たす気があるなら、いい知恵を貸してやろうと思ったのだ。それが本題だったんだが、いつの間にか話がそれていたな」
意地悪そうに笑うカイム。きっとわざとそうしていたのだろう。楽しくて仕方が無いといったように目を細めている。
「何が紳士的な話……」
小さく恨めしそうにリリスティアはぼやく。胸に刺さる針の痛みに耐えながら。
「リリスティア、王国軍との戦いに勝つ為に、こちらにまず必要なのは数だ」
気を取り直したカイムが、先ほどの事などなかったような素振りで次の話題へと駒を進めた。
頭の切り換えが早いのは良いことだが、リリスティアにとっては言われっぱなしであまり気分が良くなかった。だがカイムはフォローすることなく、話を続ける。
「俺たちが控えていたとはいえ、今回の奴らの撤退は『助かった』といったところだったな」
そうだ、誰もがあの後そう言った。 異常なまでの神鉄の魔導師の強さに加え、やけに統制のとれた指揮系統は、ヴァイス軍に痛恨のダメージを与えた。にも関わらず、やるだけやった後にそそくさと軍を撤退させた王国軍。
まるで、報復戦争とは名前ばかり。それよりも何か他に目的があったかのようだった。
「リリスティア、ユアの一族を仲間にするがいい」
急にカイムの切り出した言葉に、リリスティアが首を傾げる。
「知らんのか」
馬鹿にしたように言われ、リリスティアはムッと眉を寄せた。
「知らない」
「ユア・ラムダ王国……有翼の民の国だ」
リリスティアは頭の中の辞書から必死にその単語を探してみたが、どうにも思い当たらず無表情のまままた首を傾げる。
「……聞いた事がない」
「だろうな。エルフ同様、世間では未知の民に分類されているからな」
「なのに何故お前は知っているの」
「千年竜だからな」
そういうカイムの顔が、僅かに曇ったのをリリスティアの翡翠の瞳が捉えていた。
* * *
「ユア・ラムダ!?」
素っ頓狂な声を上げたのはベリーだった。椅子から腰を浮かし、細長いテーブルを挟んで右斜め前に座ったレオンに、その大きな目をこれでもかと開いて見せていた。
会議室には、ヒルを上座に、続いてレオン、ライザー、レイム、ベリーが、会議をする為に据えられた細長い机に着席していた。
だが、ヒルの横にある王が座るための席は、空いたままで。
「あれっ? ベリーちゃん知ってるんデスか」
「知ってるもなにも、ユア・ラムダはどの王国も重要視してる一族だもん!」
「はっ、知識だけは一人前か」
ベリーの向かい側に座ったライザーが意地悪く言い放つ。
瞬間、ベリーが小さく指を立てると、彼の顔めがけて水の塊が勢いよく飛んできた。
「っ冷て! 何すんだこの阿呆!!」
洗髪した直後のように濡らされたライザーは当然牙を剥く。
「キンパツいちいちうるさい」
「しょうもないことで魔導術使ってんじゃねえよ!!」
「ま、まあまあ、二人とも。喧嘩はやめるッスよ。ライザー卿も大人げ無いッスよ」
ベリーの横に座っているレイムが、立ち上がった二人を笑顔でなだめるも、それは益々ライザーの怒髪天を突いただけだった。
「ああ!? てめぇどっちの味方だレイム!」
「俺は可愛い子の味方ッス!」
即答するレイムの可愛い発言を聞き、ベリーは勝ち誇った顔を見せた。
会議の最中だというのに、三人がああだこうだと騒ぎだしても、ヒルは怒った様子も無く見ている。むしろ、満面の笑みを浮かべている。が、それがどういった意味の笑顔なのか知っているレオンだけは、手元にある本で口を押さえたまま無言で冷や汗を流していた。
「話を進めたいんだが?」
ぴたり。音楽が止められたかのように会議室の中が静まりかえった。
先ほどまで威勢の良かったベリーとライザーとレイムだが、言葉の主にゆっくり視線をやると、三人同時に青菜に塩をふりかけたかのように大人しくなった。
ヒルはテーブルに頬杖をつきながらやっといつもの笑みを取り戻した。
「良かった、じゃあレオン。続けてくれるか?」
「ハイハイ」
レオンは軽く咳払いすると、持っていた本…というよりは資料の束といったほうがしっくりくる物に目を通しながら、"ユアの一族"について語り始めた。
「彼らは一様にして背中に翼を持ち、空を飛ぶことが可能です。正当な王の一族は純白の羽根を持ち、また不思議な力を持ちマス」
ユア・ラムダ。正式名称はユアリス・デュ・ラムダ・ロワイアム。
その背に真白の翼を持ち、強い力を持ちながらもけして他を脅かすことは無く。世界でもエルフと並んで不可侵とされてきた種族だ。彼らの同族として一般的に"有翼人"とされる者達がいるが、その翼の美しさがまるで違うという。誰もがその美しさに心を奪われ、戦意を無くす。古代に栄えた強国の武王でさえ、彼らの姿を目にすると剣を降ろしたという。
そんな種族を、仲間にしようというのだ。
「不思議な力ッスか?」
レイムが首を傾げる。
「ハイ。彼らが持つのは『魅了(エピカリス)』と言われる術デス」
「人の心を操れるのかよ」
ライザーが興味深げに尋ねる。
「詳細はなんとも。ユアは超排他的で、これはエルフや世闇の比じゃないデス」
「昴は仲間になってんじゃねえか……。しかしそんな奴らを仲間にしようなんて、カイムの馬鹿殿も何考えてんだ」
「ライザー君、一応でも竜の王様に向かって馬鹿はやめなさい馬鹿は」
「簡単じゃないよ~? あの国は鎖国してからかなり長いし……」
ベリーが心配そうに眉を下げるのを見て、ヒルが穏やかに声をかける。
「確かにな。だが、それはリリスティア次第といったところだ」
「リリスティアの~?」
ヒルは黙って頷く。そんな二人の話に割って入るかのように、レイムが元気よく手を挙げた。元気なのはいいが、先ほどより包帯が増えているのは気のせいなのだろうか。
「リリスティア次第っつったなヒル」
ふと、ライザーが口を開いた。
「ああ」
「まさかリリスティアを直接あそこに行かせる気なんじゃねえだろうな」
「そうだが?」
至って冷静に答えるヒルに、ライザーは声を荒げた。
「阿呆か! リリスティアは王だぞ! しかもこんな状況で他国に行かせたら何が起こるかくらいわかんだろ!」
「ライザー君、落ち着いて」
いきり立つライザーをレオンが困ったようになだめるが、彼はそれを袖にしない。
確かに、長年悪魔として認知されてきたこの国には外交というものが全くといっていいほど無い。竜族との繋がりを除けば、ほとんど陸の孤島状態の国だ。これではいずれ、数でやられる。
孤立した国の末路はどんなものか、少し考えれば分かることだった。
だから、強力な味方がほしい。
その相手として、カイムがヒルに提案したのはユア・ラムダなのだ。
「だいたい王と総指揮官である二人がいっぺんに国を空けるなんてふざけてんのか」
「その心配ならいりまセンよ」
「あ?」
レオンがその丸く小さな眼鏡を中指で押し上げながら、含んだように笑った。不可解なその言動に、ライザーは頭の上に疑問符を浮かべる。
「俺はここに残る」
穏やかで余裕のある表情ながらも、僅かに瞳を歪めながら、ヒルが答えた。
「はあっ?!」
それを聞いてやけに驚嘆したのはベリーだった。
「何驚いてんデスか。当たり前デショ」
「そ、そうだけどさ」
ちら、とヒルを伺いながら答えるベリーの言葉に、レオンは公私の線を引くように答える。
「護衛には他の者をつけマスよ」
「じゃあユア・ラムダには誰がついてくッスか?」
レイムが興味津々の瞳でレオンに問う。
「レイム君行きたそうデスね~」
「行きたいッスー!」
「はいはい、ですがもうメンバーは決めてマス」
「ね、ね、誰がリリスティアについてくの?」
レイム同じく興味津々のベリーが、爛々と目を輝かせる。
「ユア・ラムダとの交渉にピッタリな選考をしましたよ。人選は――」
* * *
「――シャジャと、ライザーとお前?」
城の回廊を歩いていたリリスティアは、前を行くカイムに向かって驚きの声を上げた。
「ああ、出発は早い方がいい。早朝がいいな」
「ユア・ラムダに私が直接協力を願いにいくのは分かったけど、何故お前がついてくるの? ヒルは?」
「俺がいる方が交渉が有利になるからだ。となるとシャジャも必然的にメンバーに入る。あと、あの若僧は王家の血に連なる者。それに何かあった時に魔導術が使える奴は必要だからだ」
正当な理由をすらすらと語るカイムに、 リリスティアは反論することはない。だが、ヒルと離れるということに知らず知らずのうちに不安が募る。
思えば、あの時からずっと、ヒルは自分の側にいたのだ。それこそ、寝るときと風呂以外はほとんどといっていいほど、リリスティアは彼の目の届く範囲内でしか行動していなかった。
「頼れる竜がいなくて不満か?」
「ちょうどいい。私は甘えすぎているから」
リリスティアは、全く感情無く言い放った。カイムよりも、自分に言い聞かせるように言う。ヒルを頼る弱い自分など、認めたくない。そう、最初に出会ったのが彼だから、彼に甘えがちになっているだけ。
「なるほど」
だが、そう言いながらも顔をこわばらせるリリスティアを見て、カイムは口端をつり上げた。赤い髪を翻すと、リリスティアを気にせずさっさと歩いていく。
リリスティアはそれに追いつこうとはせず、ぼんやりとしたまま足を進めた。
リリスティアがカイムと別れた後、会議室に到着すると、もうそこにはベリーしか居なかった。ベリーによると、レオンはまた忙しそうにどこかへと消え、他の者やヒルも、すぐに退室したらしい。
「あたしもついていきたいけど……」
ベリーが心底残念そうに眉を下げる。
「貴女の力は、もし私たちの留守中に何かあった時とても頼りになる。貴女まで連れていったらレオンに叱られる」
「いつ出発するの~?」
「さすがに明日は無い。カイムは明日がいいって言っていたけれど、準備もあるし」
いつもと変わらない様子で淡々と話すリリスティアに、ベリーは何か言いたそうにその目をじっと見つめる。
「何?」
「絶対弱いとこ見せないよね」
拗ねたような彼女の口振りに、リリスティアは首を傾げる。
「これは国の命運を決める任務だもの。私が行かなきゃ」
「かっこいいじゃん。そういうとこ好きだよ」
その言葉によりリリスティアは、目の前にいるベリーがその外見に反してずっと年が上な女性なのだということを改めて実感させられた。彼女は、周りの人物をよく見ている。それも客観的に。しぐさや言動だけで相手が何を考えてるか見抜いてしまえるのは、長い年輪を重ねた者だからこそ出来る技だ。
「リリー、注意してね。白い羽根の子たちは、本当は選ばれたくなかった子たちだと思うから」
「……選ばれたくなかった?」
「ん」
彼女はただ、物憂げに微笑んでその場を後にした。
* * *
それから、出発の日まで、ヒルはあまり私の側には居なかった。
国の再建の準備が忙しいのか、顔を合わせたくないのかは分からない。私も、必要最低限のこと以外は喋らなかったし、彼も以前のような冗談は言わなくなった。
何故かは、分からない。
あの時、私を抱きしめた彼の腕は確かに熱くて、私は目眩がしていたのに。まるでなにも無かったかのように、ヒルは私を見なくなった。
次に再会する時は、私はヒルと目を合わせて喋れるだろうか?
ユア・ラムダの地は、遠い。
第8話・終
貴方が生まれて、私が生きる。そしていつも、月が巡る私の世界。
どこにいるかも分からない。でも、決して黙りはしない貴方たち。
ねえ、私を、見つけられますか。
雷のような荒々しいノックが扉を震わせた。壊されてはたまらないといった様子で、部屋の主は扉へ向かった。乱れた服もそのままに、警戒もなく扉を開いた部屋の主に、来訪者は皮肉めいた言葉を吐く。
「よく眠れているか?」
長い炎の髪をなびかせ、カイムはその部屋に足を踏み入れた。
彼が入ってきたのを確認すると、部屋の主はあまりいい顔はしていなかったが、形式的に言葉を発した。
「何の用だカイム」
「立ち話をさせる気か? 目立って仕方がないと思うがお前はそれでいいのか?」
ヒルはふっと笑いをもらすと、円形のテーブルの上に散らばったままの本やら資料やらを片づけ始めた。カイムはその行動や、乱雑な本棚に視線を移動させる。
くっくっと嘲笑うかのように肩を揺らすカイムを、ヒルは軽く睨む。
「さっさと用件を言え」
「ふん、そう急かすな。おもしろい話を持ってきてやったというのに」
カイムは手に持っていた筒状に丸められた紙を、おもむろにヒルに差し出す。どうやら新聞のようで、その隅々に文字がびっしり敷き詰められている。ヒルはそれを受け取ると、言われる前に広げ、紙面に目を通した。
「聖王国の新聞か」
骨ばった指が紙面を摘み、一枚目を開く。
そこには、歌劇女優と思われる女性の不倫に関する記事が載せられていた。
「これがどうかしたのか?」
「どこを見ている。そこじゃない。もう一枚めくれ」
ヒルがもう一枚頁をめくると、一面に国王アルフレッドの写真と、"各国、各種族に公式の悪魔狩り依頼"の文字が掲載されていた。
「アルフレッド……」
ヒルは、低く名を呟く。新聞を持つ手に力が入る。
「それが今の王の名か」
ヒルは新聞の記事に目を通し始め、幾度となく使われている"悪魔"の二文字に口を結ぶ。
「この世界に星の数ほどある国や種族、全てに書面が行ったとは考えがたいが、それでも効果は十分だろうな」
カイムの言葉に、ヒルが続ける。
「手を打って協力しそうなのはマラカイデス大陸の国々、後は幾つかの民族か」
「こうなると敵はますます増えるな。人間の"フリ"をしないと表も歩けなくなる……おっと、今のお前たちは見た目は人間と変わらないな」
その発言を聞き、ヒルは不快に思ったが口にはしなかった。反論しても、意味が無い。つまらなさそうにカイムは新聞を取り上げると、頁を戻し、女優の顔をまじまじと眺めながらこう言った。
「さっさと王都を攻め落とせばよかったのだ」
「できるか。お前が言うような力押しが通用する相手ではない」
「なら、策を練るか?」
カイムが意味深に言うのを見て、ヒルは目を細める。
「お前に何か策がある。だからわざわざ俺の所に先に来たんだろ」
「察しがいいな、そうだ。無知なお前達に英知を授けてやる」
永き悠久の時を生きるカイムの経験や知識は半端ではない。だがそれを使うべきときに使うことは余りない。気が向いた時、思い立った時のみだけだ。それがまた、理解しがたい竜族の特徴ともいえる。
「だがあれにそれを成し得る器量があるかどうかだ」
「あれとはリリスティアのことか」
カイムは無言に頷く。
「ふん、察しのいい貴様のことだ。もうわかっただろう」
「だが、あそこは」
ヒルの顔が曇る。カイムの言う"何か"にためらいを見せた。
「リリスティアには俺から話してやろう。貴様はあの軍師に話をつけろ」
だがカイムはヒルの返事も聞かぬうちに、勝手な自己完結を以て部屋の扉へと向かった。
「おい待てカイム」
慌ててヒルが制止するも、カイムはその言葉に蓋をするかのように扉に手をかけ、勢いよく開けはなつ。そして、不安な表情を見せるヒルに、その赤く鋭い瞳を向けた。
「俺はお前とは違う。お前のように、無駄な時間を過ごす気はない」
荒々しく扉が閉められると、部屋の中はヒル一人だけになり、石造りのせいもありよりいっそう冷えた空気に包まれた。
「……だから、なんだ。お前と違って俺はこうするしか出来ないんだ」
彼にしか分からない、目には見えぬ楔が幾つも体の周りに打ち立てられているような。ヒルはそんな気分の中、悔しそうに顔を歪めていた。
* * *
「でやあああ!!」
勢いの良い若い男の声が、晴れ渡った空の元響き渡る。
ヴァイス王城のある一角、兵士達が訓練する為に造られた円形の訓練施設では、男二人が今まさに剣を交えていた。
訓練施設は、それほど広さはない。少し手狭と思えるそこで、男達は土煙を上げながら存分に剣を振るっていた。
若い男は重そうな両手剣をしっかりと握り、力一杯に剣をぶつける。そんな若い男の剣撃を表情一つ変えずに、受け止めていくもう一人の男。手に持つ剣は変わった形をしていたが、やけに細身で、ともすれば折れてしまいそうだ。だが、男は器用にそれを操り、金属音を響かせながら立ち回る。
彼らの周りにはその様子を見守る仲間達。安全を考慮し、訓練場をぐるり囲んだ観客席ともいえる場所で腰を据え落ち着いてはいるものの、目を逸らすことなく食い入るように見つめている。
「すっごいね~。あたし剣のことはよく分かんないけど、すごいのは分かるよ」
ベリーが感心した声を上げた。
「ヒルに習っただけあって、レイムは剣に関しちゃかなりの腕があるからな」
傍らで退屈そうに頬杖を膝についているライザーがぼやく。その台詞にベリーは目をぱちぱちと瞬きさせ、ライザーの顔を下から悪戯っぽくのぞき込む。
「キンパツは剣使えないの?」
ベリーは、まるで何かおもちゃを見つけた子供のように楽しそうに笑う。ベリーの思惑に気づいたライザーは、そっけなく言葉を返した。
「使えねえからなんだよ悪いのかよ」
どうやら剣を扱うことにはあまり慣れていない彼は、ベリーのからかうような言葉にも過剰に反応した。それが滑稽なのか、ベリーは口を押さえクスクスと笑った。
「笑うなバカが! ったく……ことあるごとに絡みやがって」
「あはは、ごめんごめん。そんな怒らないでよキンパツ~」
ベリーは全く詫びた様子も無く、ライザーの肩を二回ほど軽く叩いた。
「なら黙って見てろ! テメェがバカなこと言ってる間に、あの昴って奴にレイムが押されてきてんじゃねえか」
ライザーにそう言われ、ベリーがすぐにそちらに目をやると、確かにレイムが苦しそうな表情を浮かべ、防戦一方の展開になっていた。
「くっ……」
昴の振るう刀は軌跡を描きながら、レイムの防御の弱い場所を正確に突いていく。息が上がりつつあるレイムとは対照的に、昴はまるで人形のように無表情だった。そうして、喋りもしない。
普通ならば剣を打ちつける瞬間は咄嗟に気合いにも似た声が出るものだが、この昴という剣士は全く無表情のまま、刀を振るい続けている。
「あ、アンタなんで平然としてんスか!!」
「無駄口を叩くな」
やがて、頃合いを見たのか、昴はその刀を右下方から一際強く振り切った。
「うわっ!!」
強い衝撃が剣先からレイムの両手首に伝わり、びりびりとした細かい痺れに変わった。足を踏ん張りその場に留まろうとするも、衝撃に押されどうしても後ずさってしまう。
「病み上がりでそれだけ立ち回れられるのなら、上等だ」
昴はそう言って刀を鞘に納め、衣服の乱れを整えた。
よく見るとレイムの体にはあちこち包帯が巻かれている。見た目ほど傷は深くないのだろうか、明らかに負傷者だと見てとれるその外見にも関わらず、レイムはやたらと元気に両手剣を肩に担いだ。
「へへっ、褒められるとやっぱ嬉しいッスね!」
力が抜けたようにレイムが表情を崩す。それを見ていたライザーとベリーも、苦笑いを浮かべた。
「しかしいきなり来てヴァイスの傭兵になるなんて……何考えてんだあいつ」
あの後、昴がリリスティアに自信を傭兵としてここに置いてほしいと頼み込んだらしい。とはいっても、昴は世闇という種族の長だ。いきなりそんなこと言われてどうぞどうぞと言えるわけがない。と、誰もが思っていたのだが。
「いいんじゃないデスか~ってあの意地悪眼鏡が言うなんてね~」
手で丸い眼鏡の形を作り、ベリーが言う。何を考えたのか、レオンがその場で快諾したのだ。その時のリリスティアといえば、手放しに喜んでいた。
「あいつのことだから、どうせ上手いこと抑止力に使えそうだとでも思ってんだろうな」
「でもそれは本当かもね~。……しかもアメリのお父さんなんでしょ」
やり方としてどうかとは思うが、昴自身も何かしら考えがあってここに置いてほしいと言っているのは間違いない。それが娘であるアメリに関係することだということも、本人は隠す様子もない。
だが、昴の剣の腕は本物だ。活発に動いていたレイムとは違い、彼はその虚を見極め体力を無駄に減らさず戦っている。
腕は立つが猪突猛進なレイムにとって、昴から学ぶことは多かったのだろう。嬉々として昴に質問をぶつけているようだ。だが昴は短く答えるのみで、さっさと話しを終わらせようとしている。
「……あんな冷たくあしらわれてるのに、めげないね」
「あいつは昔からあんな感じだ」
呆れたようにベリーが言うと、ライザーは欠伸をしながら腕を頭の後ろに回し、腰を据えている椅子の背もたれに深くもたれかかった。
ちょうどその時、訓練場の扉を荒々しく開け放ち、その顔にかけた光る眼鏡を中指で押し上げながら、レオンが現れた。レイムと昴がいる場所より高い位置に造られた観覧席の更に上にあるその扉は、ギイと錆びた音を立て不気味に閉じた。
「おや、レイム君。こんなとこにいマシたか」
「れ、レオン軍師……」
レオンの声や表情は至って穏やかだったが、彼が何のためにここに現れたかを瞬時に理解したレイムは、青ざめながら後ずさる。
「おかしいデス。君には怪我が治るまで部屋で大人しくするように言ったハズなんデスが」
レオンはそう言いながら、観覧席の間に通る幾つかある階段をゆっくりと降り始める。
「その、寝てばっかだと体がなまって……」
「骨折数カ所に打撲、捻挫。果ては内蔵破裂しかけたヒトのいうことじゃ無いデス」
低くなるレオンの声にレイムはますます後ずさり、ついにはわざとらしく昴の背に隠れてみせた。それでも昴は表情を変えず、されるがままで。
「も、もう元気ッス! 竜族は回復が早いんスよ!」
「回復したかどうかは医者の俺が決めることデス。まったく、昴サンも無茶させないでクダサイよ~?」
レオンは両腰に手をあて、ため息を吐きながら昴を見る。
本当はレイムの方から昴に剣の相手を申し込んだのだが、彼は弁解することもなく、一つ返事をした。
「……ああ」
「ま、皆に剣の指導をしてくれるのはかなり助かってるんデスけどね。おかげで訓練の負傷者は増えてマス。もうちょっと手加減、どうデス?」
「そうか」
「いやいやそうかじゃなくて……まあいいか。ほらレイム君! さっさと戻ってクダサイ」
「はーいッス」
上から下に力が抜けたようにレイムはうなだれ、とぼとぼと昴から離れていった。
レイムが訓練場から出たのを確認すると、レオンはやっと笑みを見せ、残された昴に手を振りながらこう言った。
「じゃあ昴サン、他の兵士の訓練頼みマス」
「……次は誰だ」
昴は観覧席に居る兵士達にじろりと目を移す。そして余裕の面構えで、彼らに低く言い放った。
兵士達は恐怖に震え上がり順番を譲り合ったが、その内諦めたかのように何人かが彼の教授を受けに昴の佇む訓練場に向かった。
* * *
土臭い訓練場とはうって変わり、豪華な装飾が細部に渡り施された上品な部屋では、分厚い本とにらめっこをするリリスティアの姿があった。
「……という理由から、この国の政治は王と軍部総指揮官、軍師宰相の三人に委ねられているわけだ。分かったか? 元々そんなに人口が多い国ではないが、民の中にも代弁者を」
「ヒル……」
「ん?」
珍しく眼鏡をかけ、その片手に本を持ち、教師のような格好をしたヒルがそこに居た。
椅子に座り本を持つリリスティアの傍らで、まるで家庭教師でもしているかのように立ったまま返事をする。
「どうしたリリスティア。何か分からないことがあったか?」
「そうじゃなくて、その、少し……」
リリスティアは目の前のテーブルに積まれた山盛りの歴史書を睨んだ。そのうんざりした様子に気づいたヒルは、笑いながら彼女の持っている本を取り上げ、テーブルに置いた。
「はは、疲れたなら早く言え。無理して詰め込んでも身に付かない」
そう言われ安堵したのか、リリスティアは軽く腕を上げ伸びをした。その間にも、ヒルはあらかじめ用意されていた紅茶をカップに注いだ。その香りがリリスティアの鼻をつき、喉の渇きを訴える。
「歴史が古くて驚いた」
「だろう? まあ、敵が動きを見せない今が勉強の機会だからな。だが少し休憩だ。ほら」
カップを目の前に奨められ、リリスティアはそれを手に取り、ふうふうと息を吹きかけ一口飲んだ。
「美味しい」
「そうか、よかった」
ヒルが柔らかな笑みを見せると、リリスティアの頬は何故かうっすらと紅潮した。それは暖かい紅茶を飲んだ為なのかどうかは、分からない。
「お前は飲まないの?」
カップを持ったままリリスティアがヒルを見上げる。
「俺はいいよ。ゆっくり飲め」
ヒルはリリスティアの頭を子供にするように優しく撫でる。そして空いている椅子に腰を下ろし、長いため息をつきながら眼鏡を外した。
「目、悪かったの?」
リリスティアが問う。
「少しだけ。見えにくい時があるが普段はそうでもない」
会話が終わると部屋に沈黙が漂う。
その雰囲気に耐えられないのか、リリスティアはひたすら紅茶を口にし、あっという間に飲み干してしまった。
だが、リリスティアが落ち着かない理由はそれだけではなかった。二人がいる部屋の中は本棚が所狭しと並べられ、その中には小難しそうな本が寿司詰め状態。
気慰め程度に部屋の隅に置かれた観葉植物が唯一の暖かみ。後は、壁に掛けられた深い色味のマントに、普通よりも背丈の大きなベッド。
ふいにそれが目に入りリリスティアは咄嗟に目を逸らす。すると丸いテーブルを挟んで正面にいるヒルがきょとんとした様子でこちらを見ていた。
「お前の部屋は本しか無いのね」
「まあな、なかなか殺風景だろう。だが落ち着く」
ここは、ヒルの私室だ。リリスティアはあの戦いの後、王国に動きがあるまでの時間を利用し、必要な勉強を始めたのだった。
「王国軍に動きは?」
「いや、まだ目立った様子はない。とはいっても、今我が国には諜報部が無い。情報を制することができない状況なのは致命的ではあるが……自然の要塞とも言うべきアルゲオ山脈と霧の谷があることが救いだな」
確かに、ヴァイスに攻め入ろうと思えばまずあのアルゲオ山脈を越え、さらに大平原を抜けなければならない。見つからずに近づくなど、現実的に考えて無理な話だ。
だが、王国軍が引き上げたとはいえ、まだ戦いは終わってはいない。
リリスティアは以前から感じていた焦りを消し去るためにも、進んで勉強を始めた。勉強だけではなく、王としての立ち居振る舞い、何もかもに意欲的に学んでいる。
「しかし、お前は飲み込みが早いから助かる」
そう言われ、リリスティアは再び眉を寄せた。
「その代わり、政治はレオンとお前に任せきり。それが嫌」
早く、役に立ちたい。剣にしろ学にしろ、自分は中途半端なのだから。
剏竜であるヒルと誓約したにもかかわらず、リリスティアは王としての力を使いこなせてはいない。そもそも、それをどうやって扱うものなのかすらリリスティアは分からない。それだけが、王たる証にも関わらず。
「力を自在に使えるようになりたい」
「え?」
突然の話の切り換えに、ヒルは思わず目を丸くする。
「あの日発揮したような力を自由に扱えるようになりたいの」
「……ふむ」
するとヒルは、テーブルに積んであった歴史書の中からひとつを取り出し、おもむろにページを開いて見せた。
開かれたページにはおとぎ話の挿し絵のような竜の姿。光を纏い、天空を飛翔している姿が描かれている。ヒルはそのページに書かれた文章の一節を読み上げ始めた。
「竜は王と共に。竜は竜にして竜にあらず。刻印を受けし使者也」
ヴァイスの王は代々不思議な力を使いこなせる。だが力を使うには剏竜との誓約が必要だ。剏竜を従えて初めて、王は王となる。
「どんな力が使えるかは、王によって違う。誓約の儀式の時にその本質が分かる。お前は、枯れた花を蘇らし、大地に力を与える……元に戻す力だろう」
「私の父はどんな力を持っていたの?」
すると、ヒルは微笑んだだけで答えなかった。だが、なぜかそれはいつもの笑顔ではないことにリリスティアは気付いてしまう。
聞いてはいけないことだったのだろうかと迷っていると、ヒルは静かに口を開いた。
「ジオリオ陛下が力を使ったのはたった一度だけだった。常に、剏竜が王を支えていた。出来れば、俺もそうありたいものだ」
「そう……」
これ以上は、聞けなかった。ヒルの横顔はどこか寂しそうに、本の表紙を見つめていた。
「自在に使えるようになるのは相当難しいんじゃないのか」
まごつくリリスティアに、ヒルはあっけらかんとした様子で答えてみせた。
「魔法と同じだ。念じればいいんだ」
「私、その……魔法は使えなくて。試してはみたんだけど、昔からなぜか全然使えないの」
リリスティアがそう言うと、ヒルは思わず声をあげて笑った。
そして、目の前で顔をしかめるリリスティアをなだめるようにこう言った。
「教えてやるから」
ヒルは部屋の中を見渡し、その隅に置かれた観葉植物に目を留めると「これがいいな」と言い立ち上がった。
ヒルはその観葉植物の鉢の部分に手をかけ、部屋の中央に移動させた。彼の腰のあたりまで背丈のある植物は、ずいぶん生い茂っているもののどこか物足りない。葉の青みも曇っているように見える。
「まさか、これを再生させるとかいうんじゃ」
「ああ、きっと一番簡単だ」
何がどう簡単なのだ、とリリスティアは返したかった。
魔法を学んだことが無い彼女にとっては、そもそも念じるということがどういうことなのかすら分からない。
リリスティアが一人頭の中で様々な理論を打ち立てていると、ヒルが言葉を発した。
「出来るさ。順に説明する」
ヒルはそのままリリスティアの背後に回ると、彼女の体の左右からその手を植物に向けてつきだした。合わせるように、リリスティアも手を前に出す。
「うまくいけば良いものが見られるかもな」
「良いもの?」
「あとのお楽しみだ」
ヒルの方に顔をうねらせると、彼は優しく微笑みを返す。
リリスティアは妙なくすぐったさから、素早く視線を逸らした。
「目を閉じて」
言われるがままにリリスティアは瞳を閉じた。
視界が闇に染まると、まるで真っ暗な部屋に一人いるようだった。だが、その闇の中に蒼く光る何かが在るのを感じた。
その光は小さく燭台の灯よりも弱々しかったが、やがて段々とその質量を増し、こちらに近づいてくる。眩しくはない、どちらかというと木漏れ日のような柔らかい光だった。
暗闇の中、光がリリスティアに触れた。すると体の中に、急に強大な力が溢れ出てくるのをリリスティアはリアルに感じた。血液が異常に早く流れているようで、高揚する心の臓。
鼓動が大きな音を立て始める。
「そう、そのまま。その力をこめろ」
リリスティアは熱くなる自分の手に意識を集中させる。再生の力だといいながら、それはまるで炎を中に宿しているようだった。
「怖がらなくていい。それはお前の力だ」
ヒルがそう言うと同時に、リリスティアの手から淡い蒼の光が滴となって植物に降り注いだ。その滴が植物に触れると、曇りがかっていた緑は青々とした色に変わり、太陽を初めて見つけたかのように勢い良く上に向かって成長する。
恐る恐る瞳を開けたリリスティアは、目の前の植物の変化に気づき感嘆の声を上げた。
「すごい!」
「な、出来ただろ」
リリスティアが最も驚いたのは、その植物に真白で大きな牡丹のような花が咲いたことにだった。頂上に凛として咲き誇り、花弁の中央には美しい丸い宝石のようなものを乗せている。
「良いものって、これのこと?」
「ああ、久しぶりに咲いたのを見た」
リリスティアは花をまじまじと見つめる。以外に花が好きなのか、やけに興味津々だ。
「欲しいのか? ミリアに言って活けてもらおうか」
ヒルが聞くと、リリスティアは首を横に振った。
「このままでいい。綺麗だから」
何気なくそう言ったリリスティアの台詞に、ヒルは何故か顔を曇らせた。
「……そうか」
ヒルはリリスティアの頭に手を置いた。優しい顔で、リリスティアを見る。
リリスティアは、今まで出会った誰にも、こんな表情を見た事はなかった。見つめるほどに、胸が詰まる。
「なんでそんな顔をするの?」
するとヒルは、僅かに笑みを浮かべた。
「お前を見ていると、自然とこうなる」
「何故?」
「さあ。けどリリスティア、見てみろ」
ヒルはおもむろに、鏡を指差した。
壁にかけられた、小さな丸い鏡。ヒルはそれを取ると、リリスティアに手渡した。綺麗に磨かれたそこに、リリスティアの顔が映ると、ヒルは囁いた。
「お前も、同じような顔をしている」
そこには、頬が弛んだ、楽しそうな自分。
リリスティアは急に恥ずかしくなり、鏡をヒルの胸に押し付けて隠した。自分に表れるこの妙な反応は何なのだろうか。
彼が笑うと、顔が熱くなる。これも、誓約したから表れるものなの?
リリスティアが彼の顔をまともに見れずにいると、ヒルはいつもの優しい笑みを浮かべた。
そうしてる内に、ヒルはその緋色の瞳をまっすぐリリスティアに向けた。その意図が分からないリリスティアは、じっと次の言葉を待っている。
こんなに近くで、正面から見つめ合うことは今までも何回かあったが、今日はやけにリリスティアの胸が高鳴る。彼の部屋にいる所為で緊張でもしているのだろうか。
いや、彼の部屋だからといって何を緊張する必要があるのだろうか。
ヒルとリリスティアの関係は、王と総指揮官。または、ヴァイスの民と剏竜。それ以外に何もない。リリスティアは、息が詰まりそうでどうしようもなかった。
やっとヒルが語り始めようとした頃には、リリスティアはまるで子供のように極端に顔を逸らしていた。
「そういえば、今まで、ずっと一人だったのか? その、セイレがいなくなってから」
「仮の父と母とは、折り合いが悪かったから」
ヒルは、また少し顔を曇らせる。
「よく頑張ったな」
重く響くその一言。
リリスティアは少し思案した後、ぽつりと呟いた。
「寂しいとか、辛いとかは分からなかった。一人が当たり前だったし、姉さんを探すことに必死だったから。別に、頑張ったなんてことはなかった。いつも、自分の好きなように行動していたし」
それ故に、一人だった。
何も持たず、何も積み上げず。ただ毎日を消化することに、必死だった。
「でも、今は少し寂しいかもしれない」
「そうなのか?」
「この国は、人がたくさんいるから」
次の瞬間。
リリスティアの視界が真っ暗になった。ふわり、と頬に当たる柔らかな衣服の感触。反して、強さを持った鍛えられた体の感触。頭と背に回された、大きくて優しい両手。まるで羽毛に包まれたような温もりが体全体を浸食していくと、同時に意識もまた侵されていくのを感じた。
「ちょ……ちょっと!」
抵抗をしているつもりなのか、リリスティアは自分を包み込むその体を押し返そうと身をよじらせる。だが、彼の腕はリリスティアの華奢な躰をしっかりと抱きかかえ、自分の胸の中に支配したまま離そうとはしない。
何故か力が入らない自分の躰。頭では拒否しているのに、躰が言うことを聞かない。まるで、こうされて喜んでいるかのように。
ヒルは黙ったままで、それが余計にリリスティアの何かを焦らせる。
「ヒル……は、離して」
「ようやく、守れる」
「え……」
耳元で囁かれ、リリスティアの躰がぞくりと震えた。
「この腕で……近くで、お前を。大切な、王の子を」
「な、何を……」
ヒルは、その腕の中でもがくリリスティアをさらに強く抱きしめた。見た目にはあまり分からない、筋肉質な太い腕がリリスティアの体に食い込む。完全に二人の体と体が密着した為、リリスティアはもう身動きが取れなくなってしまった。
ヒルの胸にぴったりくっついてしまっている顔をなんとかよじらせ、リリスティアは彼を見上げるが、紅い前髪が垂れ下がっている為、その表情がよく分からない。
「ヒル、あの……」
再度小さく彼の名を呼んでみる。すると、ヒルはやっとその腕の力を緩め、リリスティアの背中に回していた両手を二の腕に滑らせ、距離を置いた。
「悪い。けど、本当に嬉しいんだ。使命を果たせるから」
そう言うヒルの瞳は、申し訳なさそうに歪んでいた。
それに、何故か辛そうに見えるのは気のせいか。リリスティアはどう答えていいか分からず、無言で頷いた。二の腕に置かれたままの手のひらは熱く、自然とまたリリスティアの頬が紅潮する。
「お前は私に軽はずみな行動を取りすぎる」
「え?」
「変なことを言ったり、今みたいに抱きしめたり。そんなことをするものじゃないでしょう。そ、その……王と家臣……なのに」
言いながらも、リリスティアの顔はますます熱を帯びる。
ヒルはそれの言い訳を探す為黙り込むでもなく、すぐに言葉を返した。
「王と家臣なら、抱きしめ合ってはいけないのか?」
「そうではなくて!」
「普通だろう。お前も、いつでもしたい時に触れてくれていい。俺に」
「はぁ!?」
リリスティアはつい素っ頓狂な声を上げてしまい、気が抜けたように目を丸くした。対してヒルは口元に意地の悪い笑みを湛えている。
含み笑いを浮かべるヒルに、リリスティアは嫌悪感いっぱいに眉をひそめた。初めて会った時に見たような意地の悪い笑みに、心が苛立った。
「しかし、背の割には本当に細いな。朝飯をちゃんと食べないからそうなるんだ」
ヒルは片手をリリスティアの口元にやり、そのまだ汚れのない唇をついっと撫でた。その仕草をする時のヒルはどこかカイムにも似た意地の悪い顔で。
あまり冷静ではない心境のリリスティアは瞬時にその手を思い切り払いのけた。きつく払われたヒルの手が僅かに赤みを帯びる。
「何を見ている何を!」
「体を見ていた」
即答されると何故かますます腹が立つ。リリスティアは彼を睨み倒す。
「怒るなリリスティア。そんなに嫌だったのか?」
ヒルが僅かに悲しそうに眉を下げるものだから、リリスティアは睨みながらも返す言葉に詰まる。
「気にいらない!」
「気にいらない?」
「知らないから分からない! その……お前みたいに経験豊富な男には分からないだろうけど!」
リリスティアは頬を染めたまま、まるで自分が自分ではないような感覚に襲われていた。胸の中でやけに五月蠅く響く鼓動が耳障りだ。片手でその胸を抑えてみても、音が小さくなる気配はない。
ああ、鏡を見たい。私は今一体どんな顔をしている?
こんな私は知らない。私はもっと、冷めた人物だった筈。
「いい加減にして……は、恥ずかしい……から」
リリスティアはその両手を胸の前で組み合わせ、絞り出すような切ない声でそう発した。
以前の彼女を知る者が、今の彼女を見たならきっと疑念に満ちた声を漏らすだろう。何故なら今ここにいる彼女は、本当にどこにでもいそうなくらい、まるでかよわい女性にしか見えないのだ。
気恥ずかしそうに目を逸らし、頬を紅潮させ、自分を守っているかのような体勢で。
「見るな!」
「そう言われてもだな」
「勉強は終わりだ! 私は戻る!」
精一杯に毅然とした態度をとろうとしているのだろうが、その表情のままでは棘のある台詞も効果が無い。
「リリスティア、聞け」
部屋を出ようとするリリスティアの前にヒルが立ちはだかり、扉をふさぐ。
「わ、分かったからもう退いて。私は部屋に戻る」
「リリスティア」
「退け! これは、お、王としての命令だ!」
リリスティアは感情のままに言葉をぶつけた。
王という立場を利用してでも、今はここから離れたい。こんな自分を認めたくはないから。
彼から離れさえすれば、きっと元の私を取り戻せる。だが、そんな簡単な物ではないと、頭の隅でシグナルが鳴っている事に彼女は気づいていただろうか。
それでも動かないヒルを押し退けるようにして、リリスティアはその後ろの扉のドアノブに手をかけた。早く早くと急かす心のままに、それを押そうとした刹那。
彼がその扉の上部に手のひらを思い切り叩きつけ、大きな音を鳴らした。それにより驚いたリリスティアの動きは静止した。音の余韻だけが残る沈黙した部屋の中、ヒルの穏やかな声が響いた。
「お許しください、陛下」
「な……」
「抱きしめずにはいられなかったのです。陛下が、そんな顔をなさるから」
その一言が、リリスティアの何かを縛り付けたかなど言うまでも無かった。
あとはもう、ただ必死に扉を開けて、駆け出すことしかできなかった。
逃げたというのだろうか、これは。
何から逃げたのかは分からない。だけど、私は現に"彼"の前から逃げるように走ってきたじゃないか。
熱が冷めやらぬ頬に右手を当てたまま、リリスティアは城の中のどこへ続くとも分からない回廊を歩いていた。太陽はまだ高く、昼間の所為もあってか城の中は割と人気が多い。すれ違うのはあの戦いで共に戦地に赴いた兵士や、ミリアが着ていたような衣服を着た女性。皆リリスティアを見ると頭を下げていく。
「慣れない」
与えられた名前に未だついていけてない自分が歯がゆいのか、リリスティアは自然と早足になった。そんな自分に、みんな甘すぎるのではないか。
リリスティアの頭にヒルの顔が浮かび、また頬が熱くなった。
「……意味が分からない」
リリスティアはそのまま窓枠に顔を伏せこんだ。 その瞬間だった。
「わっ!!」
背後から突如大声がしたかと思うと、同時に両肩を強く叩かれた為、リリスティアは飛び上がった。油断していた為、驚きに満ちた顔を見せる。
「はっはー、してやったりッス!」
「びっくりした……レイムか……」
リリスティアが訝しげに振り返ると、悪戯が成功した事を満面の笑みで喜ぶレイムが居た。体中至る所に真新しい包帯が巻いてあるが、怪我人らしくない動きを見せる。
「何してたんスか?」
「別に……」
「女王様がんなとこでボーッとしてちゃダメッスよ!」
「貴方こそ、怪我はいいの?」
話を変える為、リリスティアは彼の体に目をやった。するとレイムは腕を上に上げ、ぶんぶんと振り回す。
「どうッスか!?」
「無駄な心配だったみたいね」
とことん呆れた顔でリリスティアは言ったのだが、レイムはまるで気にした様子はない。
「さっき訓練してて軍師に連れ戻されたんスけど、なんか呼び出されてどっか行っちゃったから抜け出してきたッス! よかったら、後で一緒に訓練場に行かないッスか? 楽しいッスよ!」
「そうね。いいかもしれない」
このレイムという男の底抜けの明るさは、リリスティアには眩しすぎるものだった。
何故なら彼には影が見えない。
ベリーとは違い、心のままに発言し、行動している。相手がどう思おうが、構わない。いつまでも引きずらない。気にしない。
ただ単純なだけなのだろうが、それは"純粋"と紙一重のものだ。全く持って竜族の性質は理解しがたい、とリリスティアは思った。
「ああそうだ! あの、陛下には心配かけて申し訳無かったッス。」
急にレイムがしょげた表情で、頭上に上げていた手を下げた。
「謝ることは……」
「でもおかげで陛下を守れたッス!」
レイムが心から嬉しそうに微笑む。橙色の髪色と相俟って、太陽のように。
「私にもっと指揮能力があれば、ああはならなかった」
「それは俺も同じッスよ! でも、誰も死なない戦いなんて無いッスよ」
それは、かつて一度は自分の頭の中で思ったことのある台詞なのだが、他人に言われると、やけにダメージを喰らう。
死者が出るのが当たり前、それが戦争。 それを割り切ってやったのだが、リリスティアは、どうにも捨てられない自分の甘さが嫌になった。たとえ攻められたから反撃した、と言っても、第三者から見ればどちらも好んで剣を取った、としか見えないだろう。
「レイムはなぜ私によくしてくれるの?」
「女王様は不思議な質問をするッスねえ。う~ん」
レイムは人差し指で頬を掻いた後、リリスティアの横に移動し、窓枠に背を向けた状態で体重を預けた。そしてリリスティアの顔をのぞき込むように背を屈めた。
「俺がなんでこの国にいるか、聞いたッスか?」
「いいえ、貴方のことは、カイムの弟ということしか聞いていない」
首を横に振るリリスティアを見て、レイムはあっけらかんとした様子で話し始めた。
「俺、昔……っつてもかーなーり昔ッスけど。ここに捨てられてたんスよ」
無表情ながらリリスティアの顔色は僅かな変化を見せる。それを見越していたかのように、レイムは慌てて言葉を続けた。
「ああ、人間と同じに考えちゃ駄目ッスよ! 竜ってのは、弱肉強食の世界ッスから。生まれた時に体が弱かったりすると、ふつう~に捨てるんス。そのまま竜の世界にいても、殺されるだけッスからね」
リリスティアは到底理解が出来なかった。
だが確かに今の彼の姿は人型であって、本来の姿はあの中庭にいる彼らのように、牙の生えた恐ろしい竜の姿。
勘違いしてしまいがちだが、彼らは"竜"という未だ未知の部分が多い種族なのだ。
「ははっ、俺よっぽど弱かったんスよ」
レイムは情を誘うような喋り方はしていない。むしろ、笑い話のごとく明るく喋り続ける。別に悲しみを押し隠しているわけでもなく、過去の出来事をただ淡々とリリスティアに話している。
「けど俺が生きてることを知ったカイムさんが迎えに来て……ちょっとだけ、竜の谷に居たんス」
「じゃあカイムが来るまで、ここでどうやって生きていたの?」
「決まってるじゃないスか! ヒルさんが育ててくれたんスよ!」
「ヒルが?」
「子供の扱いには慣れてたみたいで、死にかけてた小さい俺を一生懸命看病してくれたそうッスよ」
「へえ……」
小さな竜を抱くヒルを想像すると、少しおかしくもあった。
「あー……そんで、何の話しだっけ。あっ、つまりッス。俺が迷い無く戦えるのは、ヒルさんやリリスティア陛下が好きだからッス!」
レイムは照れくさそうに頬を緩めた。
その横顔は、鍛えられた体に反して、まるで少年のように幼い。
「あ! 変な意味じゃないッスよ!」
「ふふ、わかってる」
「へへっ! それに、恩人であるヒルさんが何より大事にしてるリリスティア陛下の為なら、俺は何も迷うことなく突っ走れるッス!」
「……レイム」
「あ、今笑ったッスね。もっとそんな顔したほうが皆喜ぶッスよ?」
人差し指で鼻をはじかれ、リリスティアは目を丸くした。
自分のことを陛下と呼びながらこのような振る舞いをするレイムだったが、その笑顔を見ているとリリスティアは怒る気にもなれなかった。
まさかレイムとこんな話をするとは思わなかった。彼はその風貌の為、ふざけているように見えるが、言っていることは意外にもまともだ。いつもそうだ、とは言い切れないが。
「ずいぶんと仲が良いな」
その空気を一瞬にして破壊するかのように、彼が現れた。
「カイム」
彼が現れると、回廊から人気が無くなる。
嫌っているわけではないのだが、彼を恐れてのことだ。
視界の端で、兵士や女官達がそそくさと距離を取っていく。
「仲良いッスもん、ねーリリスティア陛下」
「そ、そうなの?」
そう言いながら、レイムにさりげなく肩に手を回されたが、リリスティアはなんとも無かった。レイムもまた、ただ友好的な意味でそうしているからに過ぎない。顔は、いつもの明るい笑顔で。
「ほう……レイム、お前もえらく身分違いな相手を好むようになったな」
「あのね~なんでもカイムさんの主観で見ないで欲しいッス」
「俺に文句を言う暇があったらさっさと病室とやらに戻れ。あの軍師が手に術用ナイフを持って歩き回ってる」
「なんっでそれを先に言ってくれないんスか!!」
それを聞いたレイムは一瞬にして青ざめ、リリスティアから手を離すと左右を見渡し、カイムの歩んできた方向へとバタバタと騒がしく走り去った。
「落ち着きの無い奴だ」
ほどけかかった包帯をたなびかせ走り去るレイムを目で見送りながら、カイムは溜息を吐いた。
そして、その反対側で自分の顔をやけにじろじろと見てくる者に気づくと、不敵な笑みを浮かべた。
「どうしたリリスティア。俺の顔に見惚れたか」
「違う。似てないなと思って見ていたの」
「レイムとか? ……ふん」
即答されカイムはつまらなそうにしていたが、その長い髪をかきあげると、レイム同じくリリスティアの横に位置を取った。ふわり、女物の香水の匂いが鼻をつく。カイムの体は、いつも違う匂いがしている。相手となる人物は、余程きつく香水をつけているのだろう。
「なに……」
「レイムには笑顔を見せたくせに、俺には見せないのか?」
「レイムは根は紳士だ。お前と違って」
眉を寄せるリリスティアを見て、カイムは益々増長する。
「なら、俺も紳士に話すとするか」
不意にリリスティアは片方の手首を掴む。
「言ってる側から……離せ!」
「少し確認したいことがある」
有無を言わさず、リリスティアはカイムに連れ去られた。抵抗を試みたが、竜の力は圧倒的で、手首に跡が残ってしまった。
連れてこられた場所は、どこか寒々しい回廊の先。
行き止まりになったその先に見える扉は、ほこりが被っている。
「ここなら話の邪魔が入るまい」
カイムはその扉に目をやる。
「話とは何?」
少し距離を置いた所からリリスティアがそう言うと、カイムはその瞳だけを彼女に向けた。
彼の瞳は同じ赤でもヒルとは違い、まるで薔薇のような真紅だった。
「この戦いについてだ」
戦いと聞いてリリスティアの顔が僅かに強ばる。カイムはそのまま話を続けた。
「お前は同盟調印式の時にこう言ったな。戦いを止めたい、自分達が悪魔でないことを知らしめたいと」
「ええ」
「戦いを、どう止めるつもりだ?」
途端に、カイムの言葉尻が強くなる。
「王国軍はまた着実に戦力を増強させている。次の進攻が来る日はそう遠くはないだろう。その時、どうする?」
「それは……」
即答できないリリスティアは、彼と合わせていた目をふいに横に逸らした。そんな彼女を追い立てるように、カイムが言葉を被せる。
「レオンやヒルに任せるか」
「なっ……」
「そんなことで、戦いが止められるのか? 戦争は子供のままごととは違う。今まさにそこで起きている現実だ。現に、先の戦いの影響は世界の至る所に出ている。良い意味でも、悪い意味でもな」
窓から流れてきた風が、カイムの赤く長い髪を揺らす。強い口調で語る彼は、まさに竜族の王たる威厳を兼ね備えていた。
「お前は責務を果たせるのか?」
容赦ないカイムの言葉がリリスティアに突き刺さる。彼も王として幾多の戦いをくぐり抜けてきたのだろう。話の内容から、それは容易に伺えた。
悔しい。
それは、カイムにそう言われたからではなく。カイムの言葉に、そうとしか返せない自分が。
彼の言う言葉は、すべて図星で。
これからまた戦いが始まっても、ヒルやレオンのように動ける自信がまだ無い。いくら勉強していても、それは紙の上での事。
リリスティアには力や技はあれど、"王"として必要不可欠な"統率力"が欠けている。今まで自分勝手に生きてきたのだから、当然といえばそれまでだ。だが、もうそんな甘えは許されない。
彼女は国の復興の責任をその両肩に乗せた"ヴァイスの女王"なのだ。
大いなる責任を乗せた両肩は、あまりにも頼りなかった。
「ヒルに甘えるなリリスティア」
いきなり彼の名が上がり、リリスティアは顔を上げる。
「なんだと?」
「ヒルは、お前を守るためにある。守り導き誘う。そう位置づけられている存在だ」
カイムの言い方はどこか曖昧だが、リリスティアにもなんとなく意味はとれた。
「ヒルが私にはあまり厳しくないのは知ってる」
彼は、優しい。
冗談を言いながらも、真綿で包むように彼は自分に接する。言葉も、行動も全てそう。
「だけど甘えるつもりはない」
「ほう? だが、俺にはどうも、お前は奴に対してよからぬ情を抱いているようにしか見えないのだがな」
「な……っ」
カッ、と瞬く間にリリスティアの頬が染まった。面と向かって指摘され、みるみるうちにリリスティアの心中に波が立つ。
「違うか?」
「違う!」
何を言い出すのか、この男は。ヒルとは、まだ会って日も浅い。
カイムが妖しく笑う。だがリリスティアはいきり立って否定をする。
「私とヒルは王と臣下だ!」
それは本心か、体裁か。だがどちらにせよ、リリスティアはヒルの事になると、妙に感情が高ぶる。拳を握りしめながら、自分の言った台詞に一人心を痛めていた。
「そうか、ならいい」
たきつけた割にあっさりと引くカイムに、リリスティアは気が抜けたように握りしめていた手の力を抜いた。
「今の言葉、忘れるなよ」
「どういう……」
「気にするな。お前の意志は確認出来た」
「……何を」
「ふっ、それでいい。情など抱いたところで、貴様は王。いずれ正統な身分の男を番にするのだからな」
カイムは満足げに鼻を鳴らし、リリスティアに近寄り髪を一房手に取った。前よりもまた長くなったその髪は段々と青よりも銀の色味が増している。
「それを、わざわざ言いに来たのか」
震える声が、辿々しく言葉を紡ぐ。
「いや? それだけではない。お前が真に王としての責任を果たす気があるなら、いい知恵を貸してやろうと思ったのだ。それが本題だったんだが、いつの間にか話がそれていたな」
意地悪そうに笑うカイム。きっとわざとそうしていたのだろう。楽しくて仕方が無いといったように目を細めている。
「何が紳士的な話……」
小さく恨めしそうにリリスティアはぼやく。胸に刺さる針の痛みに耐えながら。
「リリスティア、王国軍との戦いに勝つ為に、こちらにまず必要なのは数だ」
気を取り直したカイムが、先ほどの事などなかったような素振りで次の話題へと駒を進めた。
頭の切り換えが早いのは良いことだが、リリスティアにとっては言われっぱなしであまり気分が良くなかった。だがカイムはフォローすることなく、話を続ける。
「俺たちが控えていたとはいえ、今回の奴らの撤退は『助かった』といったところだったな」
そうだ、誰もがあの後そう言った。 異常なまでの神鉄の魔導師の強さに加え、やけに統制のとれた指揮系統は、ヴァイス軍に痛恨のダメージを与えた。にも関わらず、やるだけやった後にそそくさと軍を撤退させた王国軍。
まるで、報復戦争とは名前ばかり。それよりも何か他に目的があったかのようだった。
「リリスティア、ユアの一族を仲間にするがいい」
急にカイムの切り出した言葉に、リリスティアが首を傾げる。
「知らんのか」
馬鹿にしたように言われ、リリスティアはムッと眉を寄せた。
「知らない」
「ユア・ラムダ王国……有翼の民の国だ」
リリスティアは頭の中の辞書から必死にその単語を探してみたが、どうにも思い当たらず無表情のまままた首を傾げる。
「……聞いた事がない」
「だろうな。エルフ同様、世間では未知の民に分類されているからな」
「なのに何故お前は知っているの」
「千年竜だからな」
そういうカイムの顔が、僅かに曇ったのをリリスティアの翡翠の瞳が捉えていた。
* * *
「ユア・ラムダ!?」
素っ頓狂な声を上げたのはベリーだった。椅子から腰を浮かし、細長いテーブルを挟んで右斜め前に座ったレオンに、その大きな目をこれでもかと開いて見せていた。
会議室には、ヒルを上座に、続いてレオン、ライザー、レイム、ベリーが、会議をする為に据えられた細長い机に着席していた。
だが、ヒルの横にある王が座るための席は、空いたままで。
「あれっ? ベリーちゃん知ってるんデスか」
「知ってるもなにも、ユア・ラムダはどの王国も重要視してる一族だもん!」
「はっ、知識だけは一人前か」
ベリーの向かい側に座ったライザーが意地悪く言い放つ。
瞬間、ベリーが小さく指を立てると、彼の顔めがけて水の塊が勢いよく飛んできた。
「っ冷て! 何すんだこの阿呆!!」
洗髪した直後のように濡らされたライザーは当然牙を剥く。
「キンパツいちいちうるさい」
「しょうもないことで魔導術使ってんじゃねえよ!!」
「ま、まあまあ、二人とも。喧嘩はやめるッスよ。ライザー卿も大人げ無いッスよ」
ベリーの横に座っているレイムが、立ち上がった二人を笑顔でなだめるも、それは益々ライザーの怒髪天を突いただけだった。
「ああ!? てめぇどっちの味方だレイム!」
「俺は可愛い子の味方ッス!」
即答するレイムの可愛い発言を聞き、ベリーは勝ち誇った顔を見せた。
会議の最中だというのに、三人がああだこうだと騒ぎだしても、ヒルは怒った様子も無く見ている。むしろ、満面の笑みを浮かべている。が、それがどういった意味の笑顔なのか知っているレオンだけは、手元にある本で口を押さえたまま無言で冷や汗を流していた。
「話を進めたいんだが?」
ぴたり。音楽が止められたかのように会議室の中が静まりかえった。
先ほどまで威勢の良かったベリーとライザーとレイムだが、言葉の主にゆっくり視線をやると、三人同時に青菜に塩をふりかけたかのように大人しくなった。
ヒルはテーブルに頬杖をつきながらやっといつもの笑みを取り戻した。
「良かった、じゃあレオン。続けてくれるか?」
「ハイハイ」
レオンは軽く咳払いすると、持っていた本…というよりは資料の束といったほうがしっくりくる物に目を通しながら、"ユアの一族"について語り始めた。
「彼らは一様にして背中に翼を持ち、空を飛ぶことが可能です。正当な王の一族は純白の羽根を持ち、また不思議な力を持ちマス」
ユア・ラムダ。正式名称はユアリス・デュ・ラムダ・ロワイアム。
その背に真白の翼を持ち、強い力を持ちながらもけして他を脅かすことは無く。世界でもエルフと並んで不可侵とされてきた種族だ。彼らの同族として一般的に"有翼人"とされる者達がいるが、その翼の美しさがまるで違うという。誰もがその美しさに心を奪われ、戦意を無くす。古代に栄えた強国の武王でさえ、彼らの姿を目にすると剣を降ろしたという。
そんな種族を、仲間にしようというのだ。
「不思議な力ッスか?」
レイムが首を傾げる。
「ハイ。彼らが持つのは『魅了(エピカリス)』と言われる術デス」
「人の心を操れるのかよ」
ライザーが興味深げに尋ねる。
「詳細はなんとも。ユアは超排他的で、これはエルフや世闇の比じゃないデス」
「昴は仲間になってんじゃねえか……。しかしそんな奴らを仲間にしようなんて、カイムの馬鹿殿も何考えてんだ」
「ライザー君、一応でも竜の王様に向かって馬鹿はやめなさい馬鹿は」
「簡単じゃないよ~? あの国は鎖国してからかなり長いし……」
ベリーが心配そうに眉を下げるのを見て、ヒルが穏やかに声をかける。
「確かにな。だが、それはリリスティア次第といったところだ」
「リリスティアの~?」
ヒルは黙って頷く。そんな二人の話に割って入るかのように、レイムが元気よく手を挙げた。元気なのはいいが、先ほどより包帯が増えているのは気のせいなのだろうか。
「リリスティア次第っつったなヒル」
ふと、ライザーが口を開いた。
「ああ」
「まさかリリスティアを直接あそこに行かせる気なんじゃねえだろうな」
「そうだが?」
至って冷静に答えるヒルに、ライザーは声を荒げた。
「阿呆か! リリスティアは王だぞ! しかもこんな状況で他国に行かせたら何が起こるかくらいわかんだろ!」
「ライザー君、落ち着いて」
いきり立つライザーをレオンが困ったようになだめるが、彼はそれを袖にしない。
確かに、長年悪魔として認知されてきたこの国には外交というものが全くといっていいほど無い。竜族との繋がりを除けば、ほとんど陸の孤島状態の国だ。これではいずれ、数でやられる。
孤立した国の末路はどんなものか、少し考えれば分かることだった。
だから、強力な味方がほしい。
その相手として、カイムがヒルに提案したのはユア・ラムダなのだ。
「だいたい王と総指揮官である二人がいっぺんに国を空けるなんてふざけてんのか」
「その心配ならいりまセンよ」
「あ?」
レオンがその丸く小さな眼鏡を中指で押し上げながら、含んだように笑った。不可解なその言動に、ライザーは頭の上に疑問符を浮かべる。
「俺はここに残る」
穏やかで余裕のある表情ながらも、僅かに瞳を歪めながら、ヒルが答えた。
「はあっ?!」
それを聞いてやけに驚嘆したのはベリーだった。
「何驚いてんデスか。当たり前デショ」
「そ、そうだけどさ」
ちら、とヒルを伺いながら答えるベリーの言葉に、レオンは公私の線を引くように答える。
「護衛には他の者をつけマスよ」
「じゃあユア・ラムダには誰がついてくッスか?」
レイムが興味津々の瞳でレオンに問う。
「レイム君行きたそうデスね~」
「行きたいッスー!」
「はいはい、ですがもうメンバーは決めてマス」
「ね、ね、誰がリリスティアについてくの?」
レイム同じく興味津々のベリーが、爛々と目を輝かせる。
「ユア・ラムダとの交渉にピッタリな選考をしましたよ。人選は――」
* * *
「――シャジャと、ライザーとお前?」
城の回廊を歩いていたリリスティアは、前を行くカイムに向かって驚きの声を上げた。
「ああ、出発は早い方がいい。早朝がいいな」
「ユア・ラムダに私が直接協力を願いにいくのは分かったけど、何故お前がついてくるの? ヒルは?」
「俺がいる方が交渉が有利になるからだ。となるとシャジャも必然的にメンバーに入る。あと、あの若僧は王家の血に連なる者。それに何かあった時に魔導術が使える奴は必要だからだ」
正当な理由をすらすらと語るカイムに、 リリスティアは反論することはない。だが、ヒルと離れるということに知らず知らずのうちに不安が募る。
思えば、あの時からずっと、ヒルは自分の側にいたのだ。それこそ、寝るときと風呂以外はほとんどといっていいほど、リリスティアは彼の目の届く範囲内でしか行動していなかった。
「頼れる竜がいなくて不満か?」
「ちょうどいい。私は甘えすぎているから」
リリスティアは、全く感情無く言い放った。カイムよりも、自分に言い聞かせるように言う。ヒルを頼る弱い自分など、認めたくない。そう、最初に出会ったのが彼だから、彼に甘えがちになっているだけ。
「なるほど」
だが、そう言いながらも顔をこわばらせるリリスティアを見て、カイムは口端をつり上げた。赤い髪を翻すと、リリスティアを気にせずさっさと歩いていく。
リリスティアはそれに追いつこうとはせず、ぼんやりとしたまま足を進めた。
リリスティアがカイムと別れた後、会議室に到着すると、もうそこにはベリーしか居なかった。ベリーによると、レオンはまた忙しそうにどこかへと消え、他の者やヒルも、すぐに退室したらしい。
「あたしもついていきたいけど……」
ベリーが心底残念そうに眉を下げる。
「貴女の力は、もし私たちの留守中に何かあった時とても頼りになる。貴女まで連れていったらレオンに叱られる」
「いつ出発するの~?」
「さすがに明日は無い。カイムは明日がいいって言っていたけれど、準備もあるし」
いつもと変わらない様子で淡々と話すリリスティアに、ベリーは何か言いたそうにその目をじっと見つめる。
「何?」
「絶対弱いとこ見せないよね」
拗ねたような彼女の口振りに、リリスティアは首を傾げる。
「これは国の命運を決める任務だもの。私が行かなきゃ」
「かっこいいじゃん。そういうとこ好きだよ」
その言葉によりリリスティアは、目の前にいるベリーがその外見に反してずっと年が上な女性なのだということを改めて実感させられた。彼女は、周りの人物をよく見ている。それも客観的に。しぐさや言動だけで相手が何を考えてるか見抜いてしまえるのは、長い年輪を重ねた者だからこそ出来る技だ。
「リリー、注意してね。白い羽根の子たちは、本当は選ばれたくなかった子たちだと思うから」
「……選ばれたくなかった?」
「ん」
彼女はただ、物憂げに微笑んでその場を後にした。
* * *
それから、出発の日まで、ヒルはあまり私の側には居なかった。
国の再建の準備が忙しいのか、顔を合わせたくないのかは分からない。私も、必要最低限のこと以外は喋らなかったし、彼も以前のような冗談は言わなくなった。
何故かは、分からない。
あの時、私を抱きしめた彼の腕は確かに熱くて、私は目眩がしていたのに。まるでなにも無かったかのように、ヒルは私を見なくなった。
次に再会する時は、私はヒルと目を合わせて喋れるだろうか?
ユア・ラムダの地は、遠い。
第8話・終
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
孤独な大賢
橘伊鞠
ファンタジー
ヴァイス王国の少年軍師レオン。出自が不明な彼は、この国で最高軍師となるべく勉強に明け暮れていた。他人の考えていること、求めていること、それらは全て学べば分かる。そう思っていたある日……。
2006年から連載しているweb小説「神創系譜」の短編です。本編より過去の話になりますが、単体でも読める話となっております。多少前提ありきで進んでおりますのでお気を付けください。
今日の授業は保健体育
にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり)
僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。
その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。
ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。
『別れても好きな人』
設樂理沙
ライト文芸
大好きな夫から好きな女性ができたから別れて欲しいと言われ、離婚した。
夫の想い人はとても美しく、自分など到底敵わないと思ったから。
ほんとうは別れたくなどなかった。
この先もずっと夫と一緒にいたかった……だけど世の中には
どうしようもないことがあるのだ。
自分で選択できないことがある。
悲しいけれど……。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
登場人物紹介
戸田貴理子 40才
戸田正義 44才
青木誠二 28才
嘉島優子 33才
小田聖也 35才
2024.4.11 ―― プロット作成日
💛イラストはAI生成自作画像
保健室の秘密...
とんすけ
大衆娯楽
僕のクラスには、保健室に登校している「吉田さん」という女の子がいた。
吉田さんは目が大きくてとても可愛らしく、いつも艶々な髪をなびかせていた。
吉田さんはクラスにあまりなじめておらず、朝のHRが終わると帰りの時間まで保健室で過ごしていた。
僕は吉田さんと話したことはなかったけれど、大人っぽさと綺麗な容姿を持つ吉田さんに密かに惹かれていた。
そんな吉田さんには、ある噂があった。
「授業中に保健室に行けば、性処理をしてくれる子がいる」
それが吉田さんだと、男子の間で噂になっていた。
王女、騎士と結婚させられイかされまくる
ぺこ
恋愛
髪の色と出自から差別されてきた騎士さまにベタ惚れされて愛されまくる王女のお話。
性描写激しめですが、甘々の溺愛です。
※原文(♡乱舞淫語まみれバージョン)はpixivの方で見られます。
獣人の里の仕置き小屋
真木
恋愛
ある狼獣人の里には、仕置き小屋というところがある。
獣人は愛情深く、その執着ゆえに伴侶が逃げ出すとき、獣人の夫が伴侶に仕置きをするところだ。
今夜もまた一人、里から出ようとして仕置き小屋に連れられてきた少女がいた。
仕置き小屋にあるものを見て、彼女は……。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる