妖の森

熊猫珈琲店

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第一部

記憶の欠片

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「ヒサギ、ユキにいやしの術をかけろ。頭が痛いと言っている」

 黒い翼を背負った化け物が、ユキを指差しながら命じる。
 ヒサギと呼ばれた獣は、額にある第三の目を爛々らんらんと光らせてユキを見つめた。

「肉体的な損傷は見当たらない。頭の痛みなど気のせいだ」

 その言葉は耳から聞こえたのではなく、頭の中へと直接流れ込んできた。
 少し前のユキだったら「そんな馬鹿なこと、あるわけない」と鼻で笑い飛ばしたかもしれない。
 でも今は、これがまぎれもない現実であるということを、はっきりと理解している。

 なぜならユキは、あの夏祭りの夜に迎えに来た黒い翼の化け物と共に、ヒサギの背に乗ってこのあやかしの森へ降り立った時のことを、おぼろげに思い出していたからだ。

「ハヤテ」
 ユキがつぶやくと、化け物は黒い翼を大きく広げ、笑みを浮かべる。

 そうだ、この化け物の名はハヤテだ。
 妖の森に住む神と信じられている、天狗てんぐ末裔まつえい

「せっかく解放してやったのに、どうして戻ってきたんだ? ユキに引き寄せられたトコヤミが、村を呑み込んでしまったじゃないか」

「私に引き寄せられた……?」

「そうだよ。そうか……解放する代償に記憶を失ったんだったな。ずいぶん前に、妖魔を引き寄せる人間の子がいると耳にして……成長するに従って力が増幅しているというから、我々の仲間が見張っていたんだ」

「その人間の子って、私のこと?」
 ユキの質問に、ハヤテがうなずく。

「あの日、やまいが引き金となってユキの力が一気に覚醒したんだ。その結果、眠りについていた厄介な妖魔を目覚めさせてしまい、ちょっとした騒ぎになった。その件は仲間が解決して事なきを得たんだが……あのままユキを人間の世界に置いておくのは危険だということで、連れ出して妖の森に隠したんだ」

 そうだ。そうだった。
 あの時も、ハヤテは同じことを言っていた。

「だが、お前は人間の世界へ戻ることを強く望んだ。だから仕方なく、この地に力を封じて解放したんじゃないか」

 頭に痛みが走る。
 記憶の欠片かけらき集めて、どうにか形にしようとしたけれど、その時のことが上手く思い出せない。

「力を封じたはずなのに、なんで……? どうして村はあんなことになっちゃったの?」

「お前がこの地に戻ってきたからだ。本来なら、ユキが妖の森に足を踏み入れない限り、封印は解けないはずだったんだが……」

「そんなこと知らなかった! 知ってたら、こんなところ絶対に来なかった!! トコヤミって何? お母さんはどうなったの? 村の人達は? 生きてるの? 無事なの? ねぇ、大丈夫だって言ってよ!」

 取り乱すユキを落ち着かせるように、ハヤテは穏やかな声をだした。

あやかしの森は今、トコヤミに囲まれている。奴らは森の中までは入って来られないから、ここにいる限りは安全だ」

 そこまで話すと、ハヤテはユキの目から視線を逸らし、言いにくそうに続きの言葉を口にした。

「母親と村の人間達のことは諦めろ。トコヤミに呑み込まれた生き物は、姿を消したらそれっきりだ。戻って来た者がいるという話は聞いたことがない」

「そんな……なんとかしてよ! あなた、妖の森に住む神様なんでしょう? お母さんを返して! 村を元に戻して!」

 ユキは悲痛な面持おももちで懇願こんがんしたが、ハヤテは何も答えない。
 そこへ、幼い声が割り込んできた。

「ハヤテは神様じゃないよ。それどころか、天狗族の裏切り者だ」

 いつの間に現れたのだろう。
 ユキとハヤテのすぐそばに、まだ小学生くらいに見える小さな男の子が、ニコニコしながら立っていた。
 女の子みたいに可愛らしい顔立ちをしていて、左手には不思議な紋様の刻まれた腕輪をはめ、右手には背丈よりも大きな杖が握られている。

 ハヤテは眉をつり上げ、少年を睨みつけた。
 周囲が禍々まがまがしい空気に包まれる。

「ハヤテ、挑発に乗るな」
 止めに入るヒサギの声が、ユキの頭の中にも流れ込んできた。

「あれ、もしかして怒っているの? 嫌だなぁ、本当のことじゃないか。ハヤテは正真正銘、出来損ないのくずだろう?」
 少年が言い終わるやいなや、ハヤテは少年の周囲に旋風つむじかぜを巻き起こして吹き飛ばそうとした。

 しかし、少年は微動だにしない。
 旋風の中心で平然としている。

 風がむと、少年は勝ち誇った顔でハヤテを見た後、ユキに話しかけてきた。

「おかえり、ユキ。必ず戻って来てくれるって信じていたよ」
 そう言いながら、少年がユキの手を取る。
 だが、ユキは彼の顔に全く見覚えがなかった。思わず握られた手を振り払ってしまう。

 少年は傷付いた表情で
「どうしたの? 僕に会えて嬉しくないの?」
 とユキに問いかける。

 ユキの名前も顔も知っているということは、人違いではなさそうだ。でも、少年についての記憶は、頭の中のどこを探しても見つからなかった。

 ハヤテから
「こいつのこと、思い出せるか?」
 と聞かれ、ユキは首を横に振る。

 少年は愕然がくぜんとした様子で
「僕のことを忘れるなんて……」
 とつぶやいた。

 それから怒気どきを含んだ声で
「お前が何かしたんじゃないだろうな」
 とハヤテのことを睨みつける。

 不穏ふおんな空気が漂う中、ヒサギが間に割って入った。

「落ち着け、シグレ。ハヤテには、お前をあざむくほどの力は無い」

 シグレと呼ばれた少年は、駄々をこねる子供のように苛立ちをヒサギにぶつける。

「でも、ハヤテのことは覚えているんだろう? さっき、ユキはハヤテの名前を呼んでいたじゃないか! それなのに、何で僕のことは忘れたままなんだよ!」

「焦るな。その内きっと思い出す。それよりも早く、その杖を使って移動しよう。そのために、ここまで迎えにきたんだろう?」

 ヒサギにさとされたシグレは、自分自身を落ち着かせるように大きく息を吸い込んでから、ゆっくりと吐き出した。
 そして、手に持った大きな杖で目の前の空間を縦に切り裂くと、強い力でユキの手首を掴み、切れ目の中へと引きずり込んだ。
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