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とろけるクレームブリュレ
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泣き喚く女の子を目の前にして、見習い天使のフレデリカは途方に暮れていた。
「あの……そろそろ泣き止んでもらって、最後に食べたいものを教えてもらえると助かるんですけど……」
フレデリカの声かけなど耳に入らないようで、女の子は涙を流し続けている。
時折、悲痛な声で
「おばあちゃんに会いたい! 家に帰りたい!」
と口にする以外は泣きじゃくるばかりだ。
うんざりした気分でため息をつくと、目も眩むような光と共に、天使のマチルダが姿を現した。
「うるっさいわねぇ。これだから子どもは嫌いなのよ」
マチルダは、しかめっ面をしながら両手で耳を塞いでいる。
泣き叫んでいた女の子は、顔を上げてマチルダの方を見た。
「こんにちは、お嬢さん。ご機嫌いかが? あなたの泣き喚く声が凄く不快だから、今すぐに黙ってくれる? さもないと、後悔することになるわよ」
残忍な笑みを浮かべながら、マチルダがゆっくりと女の子に近付いて行く。
フレデリカは急いでカウンターの後ろから飛び出し、女の子の前に立ちはだかった。
「やめて。この子には何もしないで。死んだばかりで、まだ少し混乱しているのよ。しばらくすれば落ち着くわ」
「そう? それならいいんだけど……。でもね、肉体を離れた魂はなるべく早く天上へ返さないと、タチの悪い浮遊霊になっちゃうわよ?」
マチルダの言葉に、女の子が顔色を変える。
「え……? 私、幽霊になっちゃうの?」
震える声で尋ねる女の子に、マチルダは片方の眉を吊り上げながらこう答えた。
「そうよ。誰にも気付かれないまま、ずっと独りぼっちでこの世を彷徨い続けるの」
そう言いながら、マチルダは指先を女の子の額にあてて記憶を読み取り始める。
「ちょっと、勝手なことしないで!」
フレデリカは、マチルダの手首を掴んで女の子から引き離す。
「何よ、フレデリカがモタモタしてるから、手伝ってあげようとしたんじゃない。この子、おばあちゃんの作ったクレームブリュレが大好物みたいよ。最後の一皿はそれにしたら?」
そこまで話すと、マチルダは女の子の方へ顔を向け
「それでいいわよね、シェリル」
と声をかけた。
シェリルと呼ばれた女の子は、怯えた表情で小さく頷く。
それを見たフレデリカは、床に座り込んでいるシェリルに近付いてそっと手を取り、こう尋ねた。
「本当に、クレームブリュレでいいんですか?」
シェリルは、先ほどよりも力を込めて頷いた。
「おばあちゃんの作るクレームブリュレは、すごく美味しくて優しい味がするの。最後に食べるなら、あれがいい」
「分かりました。材料や作り方はご存知ですか?」
フレデリカがシェリルに尋ねると、マチルダが横から口を挟む。
「そんなの、いちいち聞かずに記憶を読み取ればいいじゃない」
「むやみに人の記憶を覗くのは好きじゃないの。いいからマチルダは黙ってて」
フレデリカに冷たくあしらわれたマチルダは、肩をすくめて
「あらそう。近くにいると口を出したくなっちゃうから、地下室に行ってるわね」
と言って、店の奥にある階段を降りて行った。
地下室には、たくさんの瓶詰めが棚に並んで保管されている。
中身は、マチルダに生命力を吸い取られた人間達の抜け殻だ。
この店がまだマチルダのものだった頃、来訪するのは死者の魂ではなく、生きた人間達だった。
天使の役割は通常、寿命を迎えた人間達の魂を天上へ返すことである。
だがマチルダのように、まだ寿命の残っている人間から魂を奪い取る役割を課せられた天使も、わずかに存在するのだ。
「ねぇ、聞いてる?」
シェリルの声に、フレデリカはハッと我に返る。
「ごめんなさい。少し考え事をしていて……。もう一度お願い出来ますか?」
「だから、材料は牛乳と生クリームと卵と砂糖だってば。卵は黄身だけ使うんだけど、余った白身はメレンゲにして焼くの。そうすると、サクサクのメレンゲクッキーも一緒に作れるのよ」
シェリルが鼻の穴を膨らませて力説する。
「それは素敵ですね。本来ならば一品しか作らないのですが……食材を無駄にしたくないので、今回は特別にメレンゲクッキーもお作りしますね」
フレデリカが言うと、シェリルは口元をほころばせた。
「まずは、牛乳と生クリームを小さいお鍋に入れて、煮立たせないように温めるの。牛乳は吹きこぼれやすいから、目を離さないようにしてね」
指示された通りに手を動かしながら、フレデリカは感心した顔つきでシェリルに声をかける。
「素晴らしいですね。手順だけでなく、気をつけるべき点まで覚えているなんて」
「私、もう十歳よ? それくらい当たり前じゃない」
「そんなことないですよ。シェリルさんくらいの年頃で、これほど丁寧にレシピを伝えて下さる方は滅多にいないので、とても助かります」
フレデリカに褒められたシェリルは
「私ね、クレームブリュレだけじゃなくて、他にも色々とレシピを知っているのよ。マフィンとか、パウンドケーキとか。あとは、グラタンやシチューなんかの作り方も頭に入ってるわ」
と弾んだ声を出した。
「お料理も出来るんですか?」
「うん。一人で全部作れるわけじゃないけどね。うちは私とおばあちゃんしかいなかったから、いつもお手伝いしてたの。おばあちゃんがね、『私が死んだ後、あんたは一人で生きてかなくちゃならないから、身の回りのことは何でも出来るようにしておかなくちゃいけないよ』って言って、色んなことを教えてくれたの。だから私、洗濯や掃除も得意よ」
シェリルが自慢げに胸を張る。
けれども、すぐに顔を曇らせてうつむいてしまう。
死んでしまった今となっては、なんの役にも立たないということに気付いてしまったのだろう。
フレデリカは、次の手順をシェリルに尋ねた。
「この後は?」
「あ……えっと、卵黄と砂糖を泡立て器で白っぽくなるまで混ぜて、温めた牛乳と生クリームのところへ加えるの。そこにバニラエッセンスを数滴垂らして混ぜ合わせれば、カスタードソースの完成よ」
フレデリカは言われた通りに作業を進め、耐熱容器にクリーム色の液体を注ぎ入れていく。
「あとは深めのお鍋に浅く水を張って、湯煎で固まるまで火を通せば出来上がり。ね、簡単でしょ?」
シェリルが白い歯を見せながら、フレデリカに同意を求める。
「手軽に作れていいですね。では、湯煎にかけている間にメレンゲクッキーも作ってしまいましょうか」
フレデリカは、別のボウルによけておいた卵白に砂糖を加えながら、ツノが立つくらいの固さにまで泡立てていく。
ふわふわのメレンゲを絞り袋に詰め、天板の上に間隔をあけて絞り出し、オーブンで焼き上げる。
それから、湯煎にかけていたクレームブリュレを火から下ろし、粗熱をとってから冷蔵庫にしまう。
「冷やしている間に、こちらをどうぞ」
フレデリカが細長いグラスに入った飲み物を差し出すと、シェリルはお礼を言って受け取り、そっと唇をつけた。
「おいしい!」
シェリルの顔がパッと輝く。
「蜂蜜たっぷりの特製レモネードです。お気に召しましたか?」
フレデリカの問いかけにシェリルは大きく頷き、喉をゴクゴク鳴らしながらレモネードの残りを飲み干した。
オーブンから甘い香りが漂い出してきて、メレンゲクッキーが焼き上がる。
クッキーを網に載せて粗熱をとりながら、フレデリカは頭を悩ませていた。
魂を天上へ返す前に、シェリルを祖母のところへ行かせてあげるべきだろうか。
でも万が一、この世に強い未練を感じて浮遊霊になってしまったら……。
これまでにも地上に留まる選択をする者はいたが、どの魂も皆、悲しい末路を辿った。
彼らは永遠にも感じられるほどの長い年月を孤独に過ごした後、跡形もなく消滅してしまうのだ。
そのような最期を迎える可能性があると知りながら、まだ幼さの残るシェリルを祖母の元へ送り出すべきか否か。
先ほどからずっと、フレデリカは答えを出せずにいた。
「これを召し上がれば、天上へ向かうことが出来ます」
フレデリカが、冷蔵庫から取り出したクレームブリュレにスプーンを添えて差し出す。
すると、シェリルは器をフレデリカの方へと押し返した。
「ダメダメ。最後の仕上げで表面をパリパリにしなくっちゃ。蜂蜜を垂らしてトースターで焼き目をつけるか、砂糖をかけて熱したスプーンを軽く押し付けながら焦げ目をつけるのよ」
「どちらのやり方にしますか?」
フレデリカが尋ねると
「ヤケドするといけないから、熱したスプーンじゃなくてトースターを使いましょうか」
シェリルは澄ました顔で大人のような言い方をした。
「お気遣い、ありがとうございます」
微笑むフレデリカに、シェリルも笑顔を返す。
それから、ためらいがちに願いを口にした。
「ねぇ、それを食べて天上へ向かう前に、おばあちゃんの顔を見に行くことはできる?」
できますよ。
普段なら、すんなりと口から出てくるはずの言葉が、今日に限って上手く言えない。
そこへ、瓶詰めを手にしたマチルダが姿を現した。
「やめておいたら? あなたの大好きなおばあ様は、厄介者のあなたがいなくなってくれて、きっと清々していると思うわよ」
マチルダの辛辣な言葉に、シェリルの表情が凍りつく。
「やめて!」
止めに入ろうとするフレデリカを押しのけて、マチルダは手に持った瓶詰めをシェリルの面前に突きつけながら、こう言った。
「この瓶に入っているのは、あなたの父親の抜け殻よ。ずいぶん小さく縮んでいるでしょう? 私に生命力を吸い取られた人間は、皆んなこうなるの。甘い言葉で多くの女性達から金銭を巻き上げ、利用価値が無くなればゴミのように捨て去り、また新しい標的に狙いを定める。そういう胸糞悪い人間の血が、あなたにも受け継がれている」
シェリルは唇を引き結び、涙を堪えている。
「あなたを産んですぐに、母親は命を絶ってしまったのよね。代わりにあなたを育てることになったおばあ様は、さぞ複雑な心境だったでしょうね。だって、あなたは愛する娘の血だけでなく、娘を死に追いやった男の血も引いているんですもの」
フレデリカは、声を荒げてマチルダの話を遮った。
「やめてって言ってるでしょ! どうしてそんな酷いことばかり言うの?」
「酷い? そうかしら。会いに行かせることの方が、よっぽど残酷だと思うけど」
火花を散らして睨み合うマチルダとフレデリカの間に、シェリルが割って入る。
「もういい。私、おばあちゃんには会いに行かない」
そう言うと、シェリルはスプーンを手に取ってクレームブリュレを口に入れた。
「……おいしいけど、少し残念。表面をパリパリにする前に食べちゃった」
シェリルの体が、だんだん透き通っていく。
「最後に大好きなお菓子を食べさせてくれてありがとう。メレンゲクッキーは、あなたにあげるわ」
フレデリカにそう告げると、シェリルの姿は淡い光に包まれて見えなくなった。
「あら、クッキーも焼いたのね」
嬉しそうにメレンゲクッキーをつまもうとするマチルダの手を、フレデリカが乱暴に払いのける。
「あなたには食べさせたくない」
「何よ、意地悪ねぇ。言っておくけど、もしシェリルを祖母に会わせていたら、きっと後悔することになっていたと思うわよ」
「だからって、あそこまで言う必要は無いじゃない!」
「もう、分からず屋なんだから」
マチルダは呆れた声を出すと、指先でフレデリカの額に触れた。
フレデリカの頭の中に、マチルダがシェリルから読み取った記憶が流れ込んでくる。
幼い頃から、父親のことで陰口をたたかれ、嫌がらせを受ける日々。
教師をはじめとする大人達も、冷ややかな視線を投げかけてくる。
周囲の嫌がらせは成長するごとに凄惨さを増し、ついには岩場から川へと突き落とされてしまう。
シェリルの記憶は、そこで途切れていた。
言葉を失って立ち尽くすフレデリカに、マチルダが静かな声で語りかける。
「さっきね、シェリルの祖母の様子を見に行ってきたの。そうしたら、牢屋に入れられてた」
「牢屋? どうして……」
「シェリルが突き落とされた現場に居合わせた子供達は、『シェリルが自分で足を滑らせて落ちた』と口裏を合わせて、事故に見せかけようとしたみたい。でも、目撃していた子供達のうちの一人が罪悪感に耐えきれず、シェリルの祖母に真実を告げたのよ。怒りに燃えたシェリルの祖母は、ナイフを隠し持って突き落とした子の家を訪ね、孫娘の仇を討とうとしたというわけ。まぁ結局、その子の両親に取り押さえられて未遂に終わったけど」
「シェリルを突き落とした子は捕まったの?」
「いいえ。今のところ証言者は一人しかいないし……立証は難しいんじゃないかしら。突き落とした本人が自白したとしても、まだ子供だから重い罪には問われないでしょうしね」
「そんな……」
唇をかみしめて目を伏せるフレデリカの髪を、マチルダが優しく撫でる。
「シェリルがこのことを知ったら、浮遊霊どころか悪霊になっていたかもしれない。だから、祖母のところへ行かせるわけにはいかなかったのよ」
「理由も聞かずに責めたりしてごめんなさい」
「分かってもらえて嬉しいわ。それじゃ、私はもうひと仕事してくるわね」
マチルダは、シェリルの父親の抜け殻が入った瓶を見つめながら、冷酷な笑みを浮かべる。
「……何をするつもり?」
「シェリルの父親が昔、命と引き換えに願ったことを叶えてあげるのよ。このウジ虫は『償いたい』と言っていたわ。だから、娘の無念を晴らすために役立ってもらおうと思って。この抜け殻で美味しいスープを作って、シェリルを死に追いやった人間にご馳走してあげるの。そうすれば、万事解決よ」
マチルダの作る「天使のスープ」を口にした者は、一つだけ願いを叶えてもらう代わりに、残りの寿命を全て奪われる。
そして抜け殻となった肉体は、次のスープの材料として瓶に詰められ、地下室の棚に並べられるのだ。
フレデリカは、悲しみを湛えた瞳でマチルダを見つめる。
「そんな顔をしないでよ。汚れを取り除けば、世界は美しくなるんだから」
そう言い残すと、マチルダは光と共に姿を消した。
フレデリカは、マチルダに出会ってからずっと、葛藤を抱えてきた。
マチルダのように、生きている人間の寿命を奪い取る天使にはなりたくない。
だけど、その行為を否定しきれない気持ちも、確かにある。
マチルダの元を訪れる人間達は、程度の差こそあれ罪を犯している者がほとんどで、彼らは皆、裁かれることなく生き永らえていた。
彼らの罪に触れるたび、フレデリカは嫌悪感を覚えつつ、こうも感じていた。
もしも私が人間で、彼らと同じ境遇に陥っていたら。
果たして、罪を犯さずにいられただろうか。
彼らの犯した罪は憎い。
罰してやりたいという気持ちも、心のどこかにはある。
けれども、お前にそんな資格があるのかと問われたら、首を縦には振れない。
だからフレデリカは、マチルダのやり方を否定も肯定も出来ずにいるのだ。
ため息をつきながら冷蔵庫の扉を開け、余ってしまったクレームブリュレを一つ取り出す。
スプーンで口に運ぶと、やわらかなカスタードの風味が、なめらかに舌の上で溶けた。
それはとても、穏やかで優しい甘さだった。
「あの……そろそろ泣き止んでもらって、最後に食べたいものを教えてもらえると助かるんですけど……」
フレデリカの声かけなど耳に入らないようで、女の子は涙を流し続けている。
時折、悲痛な声で
「おばあちゃんに会いたい! 家に帰りたい!」
と口にする以外は泣きじゃくるばかりだ。
うんざりした気分でため息をつくと、目も眩むような光と共に、天使のマチルダが姿を現した。
「うるっさいわねぇ。これだから子どもは嫌いなのよ」
マチルダは、しかめっ面をしながら両手で耳を塞いでいる。
泣き叫んでいた女の子は、顔を上げてマチルダの方を見た。
「こんにちは、お嬢さん。ご機嫌いかが? あなたの泣き喚く声が凄く不快だから、今すぐに黙ってくれる? さもないと、後悔することになるわよ」
残忍な笑みを浮かべながら、マチルダがゆっくりと女の子に近付いて行く。
フレデリカは急いでカウンターの後ろから飛び出し、女の子の前に立ちはだかった。
「やめて。この子には何もしないで。死んだばかりで、まだ少し混乱しているのよ。しばらくすれば落ち着くわ」
「そう? それならいいんだけど……。でもね、肉体を離れた魂はなるべく早く天上へ返さないと、タチの悪い浮遊霊になっちゃうわよ?」
マチルダの言葉に、女の子が顔色を変える。
「え……? 私、幽霊になっちゃうの?」
震える声で尋ねる女の子に、マチルダは片方の眉を吊り上げながらこう答えた。
「そうよ。誰にも気付かれないまま、ずっと独りぼっちでこの世を彷徨い続けるの」
そう言いながら、マチルダは指先を女の子の額にあてて記憶を読み取り始める。
「ちょっと、勝手なことしないで!」
フレデリカは、マチルダの手首を掴んで女の子から引き離す。
「何よ、フレデリカがモタモタしてるから、手伝ってあげようとしたんじゃない。この子、おばあちゃんの作ったクレームブリュレが大好物みたいよ。最後の一皿はそれにしたら?」
そこまで話すと、マチルダは女の子の方へ顔を向け
「それでいいわよね、シェリル」
と声をかけた。
シェリルと呼ばれた女の子は、怯えた表情で小さく頷く。
それを見たフレデリカは、床に座り込んでいるシェリルに近付いてそっと手を取り、こう尋ねた。
「本当に、クレームブリュレでいいんですか?」
シェリルは、先ほどよりも力を込めて頷いた。
「おばあちゃんの作るクレームブリュレは、すごく美味しくて優しい味がするの。最後に食べるなら、あれがいい」
「分かりました。材料や作り方はご存知ですか?」
フレデリカがシェリルに尋ねると、マチルダが横から口を挟む。
「そんなの、いちいち聞かずに記憶を読み取ればいいじゃない」
「むやみに人の記憶を覗くのは好きじゃないの。いいからマチルダは黙ってて」
フレデリカに冷たくあしらわれたマチルダは、肩をすくめて
「あらそう。近くにいると口を出したくなっちゃうから、地下室に行ってるわね」
と言って、店の奥にある階段を降りて行った。
地下室には、たくさんの瓶詰めが棚に並んで保管されている。
中身は、マチルダに生命力を吸い取られた人間達の抜け殻だ。
この店がまだマチルダのものだった頃、来訪するのは死者の魂ではなく、生きた人間達だった。
天使の役割は通常、寿命を迎えた人間達の魂を天上へ返すことである。
だがマチルダのように、まだ寿命の残っている人間から魂を奪い取る役割を課せられた天使も、わずかに存在するのだ。
「ねぇ、聞いてる?」
シェリルの声に、フレデリカはハッと我に返る。
「ごめんなさい。少し考え事をしていて……。もう一度お願い出来ますか?」
「だから、材料は牛乳と生クリームと卵と砂糖だってば。卵は黄身だけ使うんだけど、余った白身はメレンゲにして焼くの。そうすると、サクサクのメレンゲクッキーも一緒に作れるのよ」
シェリルが鼻の穴を膨らませて力説する。
「それは素敵ですね。本来ならば一品しか作らないのですが……食材を無駄にしたくないので、今回は特別にメレンゲクッキーもお作りしますね」
フレデリカが言うと、シェリルは口元をほころばせた。
「まずは、牛乳と生クリームを小さいお鍋に入れて、煮立たせないように温めるの。牛乳は吹きこぼれやすいから、目を離さないようにしてね」
指示された通りに手を動かしながら、フレデリカは感心した顔つきでシェリルに声をかける。
「素晴らしいですね。手順だけでなく、気をつけるべき点まで覚えているなんて」
「私、もう十歳よ? それくらい当たり前じゃない」
「そんなことないですよ。シェリルさんくらいの年頃で、これほど丁寧にレシピを伝えて下さる方は滅多にいないので、とても助かります」
フレデリカに褒められたシェリルは
「私ね、クレームブリュレだけじゃなくて、他にも色々とレシピを知っているのよ。マフィンとか、パウンドケーキとか。あとは、グラタンやシチューなんかの作り方も頭に入ってるわ」
と弾んだ声を出した。
「お料理も出来るんですか?」
「うん。一人で全部作れるわけじゃないけどね。うちは私とおばあちゃんしかいなかったから、いつもお手伝いしてたの。おばあちゃんがね、『私が死んだ後、あんたは一人で生きてかなくちゃならないから、身の回りのことは何でも出来るようにしておかなくちゃいけないよ』って言って、色んなことを教えてくれたの。だから私、洗濯や掃除も得意よ」
シェリルが自慢げに胸を張る。
けれども、すぐに顔を曇らせてうつむいてしまう。
死んでしまった今となっては、なんの役にも立たないということに気付いてしまったのだろう。
フレデリカは、次の手順をシェリルに尋ねた。
「この後は?」
「あ……えっと、卵黄と砂糖を泡立て器で白っぽくなるまで混ぜて、温めた牛乳と生クリームのところへ加えるの。そこにバニラエッセンスを数滴垂らして混ぜ合わせれば、カスタードソースの完成よ」
フレデリカは言われた通りに作業を進め、耐熱容器にクリーム色の液体を注ぎ入れていく。
「あとは深めのお鍋に浅く水を張って、湯煎で固まるまで火を通せば出来上がり。ね、簡単でしょ?」
シェリルが白い歯を見せながら、フレデリカに同意を求める。
「手軽に作れていいですね。では、湯煎にかけている間にメレンゲクッキーも作ってしまいましょうか」
フレデリカは、別のボウルによけておいた卵白に砂糖を加えながら、ツノが立つくらいの固さにまで泡立てていく。
ふわふわのメレンゲを絞り袋に詰め、天板の上に間隔をあけて絞り出し、オーブンで焼き上げる。
それから、湯煎にかけていたクレームブリュレを火から下ろし、粗熱をとってから冷蔵庫にしまう。
「冷やしている間に、こちらをどうぞ」
フレデリカが細長いグラスに入った飲み物を差し出すと、シェリルはお礼を言って受け取り、そっと唇をつけた。
「おいしい!」
シェリルの顔がパッと輝く。
「蜂蜜たっぷりの特製レモネードです。お気に召しましたか?」
フレデリカの問いかけにシェリルは大きく頷き、喉をゴクゴク鳴らしながらレモネードの残りを飲み干した。
オーブンから甘い香りが漂い出してきて、メレンゲクッキーが焼き上がる。
クッキーを網に載せて粗熱をとりながら、フレデリカは頭を悩ませていた。
魂を天上へ返す前に、シェリルを祖母のところへ行かせてあげるべきだろうか。
でも万が一、この世に強い未練を感じて浮遊霊になってしまったら……。
これまでにも地上に留まる選択をする者はいたが、どの魂も皆、悲しい末路を辿った。
彼らは永遠にも感じられるほどの長い年月を孤独に過ごした後、跡形もなく消滅してしまうのだ。
そのような最期を迎える可能性があると知りながら、まだ幼さの残るシェリルを祖母の元へ送り出すべきか否か。
先ほどからずっと、フレデリカは答えを出せずにいた。
「これを召し上がれば、天上へ向かうことが出来ます」
フレデリカが、冷蔵庫から取り出したクレームブリュレにスプーンを添えて差し出す。
すると、シェリルは器をフレデリカの方へと押し返した。
「ダメダメ。最後の仕上げで表面をパリパリにしなくっちゃ。蜂蜜を垂らしてトースターで焼き目をつけるか、砂糖をかけて熱したスプーンを軽く押し付けながら焦げ目をつけるのよ」
「どちらのやり方にしますか?」
フレデリカが尋ねると
「ヤケドするといけないから、熱したスプーンじゃなくてトースターを使いましょうか」
シェリルは澄ました顔で大人のような言い方をした。
「お気遣い、ありがとうございます」
微笑むフレデリカに、シェリルも笑顔を返す。
それから、ためらいがちに願いを口にした。
「ねぇ、それを食べて天上へ向かう前に、おばあちゃんの顔を見に行くことはできる?」
できますよ。
普段なら、すんなりと口から出てくるはずの言葉が、今日に限って上手く言えない。
そこへ、瓶詰めを手にしたマチルダが姿を現した。
「やめておいたら? あなたの大好きなおばあ様は、厄介者のあなたがいなくなってくれて、きっと清々していると思うわよ」
マチルダの辛辣な言葉に、シェリルの表情が凍りつく。
「やめて!」
止めに入ろうとするフレデリカを押しのけて、マチルダは手に持った瓶詰めをシェリルの面前に突きつけながら、こう言った。
「この瓶に入っているのは、あなたの父親の抜け殻よ。ずいぶん小さく縮んでいるでしょう? 私に生命力を吸い取られた人間は、皆んなこうなるの。甘い言葉で多くの女性達から金銭を巻き上げ、利用価値が無くなればゴミのように捨て去り、また新しい標的に狙いを定める。そういう胸糞悪い人間の血が、あなたにも受け継がれている」
シェリルは唇を引き結び、涙を堪えている。
「あなたを産んですぐに、母親は命を絶ってしまったのよね。代わりにあなたを育てることになったおばあ様は、さぞ複雑な心境だったでしょうね。だって、あなたは愛する娘の血だけでなく、娘を死に追いやった男の血も引いているんですもの」
フレデリカは、声を荒げてマチルダの話を遮った。
「やめてって言ってるでしょ! どうしてそんな酷いことばかり言うの?」
「酷い? そうかしら。会いに行かせることの方が、よっぽど残酷だと思うけど」
火花を散らして睨み合うマチルダとフレデリカの間に、シェリルが割って入る。
「もういい。私、おばあちゃんには会いに行かない」
そう言うと、シェリルはスプーンを手に取ってクレームブリュレを口に入れた。
「……おいしいけど、少し残念。表面をパリパリにする前に食べちゃった」
シェリルの体が、だんだん透き通っていく。
「最後に大好きなお菓子を食べさせてくれてありがとう。メレンゲクッキーは、あなたにあげるわ」
フレデリカにそう告げると、シェリルの姿は淡い光に包まれて見えなくなった。
「あら、クッキーも焼いたのね」
嬉しそうにメレンゲクッキーをつまもうとするマチルダの手を、フレデリカが乱暴に払いのける。
「あなたには食べさせたくない」
「何よ、意地悪ねぇ。言っておくけど、もしシェリルを祖母に会わせていたら、きっと後悔することになっていたと思うわよ」
「だからって、あそこまで言う必要は無いじゃない!」
「もう、分からず屋なんだから」
マチルダは呆れた声を出すと、指先でフレデリカの額に触れた。
フレデリカの頭の中に、マチルダがシェリルから読み取った記憶が流れ込んでくる。
幼い頃から、父親のことで陰口をたたかれ、嫌がらせを受ける日々。
教師をはじめとする大人達も、冷ややかな視線を投げかけてくる。
周囲の嫌がらせは成長するごとに凄惨さを増し、ついには岩場から川へと突き落とされてしまう。
シェリルの記憶は、そこで途切れていた。
言葉を失って立ち尽くすフレデリカに、マチルダが静かな声で語りかける。
「さっきね、シェリルの祖母の様子を見に行ってきたの。そうしたら、牢屋に入れられてた」
「牢屋? どうして……」
「シェリルが突き落とされた現場に居合わせた子供達は、『シェリルが自分で足を滑らせて落ちた』と口裏を合わせて、事故に見せかけようとしたみたい。でも、目撃していた子供達のうちの一人が罪悪感に耐えきれず、シェリルの祖母に真実を告げたのよ。怒りに燃えたシェリルの祖母は、ナイフを隠し持って突き落とした子の家を訪ね、孫娘の仇を討とうとしたというわけ。まぁ結局、その子の両親に取り押さえられて未遂に終わったけど」
「シェリルを突き落とした子は捕まったの?」
「いいえ。今のところ証言者は一人しかいないし……立証は難しいんじゃないかしら。突き落とした本人が自白したとしても、まだ子供だから重い罪には問われないでしょうしね」
「そんな……」
唇をかみしめて目を伏せるフレデリカの髪を、マチルダが優しく撫でる。
「シェリルがこのことを知ったら、浮遊霊どころか悪霊になっていたかもしれない。だから、祖母のところへ行かせるわけにはいかなかったのよ」
「理由も聞かずに責めたりしてごめんなさい」
「分かってもらえて嬉しいわ。それじゃ、私はもうひと仕事してくるわね」
マチルダは、シェリルの父親の抜け殻が入った瓶を見つめながら、冷酷な笑みを浮かべる。
「……何をするつもり?」
「シェリルの父親が昔、命と引き換えに願ったことを叶えてあげるのよ。このウジ虫は『償いたい』と言っていたわ。だから、娘の無念を晴らすために役立ってもらおうと思って。この抜け殻で美味しいスープを作って、シェリルを死に追いやった人間にご馳走してあげるの。そうすれば、万事解決よ」
マチルダの作る「天使のスープ」を口にした者は、一つだけ願いを叶えてもらう代わりに、残りの寿命を全て奪われる。
そして抜け殻となった肉体は、次のスープの材料として瓶に詰められ、地下室の棚に並べられるのだ。
フレデリカは、悲しみを湛えた瞳でマチルダを見つめる。
「そんな顔をしないでよ。汚れを取り除けば、世界は美しくなるんだから」
そう言い残すと、マチルダは光と共に姿を消した。
フレデリカは、マチルダに出会ってからずっと、葛藤を抱えてきた。
マチルダのように、生きている人間の寿命を奪い取る天使にはなりたくない。
だけど、その行為を否定しきれない気持ちも、確かにある。
マチルダの元を訪れる人間達は、程度の差こそあれ罪を犯している者がほとんどで、彼らは皆、裁かれることなく生き永らえていた。
彼らの罪に触れるたび、フレデリカは嫌悪感を覚えつつ、こうも感じていた。
もしも私が人間で、彼らと同じ境遇に陥っていたら。
果たして、罪を犯さずにいられただろうか。
彼らの犯した罪は憎い。
罰してやりたいという気持ちも、心のどこかにはある。
けれども、お前にそんな資格があるのかと問われたら、首を縦には振れない。
だからフレデリカは、マチルダのやり方を否定も肯定も出来ずにいるのだ。
ため息をつきながら冷蔵庫の扉を開け、余ってしまったクレームブリュレを一つ取り出す。
スプーンで口に運ぶと、やわらかなカスタードの風味が、なめらかに舌の上で溶けた。
それはとても、穏やかで優しい甘さだった。
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