1 / 13
チョコとクルミのスコーン
しおりを挟む
ギィと音を立てて、入り口の扉が開く。
ここは、とある街の片隅にある、カウンター席だけの小さなお店。
店主のフレデリカは、人間の世界で修行を積んでいる見習い天使だ。
このお店はマチルダという天使から譲り受けたもので、フレデリカは寿命を迎えた人間の魂を天上へ返す前に、人生で最後の一皿となる料理を作ってあげることにしている。
「こんにちは」
フレデリカは、扉を開けて中へ入ってきた女性に声をかけた。
ふっくらとした優しい顔立をしたその女性は、不思議そうに店の中を見回している。
「あの……私、どうしちゃったのかしら。今日は娘が友達を連れてくるって言うから、スコーンを焼こうとして……足りない材料があったから買いに出かけて、それで……」
そこで女性が言葉に詰まる。
フレデリカは、彼女の代わりに言葉を続けた。
「それで、道端に停められた荷車のそばを通りかかった時に、崩れてきた荷物の下敷きになったんですよね、デボラさん」
ニッコリ微笑むフレデリカに、デボラと呼ばれた女性は眉をひそめる。
「だけど私、どこも怪我なんかしてないわ。痛みも感じないし」
「ええ、そうでしょうね。だって今のあなたは、もう魂だけになってしまったんですもの。嘘だと思うなら、あなたのものだった体がどうなったか、確かめてくるといいわ。事故があったのは、すぐそこの大通りですから」
デボラは青ざめた表情で店を飛び出し、しばらくするとまた戻ってきた。
「どうしよう……もうすぐ学校が終わって、あの子が帰ってくるのに……チョコとクルミの入ったスコーンを焼いてあげるって、約束したのに……」
さめざめと泣き出すデボラに、フレデリカはこう提案した。
「じゃあ、私が代わりに焼きましょうか」
「……え?」
デボラが戸惑いを浮かべた瞳でフレデリカを見る。
「申し遅れました。私、見習い天使のフレデリカといいます。人間の魂を天上へ返す前に、最後の一皿をごちそうすることにしているんです。デボラさんの食べたいものは“スコーン”ってことでいいですか?」
「……私が食べたいわけじゃないのよ。娘に食べさせたいの」
フレデリカは、顎に手を当てて少し考え込む。
「自分が食べたいものじゃなくて、娘さんに食べさせたいものですか……いいですよ。それじゃ、早速レシピを教えてください」
「え? 私が教えるの?」
デボラが目を丸くする。
「はい。本人がレシピを知らない場合は、魂の記憶をたどって味などを再現しますけど、今回は直接聞いた方が早いですから」
フレデリカはカウンターの後ろにある作業台の上へ、ボウルや木べらなどの調理道具を並べていく。
「材料は?」
というフレデリカの問いに
「ええっと、小麦粉・バター・砂糖にミルク……それから膨らし粉をほんの少し。あとはチョコチップとクルミも忘れずに」
とデボラが答えていくと、材料が次々と作業台の上に現れた。
「凄いわ! 魔法みたい!」
感嘆の声を上げるデボラに、フレデリカは
「それでは、作り方の手順を教えていただけますか?」
と先を促す。
「はいはい、まずは小麦粉と砂糖と膨らし粉をボウルに入れて、泡立て器でよくかき混ぜてちょうだい」
「粉をふるいにかけずに、泡立て器でかき混ぜるんですか?」
フレデリカが手を止めて尋ねると、デボラは豪快に笑いながら答えた。
「私みたいに大雑把でズボラなタイプはね、粉をふるいにかけるなんて、そんな面倒なことはしないのよ。こんな性格だから、お菓子作りは苦手なんだけど……このスコーンだけは、適当に作っても美味しく焼き上がるからお気に入りなの」
フレデリカは納得したように頷くと、言われた通りに作業を進めていく。
「次は小さく切ったバターを入れて、木べらで更に細かく切るようにしながら粉と混ぜ合わせてね。バターの塊がなくなってきたら、両手の指先で擦り合わせるようにしながら、粉チーズ状にするの。手の熱でバターが溶けないように、手早くやるのがコツよ」
デボラは指示を出しながらフレデリカの手元に目をやり
「あなた、手際がいいわねぇ」
と感心したように呟く。
「この後は?」
フレデリカが先を促す。
「ミルクを入れてゴムベラで混ぜるんだけど、少し粉っぽさが残るくらいでやめてね。あっそうそう、チョコチップと砕いたクルミも入れないとね。それから手で何回か折りたたむようにしてまとめて……粉っぽさがなくなってきたら、ラップに包んで冷蔵庫で休ませてちょうだい」
生地を休ませている間、フレデリカはデボラに温かい紅茶を淹れた。
「ありがとう。魂だけになっても、紅茶を飲んだりできるのね」
デボラは嬉しそうにティーカップを持ち上げて口をつける。
「こうしてお店の中にいる間だけですけどね」
フレデリカの返事に、デボラはそっと目を伏せ
「そうなのね……」
と言ったきり、黙り込んでしまった。
静寂の中、遠くから街の喧騒が微かに届く。
紅茶を飲み干すと、デボラは沈黙を破ってフレデリカに話しかけた。
「ねぇ、さっき人間の魂を天上に返すって言ってたけど、そのあと魂はどうなるの?」
「他の魂と混ざり合って、また新しく生まれ変わります」
「混ざっちゃうの?」
「はい。ごちゃ混ぜです」
「天国とか地獄とかは?」
「人間がイメージするようなものはありません」
「へぇ……そうなんだ。なんか、ちょっとガッカリだわ」
「どうしてですか?」
「だって、良いことをした人も悪いことをした人も、みんな同じところに行って混ざり合っちゃうんでしょ? そんなのって……何だかちょっと、損した気分だわ」
デボラの言葉に、フレデリカは首をかしげる。
「そうですか?」
「そうよ! 私はね、なるべく悪いことはしないように生きてきたし、人には親切にするよう心がけてきたんだから!」
「それならきっと、いい人生だったんじゃないですか?」
「……そうね、まぁ悪くはなかったんじゃないかしら。そりゃあ、いろいろ嫌なことだってあったけど、それなりに楽しいこともあったし……」
フレデリカは、ニコニコしながらデボラの話を聞いている。
つられてデボラも笑顔になり
「さあ、それじゃ続きに取りかかりましょうか」
と言って立ち上がった。
冷蔵庫から生地を取り出したフレデリカに、デボラが次の手順を伝える。
「生地がくっつかないように打ち粉を振ったら、めんぼうで厚さ二センチくらいに生地を伸ばして、平べったい円形にしてちょうだい」
「円形ですか?」
「そうよ。大きな円形に伸ばして、ピザみたいにナイフで八等分にカットするの」
「なるほど。型抜きする時みたいに生地が余ることもなくて、いいですね」
フレデリカの反応に、デボラは得意そうな顔をする。
「あとは表面にミルクを塗って、オーブンで焼くだけよ」
フレデリカは天板に生地を並べてオーブンに入れると、分厚いノートを取り出して何やら熱心に書き込んでいる。
「何を書いているの?」
デボラが尋ねると
「レシピノートです」
という答えが返ってきた。
「へぇ、天使もレシピノートなんて書くのね。お気に入りのレシピはどれ?」
「特にありません。記録として残しているだけなので」
淡々としたフレデリカの返事に、デボラは苦笑いする。
「天使って、みんなあなたみたいに最後の一皿を作ってくれるの?」
「いえ、いろいろなタイプがいますよ」
「たとえば?」
「マチルダという天使は、罪人や悪人の生命力を吸い取って魂を奪い取り、抜け殻になった肉体はスープの材料にしていました」
フレデリカの発言に、デボラはギョッとした顔をする。
「冗談よね?」
「本当です」
「……天使っていうより、悪魔とか死神みたいね」
デボラはそう呟いてから
「やだ、失礼なこと言っちゃったわ」
と慌てたように自分の口に手をあてる。
フレデリカは少しも気にしていない様子で
「人間にとっては、似たようなものかもしれませんね」
と穏やかな声で返すと、オーブンの中を覗き込んだ。
スコーンの表面には綺麗な焼き色がついている。
その時ちょうどタイマーが鳴り、フレデリカはオーブンの扉を開けた。
スコーンを取り出して網の上にのせ、粗熱をとる。
「いい匂い! 私も食べたくなってきちゃった。一つ食べてもいい?」
デボラが尋ねると、フレデリカは
「最後の一皿を口にした魂はすぐに天上へ召されてしまいますから、食べるのは娘さんに会ってからにした方がいいんじゃないですか?」
と返した。
「娘に会わせてくれるの?」
デボラは驚きの声をあげる。
「向こうからは見えませんが、デボラさんからは娘さんの姿を見ることが出来ますから、スコーンを届ける時、一緒に行きましょう」
フレデリカの言葉に、デボラは一瞬だけ嬉しそうな顔をしたが、すぐに悲しそうな表情へと変わり
「会いに行くのはやめとくわ」
と断った。
「最後に顔を見ておかなくていいんですか?」
「ええ、大丈夫。顔を見たら、天上へ行くのが嫌になってしまいそうだから」
「分かりました。では、お一つどうぞ」
デボラはカウンター席に腰掛け、フレデリカの差し出してくれた皿の上からスコーンを一つ手に取り、口へと運んだ。
カリッとした歯ざわりのあと、口の中でホロリと崩れ、クルミの香ばしい歯ごたえがする。
少し溶けたチョコレートの甘さを舌に感じながら、デボラは家族と過ごしてきた日々を思い返していた。
食べ終えたデボラは、スコーンを載せた皿をフレデリカの方へと押しやり
「やっぱり、娘のところへは届けなくていいわ。残りは全部、あなたにあげる」
と言った。
「どうしてですか?」
「だって、あなたが突然『お母さんからのお届け物です』って言ってスコーンを渡しに行ったら、きっと不審に思われて追い返されちゃうわ。もし受け取ってくれたとしても、喜んでもらえるかどうか分からないし……」
話しながら、デボラの姿は徐々に透き通っていく。
「スコーンを焼いてくれてありがとう。とっても美味しかったわ。私の魂を送り出してくれる天使があなたで、本当に良かった」
その言葉を最後に、デボラは跡形もなく消え去った。
フレデリカは、デボラの残したスコーンを見つめながら考え込んでいた。
本当に、このスコーンをデボラの娘に届けなくて良いのだろうか。
するとそこへ、まばゆい光が差し込み、天使のマチルダが姿を現した。
彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべながら
「悩み事?」
とフレデリカに尋ねる。
「別に」
素っ気なく答えるフレデリカだったが、そんな彼女が可愛くてたまらないというように、マチルダはフレデリカをきつく抱きしめた。
「ちょっと、やめてよ!」
フレデリカはマチルダの体を押しのけて睨みつける。
ハッキリと拒絶されたのに、マチルダは何故か嬉しそうにフレデリカを見つめている。
「あなたって、やっぱり最高ね。人間に対してはあんなに丁寧な態度で接するのに、師である私のことは、ぞんざいに扱うんだから。弱きを助け、強きを挫くっていうの? そういうところが、他の天使達とは全然違うのよね」
マチルダは、手を伸ばしてフレデリカの頬にそっと触れた。
「ねぇ、このお店を譲ってあげたんだから、私の後継者として罪人や悪人の魂を奪い取る役割を担ってよ。あなたが後を継いでくれたら、私は大天使に昇格できるし、あなたのことだって、すぐに見習い天使から卒業させてあげられるんだけどなぁ」
フレデリカは、マチルダの手を強く払いのけた。
「あなたってホントに卑怯だわ。寿命の残っている人間の魂を奪い取るくらいなら、私は見習い天使のままで結構よ」
「へぇ、悪人や罪人にも寿命を全うする権利があるって、本気で思ってるんだね。まだまだ修行が足りないなぁ」
フレデリカはマチルダを無視することに決めて、皿の上ですっかり冷たくなってしまったスコーンを紙袋に入れた。
「それ、どうする気?」
マチルダに聞かれたが、フレデリカは返事をせずに、店の入口へと向かう。
「娘のところへ行くつもりなら、やめなさい」
先程とは打って変わった厳しいマチルダの声に、フレデリカは思わず足を止める。
マチルダは、真剣な表情でフレデリカに語りかけた。
「デボラは、『娘のところへは届けなくていい』と言ったはずよ」
「でも、本当は娘さんに食べさせてあげたかったのかもしれない」
「そうね、私もそう思うわ。でもね、デボラは自分の気持ちよりも、娘の気持ちを大切にしたかったんじゃないかしら」
「どういうこと?」
「デボラの娘は今、母を亡くして悲しみに沈んでいるのよ? そんな時に、母親を思い出させるようなものを届けに行って、喜んでもらえると思う?」
フレデリカは、スコーンの入った紙袋をギュッと握り締めながら、声を絞り出した。
「……嬉しくは……ないかもしれない」
マチルダは、真面目な表情を崩してニッコリ笑うと、素早くフレデリカに近付いて紙袋を奪い取った。
「ちょっと!」
フレデリカが止める間もなく、マチルダは紙袋の中からスコーンを一つ取り出して齧り付く。
「美味しーい! でも、ちょっと冷めちゃってるわね。温め直しましょう」
そう言って、マチルダはオーブンにスコーンを並べるとスイッチを入れた。
フレデリカは、すぐさまスイッチを切って抗議する。
「勝手にオーブンを使わないで!」
「いいじゃない、元々は私のお店だったんだから」
「今は私のお店よ!」
「あなたって、本当に可愛くないわねぇ」
そう言いながらも、フレデリカを見つめるマチルダの眼差しは、慈愛に満ちていた。
ここは、とある街の片隅にある、カウンター席だけの小さなお店。
店主のフレデリカは、人間の世界で修行を積んでいる見習い天使だ。
このお店はマチルダという天使から譲り受けたもので、フレデリカは寿命を迎えた人間の魂を天上へ返す前に、人生で最後の一皿となる料理を作ってあげることにしている。
「こんにちは」
フレデリカは、扉を開けて中へ入ってきた女性に声をかけた。
ふっくらとした優しい顔立をしたその女性は、不思議そうに店の中を見回している。
「あの……私、どうしちゃったのかしら。今日は娘が友達を連れてくるって言うから、スコーンを焼こうとして……足りない材料があったから買いに出かけて、それで……」
そこで女性が言葉に詰まる。
フレデリカは、彼女の代わりに言葉を続けた。
「それで、道端に停められた荷車のそばを通りかかった時に、崩れてきた荷物の下敷きになったんですよね、デボラさん」
ニッコリ微笑むフレデリカに、デボラと呼ばれた女性は眉をひそめる。
「だけど私、どこも怪我なんかしてないわ。痛みも感じないし」
「ええ、そうでしょうね。だって今のあなたは、もう魂だけになってしまったんですもの。嘘だと思うなら、あなたのものだった体がどうなったか、確かめてくるといいわ。事故があったのは、すぐそこの大通りですから」
デボラは青ざめた表情で店を飛び出し、しばらくするとまた戻ってきた。
「どうしよう……もうすぐ学校が終わって、あの子が帰ってくるのに……チョコとクルミの入ったスコーンを焼いてあげるって、約束したのに……」
さめざめと泣き出すデボラに、フレデリカはこう提案した。
「じゃあ、私が代わりに焼きましょうか」
「……え?」
デボラが戸惑いを浮かべた瞳でフレデリカを見る。
「申し遅れました。私、見習い天使のフレデリカといいます。人間の魂を天上へ返す前に、最後の一皿をごちそうすることにしているんです。デボラさんの食べたいものは“スコーン”ってことでいいですか?」
「……私が食べたいわけじゃないのよ。娘に食べさせたいの」
フレデリカは、顎に手を当てて少し考え込む。
「自分が食べたいものじゃなくて、娘さんに食べさせたいものですか……いいですよ。それじゃ、早速レシピを教えてください」
「え? 私が教えるの?」
デボラが目を丸くする。
「はい。本人がレシピを知らない場合は、魂の記憶をたどって味などを再現しますけど、今回は直接聞いた方が早いですから」
フレデリカはカウンターの後ろにある作業台の上へ、ボウルや木べらなどの調理道具を並べていく。
「材料は?」
というフレデリカの問いに
「ええっと、小麦粉・バター・砂糖にミルク……それから膨らし粉をほんの少し。あとはチョコチップとクルミも忘れずに」
とデボラが答えていくと、材料が次々と作業台の上に現れた。
「凄いわ! 魔法みたい!」
感嘆の声を上げるデボラに、フレデリカは
「それでは、作り方の手順を教えていただけますか?」
と先を促す。
「はいはい、まずは小麦粉と砂糖と膨らし粉をボウルに入れて、泡立て器でよくかき混ぜてちょうだい」
「粉をふるいにかけずに、泡立て器でかき混ぜるんですか?」
フレデリカが手を止めて尋ねると、デボラは豪快に笑いながら答えた。
「私みたいに大雑把でズボラなタイプはね、粉をふるいにかけるなんて、そんな面倒なことはしないのよ。こんな性格だから、お菓子作りは苦手なんだけど……このスコーンだけは、適当に作っても美味しく焼き上がるからお気に入りなの」
フレデリカは納得したように頷くと、言われた通りに作業を進めていく。
「次は小さく切ったバターを入れて、木べらで更に細かく切るようにしながら粉と混ぜ合わせてね。バターの塊がなくなってきたら、両手の指先で擦り合わせるようにしながら、粉チーズ状にするの。手の熱でバターが溶けないように、手早くやるのがコツよ」
デボラは指示を出しながらフレデリカの手元に目をやり
「あなた、手際がいいわねぇ」
と感心したように呟く。
「この後は?」
フレデリカが先を促す。
「ミルクを入れてゴムベラで混ぜるんだけど、少し粉っぽさが残るくらいでやめてね。あっそうそう、チョコチップと砕いたクルミも入れないとね。それから手で何回か折りたたむようにしてまとめて……粉っぽさがなくなってきたら、ラップに包んで冷蔵庫で休ませてちょうだい」
生地を休ませている間、フレデリカはデボラに温かい紅茶を淹れた。
「ありがとう。魂だけになっても、紅茶を飲んだりできるのね」
デボラは嬉しそうにティーカップを持ち上げて口をつける。
「こうしてお店の中にいる間だけですけどね」
フレデリカの返事に、デボラはそっと目を伏せ
「そうなのね……」
と言ったきり、黙り込んでしまった。
静寂の中、遠くから街の喧騒が微かに届く。
紅茶を飲み干すと、デボラは沈黙を破ってフレデリカに話しかけた。
「ねぇ、さっき人間の魂を天上に返すって言ってたけど、そのあと魂はどうなるの?」
「他の魂と混ざり合って、また新しく生まれ変わります」
「混ざっちゃうの?」
「はい。ごちゃ混ぜです」
「天国とか地獄とかは?」
「人間がイメージするようなものはありません」
「へぇ……そうなんだ。なんか、ちょっとガッカリだわ」
「どうしてですか?」
「だって、良いことをした人も悪いことをした人も、みんな同じところに行って混ざり合っちゃうんでしょ? そんなのって……何だかちょっと、損した気分だわ」
デボラの言葉に、フレデリカは首をかしげる。
「そうですか?」
「そうよ! 私はね、なるべく悪いことはしないように生きてきたし、人には親切にするよう心がけてきたんだから!」
「それならきっと、いい人生だったんじゃないですか?」
「……そうね、まぁ悪くはなかったんじゃないかしら。そりゃあ、いろいろ嫌なことだってあったけど、それなりに楽しいこともあったし……」
フレデリカは、ニコニコしながらデボラの話を聞いている。
つられてデボラも笑顔になり
「さあ、それじゃ続きに取りかかりましょうか」
と言って立ち上がった。
冷蔵庫から生地を取り出したフレデリカに、デボラが次の手順を伝える。
「生地がくっつかないように打ち粉を振ったら、めんぼうで厚さ二センチくらいに生地を伸ばして、平べったい円形にしてちょうだい」
「円形ですか?」
「そうよ。大きな円形に伸ばして、ピザみたいにナイフで八等分にカットするの」
「なるほど。型抜きする時みたいに生地が余ることもなくて、いいですね」
フレデリカの反応に、デボラは得意そうな顔をする。
「あとは表面にミルクを塗って、オーブンで焼くだけよ」
フレデリカは天板に生地を並べてオーブンに入れると、分厚いノートを取り出して何やら熱心に書き込んでいる。
「何を書いているの?」
デボラが尋ねると
「レシピノートです」
という答えが返ってきた。
「へぇ、天使もレシピノートなんて書くのね。お気に入りのレシピはどれ?」
「特にありません。記録として残しているだけなので」
淡々としたフレデリカの返事に、デボラは苦笑いする。
「天使って、みんなあなたみたいに最後の一皿を作ってくれるの?」
「いえ、いろいろなタイプがいますよ」
「たとえば?」
「マチルダという天使は、罪人や悪人の生命力を吸い取って魂を奪い取り、抜け殻になった肉体はスープの材料にしていました」
フレデリカの発言に、デボラはギョッとした顔をする。
「冗談よね?」
「本当です」
「……天使っていうより、悪魔とか死神みたいね」
デボラはそう呟いてから
「やだ、失礼なこと言っちゃったわ」
と慌てたように自分の口に手をあてる。
フレデリカは少しも気にしていない様子で
「人間にとっては、似たようなものかもしれませんね」
と穏やかな声で返すと、オーブンの中を覗き込んだ。
スコーンの表面には綺麗な焼き色がついている。
その時ちょうどタイマーが鳴り、フレデリカはオーブンの扉を開けた。
スコーンを取り出して網の上にのせ、粗熱をとる。
「いい匂い! 私も食べたくなってきちゃった。一つ食べてもいい?」
デボラが尋ねると、フレデリカは
「最後の一皿を口にした魂はすぐに天上へ召されてしまいますから、食べるのは娘さんに会ってからにした方がいいんじゃないですか?」
と返した。
「娘に会わせてくれるの?」
デボラは驚きの声をあげる。
「向こうからは見えませんが、デボラさんからは娘さんの姿を見ることが出来ますから、スコーンを届ける時、一緒に行きましょう」
フレデリカの言葉に、デボラは一瞬だけ嬉しそうな顔をしたが、すぐに悲しそうな表情へと変わり
「会いに行くのはやめとくわ」
と断った。
「最後に顔を見ておかなくていいんですか?」
「ええ、大丈夫。顔を見たら、天上へ行くのが嫌になってしまいそうだから」
「分かりました。では、お一つどうぞ」
デボラはカウンター席に腰掛け、フレデリカの差し出してくれた皿の上からスコーンを一つ手に取り、口へと運んだ。
カリッとした歯ざわりのあと、口の中でホロリと崩れ、クルミの香ばしい歯ごたえがする。
少し溶けたチョコレートの甘さを舌に感じながら、デボラは家族と過ごしてきた日々を思い返していた。
食べ終えたデボラは、スコーンを載せた皿をフレデリカの方へと押しやり
「やっぱり、娘のところへは届けなくていいわ。残りは全部、あなたにあげる」
と言った。
「どうしてですか?」
「だって、あなたが突然『お母さんからのお届け物です』って言ってスコーンを渡しに行ったら、きっと不審に思われて追い返されちゃうわ。もし受け取ってくれたとしても、喜んでもらえるかどうか分からないし……」
話しながら、デボラの姿は徐々に透き通っていく。
「スコーンを焼いてくれてありがとう。とっても美味しかったわ。私の魂を送り出してくれる天使があなたで、本当に良かった」
その言葉を最後に、デボラは跡形もなく消え去った。
フレデリカは、デボラの残したスコーンを見つめながら考え込んでいた。
本当に、このスコーンをデボラの娘に届けなくて良いのだろうか。
するとそこへ、まばゆい光が差し込み、天使のマチルダが姿を現した。
彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべながら
「悩み事?」
とフレデリカに尋ねる。
「別に」
素っ気なく答えるフレデリカだったが、そんな彼女が可愛くてたまらないというように、マチルダはフレデリカをきつく抱きしめた。
「ちょっと、やめてよ!」
フレデリカはマチルダの体を押しのけて睨みつける。
ハッキリと拒絶されたのに、マチルダは何故か嬉しそうにフレデリカを見つめている。
「あなたって、やっぱり最高ね。人間に対してはあんなに丁寧な態度で接するのに、師である私のことは、ぞんざいに扱うんだから。弱きを助け、強きを挫くっていうの? そういうところが、他の天使達とは全然違うのよね」
マチルダは、手を伸ばしてフレデリカの頬にそっと触れた。
「ねぇ、このお店を譲ってあげたんだから、私の後継者として罪人や悪人の魂を奪い取る役割を担ってよ。あなたが後を継いでくれたら、私は大天使に昇格できるし、あなたのことだって、すぐに見習い天使から卒業させてあげられるんだけどなぁ」
フレデリカは、マチルダの手を強く払いのけた。
「あなたってホントに卑怯だわ。寿命の残っている人間の魂を奪い取るくらいなら、私は見習い天使のままで結構よ」
「へぇ、悪人や罪人にも寿命を全うする権利があるって、本気で思ってるんだね。まだまだ修行が足りないなぁ」
フレデリカはマチルダを無視することに決めて、皿の上ですっかり冷たくなってしまったスコーンを紙袋に入れた。
「それ、どうする気?」
マチルダに聞かれたが、フレデリカは返事をせずに、店の入口へと向かう。
「娘のところへ行くつもりなら、やめなさい」
先程とは打って変わった厳しいマチルダの声に、フレデリカは思わず足を止める。
マチルダは、真剣な表情でフレデリカに語りかけた。
「デボラは、『娘のところへは届けなくていい』と言ったはずよ」
「でも、本当は娘さんに食べさせてあげたかったのかもしれない」
「そうね、私もそう思うわ。でもね、デボラは自分の気持ちよりも、娘の気持ちを大切にしたかったんじゃないかしら」
「どういうこと?」
「デボラの娘は今、母を亡くして悲しみに沈んでいるのよ? そんな時に、母親を思い出させるようなものを届けに行って、喜んでもらえると思う?」
フレデリカは、スコーンの入った紙袋をギュッと握り締めながら、声を絞り出した。
「……嬉しくは……ないかもしれない」
マチルダは、真面目な表情を崩してニッコリ笑うと、素早くフレデリカに近付いて紙袋を奪い取った。
「ちょっと!」
フレデリカが止める間もなく、マチルダは紙袋の中からスコーンを一つ取り出して齧り付く。
「美味しーい! でも、ちょっと冷めちゃってるわね。温め直しましょう」
そう言って、マチルダはオーブンにスコーンを並べるとスイッチを入れた。
フレデリカは、すぐさまスイッチを切って抗議する。
「勝手にオーブンを使わないで!」
「いいじゃない、元々は私のお店だったんだから」
「今は私のお店よ!」
「あなたって、本当に可愛くないわねぇ」
そう言いながらも、フレデリカを見つめるマチルダの眼差しは、慈愛に満ちていた。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説

地獄の業火に焚べるのは……
緑谷めい
恋愛
伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。
やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。
※ 全5話完結予定

婚約破棄?一体何のお話ですか?
リヴァルナ
ファンタジー
なんだかざまぁ(?)系が書きたかったので書いてみました。
エルバルド学園卒業記念パーティー。
それも終わりに近付いた頃、ある事件が起こる…
※エブリスタさんでも投稿しています
追放された偽物聖女は、辺境の村でひっそり暮らしている
黎
ファンタジー
辺境の村で人々のために薬を作って暮らすリサは“聖女”と呼ばれている。その噂を聞きつけた騎士団の数人が現れ、あらゆる疾病を治療する万能の力を持つ聖女を連れて行くべく強引な手段に出ようとする中、騎士団長が割って入る──どうせ聖女のようだと称えられているに過ぎないと。ぶっきらぼうながらも親切な騎士団長に惹かれていくリサは、しかし実は数年前に“偽物聖女”と帝都を追われたクラリッサであった。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた
下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。
ご都合主義のハッピーエンドのSSです。
でも周りは全くハッピーじゃないです。
小説家になろう様でも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる