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午前十時のお客様

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 新聞を読み終えた『三日月亭』の店主が、クロワッサンを使った新しいメニューをノートに書きつけていると、入り口の扉が静かに開いた。

 カラン。

 短く、控えめな鐘の音が鳴り、ジャケットを羽織った老紳士が、ステッキを片手に店の中へと入ってくる。

「おはようございます」

 マスターの挨拶に、老紳士は帽子をとりながら柔和な笑みを返す。

 それから窓際のテーブル席に腰掛けると、マスターに向かって
「いつもの」
 と声をかけた。

 マスターはカウンターの向こうから
「承知しました」
 と答え、奥の調理場へと引っ込む。

 老紳士は、窓の向こうに見える裏庭の景色をぼんやりと眺めながら、椅子の背もたれに寄りかかった。

 香ばしい匂いが店内に充満し、クロワッサン・サンドと温野菜サラダをトレイに載せたマスターが、老紳士のテーブルの方へと歩み寄る。

 マスターはトレイをテーブルに置きながら
「本日の日替わりクロワッサン・サンドの具材は、焼きベーコンとポーチドエッグです。付け合わせの温野菜サラダは、ブロッコリーとエリンギにオリーブオイルをかけて蒸したものになります。どちらも、味付けは軽く塩を振っただけなので、お好みでオーロラソースをかけてお召し上がり下さい」
 と言って、銀色のソースポットを差し出した。
 その中には、オレンジがかった桃色のクリーミーなソースが入っている。

「オーロラソース?」

 老紳士の問いかけに、マスターは穏やかな声で答える。

「マヨネーズとケチャップを一対一の割合で混ぜたソースのことです。うちはそこに、ブラウンシュガーを加えています」

「簡単に作れるんだな」 

「はい。本場のオーロラソースは、ベシャメルソースというホワイトソースにトマトピューレやバターを加えるようですが、日本ではこちらの簡易版が一般的ですね」

「かしこまった店でフルコースを食べるわけでもあるまいし、サンドイッチとサラダのお供なら、簡易版で十分だな」

 老紳士はそう言うと、ソースポットに添えられた小さなレードルでオーロラソースをすくい、クロワッサン・サンドの具材と温野菜サラダの上に垂らした。

 それから両手でクロワッサン・サンドをつかみ、大きな口を開けてかぶりつく。

 口の中で存分に味わってから飲み込み
「うん、美味しい」
 と言いながら、老紳士は満足そうに頷いた。

「では、今日のお食事に合いそうなお飲み物をお持ちしますね」

 マスターはそう言ってカウンターの奥へと下がり、少ししてからグラスに入った飲み物を持ってきた。

「こちらは、アイス・ピーチティーです」

「ピーチ……桃の味がするのか?」

「はい。桃の果汁が入ったアイスティーです」

「レモンティーは知っているが、ピーチティーというのは飲んだことがないな……」

 老紳士は、困惑した表情でマスターの方をちらっと見たが、ものは試しだと腹をくくったようで、おそるおそるストローに口をつけた。

「……これはまた、爽やかな風味だね。甘い香りなのに、後味がスッキリしている」

 老紳士はピーチティーがいたく気に入ったようで、ゴクゴクと喉を鳴らして一気に飲み干してしまった。

「おかわりは、サービスさせていただきますね」

 そう言うと、マスターは新しいグラスに入ったピーチティーと空のグラスを交換し、カウンターの向こうへと下がった。



 食事を終えた老紳士は手帳を開き、今日これからスーパーで買って帰るものをメモし始めた。

 食器を下げにきたマスターに、老紳士が話しかける。

「マスター、今日ここで食べたものの材料は、これで合ってるかい? あと、ポーチドエッグの作り方を教えてもらいたいんだが……」

 マスターはメモに目を通してから
「はい、材料はこれで大丈夫です。ポーチドエッグは、沸騰したお湯に酢と塩を加えてから弱火にして、お湯をグルグルかき回しながら渦を作り、中央に卵をそっと割り入れて固まるまで待つのですが、少しコツがいるので……お家で再現するなら、ポーチドエッグではなくスクランブルエッグにしてしまった方が良いかもしれません」
 と答えた。

 それから少し間を置き
「奥様のお加減はいかがですか?」
 と遠慮がちに問いかけた。

「うん、まぁ……食欲はあるし、元気は元気だな。ただ、前みたいに歩けるようになるのは難しいかもしれない」

「そうですか……」

「でも、ここの日替わりクロワッサン・サンドと温野菜サラダを家で再現してやると、『また一緒に三日月亭に行きたい』って言ってリハビリを頑張ってくれるから、いつかまた、二人で店に来られる日がくるかもしれない」

 老紳士の言葉に、マスターは泣き笑いのような表情を浮かべる。

「またのご来店を心よりお待ちしていますと、奥様にお伝え下さい」

 老紳士は軽く頷くと、代金をテーブルの上に置いて席を立ち
「それじゃ、また明日」
 と言って帽子をかぶり、ステッキを片手にゆっくりと店を出て行く。

 カラン。

 入り口の扉に取り付けられた鐘が、短く、寂しげな音を鳴らした。
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