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41.裏切ってもいいかな?
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少し時間が飛んで、同日の夕方。
居間にて玄米茶を啜る。窓の向こうでは影が形を成す裏庭に大きなカラスが降り立ち、日没後の用事を思い出そうとするかのように首を二度ばかり傾げた。塀の端から飛び立とうかと、迷い半分に広げた翼の端が日陰からはみ出し、目に痛いほどの夕陽を引っ掛けて黒虹色に揺れた。
浮月さん(母)を送り出してすぐ、追いかけるような形になりつつも浮月神社の裏手まで足を伸ばして、浮月さん(娘)の置き土産とやらを見てきた僕はその感想として、あの部長は死ぬまで発想がえげつなかったんだななんて想いを抱きつつ。
自宅にて砂音の帰還を待っていた。
「シュークリーム買って来たけど、いる?」
念のためにと予め連絡をしていた妹は寄り道しつつも早めに帰ってきてくれたらしい。
「要らない」若干の胸焼けを抑えつつ。「食べてきたばかりだから」
「そう?」
対面にケーキ箱を置きながら、それで話って、と尋ねられた。
僕は彼女が向かいで腰を下ろすのを待って、まずは気になっていたことを切り出す。
「今後の展望を教えて欲しいんだ」、と。
「っていうと?」
砂音は首を傾げる。
「確かに今朝、君たちは僕ら『普通部』に勝った。だけど僕らの背後にいるのは、はいそうですかと引き下がる輩じゃないでしょ」
「『抑止力』のことだよね」
と、尋ねられて頷く。
「対策はすでに用意してるって白地さんに聞いたけど」
「考えてあるというか、もうその必要はないというか」
そもお兄ちゃんたちは私の能力を勘違いしてたんだよ、と微笑んだ。
「勘違い?」
「『影化』の感染。そう見えるのは確かだろうし、事実そういうものでもあるんだけどさ。結局それは巻き込まれる内側から観測された一側面に過ぎなくて、この能力の本質は社会の二重化にあるんだ。ドッペルゲンガーってのがそも個人の二重化で、簡単に言えば私のはその拡大バージョンというかまぁ個人を増やせば社会になるよねって話」
唐突に長文の解説を投げつけられてまごつく。されど少し時間を置いて十分に文意を咀嚼した後。
「だから、それの何が勘違いなの」、と尋ね直した。
「だからね、今までお兄ちゃんや担任の先生に変だなって気付かれていたのは、本来A組ならA組全員を一気に、二年なら学年全体を一気に殺さなきゃいけなかったのを、色んな事情から中途半端に内側の観測者を残してしまったからなんだよ。きちんとやってれば、誰にも気付かれずに感染は進んで、『抑止力』が出てくるのだってもっと後の方だったんだ」
言われてみれば、と僕は思い出す。白地さんが死んだ時もA組の人間が皆殺しにされた時も、ある種異様なほど誰にも見つかることがなかった。いくら放課後の教室棟とは言え、『影化』現場から人の目が完全に無くなるとは考えにくくて、むしろそんな都合の良い偶然自体が砂音の能力の一部と考える方が自然だった。
「つまり、」と僕が言いかけたのを。
「つまりだよ」と彼女は遮って。「今外側から『抑止力』の人たちが観測しに来ても、もうどれが『影化』済みな私たちの仲間で、どれが『人間』なのかっていうのはわからないんだ」
「……でも殺してみれば、」生き返るかどうかでわかるんじゃないかと言いかけて、馬鹿なことを考えたと口を噤む。
「生き返らない『人間』かもしれないのに、殺せるわけないよね」、と。
元々内部にいた人間からすれば『影化』された者の変化は明らかであっても、後から来た外部の人間にはそのビフォーアフターもわからなければ、名簿記録と本人の照合だって覚束ない。
「というか向こうからすれば、例え今白地ちゃんを殺してみても、彼女は人だったって結果が出るんだと思うよ」
「……ん?」
と、僕が首を傾げたのを受けて、量子力学の話になるんだけどね、と顎に指を当てる。
「一言で観測って言っても、そのためにはまず光を当てる必要があるじゃない。同じように相手が人間かを観測するためにはまず殺してみる必要がある。だけど原理的に、ドッペルゲンガーはその辺りの観測のための干渉を誤魔化してるみたいで、本来なら二つの可能性が同居するはずな箱の中を内側と外側に分断して、観測結果ごと別世界。つまりパラレルワールドってことで処理しちゃうみたいなんだ」
「ちょっと何言ってるかわからない」
と正直に返してみたら、しばしの沈黙の後。
「……ま、いいか」と諦められる。
何だか理不尽に見捨てられたような気分を抱えつつ、ともかく。わかる範囲で尋ねてみた。
「でも君たちは現状まだ二クラスしか取り込んでないから、他のクラスの『人間』から観測されれば今も違和感があるはずでしょ」
「ううん、もうないよ」
と言われて、首を傾げる。砂音が笑う。
「他のクラスはもうない。だって今日、全校生徒を先生ごと殺し尽くしてきたから」
殺されてないのも、後はお兄ちゃんだけ、と。
「……」
なるほどそれで、もうその必要はないなんて答えになるのか、と合点がいく。今更『抑止力』がやってきても対処のしようがない。あるいは発生している『異常』が何なのかさえ把握できないのかもしれない。
「外側から観測する分にはその社会。この場合はうちの学校だけど、それ自体は何も変わっていないように見えて、その一方で確かに私たちの仲間である世界っていうパラレルなレイヤーがある」
これが社会の二重化って意味、と。
「ならむしろ、砂音らにとって今のところ最も危険なのは」
「巳寅さんだね」
『抑止力』側で唯一、砂音らの『異常』を事前に観測してしまった存在。
「それで今朝から捕まえようと探し続けてるんだけど」
「見つからないの?」
頷く。
「でも別に逃げちゃったわけじゃないみたい。うちの校舎にずっといるのは確かみたいで、それっぽい人影は何度も見てるんだ」
「……」
あぁ、やっぱりそうなのか、と。僕の中で少し腑に落ちるものがあった。
一方で、砂音は疑問を消化しきれないらしく。
「それにしても、どうして学校から逃げ出さないんだろう」
油断かな、と首を傾げた彼女の思考を。
それで結局と、あえて遮るように尋ねてみる。
「砂音の目的って何なの?」
少し不意を突かれたような躊躇いの後。
「動機じゃなくて、私の目的?」
「そう」、目的。「あるいは、理想」
「……」
妹はしばらくの沈黙ののち。私の個人的な目的は。
「私たちのような『異常』が一切疎外されない世界、かな」
「……その世界に『普通の人間』はいるの?」
「さぁ、いるかもしれないし。いないかもしれないし」
ただね、と。
「その世界では私たち『異常』の方が圧倒的マジョリティなんだよ。私たちのために社会があって、私たちに合わせて法律が整備されて。誰もが自分の能力を隠さなくて良くて、それぞれに応じた生きやすさを追求する権利があるの。誰かが都合良く使う曖昧な『みんな』なんかに自分を合わせなくても良いし、社会全体の決まり事が一番緩いところで設定されるようになるよ。そうすると『普通の人間』たちも種類がたくさんある『異常』のひとつでしかなくて、つまりはみんな公平に平等じゃない」
たぶんそれが私の理想かな、と。
「……砂音は、もしかして」僕は感想の代わりに尋ねてみた。「『普通の人間』が憎いの?」
「……」
沈黙と強張る微笑みがあって。表情の溶け落ちるままに。
そうかもしれない、と。
「でも私が本当に憎んでるのはきっと、『普通の人間』と『異常な私たち』の間の差分そのものなんだよ」
「差分?」
「例えば『普通の人間』たちの数の方が多いこと。必然、彼らに合わせて動く世界。発言力を失う少数側の『異常な私たち』。そんな自然と出来てしまう力学に負けちゃうことがものすごく嫌。絶対にもっと上手い方法があるはずなのに、考えるのが面倒だからとか人間が馬鹿だからとか、そういう理由でまだ探されてないだけなんだよ、きっと」
「でも……」僕は慎重に言葉を選んだ。「それも仕方ないんじゃないかな」
「『仕方ない』で済ますなよって思わない?」
そんなの戦う前から神様の作った枠組みに負けてるみたいなものじゃん、と。
しかしその言葉は、最初からすべてを諦めているかのように、ため息混じりだった。白地さんが見せたようなそれとも違う、根が深すぎて表面のどこにも現われないたぐいの怒り。理想を実現するために、声を荒げることもなくただ淡々と手順を踏みしめていく革命家の微笑み。
一気に老成してしまったような彼女へと、真正面から対峙するのも躊躇われて。
「君はその『普通の人間』だった白地さんなんかを仲間にしているわけだけど」
「別に個々人が憎いわけじゃないよ」と、断って。
生き物全体の話だよ、と砂音は笑った。
僕はその顔に後ろめたいものを読み取ろうとしたけれど、あるいは余程上手く隠されてしまったのか、それは見た目通りにただの意味なき微笑みでしかなかった。
それでこんな話を聞いて、と砂音は声色を硬くした。
「今更お兄ちゃんに何が決断できるっていうつもりなの?」
「……」
まぁ、やっぱり読まれているよね、なんて。
もちろん戯けるつもりはなく、これ以上回りくどいのも不誠実だろうと、僕は本題から入ることにした。
あくまで『普通部』らしい愛想良さで。
つい先程、浮月さんから引き継いでしまった。
他者を傷付けてしまいかねないほどの理想を。
「仲間に入れてもらったばかりで悪いんだけど」
行動に。
「裏切ってもいいかな?」「ダメ」
見事即答されてしまったものだから、そうかダメかと撤回しかける。もちろん嘘だけど。
「そも裏切るのに相手の了承も何もないでしょ。あんまり馬鹿なこと言ってると本当に怒るよ」
「……はい」
と頷いたものの、彼女の口の端に思わぬものを見つけて首を傾げる。
「何だか嬉しそうだね」
「だってせっかく手に入れた戦力が、犬未満の腰抜けじゃないとわかったんだし」
その心は、犬だって飼い主の手くらい噛むなんてところだろうか。
妹様は続けて尋ねてくる。
「それより一応、どうして裏切るのか聞いておきたいな。まだお兄ちゃんが喋れるうちにさ」
「……」
その言葉で目算。とっさに砂音との距離を測り、窓から逃げる場合の所要時間と比べて、やはり先に退路を確保するべきだったかと後悔する。
されどそんな内心の動揺を悟られぬよう微笑みを崩さずに。
「『普通部』には部則が三つあって、その第一が『適応する姿勢を見せよ』だったんだ」、と。
「……つまり?」
「つまり僕には世界を変えるつもりがないし、そんな力もないということ」
続けて。僕の意見を簡潔にまとめるなら、きっと以下のようになる。
世界を変える際にはどうしても摩擦が生まれて、その熱量は必ず最も弱い人々の元へと皺寄せが行く。今回の事件で何人死んだだろう。何人が傷付いたのだろう。それを砂音は、あと何度繰り返すつもりなんだろう。
世界はそんな簡単には変えられない。
もちろん極端な話でなら一人の人間の力で変わることもあって、それを人は天才の所業と呼ぶ。でもはっきり言って僕たちは天才ではなくただの変な人で、本来なら下手すればただの身体障害者にカテゴライズされるべき『異常』だろう。ならば僕たちには、周りを変えるのではなく自身を変える以外に選択肢がない。世間から見れば、僕たちこそ普通のふりをした方が余程話は早く、わかりやすいのだから。
「でもそれって、マイノリティに甘んじるってことじゃない?」
「全然違うよ」
今ならわかる。だからこそ僕は浮月さんの『普通部』に属することを選べたのだ、と。
つまり。
「『普通』であるってことは生存そのものなんだよ。僕たちは『普通』であろうとする過程で同じ志を持つ仲間と連帯することができる。属した先の集団は僕らが生きるべき居場所となる」
「御託は良いよ」と切って捨てるコミュ力。「それよか、どうやって裏切るつもりなの。今のお兄ちゃんって昨日の契約に縛られている状態だよね」
『影血鬼』が勝利すれば、『普通部』は今後『影血鬼』及びその影響下の人間に手出しをしない。
確かにそれが昨夜の勝負の条件だった。もちろんすでに『普通部』という団体は存在しなくて、僕はその一員じゃないなんて屁理屈が通じるものでもないだろう。
ただし。
「本当に負けていたならね」と、僕は言い添えてみた。
時間が止まったかのような沈黙が置かれて。
「……え?」、と。
可愛い声で驚いてくれるものだから、思わず笑ってしまう。
「砂音はあまり浮月さんのことを知らなかったみたいだけど、あの人の用心深さは並じゃなかったんだ。鞄や懐にナイフを仕込むは当たり前。自身の行動範囲に筋弛緩剤や手榴弾まで隠しておく周到さを持っていた彼女は昨日の夜、勝負開始の数分前になって僕にこう言ったんだ」
少し、作戦を変える必要があるかもですね、と。
「それから浮月さんは、初手での巳寅さんへの攻撃を立案した。もちろん彼女が意図していたのは、巳寅さんを殺してゲーム盤をひっくり返すなんて無謀じゃない。審判という重要な立場の彼自身がどの程度頑丈なのかを知りたかったんだ。そして彼がどちらかの側からも干渉を受け得ない存在であることを確認した。つまり拷問されて片方の側に有利になるような情報を吐くことは万が一にもあり得ない、と」
それは例えば、ゲームは本当に終わったのか。
勾玉を呑み込んだのは本当に浮月さんだったのか。
「……まさか、お兄ちゃんが宿主だった?」
僕は頷く。
それこそが浮月さんの気まぐれに残した保険。僕が受け継いだ彼女の意志。
「ゲームはまだ終わっていない。だから勝負は今夜も引き続き執り行われる」
巳寅さんが今日一日、校舎に留まりつつ砂音らに捕まらないようにしていたのも、同じ理由だ。
「……そっか、真っ先に殺すべきは浮月さんでなくお兄ちゃんだったのね」
油断したな、と。
「……あまり驚かないんだね」
「驚いてるけど、まぁ別にそこまで状況が悪くなったわけでもないし」
「……」
知っていたけど、余程舐められているみたい。
「お兄ちゃんこそ」と、妹は面白そうに。「わかってるの、今度は一対六百だよ?」
「……なら、受けてくれるんだ?」
少し意外だった。
本当は審判との癒着を責められることも想定していて、その場合はゲームが継続していたという事実から導かれる、ゲーム時間外での浮月さんの殺害、休戦協定を破って更に仲間を増やしたことなんかを追求してでも、どうにか勝負に持ち込もうと覚悟していたのだけど。
「仕方ないね。私の甘さが招いた結果だし。今度こそお兄ちゃんをきちんと殺して」
それで改めて私の下僕にしてあげるね、と。
居間にて玄米茶を啜る。窓の向こうでは影が形を成す裏庭に大きなカラスが降り立ち、日没後の用事を思い出そうとするかのように首を二度ばかり傾げた。塀の端から飛び立とうかと、迷い半分に広げた翼の端が日陰からはみ出し、目に痛いほどの夕陽を引っ掛けて黒虹色に揺れた。
浮月さん(母)を送り出してすぐ、追いかけるような形になりつつも浮月神社の裏手まで足を伸ばして、浮月さん(娘)の置き土産とやらを見てきた僕はその感想として、あの部長は死ぬまで発想がえげつなかったんだななんて想いを抱きつつ。
自宅にて砂音の帰還を待っていた。
「シュークリーム買って来たけど、いる?」
念のためにと予め連絡をしていた妹は寄り道しつつも早めに帰ってきてくれたらしい。
「要らない」若干の胸焼けを抑えつつ。「食べてきたばかりだから」
「そう?」
対面にケーキ箱を置きながら、それで話って、と尋ねられた。
僕は彼女が向かいで腰を下ろすのを待って、まずは気になっていたことを切り出す。
「今後の展望を教えて欲しいんだ」、と。
「っていうと?」
砂音は首を傾げる。
「確かに今朝、君たちは僕ら『普通部』に勝った。だけど僕らの背後にいるのは、はいそうですかと引き下がる輩じゃないでしょ」
「『抑止力』のことだよね」
と、尋ねられて頷く。
「対策はすでに用意してるって白地さんに聞いたけど」
「考えてあるというか、もうその必要はないというか」
そもお兄ちゃんたちは私の能力を勘違いしてたんだよ、と微笑んだ。
「勘違い?」
「『影化』の感染。そう見えるのは確かだろうし、事実そういうものでもあるんだけどさ。結局それは巻き込まれる内側から観測された一側面に過ぎなくて、この能力の本質は社会の二重化にあるんだ。ドッペルゲンガーってのがそも個人の二重化で、簡単に言えば私のはその拡大バージョンというかまぁ個人を増やせば社会になるよねって話」
唐突に長文の解説を投げつけられてまごつく。されど少し時間を置いて十分に文意を咀嚼した後。
「だから、それの何が勘違いなの」、と尋ね直した。
「だからね、今までお兄ちゃんや担任の先生に変だなって気付かれていたのは、本来A組ならA組全員を一気に、二年なら学年全体を一気に殺さなきゃいけなかったのを、色んな事情から中途半端に内側の観測者を残してしまったからなんだよ。きちんとやってれば、誰にも気付かれずに感染は進んで、『抑止力』が出てくるのだってもっと後の方だったんだ」
言われてみれば、と僕は思い出す。白地さんが死んだ時もA組の人間が皆殺しにされた時も、ある種異様なほど誰にも見つかることがなかった。いくら放課後の教室棟とは言え、『影化』現場から人の目が完全に無くなるとは考えにくくて、むしろそんな都合の良い偶然自体が砂音の能力の一部と考える方が自然だった。
「つまり、」と僕が言いかけたのを。
「つまりだよ」と彼女は遮って。「今外側から『抑止力』の人たちが観測しに来ても、もうどれが『影化』済みな私たちの仲間で、どれが『人間』なのかっていうのはわからないんだ」
「……でも殺してみれば、」生き返るかどうかでわかるんじゃないかと言いかけて、馬鹿なことを考えたと口を噤む。
「生き返らない『人間』かもしれないのに、殺せるわけないよね」、と。
元々内部にいた人間からすれば『影化』された者の変化は明らかであっても、後から来た外部の人間にはそのビフォーアフターもわからなければ、名簿記録と本人の照合だって覚束ない。
「というか向こうからすれば、例え今白地ちゃんを殺してみても、彼女は人だったって結果が出るんだと思うよ」
「……ん?」
と、僕が首を傾げたのを受けて、量子力学の話になるんだけどね、と顎に指を当てる。
「一言で観測って言っても、そのためにはまず光を当てる必要があるじゃない。同じように相手が人間かを観測するためにはまず殺してみる必要がある。だけど原理的に、ドッペルゲンガーはその辺りの観測のための干渉を誤魔化してるみたいで、本来なら二つの可能性が同居するはずな箱の中を内側と外側に分断して、観測結果ごと別世界。つまりパラレルワールドってことで処理しちゃうみたいなんだ」
「ちょっと何言ってるかわからない」
と正直に返してみたら、しばしの沈黙の後。
「……ま、いいか」と諦められる。
何だか理不尽に見捨てられたような気分を抱えつつ、ともかく。わかる範囲で尋ねてみた。
「でも君たちは現状まだ二クラスしか取り込んでないから、他のクラスの『人間』から観測されれば今も違和感があるはずでしょ」
「ううん、もうないよ」
と言われて、首を傾げる。砂音が笑う。
「他のクラスはもうない。だって今日、全校生徒を先生ごと殺し尽くしてきたから」
殺されてないのも、後はお兄ちゃんだけ、と。
「……」
なるほどそれで、もうその必要はないなんて答えになるのか、と合点がいく。今更『抑止力』がやってきても対処のしようがない。あるいは発生している『異常』が何なのかさえ把握できないのかもしれない。
「外側から観測する分にはその社会。この場合はうちの学校だけど、それ自体は何も変わっていないように見えて、その一方で確かに私たちの仲間である世界っていうパラレルなレイヤーがある」
これが社会の二重化って意味、と。
「ならむしろ、砂音らにとって今のところ最も危険なのは」
「巳寅さんだね」
『抑止力』側で唯一、砂音らの『異常』を事前に観測してしまった存在。
「それで今朝から捕まえようと探し続けてるんだけど」
「見つからないの?」
頷く。
「でも別に逃げちゃったわけじゃないみたい。うちの校舎にずっといるのは確かみたいで、それっぽい人影は何度も見てるんだ」
「……」
あぁ、やっぱりそうなのか、と。僕の中で少し腑に落ちるものがあった。
一方で、砂音は疑問を消化しきれないらしく。
「それにしても、どうして学校から逃げ出さないんだろう」
油断かな、と首を傾げた彼女の思考を。
それで結局と、あえて遮るように尋ねてみる。
「砂音の目的って何なの?」
少し不意を突かれたような躊躇いの後。
「動機じゃなくて、私の目的?」
「そう」、目的。「あるいは、理想」
「……」
妹はしばらくの沈黙ののち。私の個人的な目的は。
「私たちのような『異常』が一切疎外されない世界、かな」
「……その世界に『普通の人間』はいるの?」
「さぁ、いるかもしれないし。いないかもしれないし」
ただね、と。
「その世界では私たち『異常』の方が圧倒的マジョリティなんだよ。私たちのために社会があって、私たちに合わせて法律が整備されて。誰もが自分の能力を隠さなくて良くて、それぞれに応じた生きやすさを追求する権利があるの。誰かが都合良く使う曖昧な『みんな』なんかに自分を合わせなくても良いし、社会全体の決まり事が一番緩いところで設定されるようになるよ。そうすると『普通の人間』たちも種類がたくさんある『異常』のひとつでしかなくて、つまりはみんな公平に平等じゃない」
たぶんそれが私の理想かな、と。
「……砂音は、もしかして」僕は感想の代わりに尋ねてみた。「『普通の人間』が憎いの?」
「……」
沈黙と強張る微笑みがあって。表情の溶け落ちるままに。
そうかもしれない、と。
「でも私が本当に憎んでるのはきっと、『普通の人間』と『異常な私たち』の間の差分そのものなんだよ」
「差分?」
「例えば『普通の人間』たちの数の方が多いこと。必然、彼らに合わせて動く世界。発言力を失う少数側の『異常な私たち』。そんな自然と出来てしまう力学に負けちゃうことがものすごく嫌。絶対にもっと上手い方法があるはずなのに、考えるのが面倒だからとか人間が馬鹿だからとか、そういう理由でまだ探されてないだけなんだよ、きっと」
「でも……」僕は慎重に言葉を選んだ。「それも仕方ないんじゃないかな」
「『仕方ない』で済ますなよって思わない?」
そんなの戦う前から神様の作った枠組みに負けてるみたいなものじゃん、と。
しかしその言葉は、最初からすべてを諦めているかのように、ため息混じりだった。白地さんが見せたようなそれとも違う、根が深すぎて表面のどこにも現われないたぐいの怒り。理想を実現するために、声を荒げることもなくただ淡々と手順を踏みしめていく革命家の微笑み。
一気に老成してしまったような彼女へと、真正面から対峙するのも躊躇われて。
「君はその『普通の人間』だった白地さんなんかを仲間にしているわけだけど」
「別に個々人が憎いわけじゃないよ」と、断って。
生き物全体の話だよ、と砂音は笑った。
僕はその顔に後ろめたいものを読み取ろうとしたけれど、あるいは余程上手く隠されてしまったのか、それは見た目通りにただの意味なき微笑みでしかなかった。
それでこんな話を聞いて、と砂音は声色を硬くした。
「今更お兄ちゃんに何が決断できるっていうつもりなの?」
「……」
まぁ、やっぱり読まれているよね、なんて。
もちろん戯けるつもりはなく、これ以上回りくどいのも不誠実だろうと、僕は本題から入ることにした。
あくまで『普通部』らしい愛想良さで。
つい先程、浮月さんから引き継いでしまった。
他者を傷付けてしまいかねないほどの理想を。
「仲間に入れてもらったばかりで悪いんだけど」
行動に。
「裏切ってもいいかな?」「ダメ」
見事即答されてしまったものだから、そうかダメかと撤回しかける。もちろん嘘だけど。
「そも裏切るのに相手の了承も何もないでしょ。あんまり馬鹿なこと言ってると本当に怒るよ」
「……はい」
と頷いたものの、彼女の口の端に思わぬものを見つけて首を傾げる。
「何だか嬉しそうだね」
「だってせっかく手に入れた戦力が、犬未満の腰抜けじゃないとわかったんだし」
その心は、犬だって飼い主の手くらい噛むなんてところだろうか。
妹様は続けて尋ねてくる。
「それより一応、どうして裏切るのか聞いておきたいな。まだお兄ちゃんが喋れるうちにさ」
「……」
その言葉で目算。とっさに砂音との距離を測り、窓から逃げる場合の所要時間と比べて、やはり先に退路を確保するべきだったかと後悔する。
されどそんな内心の動揺を悟られぬよう微笑みを崩さずに。
「『普通部』には部則が三つあって、その第一が『適応する姿勢を見せよ』だったんだ」、と。
「……つまり?」
「つまり僕には世界を変えるつもりがないし、そんな力もないということ」
続けて。僕の意見を簡潔にまとめるなら、きっと以下のようになる。
世界を変える際にはどうしても摩擦が生まれて、その熱量は必ず最も弱い人々の元へと皺寄せが行く。今回の事件で何人死んだだろう。何人が傷付いたのだろう。それを砂音は、あと何度繰り返すつもりなんだろう。
世界はそんな簡単には変えられない。
もちろん極端な話でなら一人の人間の力で変わることもあって、それを人は天才の所業と呼ぶ。でもはっきり言って僕たちは天才ではなくただの変な人で、本来なら下手すればただの身体障害者にカテゴライズされるべき『異常』だろう。ならば僕たちには、周りを変えるのではなく自身を変える以外に選択肢がない。世間から見れば、僕たちこそ普通のふりをした方が余程話は早く、わかりやすいのだから。
「でもそれって、マイノリティに甘んじるってことじゃない?」
「全然違うよ」
今ならわかる。だからこそ僕は浮月さんの『普通部』に属することを選べたのだ、と。
つまり。
「『普通』であるってことは生存そのものなんだよ。僕たちは『普通』であろうとする過程で同じ志を持つ仲間と連帯することができる。属した先の集団は僕らが生きるべき居場所となる」
「御託は良いよ」と切って捨てるコミュ力。「それよか、どうやって裏切るつもりなの。今のお兄ちゃんって昨日の契約に縛られている状態だよね」
『影血鬼』が勝利すれば、『普通部』は今後『影血鬼』及びその影響下の人間に手出しをしない。
確かにそれが昨夜の勝負の条件だった。もちろんすでに『普通部』という団体は存在しなくて、僕はその一員じゃないなんて屁理屈が通じるものでもないだろう。
ただし。
「本当に負けていたならね」と、僕は言い添えてみた。
時間が止まったかのような沈黙が置かれて。
「……え?」、と。
可愛い声で驚いてくれるものだから、思わず笑ってしまう。
「砂音はあまり浮月さんのことを知らなかったみたいだけど、あの人の用心深さは並じゃなかったんだ。鞄や懐にナイフを仕込むは当たり前。自身の行動範囲に筋弛緩剤や手榴弾まで隠しておく周到さを持っていた彼女は昨日の夜、勝負開始の数分前になって僕にこう言ったんだ」
少し、作戦を変える必要があるかもですね、と。
「それから浮月さんは、初手での巳寅さんへの攻撃を立案した。もちろん彼女が意図していたのは、巳寅さんを殺してゲーム盤をひっくり返すなんて無謀じゃない。審判という重要な立場の彼自身がどの程度頑丈なのかを知りたかったんだ。そして彼がどちらかの側からも干渉を受け得ない存在であることを確認した。つまり拷問されて片方の側に有利になるような情報を吐くことは万が一にもあり得ない、と」
それは例えば、ゲームは本当に終わったのか。
勾玉を呑み込んだのは本当に浮月さんだったのか。
「……まさか、お兄ちゃんが宿主だった?」
僕は頷く。
それこそが浮月さんの気まぐれに残した保険。僕が受け継いだ彼女の意志。
「ゲームはまだ終わっていない。だから勝負は今夜も引き続き執り行われる」
巳寅さんが今日一日、校舎に留まりつつ砂音らに捕まらないようにしていたのも、同じ理由だ。
「……そっか、真っ先に殺すべきは浮月さんでなくお兄ちゃんだったのね」
油断したな、と。
「……あまり驚かないんだね」
「驚いてるけど、まぁ別にそこまで状況が悪くなったわけでもないし」
「……」
知っていたけど、余程舐められているみたい。
「お兄ちゃんこそ」と、妹は面白そうに。「わかってるの、今度は一対六百だよ?」
「……なら、受けてくれるんだ?」
少し意外だった。
本当は審判との癒着を責められることも想定していて、その場合はゲームが継続していたという事実から導かれる、ゲーム時間外での浮月さんの殺害、休戦協定を破って更に仲間を増やしたことなんかを追求してでも、どうにか勝負に持ち込もうと覚悟していたのだけど。
「仕方ないね。私の甘さが招いた結果だし。今度こそお兄ちゃんをきちんと殺して」
それで改めて私の下僕にしてあげるね、と。
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schedule
公開:2019.4.1
連載:2019.4.7-4.18 ( 6:30 & 18:30 )
百物語 厄災
嵐山ノキ
ホラー
怪談の百物語です。一話一話は長くありませんのでお好きなときにお読みください。渾身の仕掛けも盛り込んでおり、最後まで読むと驚くべき何かが提示されます。
小説家になろう、エブリスタにも投稿しています。
令和百物語 ~妖怪小話~
はの
ホラー
今宵は新月。
部屋の灯りは消しまして、百本の蝋燭に火を灯し終えております。
魔よけのために、刀も一本。
さあさあ、役者もそろいましたし、始めましょうか令和四年の百物語。
ルールは簡単、順番に怪談を語りまして、語り終えたら蠟燭の火を一本吹き消します。
百本目の蝋燭の火が消えた時、何が起きるのかを供に見届けましょう。
怪異探偵 井ノ原圭
村井 彰
ホラー
この廃ペンションには、霊が出る。
事の始まりは二年前。オーナー夫妻が不審な死を遂げたその日から、このペンションではそんな噂がまことしやかに囁かれるようになった。
そして先日、ついにこの場所で男が死んだ。自らの喉を切り裂いて、"女"の声で叫び声をあげながら―
*
大学生の早坂奏太は、人には言えないアルバイトをしている。
時に廃墟、時に事故物件、様々な場所に赴き、人ならざる怪異を祓う霊媒師……の、助手だ。
怪異を以て怪異を祓う、奇妙な霊媒師・井ノ原圭と、その助手・早坂奏太。
これはそんな二人が出会う、普通から少し外れた世界の話だ。
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