バーチャルアルファとオレ

コオリ

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1巻

1-3

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  3 一回り上のオメガ


「奏ちゃん、お疲れー!!」

 ドンッと誰かが背中にぶつかってきて、そのまま首にしがみついてきた。
 振り返らなくても、さっきの賑やかな声だけで、誰なのかはすぐにわかる。

「……負けたのに元気ですね。なるさん」
「うわー、嫌味だ。奏ちゃんの嫌味! 久しぶりに聞いた!」

 オレの予想は当たっていたようで、名前を呼ぶとすぐに陽気な声が返ってきた。

「久しぶりって……十日ぶりぐらいですよね」
「そうだねー。ちょうど十日かな。元気だった?」
「まあ、元気ですけど……って、さっき試合したんだからわかってますよね?」
「うん。まーね!」

 嫌味な口調で返しても軽く笑ってねのける、この賑やかな人は成海さん。同じフットサルサークルに所属しているメンバーだ。
 小柄で見た目は可愛らしいのに、結構パワフルな人でプレイにも豪快なところがある。
 成海さんとはさっきまで、サークル内でチームに分かれて一緒に試合をしていた。
 オレのチームは全戦全勝。強い味方がいたのもあったけど、今日はオレも調子がよかった。結構得点をあげられたし、チームにこうけんできたと思う。
 今日は成海さんとは別のチームだった。要するにオレたちにこてんぱんにやられたほう。
 でも、成海さんから悔しそうな感じは全くしない。

「やー、ホントに強かった!」
「負けて悔しくないんですか?」
「別に? ボクの目的はボールをることだけだし! 勝敗なんて気にしなーい」

 その言葉に嘘はなさそうだ。確かにこのサークルのモットーは「楽しくボールをる」だから、それでも間違ってはいないんだけど。
 オレは学校の部活には入っていなかった。
 前はサッカー部に所属していたけど、自分がオメガだってわかってすぐに辞めた。別に誰かに「辞めろ」って言われたわけじゃない。オレが無理だったってだけだ。
 初めて来た発情期がつらかったのもある。
 飲んだ薬があんまり合わなくてしんどかったのもそうだけど……それよりきつかったのが、発情期明けの練習でみんなと力の差を感じたことだった。
 オレがあんなことになっている間も、みんなはたくさん練習してどんどんうまくなっていて――自分だけが置いていかれたような気がした。参加できなかったのはたった一週間だけだったのに、差はそれ以上に広がっている気がして、それが何よりつらかった。
 オレがオメガである以上、そんな気持ちを味わい続けるんだと思ったら我慢できなかった。でもサッカー自体は辞めたくなくて。
 そんな時だった。うちのポストに偶然、このフットサルサークルのチラシが入っていたのは。
 このサークルに所属しているのは基本、大学生と社会人。メンバーは全員オレより年上だったけど、みんな特に事情も聞かずに、オレを優しく迎え入れてくれた。
 部活みたいに大きな試合に向けて練習するわけじゃなくて、ただその日に集まったメンバーでボールをるのが目的。そんなゆるい集まりなのもよかった。
 成海さんはそんなフットサルサークルの中心人物の一人だ。カッコよくいえばこのサークルの創立メンバーってやつ。
 年はオレより一回り上の社会人なのに、ここでは誰よりも気さくにオレの相手をしてくれる。
 一人でここに見学に来たオレの背中を押してくれたのも、この成海さんだった。

「ハンデは同じだと思ったのになー。若さか。奏ちゃんの若さに負けたのか」
「? ハンデ?」
「奏ちゃんも発情期明けでしょ? 同じ条件なら勝てると思ったのになー」
「……ッ」
「ん? どうしたの? 奏ちゃん」

 息をんで固まったオレを、成海さんが不思議そうな顔で見つめていた。だけど、すぐには答えられない。だって、今のって――

「……成海さんも、オメガ……なんですか?」
「そうだよ? あれ? 言ってなかったっけ?」

 おそるおそる聞いたのに、成海さんはまるで当たり前のことのようにうなずいた。ほらほら、と言いながらポケットから出してきたのは、公的に発行されている二次性の証明書だ。
 そこには確かに成海さんの名前と一緒に「オメガ」という文字が印字されていた。

「ホントだ……」
「え? ホントに知らなかったの? 言ったつもりだった」
「聞いてないです……それに、なんで知ってるんですか。オレも……そうだって」
「うちに入る時に書いてもらったじゃん。ボク一応、このサークルの責任者の一人だよ。申込書には、ちゃんと目を通してるって。じゃないと何かあった時に困るでしょ? それに奏ちゃんとはいつも休みがかぶるから、発情期の周期も似てるんだなーって思ってたんだよ」

 言われてみれば、ここに入る時にそんなものを入力したような気がする。成海さんの言うとおり、二次性を記入する欄があった。
 何かがあった場合、相手の二次性によって対処が違う場合がある。予期しない発情なんかがそうだ。緊急用の抑制剤を打つにしてもアレルギーの確認をする必要があるので、そのための必要事項を記入する欄がこのサークルの申込書にもきちんとあった。
 オレはそれを書いたことすら忘れていたのに、成海さんはこのサークルのメンバーのそういう情報が全部頭に入っているらしい。他の責任者もそうだというから驚きだ。

「みんなで楽しくプレイするために必要なことでしょ」

 そう言って笑う成海さんは、いつもより頼もしく見えた。


 着替え終えて更衣室を出ると、廊下に成海さんの後ろ姿が見えた。その隣に誰かいる。初めて見る人だから、うちのサークルの人じゃないことだけはわかる。
 ――誰だろ?
 じっと見ていたら、視線に気づいたその人がオレのほうを見た。目が合うなりいぶかしげに眉をひそめられる。不機嫌ににらむような視線がなんだか怖くて、オレはその場で足を止めた。

「うん?」

 その反応に気づいたのか、成海さんもオレのほうを振り返った。こっちはオレを見るなり嬉しそうに笑って、ぶんぶんと手を振っている。隣に立っている人との温度差がすごい。

てんちゃん、にらむなよー。奏ちゃんはボクの可愛いお友達なんだから」
「……さっき、抱きついてたろ」
「いいじゃん、それぐらい。たまには若くてふわふわなボディに触れたいの。天ちゃんったらガッチガチなんだもん。あ、今のは下ネタじゃないよ?」

 相手は怒っているようにしか見えないのに、成海さんのほうはいつもの軽い調子だった。にこにこと笑いながら、相手の肩を結構な力で叩いている。
 天ちゃんと呼ばれているその男の人は、すごく大きな人だった。背が高いのはもちろん、筋肉質でガタイもいい。何か格闘技をやっていそうな体つきだ。顔もかなりこわもてで、絶対にケンカを売っちゃいけない相手のように見える。
 ――まあ、ケンカなんてできないし、しないけど。

「ったく、天ちゃんは手あたり次第に嫉妬しすぎなんだよ。そんなんで、ボクに愛想つかされても知らないよ」
「それはないだろ」
「大した自信だねー」

 口喧嘩をしているように聞こえるけど、成海さんはいつもどおり楽しそうな表情だ。
 でも今の会話……嫉妬? ってことは、もしかして――

「……その人、成海さんの恋人ですか?」
「そ。ボクのつがいあまだよ。通称は天ちゃんね」
「……石動いするぎ天樹だ」

 ――つがい
 その言葉にオレはぴしりと固まった。
 つがいとはアルファとオメガが結ぶ契約関係のことだ。発情期のある条件下でアルファがオメガのうなじを噛むことで、その関係は成立する。ベータにはない、特別な関係だった。
 オメガにとって自分のうなじを噛んだアルファは生涯の相手となる。そういう風に身体が作り変えられるらしいけど、それが一体どういう仕組みなのか詳しいことまではよく知らない。
 つがいになれば、オメガの発情フェロモンが作用する相手はそのつがいのアルファだけになる。そんな理由から一般的にオメガは、特定のつがいを持つことが推奨されていた。
 でも、いいことばかりじゃない。その契約には代償がある。つがいを得たオメガは、そのアルファを失うと長く生きられないらしい。それも本能の仕組みなんだそうだ。
 それだけ、オメガにとってつがいというのは絶対的な存在だった。
 ――この人が、成海さんのつがいのアルファ。
 確かに天樹さんはアルファらしい見た目だった。近寄りがたい雰囲気も、肌に突き刺さる威圧感も、アルファだからだといわれれば納得できる。
 この間、本屋で見かけたアルファにはなかったのような感覚もあった。簡単には近づけないと感じる怖さだ。早くここから逃げ出したい、そんな気持ちになってくる。
 ――アルファって、やっぱり怖い。

「…………」

 でも、向こうから名乗ってもらったのに、挨拶もせずに立ち去ることはできなかった。
 勇気を振りしぼって、成海さんたちのほうへ一歩近づく。

「――おい、こっちに来るな」
「え……?」

 まだ一歩しか進んでいないのに、天樹さんが低く冷たい声で言いはなった。明らかに不機嫌な声に驚いて、オレは再び立ち止まる。
 驚いているのはオレだけじゃなかった。天樹さんの隣にいた成海さんも、びっくりした表情で天樹さんを見上げている。
 天樹さんは不自然にオレから目をらすと、最初にもしたようにぐっと眉をひそめた。

「どうかしたの? 天ちゃん」

 成海さんが隣から声を掛けても、天樹さんの表情は変わらなかった。返事もせず、しばらく何か考え込むような仕草を見せた後、もう一度、オレのほうへ視線を向ける。

「お前、それ……」
「……?」
「いや、いい――外で待ってる」
「え、ちょっと……? 天ちゃん?」

 天樹さんは早口でそう言うと成海さんの返事も聞かずに、オレのいる方向とは反対側へ立ち去ってしまった。あまりに早すぎる展開に、成海さんですら止めることができない。
 ――今のって、オレのせい? 
 誰かに「来るな」なんて言われたのは初めてだった。しかも、あんな冷たい声で。
 明らかに嫌われたみたいだった。初対面のはずなのに、何か失礼なことをしてしまったんだろうか。不安な気持ちのまま、成海さんの顔を見る。

「どうしちゃったんだろうねー」

 成海さんにもわからないみたいだった。首をかしげているところを見ると、いつもこういう感じというわけでもないらしい。

「ごめんなさい。オレ……なんか」
「いや、別に奏ちゃんのせいじゃないと思うけど……でも、ホントどうしたんだろ。急におなかでも痛くなったのかな?」
「あの……一緒に行かなくていいんですか?」
「いいよいいよ。別に迎えに来いって言ったわけでもないし、待ってるって言ってたんだから待たせておけば。それに、ボクまだ洗濯も済んでないし」

 成海さんはそう言って、自分の足元のカゴを指差した。中にはメンバー全員分のユニフォームが入っている。ユニフォームの洗濯は負けたチームの仕事、いわゆる罰ゲームだ。
 今日一番負けたのは成海さんのチームだったから、成海さんがその担当になったんだろう。

「そうだ、奏ちゃん。手伝ってよ」
「え……?」
「ちょっと話したいこともあるしさ。この後、忙しい?」

 オレが首を横に振ると「じゃあ、決まり」と笑顔の成海さんがオレの腕を引いた。


「よーし、これであとは待つだけ」

 成海さんがボタンを押すと洗濯機が軽快に動き始めた。
 この洗濯機には乾燥機能がないから、洗い終えたユニフォームを干すまでが洗濯係の仕事だ。洗濯が終わるのは四十分後。オレはそれまでの間、成海さんと話をすることになった。
 洗濯機から少し離れたところにあるそなえつけの丸椅子に二人並んで腰を下ろす。少し古い丸椅子はあしの長さがそろっていないのか、座るとがたりと小さく揺れた。

「あの、話って……?」
「ん? ああ、別にボクから何かあるってわけじゃないよ。奏ちゃんが何か聞きたいんじゃないかと思ったんだけど……違った?」
「……オレが?」
「うん。なんか気にしてたみたいだったからさ。つがいのこと」

 ――気づかれてたんだ。
 成海さんは《つがい》という言葉を聞いた時のオレの反応が気になっていたらしい。それだけのことで、わざわざこうして声を掛けてくれるなんて、いかにも成海さんらしかった。
 試合中だって成海さんはメンバー全員を気に掛けてくれている。味方だけじゃなく、敵のチームやベンチにいる人まで全員だ。
 そんな成海さんだからこそ、オレの小さな反応ものがさなかったんだろう。

「そんなにわかりやすかったですか? オレ」
「うーん……半分は勘かなー。でも、天ちゃんを怖がってるだけにしては、ちょっと反応が違って見えたからね。もしかしたら、って思ったぐらい」
「……そう、ですか」

 ――聞いて、いいのかな。
 確かにずっと、聞いてみたかったことがある。誰にも相談できなかったことだ。
 聞いてもいいと言われても、すぐに決断するのは難しい。うかがうように成海さんの顔を見る。

「遠慮なんてしなくていいからね。もちろん、奏ちゃんに聞かれたことは誰にも言わないって約束する。まー、こんなだけど一応オメガとしては先輩なわけだしさ、ボクに話して大丈夫だって思ってくれるなら、ボクも奏ちゃんの力になりたい」
「ホントに……聞いて、いいんですか?」
「いいよ」

 答える声は優しい。オレを見る表情も、ふざけてじゃれ合ってくる時とは全然違った。見ているだけで安心できるような――そんな顔だ。
 ごくりとつばみ込んでから、おそるおそる口を開く。

「……つがいって……どうなんですか?」
「どうって?」
つがうの、怖くなかったですか?」

 一番、聞きたかったのはそれだった。
 オメガにとってつがうということがゴールの一つなのは間違いない。でも、オレはまだその行為がどういうものなのか、あまりよく理解できていなかった。
 つがうということについて、自分で調べようとしたこともある。だけど、いつも途中で怖くなってやめてしまっていた。あの契約はオメガにとって不利すぎる。
 発情期のフェロモンが影響する相手が一人になるのは、確かに安心かもしれない。誰彼かまわず発情するのはやっぱり怖いし、ずっと一人でこのどうにもならない欲を持て余すよりは、誰かが隣にいてくれたほうがいいとは思う。
 でも、自分の命を他の誰かに握られてしまう選択を、簡単にできるなんて思えない。つがいになったアルファがいなくなっただけで死ぬかもしれないなんて、考えただけで怖くて無理だった。

「……うーん。別にそんな風には思わなかったかなー。奏ちゃんは怖いの?」
「怖い、です。つがうってよくわかんないし……それに、間違えられないわけだし」

 オメガにはつがい選びの失敗が許されない。それも怖いと感じる理由の一つだった。
 つがいにできる相手は一生のうちにたった一人だけ。もし、間違った人とつがってしまったら……その人に捨てられてしまったら。それこそ、本当に取り返しのつかないことになる。

「まあ、それは確かにそうだけど……ボクは結構あっさり決めちゃったからなー」
「成海さんは天樹さんとつがいになるって、どうやって決めたんですか?」
「んっとね、『この人だ』って思った」

 冗談かと思うぐらい軽い口調だった。でも、表情を見れば成海さんが本気で言っていることはわかる。
 ――「この人だ」って……それってもしかして。

「……二人は《運命》ってことですか?」

 アルファとオメガにはお互い《運命のつがい》と呼ばれる相手がいると言われている。理性よりも本能が強くかれる相手で、出会えばすぐにお互い「この人だ」とわかるらしい。

「運命って……あれ、都市伝説じゃないの?」
「……わかんないですけど、でもそんな風に感じるって」
「んー、そこまでびびびーって感じでもなかったけど。でも、運命だったら素敵だよねー」

 成海さんの返事はやっぱり軽かった。確かに運命と出会える確率は天文学的に低いって言われているし、成海さんも言ったとおり「そんなのは都市伝説だ」って言う人のほうが多い。
 でも、それを信じている人だっている。実際に自分のつがいが運命だと言う人も少なくなかった。
 オレだってそれを信じていたわけじゃないけど、成海さんの話で一番最初に浮かんだのが、その言葉だった。お互いに「この人だ」って思ったのなら運命なんじゃないかって。

「まー、運命かどうかは別にしても、ボクは天ちゃんとつがったことを後悔してないし、天ちゃんのことを一番大事に思ってるよ。あっちから大事にされてる自覚もあるしね。つがいってそんな感じでいいんじゃないかな」
「…………」

 成海さんはそう言ったけど、そんな軽く考えられそうもない。あいまいうなずくオレを見て、成海さんは苦笑を浮かべている。

「納得できない?」
「……いや、そういうつがいの関係もあるとは思うんですけど」

 やっぱり誰かとつがうのは怖い。その気持ちはぬぐいきれない。

「……成海さんたちはつがってから長いんですか?」
「もう十年以上になるかな。学校入ってすぐ意気投合して付き合い始めて、二人とも十八になった年にすぐつがったからね。懐かしいなー」

 二人の関係の長さはオレの予想をはるかに超えていた。十年以上――そんな二人だからこそ、つがいとしてもパートナーとしても、これだけ信頼し合えるのかもしれない。

「そういえば、奏ちゃんってベータ校に通ってるんだよね。普段はどうしてるの?」
「普段って?」
「発情期の時。薬飲んで寝てるだけ?」
「……っ」

 今度は成海さんから質問された。あまり聞かれたくなかった内容で、オレは答えにまる。

「…………そう、ですけど。普通は違うんですか?」
「んー、ボクは初めての時からずっと天ちゃんが近くにいたから、そういうので不自由したことなかったけど……まあ、いろんなオメガの子がいたよね。とっかえひっかえする子とか、奏ちゃんみたいに薬を飲んで部屋でじっとしてる子とか」
「とっかえ、ひっかえ……」
「はは。奏ちゃんはそういう反応だと思った」

 とっかえひっかえという言葉にわかりやすく嫌な顔をしたオレを見て、成海さんは笑っていた。
 こうやって発情期の話をオープンにするのはやっぱり苦手だ。診察で夏月先生に聞かれる時ですら、いつもそれとなくしてきたぐらい……性的な話はあんまりしたくなかった。
 居心地の悪さに、下を向いて顔をしかめる。ぽんぽんと肩を叩かれ、視線だけを上げるとにっこりと笑っている成海さんと目が合った。

「まー、奏ちゃんはそのままがいいんじゃない? ボクはそう思うな」
「……そのまま、って?」
「今のまま、純粋な奏ちゃんがいいってこと」

 今度は頭をぽんぽんと叩かれる。そんな風に言われても素直にうなずけるわけがない。微妙な表情を浮かべていると、ポケットの中でスマホが短く震えた。

「ん? 電話?」
「あー……たぶんメールかも」
「見ていいよ。ボク、ちょっとのどかわいたから飲み物買ってくる」

 成海さんはそう言うと財布だけを持って部屋を出て行ってしまった。
 ポケットからスマホを取り出して、届いたメールを確認する。母さんからだった。
 夕飯の有無を尋ねる内容に「いる」とだけ短く返信する。ついでに悠吾とのトークアプリを開いた。特に用事がなくても、最近じゃこの画面を開くのがクセになっている。

【悠吾はつがいってどう思う?】
《急にどうしたの? 誰かに何か言われた?》
【あー、違う。知り合いにオメガの人がいて、その人のつがいだって人に会っただけ】
《アルファに会ったってこと?》
【うん。でもなんか、あんまり話もしないうちに嫌われたっぽいけど】

 天樹さんの反応はそう表現するしかなかった。最初からオレをにらむような顔で見ていたし、ずっと嫌悪感を示すみたいに眉をひそめていた。
 ――あれってやっぱり嫌われたんだよなぁ。
 理由はわからないけど、あの態度はそうとしか思えない。

《奏が嫌われることなんてないと思うけど》
【お前はオレのこと、ひいきしすぎなんだよ。オレだって普通に嫌われたりするし】
《俺は奏のこと好きだよ》
「はぁっ!?」

 驚きすぎて、思わず叫んでいた。
 勢いよく立ち上がったせいで元々不安定だった丸椅子がごとんと転がる。なんとかスマホは死守したものの、危うく手がすべってぶん投げてしまうところだった。
 ――す、好きって……何、変なこと言ってんだよ、コイツ。
 悠吾からの不意打ち発言に、オレの鼓動は一気にね上がった。手汗だってすごい。
 AIだってわかっていても、こんなの驚かないほうがおかしい。

「……ない、これは……ない」

 動揺を隠せない。成海さんがいなくてよかった。こんなところを見られたりしたら、それこそ何を言われるかわかったもんじゃない。絶対にからかわれる。
 心臓はうるさいし、手も震えたままだった。
 なんとか気持ちを落ち着けようと、深呼吸を繰り返す。

「……ホント、ありえないだろ」
「ありえないって、何が?」
「うわッ!」

 いきなり後ろから声を掛けられて、オレはもう一度飛び上がった。起こそうとしていた丸椅子が再び、ごとんと床に転がる。

「だいじょーぶ?」

 後ろに立っていたのは、成海さんだった。
 オレの大声に驚いた顔をしながらも、倒してしまった椅子を代わりに起こしてくれる。
 ――いつからそこに? さっきの見られてないよな?
 うまく反応を返せなかった。成海さんがいつからそこにいたのか、それだけがすごく気になる。

「ごめんごめん。驚かせちゃったね。メール、誰からだったの?」

 成海さんの反応は普通だった。そう言いながら、さっきまで自分が座っていた丸椅子に腰を下ろす。これは……見られてなかったのかな。
 成海さんは好奇心旺盛な人だ。もし、さっきのオレの動揺を目撃していたんだとすれば、何も聞いてこないはずがない。

「ありえないって言ってたけど、急ぎの用事でも言われた?」
「……いや。あの……親にごはんどうするって聞かれて」
「もしかして嫌いなものだったとか? あー、でもいいよね、そういうの聞いてくれるって。うちは何にしようかなー。あ、これどっち飲む?」

 やっぱり何も聞いてくる様子はない。これはセーフってことでいいんだよな?
 成海さんはオレの飲み物も買ってきてくれていた。ブラックコーヒーとオレンジジュースを差し出され、オレは迷わずコーヒーのほうを選ぶ。

「おー、ブラック飲むんだぁ。へー」
「……どういう反応ですか、それ」
「奏ちゃんのイメージに合わないなーって」
「なんかバカにしてます?」
「してないしてない。でも、奏ちゃんどっちかっていうと可愛い系だし、苦いのなんて絶対飲めないって言いそうなイメージだから意外だなーとは思ったけど」

 完全にバカにされている気がする。それに可愛い系なんて言われたのは生まれて初めてだ。
 オレなんかベータに混ざってもわからないぐらいの平凡だし、なんなら一回り上のはずの成海さんのほうがずっと可愛いと思う。オメガだってことには全然気づいていなかったけど、確かに成海さんにはオメガらしい可愛らしさがあった。
 守ってあげなきゃって相手に思わせる魅力みたいなものだ。オレにはそういうのがない。

「いただきます」

 受け取ったコーヒーの缶を開けて一口飲む。ほろ苦い味のおかげか、さっきまでの動揺がようやく落ち着いたみたいだ。ほうっと息をつく。

「ところで、奏ちゃんさ。さっき何にあんなに動揺してたの? スマホ見てただけだよね?」
「――ッ!?」

 危うくコーヒーをき出すところだった。ギリギリそれはまぬがれたけど、驚きは全く隠せない。
 こちらを見る成海さんの顔には嫌な笑みが浮かんでいた。

「……なんの、ことですかね?」
「そんな下手な嘘がボクに通用すると思う? っていうかさ、すってことは相当言いたくないってことかな? へー、気になるなー」

 相手が悪かった。とぼけてみせたのはとんでもない悪手だったらしい。にやりとさらに悪い顔をした成海さんが、ずいっと顔を近づけてくる。
 目の奥をさぐるような仕草に、オレは慌てて顔をそむけた。

「っ、性格悪いですよ! 成海さん」
「そんなの最初からわかってたでしょ。ボクが何も聞かなかったことに、ほっとしてたみたいだから聞かれたくないことなのかなーって。でも、そういうのって余計に気になっちゃうよねー。何があったの? ねーねー」

 問いめるというより、完全にからかっている口調だ。面白そうなおもちゃを見つけたみたいな……完全に悪者の顔。さっきの優しい表情から一転、これがいつもの成海さんだった。
 ――こんな人だから、バーチャルアルファのことを言いたくないんだよ!
 悠吾のことを話したら、きっと根掘り葉掘り聞きたがるに決まっている。言えるわけがない。
 特に今は悠吾とあんな会話をした直後だ。AIと友達みたいに話しているだけじゃなくて……その相手に告白されたとか。そんなの絶対バレたくない。

「奏ちゃん? だんまりは逆効果だよ?」

 オレが嫌がるほど、成海さんは楽しそうだった。悪い笑みのまま、ひじでオレの脇腹をつついてくる。このまま、成海さんをして逃げるのは無理そうだった。
 ――そうだ。普通の友達っていうことにすれば。
 それならバーチャルアルファのことを説明する必要はない。
 普通に友達だと思っていた相手にこんなこと言われてびっくりした、ぐらいなら完全に嘘でもないし――成海さんだって、うまくされてくれるかもしれない。
 肉を切らせて骨を断つ。それともちょっと違うけど、今はこれしか方法が思いつかなかった。

「――え? 告白されたの!? それって、相手はもしかしてアルファ?」
「ふぁ……っ」
「そうなんだ。すごーい。え、奏ちゃんも相手のこと好きだったり?」

 ――いや、これも完全に悪手じゃん!!
 オレの話を聞いて、成海さんはさっき以上にぐいぐいと身体を寄せてきた。全身を使ってオレを壁際に追いめながら、気持ちを聞き出そうとしてくる。

「別にそんなわけ……! 普通の友達ですから! だからなんにもないですって!!」
「えー、なんにもない相手にそんな動揺するかなー? で? 返事は? なんて返したの?」
「……返してない、ですけど」
「ええー、それってひどくない?」

 まるで恋愛相談みたいになってきた。
 もう「相手はただのアプリでAIだ」なんて言い出せる状況じゃない。いや、絶対に説明する気はないけど。だってそんなの、完全に痛いやつじゃん。いや、別に悠吾しか友達がいないわけじゃないし、オレから悠吾に告白したわけでもないんだけど。
 ――いや、待って。そもそもあれって告白?

「返事してあげないの?」
「あー……いや」
「してあげなよー。寂しいもんだよ? そんな状態で放置されたら」
「でも……こんなの、どう返したらいいか」

 オレまで変な感じになってきた。
 これじゃあ、もう完璧に恋愛相談だ。全然そういうんじゃないのに。

「普通でいいんじゃない? 自分がどう思ってるかとか、そういうの。それがわかるだけでも相手は嬉しいと思うなー」
「……そんなもんですか?」
「そんなものだよ! ほら! 返事! 今やっちゃお!」

 せっつかれるまま、スマホの画面を立ち上げる。トークアプリを開くと、さっきの悠吾の発言のまま会話は止まっていた。当たり前だ、悠吾はただのAIなんだから。
 ――でも、なんて返事するんだよ。
 別に好き嫌いの話をしていたわけじゃない。オレが嫌われたみたいだって話をしたら、勝手にアイツが好きだって言っただけで。
 やっぱり返事なんてしなくていいと思うんだけど、成海さんは許してくれそうにない。
 返信をしない限り、解放してもらえそうになかった。

「うー……」

 悩みながら画面に指をすべらせて、それとなく……それっぽく見える文章を打ち込んでいく。でも嘘をつくのは嫌だから、せめて普段から悠吾に対して思っている言葉にしておきたかった。
 勢いで打ち込んで、ほとんど確認もせずに送信する。

【オレも、別にお前のこと嫌いじゃないけど】

 少し遅れて、ぽんっとトーク画面にオレの入力した文字が現れた。


   ◇


「……どうすんだよ、あれ」

 家に帰ってきたオレは自室のベッドにしていた。
 あれからスマホは見ていない。見られるはずがない。だってあんなの、どんな返事がきても微妙な気持ちになるに決まっている。
 オレも何送ってんだよ……別にお前のこと嫌いじゃない――、なんて。マジで告白の返事みたいになってるじゃん、恥ずかしすぎるだろ。
 あの後すぐ、タイミングよく洗濯が終わったおかげで話は一度中断になった。
 全員分のユニフォームはそれなりの量がある。それを干している間に、待ちくたびれたらしい天樹さんから成海さんに連絡が入って、その場はお開きとなった。
 成海さんもオレのことなんか放っておいてすぐに行けばいいのに、わざわざ「結果報告、楽しみにしてるからね!」なんて言い残していくし。楽しみにしなくていい。なんならオレとしては、次会うまでに忘れてほしいぐらいだ。

「無理、だろうなぁ」

 成海さんってそういうことは絶対忘れないタイプだ。
 でも、返事をした相手はただのAIなんだから、進展なんてあるはずない。成海さんに報告するようなことなんて起こるはずがないのに。

「あーあ……」

 バカバカしいと思いながらも、考えずにはいられなかった。め息をつきながら、気分転換がしたくてなんとなくスマホを手に取る。手癖で悠吾とのトーク画面を開いた。
 画面が表示されてから、自分のやらかしてしまったことに気づく。
 ――何やってんだよ、オレ。
 見ないようにしていたはずなのに、なんで普通にこの画面開いてんの? クセって怖い。
 慌てて閉じるボタンを押そうと指を動かす。けど、それより先に画面に表示されている文字が目に飛び込んでくる。

《めちゃくちゃ嬉しい。ありがと》
「……う、わ」

 悠吾ならそう答える気はしていた。予想どおりの返信だ。これ以外の答えなんて考えられなかったし、絶対こういう返事が届くってわかっていたはずなのに――
 体温が一気に上がる。特に顔は燃えるように熱かった。
 スマホの画面を見ていられなくて、シーツの上に裏返して置く。
 言葉にならないうめきをらしながら、クーラーでひんやり冷えた布団に顔を押しつけた。


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