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66 僕にできること
しおりを挟む背中に紫紺の体温を感じながら、アロイヴは目を覚ました。
眠っていたのか、意識を失ってしまっていたのか、交わっているときは暗かったはずの窓の外が明るくなり始めている。
アロイヴはシーツに包まったまま、窓の向こうに視線を向けた。
「魔王城でも、太陽は昇るんだ……」
この城に来てから数日経つのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。
当たり前に、外の景色は見ていたはずなのに。
「イヴ、身体は痛くない?」
紫紺が後ろから話しかけてきた。
アロイヴの背中にさらに身体を密着させつつ、うなじに顔をうずめてくる。
「紫紺、くすぐったいって」
「外を見ていたの?」
「うん。なんだか、世界の見え方が変わった気がして……身体が変わったせいかな?」
前よりも、見える世界が明るくなった気がする。
視界にかかっていた薄いベールが一枚がなくなったような、不思議な感覚だった。
「大きな違いはないように、調整したつもりだけど」
「そうなの?」
「調和が取れないと、魂が身体に定着しづらくなるからね」
「じゃあ、前と変わってないのかな」
「気になるなら見てみようか?」
ベッドの外に出る。
紫紺が薄布でできた肌触りのいいガウンを着せてくれた。お揃いのものだ。
向かい合って立った紫紺の手が、アロイヴの肩に触れる。そこから、じんわりと魔力が流れ込んでくるのがわかった。
「大きな違いは見当たらないけど」
確認し終えた紫紺が首を傾げている。
心配そうにこちらを見つめる紫紺の肩越しに、窓の外の景色が見えた。
――やっぱり、きらきらしてる。
太陽と空が眩しいぐらいに輝いて見えた。
目を細めるアロイヴの視線を辿るように、紫紺が後ろを振り返る。同じように窓の外を見つめた。
そんな紫紺の横顔を見上げる。
暗闇でも淡く発光する紫紺の瞳が、光を受けて鮮やかな色に煌めいている。
「あ――わかった」
「わかったって、何が?」
「世界の見え方が変わった理由。身体のせいじゃなかった」
答えながら、紫紺の手を握る。
まだどこか不安げな表情の紫紺に向かって笑いかけた。
「僕の気持ちが変わったからじゃないかな。不安がなくなって、これからも紫紺と一緒にいられるってわかったから、世界が明るく感じるんだと思う」
正解かはわからないけど、そんな気がする。
ずっと、不安ばかりだった。
嬉しいことや楽しいことがあっても、すぐに暗い気持ちに押し潰されそうになる。
この城に来てからは、特にそうだった。
下ばかりを向いていた。
終わりばかりを見つめていた。
世界が暗く感じていたのは、そのせいだ。
「それだけじゃないかもしれない」
小さく呟いた紫紺がもう一度、窓の向こうを見た。
「それだけじゃないって……どういうこと?」
「魔王である俺の力は魔素に大きな影響を与える。イヴを食べて、その力はより強くなったはずだ」
そういえば、魔王は魔素の調整役だと聞いたことがあった。
魔素の量が増え、魔獣に異常が発生したときだ。
「それが、どうしたの?」
「俺の感情の変化も、魔素に影響するのかも」
紫紺はそう言うと、繋いでいたアロイヴの手を握り直した。
指を絡め、さわさわと手の甲を撫でる。
「外が明るく見えるのは、俺が浮かれているせいもあるのかもしれないなって」
そう言って、はにかむように笑う。
顔を近づけて鼻に先端を擦り合わせた後、触れるだけのキスを顔中にいくつも落とした。
◆
魔王である紫紺の目覚めは、この世界に大きな変化を与えることになる。魔族だけでなく、その支配下にある人間にも影響があることだ。
とはいえ、実際に代替りが行われたのは、紫紺が先代の魔王を斃した二百年前のこと。
寿命が百年にも満たない人間からすれば魔王の代替りなんて、そこまで気にするものでもないのかもしれない。
「僕もこんな称号じゃなければ、魔族と関わることもなかっただろうし……」
魔族が人間を支配しているとはいえ、実際に彼らの餌となる人間以外、魔族を意識している人間は少ない気がする。
だが、長命の魔族はどうだろう。
考えながら、空になったカップをテーブルに置く。
誰かがすぐ隣に立った気配を感じて顔を上げた。
「新しいのをお注ぎしましょうか?」
「大丈夫だよ。ありがとう、ケイ」
紫紺と初めて交わった日から数日。
ケイは魔王城に留まり、前と変わらずアロイヴの世話係を勤めてくれていた。
魔王という立場となり忙しくしている紫紺の代わりに、日中アロイヴの相手をしてくれているのもケイだ。
「ケイ、座ってよ。相談したいこともあるし」
頷いたケイが、アロイヴのすぐ隣に腰を下ろした。
テーブルの籠から果物を一つ手に取ると、手早く皮を剥いてアロイヴに差し出す。
座ってと言ったのは『働かなくていい』という意味だったのに、ケイはいつだってアロイヴのために何かしてくれようとする。
「それで、相談というのは?」
「昨日も話したことだけど……僕にも、紫紺のためにできることはないかなって」
ケイには昨日も同じ相談をしていた。
すぐに答えが出るとは思っていないが、紫紺が忙しそうにしているのに自分だけ何もしないというのは落ち着かない。
紫紺のためにできることはないかと自分でも考えてみたが、まだ答えは出そうになかった。
「そのことですが、もう少ししたらカルカヤ様が来てくださることになっています」
「カルカヤさんが?」
ケイから受け取った果実を頬張ったまま、アロイヴは目を見開いた。
カルカヤも紫紺と同じぐらい忙しそうにしているのは知っているのに、来てもらったりして大丈夫なのだろうか。
「カルカヤさんも忙しいんじゃ?」
「忙しいからこそ、アロイヴ様の力を借りたいとおっしゃっていましたよ」
「僕の力を?」
そのとき、扉をノックする音が響いた。
ケイが扉を開け、カルカヤを部屋に招き入れる。さっきまで自分が座っていた席をカルカヤに譲った。
「いい顔つきになったな」
カルカヤとは儀式の前に話したきりだった。
城の中で何度か見かけたことはあったが、いつも難しい表情をしていたので、一度も声を掛けられなかったのだ。
「仕事は大丈夫なんですか?」
「ああ。ヴェアグロネズの尋問も終わったし、あと少しで落ち着くだろう」
それは、まだ忙しいということだ。
カルカヤはなんでもないような表情でテーブルの籠に手を伸ばすと、葡萄に似た果実を手に取り、口に放り込んだ。
――ヴェアグロネズ、か。
ヴェアグロネズはあの後すぐ、サクサハによって捕らえられたらしい。
その後どうなったかまでは聞いていなかったが、カルカヤが尋問を担当していたようだ。
「あいつは無駄に身体が丈夫だからな。魔道具も色々試せてよかったよ」
カルカヤの笑顔が怖い。
ヴェアグロネズにいったい何をしたのか、詳しい話を聞くのはやめておいた。
「――そうだ。カルカヤさん、僕に頼みたいことがあるって」
「そんなに急ぐな。心配事がなくなって、幸せなんじゃないのか?」
「幸せ、です」
幸せだと口にするのは、なんだかくすぐったい。
でも、間違いなく幸せだった。
紫紺はどんなに忙しくしていても、夜には必ずこの部屋に戻ってきてくれる。
アロイヴに新しく与えられた私室は、紫紺の部屋の隣にある。自室がすぐ隣であるにも関わらず、紫紺は必ず真っ先にこの部屋にやってきた。
紫紺は、この部屋が一番落ち着くと言っていた。
たまに魔獣の姿になることもある。
紫紺のもふもふの毛皮に顔をうずめると、アロイヴもあたたかくて幸せな気持ちになれる。
そして就寝時は二人で紫紺の部屋に移動し、同じベッドで眠ることにしていた。
「キミたちが幸せそうで何よりだ」
「カルカヤさんたちのおかげです」
「まあ、まだ少し仕事が残っているがな」
どうやら本題に移るようだ。
いったい何を頼まれるのだろう。緊張が走る。
「別に難しいことを頼むつもりはないさ」
「……」
カルカヤがそう言うとき、簡単だった試しはない。
気を抜くつもりはさらさらなかった。
「信用していない顔だな。身に覚えないわけじゃないが」
にやりと笑った顔に、やはり嫌な予感しかしない。
カルカヤは表情を変えないまま、口を開いた。
「明日、ヴェアグロネズが裁かれる。キミには、その場に同席してもらいたい」
「え……」
まさか自分がそんなことを頼まれるとは思っていなかった。
言われた言葉を頭の中で反芻しながら、アロイヴは目をぱちぱちと瞬かせる。
「それって……重要な場なんじゃ」
「そうだな」
「人間の僕がそんなところにいて、いいんですか?」
「もう人間ではないし、いいんじゃないか?」
何を言われたのか、理解できなかった。
しばらく考えてようやく言葉の意味は理解できたものの、点と点と線で繋がるまで、さらに時間がかかる。
「僕……人間じゃないんですか?」
「今の身体が、前と違うことは理解していたんじゃないのか?」
「してましたけど……まさか、そういう意味だったなんて」
でも、言われてみればそうだ。
人間としての自分は贄として紫紺に食べられてしまったのだから、この身体が全く同じものなはずがない。
「……え、じゃあ……今の僕って?」
なんと呼ばれるものなのだろう。
「魔素で構成された身体の造りは魔族と同じだな。ただ、全く同じものとも言えないだろう。何せ、あれに耐えるぐらいだしな」
「……あれって?」
「皆まで言っていいのか?」
――聞かないほう、いいのかな。
カルカヤの思わせぶりな態度からして、答えはたぶん碌な内容ではない。
でも、『あれ』がなんのことなのかは気になった。
「……教えて、ください」
好奇心が勝った。
アロイヴの答えに、カルカヤが愉しそうに目を細めて笑う。
人差し指をちょいちょいと動かし、そっと近づいたアロイヴの耳元に顔を寄せた。
「――魔王の精と魔力をそこまで注がれて、耐えられる身体は希少なものだぞ」
「~~~~!!」
――聞かなきゃよかった!!
床を蹴るようにして立ち上がる。
熱くなった顔を両手で押さえながら、アロイヴは壁際で小さくうずくまった。
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