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63 ひとつの終わり *
しおりを挟む――今の、誰の声?
思い出そうとしても、思い出せない。
間違いなく聞いたことがあるはずなのに……あれは、いつだった?
「あ……」
そのとき、アロイヴの首にぶら下がっている魔石が光り始めた。
廊下の瓦礫の中に落ちていた、紫の魔石だ。
魔石は鼓動のように明滅している。
「これ、何?」
「危険はないよ。あの子が力を貸してくれようとしているんだ」
「あの子……?」
紫紺は何が起ころうとしているのか、わかっている様子だった。
フィリはアロイヴと同じく状況が理解できていないらしく、警戒した表情でこちらを見ている。
――そういえば、この魔石……紫紺の核じゃなかったんだ。
紫紺は生きているのだから、そのはずがない。
じゃあ、この魔石はいったい。
「……紫紺はこの魔石がなんなのか、知ってるんだよね?」
「この魔石は〈涙〉だよ。あの子が、俺を思って流してくれた涙だ」
紫紺は穏やかな声で答えながら、魔石に指先を滑らせた。
紫紺が触れたからか、魔石の光が強さを増す。
あふれた魔力が風となって、アロイヴの髪を揺らした。
――あれ……今、何か。
頬に触れた気がした。
風とは明らかに違う感触だった。
目には見えない何かが、優しく頬を撫でたような……その柔らかい感触には覚えがある。
――もしかして、尻尾?
小さな獣姿の紫紺が首に巻きついていたとき、頬に触れていた尻尾と同じ感触のような気がする。
手でも触れてみる。
何も見えないのに、もふっとした尻尾の感触が確かにそこにあった。
「あの子って、もしかして……影狐?」
アロイヴがそう口にした瞬間、魔石が一際強く光を放った。
魔石の色が変わっていく。
「やっぱり、そうなんだ」
その色を見て、アロイヴは確信した。
魔石の色が淡く透きとおった水色に――あの影狐の瞳と全く同じ色に変化していたからだ。
「これは、あの子の涙なの?」
「そう。虚ろに彷徨っていた俺に、独りじゃないと教えてくれた――イヴと俺を巡り合わせてくれた、あの影狐の涙だよ」
きゅう、と可愛らしい鳴き声が聞こえた気がした。
紫紺にも聞こえたのか、魔石を見つめる紫紺の目が穏やかに細められる。
「イヴ、口を開けて」
これから何をされるのか、わかった気がした。
おそるおそる口を開く。
紫紺は魔石を指で摘むと、おもむろに自分の口に含んだ。こちらに向かって顔を近づけ、ゆっくりと唇を重ねる。
「ん……っ」
口移しで、とろりとした蜜のようなものが流し込まれた。
これはおそらく、さっきまで魔石の形をしていたものだ。紫紺の口の中で形を変えたのだろう。
蜜は魔力の塊だった。
咥内から喉、胸、腹へと蜜が流れるのと一緒に、魔力の熱が移動していくのがわかる。
「ふ……ぅ、ンっ」
唇は紫紺に塞がれたままだった。
差し込まれた舌先で咥内をくすぐられ、鼻から甘い声が漏れる。
恥ずかしさに顔を離そうとしたが、後頭部を押さえる紫紺の手が許してくれなかった。
「……ん、ぁッ」
紫紺の魔力も流れ込んでくる。
アロイヴの身体の中で混ざり合った魔力が、さらに強い熱を生み出し始める。
――だめ、これ。
気持ちよさが止まらなかった。
全身の熱が上がって、頭がぼんやりとしてくる。
唇が離れる頃には、くったりと脱力してしまっていた。
「これで大丈夫。俺が食べても、イヴは死なないよ」
「ん……っ」
耳元で囁かれ、アロイヴはひくんと肩を揺らした。
これまでずっと恐れていた〈死の運命〉を免れたと教えてもらったのに、アロイヴの頭の中は別のことでいっぱいだ。
――紫紺に、食べられる。
その言葉を聞いた瞬間、臍のあたりがきゅうっと疼いた。
贄になるのは怖かったはずなのに、この感情はなんだろう。
「……あ、待って。だめ、触っちゃ」
疼いた場所に紫紺の手が触れる。
アロイヴは、いやいやと首を横に振った。
魔力の熱はまだ治っていない。服越しに軽く撫でられただけでも、腰がびくびくと震えるほど感じてしまう。
「――本当に、アロイヴ様は死なずに済むのですか?」
フィリの声が割り込んできた。
同じ部屋の中にフィリがいることをすっかり忘れていたアロイヴは、慌てて隠れるように紫紺の身体にしがみつく。
「信じられないか?」
「……目の前で、信じられないことが起こったのは事実です」
フィリは紫紺の言葉が信じられないのではなく、自分の見たものが信じられない様子だった。
「なら、そこで儀式も見ていくか?」
「え……紫紺、それは」
儀式がどういうものか詳しく聞いたわけではないが、他の人に見られるのは抵抗があった。
それがたとえ、よく知るフィリであっても――よく知った相手だからこそ、見られたくない気持ちが大きい。
紫紺の服を、ついついと引っ張る。
「安心してください、アロイヴ様。そこまではいたしません」
「いいのか? イヴが心配なんだろう?」
「紫紺様を信じます」
フィリはそう言うと、紫紺に向かって深々と頭を下げた。しばらくしてから顔を上げ、アロイヴには微笑みかける。
そして、何も言わずに部屋を出ていった。
閉まった扉に向かって、紫紺が魔力を飛ばす。
「これで、もう誰も来ないよ」
「…………」
「イヴ、緊張してる?」
黙ったまま扉を見つめていると、紫紺が心配そうに顔を覗き込んできた。
アロイヴは目を伏せて、紫紺から視線を逸らす。
「緊張しないわけないでしょ…………でも」
「でも?」
紫紺が続きを促してくる。
しかし、すぐには言葉が出てこなかった。
――これ、言っていいのかな。
自分の感情を口にするのに迷いがあったからだ。
どうしてそんな風に感じるのか、自分でもよくわかっていないのに、言っていいのだろうか。
「イヴ……」
紫紺が名前を呼ぶ。
その声色はどこか不安げだ。
「もしかして、俺が怖い?」
アロイヴは即座に首を横に振った。視線を上げ、紫紺の顔を見る。
まだ少し迷いながら、口を開いた。
「……僕、紫紺に食べられたいと思ってる」
「え……」
「どうして、そんな風に思うのかわからないけど……さっきから、紫紺に食べてほしくて仕方ないんだ」
言いながら、紫紺の胸に顔をうずめた。
身体を密着させると、触れた場所から紫紺の魔力が伝わってくる。
それが呼び水になったのか、身体が熱を思い出し、ずくずくと疼き始めた。
「僕は、どうしたらいい……?」
「俺に任せて。怖いことは何もないよ」
◆
「……紫紺の、嘘つき」
思わず、そんな言葉が口からこぼれる。
アロイヴは今、ベッドの上に裸で仰向けに寝転がっていた。
息の整わないアロイヴを見下ろしながら、紫紺は困ったような笑みを浮かべている。
紫紺はまだ服を着たまま、少しも乱れていなかった。
「ん……や、ぁッ」
乱されているのは、アロイヴだけだ。
紫紺の手が触れるたび、身体に電流のような強い快感が走る。
ひくひくと反応してしまう自分が恥ずかしくてたまらないのに、アロイヴの身体は自分の意思で動かせない状態だった。
特に手足は指先すら動かない。
――もう、こわい。
怖いことは何もないと言っていたのに、上限の見えない気持ちよさが怖くてたまらなかった。
アロイヴが紫紺を「嘘つき」と言った理由はそれだ。
「食べてほしいって言ったのは、イヴなのに」
「これ……食べてるの?」
「食べてるよ。もう手足は動かせないでしょ?」
身体の自由が効かなくなっていたのは、紫紺に食べられてしまったかららしい。
――本当に、齧られたわけじゃないのに……中身だけを食べられたような感じなのかな?
自分の状況を、頭で理解するのは難しかった。
でも、おそらくそういうことなのだろう。
「感覚だけは残してあるけど」
「ん、やぁ……ッ」
「嫌? 触られたくない?」
そんな風に聞かれると頷けない。
気持ちよすぎるのは怖いけど、紫紺に触れてほしくないと思うはずがない。
「泣きそうな顔しないで」
「紫紺が、困らせるから……」
「ごめん。イヴと一つになれるのが嬉しくて、浮かれてるんだと思う」
覆い被さってきた紫紺の唇が頬に触れた。
「紫紺……」
名前を呼んで、唇を薄く開く。
頬だけでは足りなかった。
隙間から舌先をちろりと見せると、嬉しそうに笑った紫紺が唇を重ねてくる。
戯れるように、舌を絡められた。
――本当だ……食べられてる。
意識をすると、紫紺に食べられている感覚がわかった。
大事なものが奪われていく感覚だ。
いや、これは自分から捧げているのだろうか。
魔力だけを吸い取っているのとは違う。
命ごと吸われているのが、なんとなくだがわかる。
「ぁ……、んッ」
――食べられるのって、気持ちいいんだ。
妖しく輝く紫紺の瞳を見つめながら、アロイヴはそんなことを考えていた。
腕が自由に動かせたら、紫紺を抱き寄せていただろう。
もっと身体を密着させて、隙間なく絡み合って――自分のすべてを紫紺に捧げたい。
「ねえ、紫紺……美味しい?」
夢中で自分を貪る紫紺に話しかけた。
食べられる毎に、意識は少しずつ曖昧になってきている。
あんなに怖かった気持ちよさも、どこか遠い感覚になりつつあった。
「美味しいよ。それに、すごく満たされる」
「よかった……」
アロイヴも満たされた気持ちだった。
「贄になるのは……怖いことだと、思ってたのに」
自分の称号を知って、この世界に絶望した。
何も希望は見出せなかった。
そんなものを持ってしまったら、叶わなかったときに苦しむのは自分だからだ。
だから、何も望まないようにした。
誰にも期待しないようにした。
すべてを諦めてしまっていたときに、紫紺に出会った。
「紫紺に出会ってなかったら……僕は、どうなってたんだろう」
「それは俺のほうだよ。イヴに出会っていなかったら、今の俺はなかったからね。出会わせてくれた、あの子には感謝しかない」
「そう、だね」
紫紺に出会えたから、今の自分がある。
ずっと恨んできた自分の称号が、紫紺と出会うための目印だったのだとしたら――少しは、この称号でよかったと思える気がする。
「あれ……紫紺?」
「ここにいるよ。眠っても、ちゃんと起こすから安心して」
「ん……」
もう、目が開けられなかった。
眠くてたまらない。
きっと、一つの命が終わろうとしているのだろう。
「イヴ」
その声で名前を呼ばれるのが好きだ。
たった二文字なのに、そこに込められた、たくさんの気持ちが伝わってくる。
――すごく、あったかい。
もっと声を聞いていたいのに、この眠気には勝てそうにない。
柔らかい毛並みに全身包み込まれるような心地いいあたたかさを感じながら、アロイヴは意識を手放した。
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