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61 魔王の正体

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 アロイヴは、自分に覆い被さる魔王を呆然と見上げる。魔王が眠っていた透明な棺の中に押し倒されるような格好だ。

「今、なんて……?」

 思わず、聞き返していた。

「元の世界に帰したと言った」

 魔王は平坦な声で答える。
 上半身を折り曲げ、身体の距離を縮めてきた。
 逃げ場のないアロイヴは、その場で身体をよじる。その肘に何かが当たった。
 硬いものが棺に当たる音が響く。

「あ……っ」

 落ちたのは、魔王に深々と刺さっていたはずの黒刃のナイフだった。
 アロイヴは、慌ててナイフに手を伸ばす。
 だが、アロイヴの指が触れるより先に、魔王に奪われてしまった。
 魔王は自分に刺さっていたナイフをまじまじと見つめた後、おもむろに刃の部分に指を滑らせる。

「……っ」

 自分が傷つけられたわけではないのに、アロイヴは痛みを想像して息を呑んだ。
 魔王が、ちらりとアロイヴを見る。

「この刃では傷つかないから、心配しなくていい」

 魔王は感情の読めない声でそう言うと、ナイフをどこかへと消し去ってしまった。

「傷つかない……?」
「イヴも、あのとき確認しただろう?」
「っ」

 ――聞き間違いじゃ、なかった。

 魔王はまた、アロイヴのことを『イヴ』と呼んだ。
 聞き間違いかと思ったのに、そうではなかったのだ。

「どうして、僕のことをそう呼ぶんですか? それに、あのときって……?」

 アロイヴは完全に混乱していた。
 魔王は少し考えるような仕草を見せてから、何かに気づいたように「ああ」と頷く。
 無表情のまま、ゆっくりと顔を近づけてきた。
 ごく自然な動作で、ぺろりとアロイヴの唇の端を舐める。

「……な、ッ」

 意外すぎる行動に、避けることもできなかった。
 慌てて魔王の身体を両手で押し返すが、びくともしない。

 ――肌、すごく冷たい。

 魔王の身体は驚くほどに冷たかった。
 身体も透けているし、生きている人とは思えない。触れているところから、こちらまで凍えてしまいそうだ。
 それなのに魔王は構わず、アロイヴに身体を密着させてくる。アロイヴの首元に顔をうずめると、ぐりぐりと頭を押しつけてきた。

 ――待って……この仕草って。

 アロイヴは、この仕草を知っていた。
 魔王が、次に何をしようとしているのかがわかる。

 ――この後、僕の耳を舐めて……それで、こう言うんだ。

「イヴ」

 蕩けるような、甘えた声。
 もう一度、自分の名前を呼んだ魔王の声に、アロイヴは震えが止まらなくなった。

「……嘘、だ」

 声も震えてしまった。
 魔王が顔を上げる。
 首を傾けて、こちらを覗き込んできる。
 顔をちゃんと確認したいのに、勝手にあふれ出した涙のせいでよく見えなかった。
 大きな手が、そっと頬に添えられた。
 魔王はアロイヴの目元に唇を寄せると、舌先で器用に涙を舐め取る。
 すると、信じられないことが起きた。

「……瞳の色が」

 薄灰色だった魔王の瞳に、ぽつりと別の色が落ちた。
 その色は――深い紫。
 見間違いかと思うぐらいの小さな点が、魔王が涙を舐め取るたび、じわじわと広がっていく。縁がキラキラと輝いて見えた。

「紫紺の、色だ……」

 うわ言のように呟く。
 薄暗い中でも淡く発光して見える宝石のような深い紫色の瞳――それは、アロイヴがもう二度と見られないと思っていたものだった。

「紫紺……んッ」

 名前を呼んだ瞬間、唇を塞がれた。

 ――キスの仕方も、同じだ。

 頭の中が疑問符だらけなのは変わらない。
 何が起きているのか全く理解できていなかったが、一つだけ確実にいえることがある。

 ――目の前にいるのは、紫紺だ。

「イヴ……イヴ」

 キスの合間に何度も名前を呼ばれる。
 気づけば、さっきまで透けていた魔王の身体が実体になっていた。
 触れているところも、もう冷たくない。
 それに、真っ白だった髪にも変化が起こり始めていた。上から絵の具をこぼしたように、髪がじわじわと黒く染まっていく。

 ――不思議だ……色が変わっただけなのに。

 アロイヴは熱に浮かされながらも、その変化から目が離せなかった。
 目の前で起こったことでなければ、絶対に信じられなかっただろう。
 顔の造形はそのままなのに、色が変わっただけで、魔王の姿はもはや別人だ。

「紫紺」

 唇を離してもう一度、名前を呼んだ。
 手を伸ばして、紫紺の頬にぺたぺたと触れる。

「――今度は、耳と尻尾を出さなくてもわかってくれた」

 紫紺はそう言って、はにかむように笑う。
 アロイヴを抱き起こして、腕の中に閉じ込めるように、ぎゅっと強く抱きしめた。



 紫紺がぱちんと指を鳴らすと、部屋の様子が一変した。
 薄暗かった部屋全体に、あたたなか灯りが点る。棺が置かれていた祭壇のような場所はなくなり、代わりに天蓋つきのベッドが現れた。
 アロイヴと紫紺は、そのベッドの上にいる。
 何人も並んで眠れるほどの広さがあるのに、二人はぴっとりと身体をくっつけ合っていた。
 アロイヴは紫紺の太腿の上に横向きに座り、首の後ろに腕を回す。
 紫紺はそんなアロイヴの腰を抱き、肩に顔を乗せていた。

 ――紫紺だ……紫紺がいる。

 聞かなければならないことがたくさんあるのはわかっている。でも、今は何も考えずに紫紺の存在を堪能したかった。
 触れて、香りを嗅いで、温度を感じたい。

 ――でも、そういうわけにもいかないよね。

 のろり、と顔を上げる。
 視線に気づいた紫紺がこちらを見た。
 目が合っただけなのに、なんだか泣きそうになってしまう。
 しがみつく腕に力を込めると、紫紺の手がアロイヴの背中を優しく撫でた。

「どうしたの、イヴ」
「ごめん。いろいろ聞こうと思ったんだけど、なんだか胸がいっぱいで……」

 聞きたいことが纏まらなかった。
 涙はなんとか堪えたが、吐く息が震えてしまう。

「俺もだよ。ずっと話したいと思っていたのに、何から話せばいいのかわからない」
「紫紺も……?」
「うん。何から話そうか」

 穏やかな声で問われた。
 紫紺がこんな話し方をするなんて、今日まで知らなかった。
 これまで紫紺が話せたのは、『イヴ』の二文字だけだ。こうして普通に話しているのも、まだ不思議な感じがする。

「紫紺が話せなかったのには、理由があったの?」
「ああ。言葉は強い力を持つから、あの器ではその力に耐えられなかったんだ。イヴも、あのひび割れを見ただろう?」
「……っ」

 紫紺の身体にあった無数のひび割れを思い出して、アロイヴは、びくりと身体を震わせた。
 紫紺が消滅してしまうかもしれない――あのときの恐怖を思い出してしまったせいだ。
 胸の奥が鋭く痛む。

「あのひび割れは……僕の魔力のせいだったんじゃ」
「それだけが原因ではなかったんだよ。それに、イヴは何も悪くない。俺はああなると、わかっていてやったんだ」
「自分が消滅するかもしれないって、知ってたってこと?」

 アロイヴの質問に、紫紺が目を伏せる。
 こくん、と小さく頷いた。

「あのときはイヴを守りたい一心で、イヴがどう感じるかまで考えられなかったんだ……許してほしい」

 謝罪を口にした紫紺の唇が、アロイヴの頬に触れた。
 濡れた感触がする。
 どうやら、泣いてしまっていたらしい。

「ううん、謝らないで。それなら僕も同じだから……僕も紫紺を守ることばっかりで、紫紺の気持ちを考えてなかった。僕たち、似たもの同士だね」

 アロイヴも、紫紺を守りたかった。
 自分だけが犠牲になればいいと、無理やり紫紺の手を振り払ったのだ。
 したことは、紫紺と変わらない。

「似たもの同士、か」

 紫紺が眉を下げて笑った。
 アロイヴも涙を拭って、一緒に笑う。
 紫紺は手の甲でアロイヴの頬を撫でた後、指の背を唇に滑らせた。

「もう、そんな風に笑ってくれないと思っていた」
「どうして?」
「イヴは自分の称号を憎んでいただろう? 俺の正体を知って、嫌がられると思ったんだ」

 ――そっか、紫紺は……。

「紫紺は魔王……なんだよね?」
「そうだよ」

 アロイヴの問いを、紫紺はあっさりと肯定した。

「いつから、そうだったの? 僕と出会ったときから?」
「そうだとも言えるし、そうではないとも言える」
「どういうこと……?」

 曖昧な返答だったが、紫紺は何かを誤魔化そうとしている素振りではなかった。
 少し間を置いてから、話し始める。

「――イヴと出会ったとき、俺には魔王としての記憶がなかったんだ。自我もほとんどなかったし」
「……自我も?」
「イヴに出会う前の俺は空っぽだった。俺が初めて自分の感情を意識したのは、イヴに名前を貰ったときだよ。嬉しくて、あたたかくて――自分が何者なのかもわからなかったけど、そんなことはどうでもよかった」
「どうでもよかったって……」
「イヴの傍にいられるなら、それだけでいいと思っていたんだ」

 まっすぐ向けられた紫紺の気持ちに、アロイヴは顔が熱くなるのを感じた。
 こんなの、恥ずかしくならないわけがない。
 アロイヴが照れているのに気づいているのかいないのか、紫紺は言葉を続ける。

「だから、それを邪魔するなら魔王であっても倒すつもりだったんだけど――それが、まさか自分だとはね」
「もしかして……そのときに記憶が戻ったの?」
「そうだよ。部屋の扉を破って、棺の中にいる自分を見て、そこで初めて思い出したんだ」
「そうだったんだ……」

 紫紺もぎりぎりまで、自分の正体が気づいていなかったらしい。
 本気で魔王を倒すつもりだったのだ。

「記憶が戻ってすぐに目を覚ますことも考えたけど、〈勇者〉のことを思い出して、やめておいたんだ」
「そうだ! 竜己くんを――勇者を元の世界に帰したって、本当?」
「本当だよ。そのために眠り続けて、魔素を溜め込んでおいたんだ――ところで」

 紫紺はそこで言葉を止めると、アロイヴの顔を覗き込んできた。
 その眉間には、うっすらと皺が寄っている。

「どうしたの?」
「……イヴは、勇者と仲がいいの?」
「え?」
「名前で呼んでいたし、心配しているみたいだから……」

 語尾が尻すぼみになっていく。
 唇を尖らせる紫紺の表情は、拗ねた子供のようだ。

「仲がいいっていうか……竜己くんは、僕のために紫紺の仇を取ってくれようとしたんだよ。彼にも向こうの世界に大切な人がいたから、紫紺を大切に思ってた僕の気持ちに寄り添ってくれたんだと思う」
「大切な人?」
「付き合い始めたばかりの恋人だって言ってたよ。ちゃんと会えてたらいいな」

 竜己はその人のために、絶対に帰るのだと言っていた。
 願いは、きちんと叶っただろうか。

「それは、勇者のつけていた腕輪と関係がある相手?」
「え、どうして知ってるの?」
「勇者を無事に帰せたのは、その腕輪が向こうの世界としっかり繋がっていたからなんだ」
「すごい……それって二人の思う気持ちが、世界を超えて繋がってたってこと?」

 それなら、二人は再会できたのだろう。
 竜己が大粒の涙を流しながら嬉しそうに笑う姿が目に浮かぶようだ。

「大切な人と離れるのはつらいもんね」
「イヴ」
「僕ももう、紫紺から離れたくない」

 もう二度と、あんな絶望は味わいたくなかった。
 アロイヴは紫紺に顔を寄せると、自分から唇を重ねる。薄く開いていた唇の隙間から、おそるおそる舌を差し込んだ。

「……ん、っ」

 自分からしたことなのに、ひくんと腰が震えてしまう。
 下腹部のあたりに熱を感じた。

 ――あ……これ、魔力が。

 熱の正体は、触れているところから流れ込んでくる紫紺の魔力だ。
 自分の魔力も、紫紺に流れ込んでいるのがわかる。

「ん、ぁあ……ッ」

 魔力と一緒に、全身に気持ちよさが駆け抜ける。
 瞼の裏に白い火花が飛び散った。
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