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60 決意のナイフと透明な王
しおりを挟む意識が朦朧としているふりをするのは、簡単ではなかった。
ケイ以外の前では薬が効いている風に装わなくてはならず、アロイヴは椅子に座ってぼんやりと外を眺める。
「薬の効果を少し変えましたが、気分は悪くありませんか?」
フィリが気遣うように話しかけてくる。
贄は一人で魔王の下に向かう決まりがあるらしく、薬の効果を前と変更する必要があった。
意識をぼんやりとさせる効果はそのまま、身体を弛緩させる効果を減らしたらしい。
ふらつくが問題なく歩けるはずだと、ケイがフィリから説明を受けていた。
――本当は飲んでないんだけど。
アロイヴは言われたとおりに振る舞うしかない。
「不安や恐怖をなくせているのなら、いいのですが」
フィリはそう言いながら、アロイヴの髪に触れた。
優しい手つきで撫でながら、目元を伏せる。
――フィリさんと、話せなかったな。
この城に来てから、フィリに自分の気持ちを伝えるタイミングは一度もなかった。
カルカヤとは話したが、サクサハにだって会えていない。
最後はこんなことになってしまったけれど、三人にはたくさんよくしてもらったのに。
――ありがとう……それから、ごめんなさい。
心の中で呟く。
これからアロイヴはすることは、三人への裏切り行為だ。
三人はアロイヴが魔王の贄だからよくしてくれたのに、自分は勇者である竜己と結託して、魔王討伐を目論んでいる。
「ケイ。時間になったら、アロイヴ様を禊の間へ。その後は私が主の下へお連れします」
「かしこまりました、フィリ様」
「それでは、私は準備がありますので失礼しますね」
ケイとアロイヴにそれぞれ声を掛けて、フィリは部屋を出ていった。
再びケイと二人きりになって、アロイヴはほうっと身体の力を抜く。一気に疲れてしまった。
「……バレてないよね?」
「どうでしょうか。普段と変わらない様子ではありましたが」
「これも、つけてていいって言われてよかった」
アロイヴは、胸元にぶら下がる紫紺の魔石に触れる。
フィリなら取り上げないだろうと思っていたが、贄の決まりでだめだと言われたらどうしようかと思っていた。
「この中に、ナイフが隠してあるのにも気づいてないみたいだったみたいだし」
紫紺の魔石には、不思議な機能が備わっていた。
収納の魔道具のように、物を収納できたのだ。
なんでも収納できるのではなく、紫紺の魔力が宿った物に限定されていたが、どうやってこのナイフを持ち込むか悩んでいたアロイヴにとっては、願ってもいない機能だった。
「……紫紺は、本当にずっと僕の味方をしてくれるね」
こんな形ではないほうがよかったけれど。
紫紺の柔らかな毛並み思い出しながら、魔石の表面を撫でる。
「禊って、どんなことをするの?」
「水に入って身体を清めるそうです。難しいことは特にないそうですよ。私もお手伝いできればよかったのですが」
人間であるケイは一緒に入れないのだそうだ。
でも、禊の間まではついてきてくれる。それだけで充分だった。
「ねえ、ケイ。抱きついてもいい?」
「いいですよ」
突拍子もないお願いだったのに、ケイは笑顔で快諾してくれた。
立ち上がって、正面からケイの身体に抱きつく。
「――ケイ、今までありがとう。部屋を出たら言えなくなっちゃうだろうし、これが最後になるかもしれないから、今のうちに伝えておくね」
ケイには感謝することしかなかった。
教会の屋敷で暮らしていたときから、もうずっと、ケイには支えてもらってばかりだ。
「お礼を言うのは私のほうですよ。アロイヴ様に出会えてよかったです」
危険な目にも遭わせてしまったのに、ケイの言葉に嘘はなさそうだった。
抱き返す腕の力は強い。
「それに――私には、これが最後にはならない気がします。あのときもそうでした。屋敷でアロイヴ様の背中を見たとき、不思議とまた会える予感がしたんです。そして、それは叶いました」
「……ケイ」
「大丈夫です、アロイヴ様。また会えます」
「…………うん」
アロイヴは、頷くことしかできなかった。
そうなればいいと思う。
でも、魔王の討伐がうまくいった場合、この城はどうなるのだろう。魔族は、人間は――他の人がどうなってしまうのか、何もわからない。
後のことなど一切考えず、自分に感情だけで行動を起こそうとしている。
――でも、間違ってるなんて思わない。
これだけは、最後まで自分の意志を貫き通すつもりだった。
◇
ケイとは、禊の前に別れた。
禊を済ませたアロイヴをフィリが迎えにくる。その後ろには、カルカヤもいた。
「フィリ、主はまだ眠ったままなのか?」
「ええ。贄が目覚めのきっかけになるのでしょうか」
「さあな。ボクにもわからない。実際にこの儀式に立ち会うのは、これが初めてだからな」
二人が話している。
魔王はまだ目覚めていないらしい。
――それなら、僕でも隙をついて攻撃できるかも。
自分の力だけで倒せるとは思っていない。
アロイヴの役目は、あくまで目印だ。
竜己には、アロイヴの魔力を覚えてもらった。
そして、決まった時間に魔王に接触する予定があることだけを知らせた。アロイヴの魔力を目印に魔王に襲撃をかけてもらうためだ。
これなら、アロイヴが魔王と一緒にいる限り、竜己は確実に魔王を襲撃できる。
お粗末な作戦だが、これに賭けるしかなかった。
「……贄に情なんて抱くものじゃないな」
「貴方でもつらいのですか?」
「わざわざ確認が必要なことか? ボクをなんだと思っているんだ。ロイはボクの弟子だぞ。それに狐くんだって……どうにかして止められなかったのかと、後悔して何が悪い」
カルカヤがそんな風に考えていたなんて。
こんなときでも、薬が効いているふりを続けなくてはいけないのはつらかった。
感情が高ぶってしまいそうなのを、どうにか抑え込む。二人に気づかれないように、ぎゅっと拳を握って耐えた。
「じゃあ、後は任せたぞ」
「ええ」
カルカヤは、アロイヴの顔を見にきただけのようだった。
フィリに手を引かれながら、魔王の元へと向かう。人払いをしてあるのか、廊下に他の魔族の姿はなかった。
しんとした廊下に響くのは、二人の足音だけだ。
「……アロイヴ様」
フィリが静かな声でアロイヴの名を呼んだ。
そこは紫紺が魔石が落ちていた、あの柱の前だった。
「本当は……薬の調合を変えていません。だから、こうして歩けているということは、薬は飲んでいらっしゃらないのでしょう?」
「……っ」
バレていた。
いつから気づかれていたのだろう。
もしかすると、これからアロイヴが何をしようとしているのかも、バレてしまっているのかもしれない。
ここでそれを明かしたフィリの考えが読めなかった。
アロイヴはフィリから離れて、一歩後ずさる。
「警戒なさらないでください。私に、アロイヴ様を止めるつもりはありません」
「どうして……」
思わず、声が出てしまった。
フィリがこちらを見る。
寂しそうに笑って、アロイヴの肩に触れた。
「主と同じぐらい、アロイヴ様のことを大切に思っているからですよ……貴方から大切なものをいくつも奪ってしまった私の言葉など、信じていただけないかもしれませんが」
「……そんなこと、ないです」
「本当ですか?」
「フィリさんは、何も悪くないです……だから、そんなに自分を責めないでください」
「貴方にそんな言葉を言わせてしまうなんて……私は本当に不甲斐ないですね」
フィリに抱きしめられた。
震えているのはフィリだろうか、それとも自分だろうか。
二人の間に、しばらくの沈黙が降りる。
「さて……私の見送りはここまでです。ここから先は、お一人で」
フィリが廊下の先を指し示す。
紫紺が壊した扉は元通りになっていた。
そういえば、あれだけ激しく破損していた廊下にも襲撃の痕跡は何も残っていない。
「それじゃあ……」
フィリに声を掛けようとしたが、続く言葉は思いつかなかった。
「行ってきます」も「さようなら」も何か違う気がする。
そのまま振り返って、先に進む。
――あの扉の向こうに。
魔王がいる。
不思議と気持ちは落ち着いていた。
胸元に、紫紺の魔石があるおかげだろうか。
アロイヴが近づくと、扉が内側に向かって勝手に開いた。
部屋の中は真っ暗で何も見えない。
でも、前にここに来たときのように、得体の知れない怖さは感じなかった。
中から呼ばれているような気がする。
迷いなく部屋に入ったアロイヴの後ろで、扉が低い音を立てて閉まった。
部屋の中は静まり返っていた。
聞こえてくるのは、アロイヴの立てる音だけだ。
廊下から見たときは真っ暗に見えた室内だが、実際に入ってみると全く光がないわけではなかった。
薄暗いが、部屋の奥まで見えている。
がらんと広い部屋の中央に、祭壇のように高くなっている部分があった。周囲は階段状になっている。
その上に置かれているものを、アロイヴは知っていた。
紫紺の目を通して、一度見たことがあったからだ。
――……あの中に、魔王が。
そこには記憶どおり、透明な棺が鎮座していた。
アロイヴはおもむろに祭壇に近づく。
中に、誰かが横たわっているのが見えた。あれが魔王だろう。
――魔王……紫紺の仇。
階段を一段ずつ、踏み外さないように気をつけながら上る。
途中で、黒刃のナイフを取り出した。
武器を手に取った瞬間、紫紺のように攻撃されるかと思ったが、何も起こらなかったことに、ほっと息をつく。
――僕なんて、脅威にもならないって思われてるのかな。
それなら、一矢を報いるチャンスだ。
刃を下に向けた状態で、ナイフの柄を両手でしっかり握る。
最後の段を上り、棺と同じ高さまできた。
棺のすぐ横に立ち、眠ったままの魔王の身体を見下ろす。顔を見る勇気はなかった。
――透明な、王。
サクサハに聞いた魔王の異名が頭をよぎる。
眠り続ける魔王の手足が、本当に透けていることに気づいたからだ。
でも、そんなことを考えている場合ではない。
魔王はいつ、どんなタイミングで目覚めるかわからないのだ。
やるべきことを、果たさなくては。
アロイヴは両腕を大きく振り上げる。全身の力を使って、手に持ったナイフを魔王の胸に向かって突き立てた。
ナイフの刃先は、なんの抵抗もなく魔王の身体に沈み込む。
だが次の瞬間、アロイヴの視界はぐるっと反転していた。
「……っ」
何が起こったのか、全くわからなかった。
背中から硬い感触が伝わってくる。何者かがアロイヴの身体の上に乗っていた。
「魔王、覚悟――ッ!!」
遅れて、カッと周囲に光があふれ、激しい爆発音が鳴り響く。
それと一緒に竜己の叫ぶ声が聞こえた。
作戦どおり、竜己が魔王を倒しにやってきたのだろう。
――もしかして、僕の身体の上にいるのは。
顔を上げると、目が合った。
色がない。
真っ白な髪と肌、瞳も薄い灰色だ。
それに、身体が透けている。
「魔王……」
アロイヴを上から押さえつけていたのは、魔王だった。
その胸にはアロイヴが刺したナイフが深々と刺さったままだ。
だが、そんなものは気にする様子もなく、魔王は左手を竜己に向かって伸ばす。
その手のひらに、とてつもない量の魔力が集まっている。
「竜己くん、危ない!」
叫んだが、遅かった。
今まさに剣を振り下ろそうとしていた竜己の身体を、魔王の手から解き放たれた漆黒の魔力が包み込む。
「やめてっ!」
思わず、目の前にあった魔王の腕にしがみついていた。しかし、微動だにしない。
触れた肌は氷のように冷たかった。
「もう、やめて……お願い」
アロイヴがどれだけ懇願しても、魔王はこちらを向きもしない。
竜己を閉じ込めた真っ黒な球体は限界まで膨れ上がると、今度は少しずつ小さくなっていく。
そしてそのうち、跡形もなく消えてしまった。
「……殺したの?」
震えが止まらない。
まさか、こんなことになるとは思わなかった。
魔王がようやく、こちらに顔を向ける。
「――殺していない。元の世界に帰しただけだ」
「え……」
「そうすればいいと教えてくれたのは、イヴだろう?」
何を言われたのか、全く理解できなかった。
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