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51 記憶と夢
しおりを挟む「お兄、信号変わったよ」
「……え?」
「また、ぼーっとして。卵持ってるんだから、気をつけてよね」
ぱちぱちと目を瞬かせる。
目の前に立つ黒髪ショートボブの少女が妹だと気づいて、――は「ごめん」と小さく謝った。
今日は両親の結婚記念日だ。
――の家では誰かの大切な日を、家族全員で祝うと決めている。
料理が得意な高校生の妹は、腕によりをかけた料理を振る舞うのだと張り切っていた。――はその買い物の荷物持ちに、朝から連れ出されたのだ。
「お兄はお母さんたちに何をあげるの?」
「旅行だよ。前から温泉に行きたいって言ってたし、ちょうどバイト先でボーナスがもらえたから」
「え、いいじゃん!」
そんな話をしながら、二人一緒に横断歩道を渡り切る。
ここから家までは徒歩五分ほどの距離だ。――にとっては歩き慣れた道だったが、そこでいつもとは違う出来事が起きた。
「?」
後ろから甲高い女性の声が聞こえた。
何かを叫んでいるようだが、よく聞き取れない。
――の少し前を歩く妹が先に後ろを振り返った。――越しに声の聞こえたほうを見て、驚愕に目を見開いている。
――も後ろを振り返った。
「え……」
あり得ない速度で走る乗用車が、こちらに向かってきていた。道路の向こうで叫んでいた女性は二人に危険を知らせようとしてくれていたのだ。
ブレーキとアクセルの踏み間違いだろうか。慌てた様子の運転手の顔がはっきり見える。
それなのに、身体は固まって動かなかった。
――そうか……前世の僕はこんな風に死んだんだ。
もう一人の自分――アロイヴの声がした。
これは前世の自分が最期に見た光景、死の瞬間の記憶だ。
車がぶつかるより早く、アロイヴの意識はその身体から抜け出していた。激しく跳ね飛ばされた――に、ぎりぎりのところで車の直撃を逃れた妹が駆け寄っていくのを、少し離れた場所から見つめる。
「よかった……妹は無事だったんだ」
いくつか擦り傷はあったが、大きな怪我はない様子だった。
アロイヴは、ほっと胸を撫で下ろす。
そんなアロイヴの視界の端に、何か黒いものが横切った。
「え……紫紺?」
大きな三角の耳に、ふさふさの尻尾。
見慣れた姿に紫紺の名前を呼んだアロイヴだったが、すぐに別の獣だと気づいた。
紫紺と同じ影狐であることに間違いはなさそうだが、瞳の色が違う。
「君は……誰?」
賢そうな淡い水色の瞳をこちらに向ける影狐に、アロイヴはいつも紫紺にそうするように話しかけていた。
きゅう、と高い声で鳴いた影狐は、高く持ち上げた尻尾をふりふりと左右に振る。
まるで「こっちに来い」と言っているかのようだ。
「……そうだね。僕がここにいても、仕方がないし」
アロイヴは、見知らぬ影狐についていくことにした。
泣きながら「お兄」と呼び続ける妹の声に胸は痛んだが、ここにいても自分にできることはない。
「みんな、元気でね」
振り返らずにそう告げて、駆け始めた影狐の背中を追った。懐かしさにあふれた涙だけ、そこに置いていくことにする。
影狐はアロイヴも知らない細い路地をどんどん奥へと進んでいった。目的地があるのか、影狐の足取りに迷いは感じられない。
アロイヴはそんな影狐を見失わないように、必死で追いかける。
「あれ……ここって」
いくつ目かの角を曲がった直後、急に周りの景色が変わった。振り返ると、さっきまで通ってきた路地はない。
目の前に広がる光景を、アロイヴは知っていた。
「あの夢に出てきた森だ」
黒い土に毒々しい紫色の木々。
空気も澱んで感じるその森は、アロイヴが何度か夢で訪れたことのある場所で間違いなかった。
少し開けたところに、小さな影狐が倒れているのも同じだ。
「もしかして、あれは君なの?」
アロイヴをここまで連れてきた影狐の姿が、いつの間にか透けていることに気がついた。
半透明の影狐は、地面に横たわる影狐へと近づいていく。
溶け込むようにその体の中に消えていった。
「やっぱり、そうだったんだ……」
アロイヴも影狐に近づいた。
夢で何度も見たこの影狐のことを紫紺なのだとばかり思っていたが、どうやら違っていたらしい。
そっと手を伸ばす。
あの夢とは違って、影狐の体に触れることができた。
ふかふかの毛並みを撫でていると、影狐がわずかに瞼を開く。澄んだ水色の瞳がアロイヴを映す。
ふと、頭の中に知らない映像が流れた。
凶暴化した一頭の魔獣に、影狐の群れが襲われている。これは、この影狐の記憶だろうか。
――このままではみんなが死んじゃう。
――そんなことはさせない。
影狐の考えていることも一緒に流れ込んでくる。
それは、強い決意だった。
「君がこんなにもボロボロなのは、家族や仲間を守ったからなんだね」
きゅ、と影狐が鳴いた。
誇らしげな声に聞こえたのは、きっと気のせいではないだろう。
『――なぜ』
背後から聞こえた低い男性の声に、アロイヴは驚いて振り返った。
夢で見たのと同じだ。
真っ黒なローブを纏った男性が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。夢と同じことが起きるなら、ローブの男も影狐のすぐ傍まで来るはずだ。
――どうしたら。
アロイヴには、ローブの男が死神のようにしか見えなかった。この小さな影狐に死を与える恐ろしい存在に思えてならない。
きゅきゅ、と影狐が鳴いた。
怯えた声ではない。大丈夫だとアロイヴを宥めるときの、紫紺と同じ鳴き声だった。
それでもアロイヴは背中で影狐を守りながら、ローブの男を警戒する。
『そんな生に――意味はあるのか?』
夢の中で聞いたものとは、違う問いだった。
――なんだろう、この人の声……前は怖いとしか思わなかったのに。
今回はいつもと違って聞こえた。
きゅっと胸が痛むのは、声に哀しさが混ざっているからだろうか。
「あの……」
アロイヴは、ローブの男に向かって話しかけていた。だが、男にアロイヴの声は届いていないようだ。
男に向かって、手を伸ばす。
――あれ、今度は僕の身体が……透けてる。
さっきまでは実体だったのに、アロイヴの指先はほぼ見えないぐらいに透けてしまっていた。
存在が朧げになっていくのと一緒に、意識も少しずつ朦朧としてくる。
『…………ヴ、……イヴ』
呼んでいる声がする。
意識体だけになったアロイヴを導くその声は、紫紺のものに間違いなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「これを、あの二人がやったなんて」
ヴェアグロネズの襲撃から数日後。
フィリは現場となったレサシュアの探索者ギルドを訪れていた。その隣には、このギルドの長であるカルカヤの姿もある。
「正確には、狐くん一人の力だな。魔力の残滓もヴェアグロネズと狐くんのものしかない」
「余計に信じられませんよ」
カルカヤの言葉に、フィリは首を横に振った。
瓦礫の山となった探索者ギルドを見つめて、眉間にぎゅっと力を入れる。
「こんな有様だというのに……重傷者がたった一人だなんて」
「それが一番の驚きだな。あの狐くんが、ロイ以外を守ろうとするとは思わなかった」
「それも、アロイヴ様の心を守るためでしょうが」
「行動原理はそうだろうな。でも、うちの職員たちを守ってもらったことに違いはない」
これだけのことが起きたというのに、重傷者は最初に標的にされたサクサハだけ。そのサクサハもアロイヴの機転によって、一命を取り留めていた。
その治療に携わったのはフィリだ。
ボロボロの姿のサクサハが自分の元に送られてきたときには驚いたが、一緒にいた者たちの力も借りて、無事に救命することができた。
「弟を助けてもらった礼も伝えなければいけないな」
「……アロイヴ様と連絡は取れるのですか?」
あの日以来、アロイヴたちはレサシュアの街に戻ってきていなかった。
無事であるとは聞いているが、フィリはまだ本人の姿を確認していない。
「狐くんとは話したよ。と言っても、こちらが一方的に状況を伝えただけだがな」
「二人はどうしているのですか?」
「無事でいるから心配は必要ない。ただ、今はまだ二人きりにしておいてやろう。気持ちを整理する時間が必要だろうからな……それに」
「……それに?」
カルカヤが不自然に言葉を止めた。
フィリが続きを促しても、話そうとはしない。瓦礫の一点を見つめたまま、何か考えている様子だった。
「――時間はもう、あまりないのですか?」
フィリの言葉に、カルカヤの視線が動いた。
ちらりとフィリの顔を確認して、小さくため息をこぼす。
「憶測で話すのは好きじゃない。だが、そうだな……そうかもしれない」
カルカヤの苦しげな声色に、フィリも表情を歪める。
震える手を握り締め、「ごめんなさい」と小さな声で許しを乞うた。
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