【完結】魔王の贄は黒い狐に愛される

コオリ

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46 小さな獣と黒い影

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 紫紺の様子がおかしくなった日から、数日が経っていた。
 治療は毎日行っているものの、まだ紫紺の意識は正常な状態ではない。今も従魔術は解除できていないままだった。
 アロイヴはずっと従魔術を展開している状態なので、毎食後の魔力回復薬が欠かせない。薬は前にカルカヤに売ってもらったものがあったので困ることはなかったが、薬はあまりおいしくなく、続けて飲みたいと思える代物ではなかった。
 とはいえ、文句は言っていられない。

 紫紺への治療行為は、紫紺の魔力を一度アロイヴの身体に流してから戻すというものだった。
 例えるなら、汚れた水を綺麗にする浄水器のような役割をアロイヴが行うということだ。
 魔素の毒素は魔獣にとっては問題となる成分だが、人間には全く害がないことが確認されている。どれだけ治療を行なってもアロイヴの身体に異変が起こることはなかったが、アロイヴはこの治療が少し苦手だった。

「紫紺、今日も始めよっか」

 話しかけても、紫紺の反応が薄いのは寂しい。
 それでも全く反応がないということではなく、アロイヴが呼ぶと紫紺は必ず目を合わせてくれた。
 治療は就寝前に行うことにしている。
 時間がかかるので、眠っている間にしてしまうのが一番効率がいいのだ。
 それでも、この治療がアロイヴを複雑な気持ちにさせることには変わらなかったが、これは紫紺を治すために必要なことだ。
 それもアロイヴにしかできない――今はやるしかなかった。

「じゃあ、紫紺。裸になって」

 アロイヴの言葉に従って、紫紺はすぐに裸になった。アロイヴも着ていたものを脱ぐ。
 そう。この治療はお互いの肌同士をなるべく多く触れ合わせる必要があった。
 そのためには、体勢も重要になってくる。

「紫紺、いつもみたいに仰向けになって……うん。それじゃあ、乗るよ?」

 アロイヴは仰向けに寝転がった紫紺の上に跨った。
 鍛えられた腹の上に座り、そのまま上半身をそっと前に倒す。紫紺の首元に顔を埋めるように、ぴたりと身体を密着させた。

「ん…………はぁ」

 紫紺はアロイヴより体温が高い。
 じんわりと移ってくる紫紺の体温はとても心地がよかった。どれだけ我慢しようとしても、いつも声が出てしまう。
 それに、こうして直接肌を触れ合わせる行為は、治療とわかっていてもドキドキするものだ。

 ――あ、来る。

「ぁあ……ッ」

 触れているところから、紫紺の魔力が流れ込んできた。
 これが始まれば、あとはもう寝ていてもいいのだが、こんな状態で眠れるわけがない。
 紫紺の魔力はアロイヴに快楽に似た感覚を与える。紫紺もそれは同じなのか、いつも熱のこもった視線をアロイヴに向けていた。

「紫紺……キス、して」

 転移酔いのときと同じく、キスも治療のうちだ。
 でも、こうやって自分からねだるのはやっぱり慣れない。
 でも、従魔術の支配下にある紫紺はアロイヴが言わないと動けないのだ。恥ずかしがっている場合ではない。

「ん、ぁ……ンっ」
 
 これは治療なのに、こうして気持ちよくなってしまう自分が嫌だった。
 毎晩同じ行為を繰り返しているのに、この感覚は慣れるどころか、身体がいい場所や行為を覚えてしまうだけで逆効果だ。

「紫紺、もっと……ッ」

 無意識に「もっと欲しい」とねだってしまう。
 今日の治療も快楽に溺れ続けることになりそうだった。


   ◇


 きゅう、と獣のか細い鳴き声が聞こえた。
 アロイヴは意識を取り戻す。すぐに鳴き声の主を探した。
 そこは、知らない森の中だった。
 アロイヴが今まで行ったことのあるどこの森とも植生が違う。黒い土に深い紫色の木々、どこか毒々しい色合いの森の中、アロイヴは一人きりだった。

「紫紺……?」

 いつも隣にいるはずの紫紺の姿は見当たらなかった。
 アロイヴが名前を呼んでも、現れる様子はない。

「さっきの……声」

 先ほど聞こえた獣の声。
 それは小さい獣の姿のときの、紫紺の声に似ていなかっただろうか。

「紫紺!!」

 急に心配になり、名前を呼びながら、声の聞こえたほうに駆け出す。
 そこで違和感に気づいた。

「……僕の身体、透けてる?」

 アロイヴの身体は実態ではなかった。
 そしてすぐに気がつく。これは夢なのだと。
 その証拠に、生い茂る木々にアロイヴが触れることはできなかった。おかげで障害物も関係なく、まっすぐ声の下に駆けつけることができる。

「……っ、紫紺!」

 声の主はすぐに見つかった。
 開けた空間の真ん中で、ぽつんと転がる小さな黒い獣がいる――やはり、紫紺だ。
 紫紺はひどく弱っているように見えた。

「どうして、紫紺……っ、あ」

 触れようとしたアロイヴの手は、紫紺の体をすり抜けてしまった。これは夢だと気づいたはずなのに、アロイヴは紫紺に触れられないことに慌てる。
 きゅうきゅうとか細い声で泣き続ける紫紺は、今にも死んでしまうのではないかと思うぐらいに弱りきっていた。
 それなのに、何もできないなんて。

「夢なら、早く覚めて……お願いだから」

 こんな光景、夢であっても見たくない。
 アロイヴは必死に目を覚めようとしたが、夢から抜け出す方法はわからなかった。
 その間にも、紫紺の声はだんだん小さく、弱々しくなっていく。

『なぜ――』

 突然、後ろから声が聞こえた。
 感情のこもらない低い男性の声だ。
 振り返ると、少し離れたところに黒いローブを纏った人が立っていた。
 フードを目深に被っているので顔は見えない。
 唯一、ローブの袖口から覗く真っ白な指がアロイヴと同じように透けているのだけはわかった。
 その動きはゆらゆらとどこか不安定で、まるで幽霊のようだ。

「誰……?」
『なぜ、そこまでして――』

 黒いローブの男に、アロイヴの声は届いていないようだった。
 姿も見えていないのかもしれない。
 なぜ、と何度も独り言のように呟きながら、こちらに近づいてくる。
 男は、アロイヴのすぐ横を通り過ぎた。
 その瞬間にも、男の顔を見ることは叶わない。
 指先が見えていなければ、ローブの中は何もいないのではないかと錯覚してしまうぐらい、ローブの中に人の気配は感じられなかった。
 男はゆったりとした足取りで、地面に倒れる紫紺に近づく。

『……なぜだ』

 そう話しかけながら、紫紺の体に向かって手を伸ばした。
 その姿がまるで死神のように見えて――アロイヴは触れられないことも忘れて、自分も紫紺に向かって慌てて手を伸ばす。
 その手が、ローブの人物の手と触れた。

「え……っ」

 一瞬、何かが流れ込んできた気がした。
 そして、自分からも何かが流れ出たような感覚も。
 ローブの人物の顔が動く。あちらにアロイヴのことは見えていないはずなのに、それは明らかにこちらに気づいたような動きだった。

『――――』

 何を言われたのか、わからなかった。
 ただ、空気の振動は感じた。
 身体を強い風が吹き抜けたような感覚がしたのと同時に、その場から弾き飛ばされる――そこで、目が覚めた。


   ◇


「っ、紫紺!」

 目を覚ましたアロイヴは、真っ先に紫紺の名前を呼んだ。
 こちらを見上げている紫の瞳と目が合って、ほっと安堵の息を漏らす。

「よかった……やっぱり、夢だよね?」

 弱りきった紫紺なんて見たくない。
 あんなのは、ただの夢だ。
 すぐに忘れたいと思うのに、ついさっきまで見ていた光景が目に焼きついて離れない。つらそうに鳴く紫紺の声が、ずっと耳に残っていた。

「紫紺、抱きしめて……お願い。痛いぐらいでもいいから」

 早くあんな夢忘れたい。
 生きている紫紺のぬくもりで上書きしたい。
 紫紺に命じながら、アロイヴも紫紺の身体に力いっぱいに抱きつく。今日はこのまま、ずっと紫紺から離れたくない。
 離れられる気がしなかった。
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