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24 刻印と望まない再会
しおりを挟むとぷん、と頭の先まで一気に水に沈んだ。
溺れてしまう恐怖にアロイヴは全身を強張らせる。すぐにハッとして、もがくように腕を動かそうとしたが、何かが邪魔してできなかった。
腕ごとアロイヴの身体を拘束していたのは、紫紺の腕だ。
抱きしめられているせいで、身動きが取れない。
――このままじゃ、死んじゃう。
紫紺になんとかして、水から上がるように伝えなくては――そう思うのに、苦手な水中で落ち着いて考えるなんてことは無理だった。
急に引きずり込まれたせいで、肺の中の空気も足りない。
息苦しさのせいで、余計にパニックになってくる。
――もう、だめだ。
がぼっ、と肺に溜め込んでいた空気を吐き出した――つもりだった。
だが、口から空気の泡は出ない。
水中にいながら普通に息ができていることに、アロイヴはそこでようやく気づいた。
「…………っ」
声は出せない。
だが、呼吸に支障はないようだ。
ここは間違いなく水中のはずなのに……異世界では水中でも呼吸ができるのだろうか。
――これなら……溺れない?
前世カナヅチだったアロイヴに泳ぎ方はわからなかったが、少なくとも息ができるなら溺れ死ぬことはなさそうだ。
ほっ、と安堵の息を漏らす。
ようやく少し落ち着きを取り戻して、アロイヴは自分を抱きしめている紫紺に視線を向けた。
アロイヴの身体から緊張が解けたことに気づいたのか、紫紺が腕の力を緩めた。
それでも離れてしまわないように、紫紺の左腕はアロイヴの腰に回されている。
紫紺の視線が下を向く。
アロイヴも釣られるように下を見た。
艶やかな肌色が目に入り、アロイヴは自分が一糸纏わぬ姿だったことを思い出す。それは紫紺も同じだった。
何も着ていない状態で誰かとこんな風に肌を密着させたのは、これが初めてだ。
なんだか変に意識してしまい、さっきとは違う緊張感にアロイヴは身を固くする。
――恥ずかしい。
元が魔獣である紫紺は、あんまり気にならないんだろうか。
そんなことを考えていたときだった。
おもむろに伸びてきた紫紺の手が、アロイヴの胸の中央に触れる。手のひらを押し当てられた瞬間、ピリッと一瞬突き刺すような痛みが走った。
――何?
見ると、紫紺の手のひらから何か黒いものがあふれていた。
水に落としたインクのように、じわりと滲んで広がる。
周囲の水に完全に混ざることなく範囲を広げていく黒い何かは、なぜかアロイヴの周りから離れなかった。
それどころか、少しずつ纏わりついていく。
――これ……んッ。
ひくん、と身体が震えた。
黒い何かが触れたところからも、弱い電流のような刺激が走る。絶え間なく与えられる刺激から咄嗟に逃げようとしたが、紫紺の手が腰を押さえているせいで動くことができなかった。
――身体が、熱い。
水の中だというのに、アロイヴの体温は上がり続けていた。これも、この黒い何かが原因だろう。
全身の熱は、紫紺の触れている胸の中央に向かって集まってきている。
何かが起きている。
いや、起きようとしている。
――紫紺の、目が。
こちらを見つめる紫紺の瞳が、いつもより鮮やかな紫色に染まっていることに気づいた。
あの猿型の魔獣と対峙していたときと同じ目だ。
紫の炎が宿ったような瞳。
その美しさに見惚れていると、一際強い衝撃がアロイヴを襲う。同時に頭の中に知らない声が響いた。
『――――』
翻訳能力が機能せず、何を言われているのかはわからない。それなのに、なぜか泣きそうなほど感情が昂っていた。
もしかしたら、実際に泣いてしまっていたかもしれない。
――……紫紺。
アロイヴは何かに突き動かされるまま、目の前にいる紫紺に顔を近づける。
その唇に、自分の唇を重ねていた。
◆
水から上がっても、アロイヴの身体の異変は続いていた。
紫紺の腕の中で、びくびくと身体を震わせる。
「ん……ぁっ」
甘い疼きが止まらない。
声が我慢できない。
近くの岩の上に下ろされた後もアロイヴは紫紺の腰にしがみつき、必死にその異変を耐えていた。
「あ、何……紫紺、やめっ」
そんなアロイヴの身体に、紫紺の手が触れた。何かを確かめているようだ。
敏感になっている肌を撫でられ、アロイヴはいやいやと首を横に振る。
「今は、触らないで……っ」
「――イヴ」
「?」
突然聞こえた自分以外の声に、アロイヴは驚いて顔を上げた。
身体の疼きはなおも続いていたが、それを忘れるぐらいに驚いている。
声を発したのが、紫紺だったからだ。
「紫紺……話せる、の?」
「イヴ」
どうやら『イヴ』というのは、アロイヴのことのようだった。
発音は少し拙いが、声は透き通った耳に心地のいい美声だ。紫紺の見た目によく合っている。
声が出せたことが嬉しかったのか、破顔した紫紺がアロイヴの身体を力強く抱きしめた。
◆
「……なんだろう。この模様」
身体の異変が治まった後、シャツに腕を通していたアロイヴは自分の胸の中央に刻まれた不思議な模様に気がついた。
直径十センチほどの丸いそれは、まるで魔法陣のようだ。
「これ……紫紺がつけたのかな?」
模様は、紫紺の手が触れていた場所に刻まれている。
そう考えるのは当然だった。
「イヴ」
話せるようになった紫紺だが、発音できるのはこの二文字だけのようだった。
それでも本人は満足らしく、時々、用もないのにこうしてアロイヴのことを呼ぶ。アロイヴが振り返ると嬉しそうに頬を緩めるので、こちらまで釣られて笑顔になってしまう。
こんな意味のないやり取りを、二人はもう何度も繰り返していた。
「ねえ、紫紺。これ、紫紺がつけたんだよね?」
シャツの胸の部分を開き、模様を見せながら聞くと、紫紺は笑みを浮かべたまま頷いた。
近づいてきて、アロイヴの胸の模様に指先を滑らせる。
「ん……っ、あんまり触らないでッ……あ、舐めるのはもっとだめだって」
胸元に顔を近づけてきた紫紺を押し返す。
可愛いむくれた顔を見せられても、その行為は許可できない。「だめだからね」とアロイヴが念を押すと、紫紺は降参とばかりに両手を上げた。
「結局……なんの模様なんだろ、これ」
「それは従魔の契約印ですよ」
「――!?」
割り込んできた知らない声に驚いたのは、アロイヴだけではなかった。
気配に敏感なはずの紫紺も、声を掛けられるまで全く気づいていなかったらしい。それでもすぐさま立ち直り、アロイヴを背で守りながら、声の主を睨みつけている。
「驚かせてしまったようですね。これは失礼しました」
紫紺の威嚇を受けても、相手はなんとも思っていない様子だった。
柔らかな口調で、二人に向かって謝罪する。
アロイヴはその人物に釘づけだった。
「……あなたは」
「おや、私のことを覚えていてくださったんですか?」
忘れるはずがない。
目の前の人が纏う白い外套は、あのときに着ていたものと同じだ。目深に被ったフードも、その下から覗いている銀色の髪も――どれも忘れられるはずがなかった。
「白い、魔族……」
二人の前に現れたのは、屋敷で会った白い魔族だった。
メンネを迎えにきた高位魔族に付き添いとして一緒にいた、あの魔族だ。
「そういえば、まだ名乗っていませんでしたね」
白い魔族は朗らかにそう言いながら、おもむろにフードを下ろす。
隠れていた美貌を晒し、妖艶に微笑んだ。
「私はカフィンリャクラと申します。フィリとお呼びください、我が主の贄」
忘れたかった称号を突きつけられ、アロイヴは酷い眩暈を覚えた。
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