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23 こぼれた言の葉
しおりを挟む森を早く抜けるために、次の日もアロイヴは紫紺に抱きかかえられた状態での移動だった。
せっかく鍛えられてきた足の筋肉がまた衰えてしまいそうだったが、全力で頑張ったとしても紫紺の走る速度にはついていけそうにない。
足を引っ張ってしまうぐらいなら頼ったほうがいいと頭では理解しているものの、アロイヴにとって、これが苦渋の決断であることに変わりはなかった。
誰かを頼るのには、まだ慣れない。
「紫紺、目的地はあるの?」
屋敷を突然追い出される形となったアロイヴの旅に目的地はない。
ケイは紫紺に任せればいいと言っていたが、その紫紺に目的地はあるのだろうか。
「一応、どこかを目指してはいるんだよね?」
紫紺はその問いに、こくんと頷いた。
今、進んでいる方向を指差す。
「あっちに何かあるの?」
もう一度、頷いた。
人の姿になれるようになった紫紺だが、相変わらず話すことはできないままだ。
文字が書けないかも試してみたが、そちらもだめだった。
ちなみにアロイヴの話している言葉は通じるし、文字だって判読することができる。読める文字が書けないというのは不思議だったが、それがなぜなのかは紫紺もわかっていない様子だった。
紫紺は文字が書けないというより、書くことを許されていないように見えた。
文字を書いてみようと空中で指を動かしはするのだが、何か抵抗があるかのように苦悶の表情を浮かべた後、すぐにやめてしまうのだ。
そんな紫紺に無理強いをするつもりはなかった。
アロイヴから話しかけさえすれば意思の疎通は取れるのだから、これからもそうしていけばいい。
「じゃあ、とりあえずはそこを目指そっか。僕には、ここがどこかもわからないしね。よろしく、紫紺」
アロイヴの言葉に反応するように、紫紺が駆ける速度を上げた。
◆
「わぁ……すごい」
昼前に到着したのは山に続く傾斜が始まる手前、色とりどり花が咲き誇る花畑だった。
自然にできたものなのだろうか。花畑のあたりだけは不思議と背の高い木々が一本もなく、空が大きく開けている。
穏やかな陽光の下で咲く色彩豊かな花々の前で下ろされたアロイヴは、紫紺と手を繋いだまま、花畑の中へ足を踏み入れた。
二人が歩いた場所に咲いていた花の花弁が、風に乗ってはらはらと舞い上がる。
「綺麗だね、紫紺」
その花弁を視線で追いながら、アロイヴは眩しいものを見つめるように目を細めた。
もう、こんな風に花を愛でることはできないと思っていた。美しい花を見るとどうしても、あの誕生日のことを思い出してしまうからだ。
そして――その夜に起こった出来事も一緒に。
アロイヴは腰にぶら下げているポーチに、そっと手をかざした。
魔道具であるそのポーチから取り出したのは、ケイに貰ったしおりだ。
紫紺に似た影狐をモチーフに、ケイが手作りしてくれたしおり。それは屋敷を出るときに、アロイヴが持ち出したものの一つだった。
「これを見るのは……まだ、やっぱりつらいや」
ケイがあの後どうなったのか、アロイヴは知らない。
生きていると信じていても、胸はどうしようもなく痛んだ。
ぎゅっとしおりを握りしめていると、その手に紫紺の手が重なる。
「ケイ、無事だといいな……」
言葉と一緒に涙がこぼれた。
アロイヴの感情はまだまだ不安定だった。
美しく咲く花々に感動を覚えていたはずなのに、その次の瞬間には気分が沈んでしまう。
自分でもコントロールが利かない。そのうち、時間が解決してくれることを祈るしかなかった。
アロイヴは花畑の近くにあった平たい大岩の上に腰を下ろし、気持ちが落ち着くまで、ぼんやりと花畑を眺めていることにした。
紫紺も隣に座ってもらっている。
やはりまだ、紫紺の手を離すのが怖かったからだ。
「ごめんね、紫紺。退屈じゃない?」
紫紺は首を横に振ると、アロイヴの頬に手を添えた。
赤くなっているのだろう目元に指を滑らせて、悲しそうに眉を下げる。
「紫紺のせいじゃないよ。僕が気持ちをうまく切り替えられないのだめなんだ。せっかく、こんな素敵な場所を教えてくれたのに……ごめんね」
そう言いながら、情けなく下がってしまった紫紺の眉尻に触れた。
「そんな顔しないで。紫紺の綺麗な顔が台無しだよ。こんなにかっこいいのに」
アロイヴの言葉に、紫紺が目を大きく見開いた。
ぱちぱちと何度か瞬かせた後、今度は頬を真っ赤に染める。
「もしかして……褒められて、照れたの?」
紫紺の珍しい反応に、アロイヴは思わず笑ってしまった。
恥ずかしそうに顔を背けた紫紺を見て、「可愛い」と本音が無意識に漏れてしまう。それは違うというように、紫紺がぺちぺちとアロイヴの太腿を叩いてきた。
その仕草も含めて、可愛くて仕方ない。
「可愛いし、かっこいいし……紫紺はずるいなぁ」
つんつん、と紫紺の頬を指先でつつく。
紫紺とじゃれ合っているうちに、アロイヴの気持ちは浮上したようだった。
「紫紺は、声もかっこよかったりするのかな」
紫紺が話せないのはわかっているが、話すとしたらいったいどんな声だろう。
落ち着いた声なのか、爽やかな声なのか。
想像してみるだけでも楽しい。
「僕の名前ぐらい、呼べるようにならないかな」
その言葉を聞いた紫紺の瞳が煌めいたことに、アロイヴは全く気がついていなかった。
◆
花畑からまた移動し、次に訪れたのは山の中にあった湖のほとりだ。
二人はついに森を抜け、今度は山を登っていた。
紫紺はここでも信じられないほどの運動能力を発揮し、まるで整備された道を進むかのように、険しい上り坂でもすごい速さで進んでいる。
アロイヴは森の中以上に、紫紺に頼りっきりになっていた。
湖に来たのは水を調達するためではない。
飲み水は、その手前で見つけた水属性の魔樹からすでに調達済みだった。
ここで紫紺が足を止めたのは、水浴びをするためだろう。アロイヴもそろそろ身体を洗いたいタイミングだった。
「ここって安全なのかな? さっきも、魔獣の声が聞こえたけど……」
できるなら、服を脱いで水浴びをしたかった。
だが、ここが危険な場所なのだとしたら、無防備な格好を晒すわけにはいかない。
窺うように紫紺を見ると、いつの間に服を脱いだのか、紫紺は先に裸になっていた。
「え、早……っ」
ということは、ここは安全なのだろう。
アロイヴも慌てて服を脱ぐ。
腰にぶら下げた魔道具のポーチに手をかざして収納を念じるだけで、服は一気に装備解除になった。楽な着替え方法として、道具屋の店主カルカヤから教えてもらった方法だ。
着るときは使えない技だが、脱ぐときには重宝している。
ちなみにその便利な魔道具のポーチは今、指輪の形に変化していた。
この形のときに物の出し入れはできない仕様だが、こうして水浴びをするときなどになくさなようにと考えられてる――本当に便利な代物だった。
「わ、ちょっとあったかいんだ。ここの水」
湖の水は温水ぐらいの心地のよい温度だった。
アロイヴは浅いところで身体を洗うつもりだったが、そんなアロイヴのことを紫紺がひょいっと抱き上げる。
素肌同士が触れ合う感触に戸惑っている間もなく、肩まで浸かるあたりまで連れていかれた。
「ちょっと……深いところはだめだって」
前世のアロイヴはカナヅチだった。
その記憶もあって、今世も溺れそうな場所には近づかないようにしていたのに。
「紫紺、あっちに戻って」
そんなアロイヴの指示を無視して、紫紺はさらに深いほうへと歩みを進めた。
そして、アロイヴを腕に抱いたまま、水の中に身体を沈める。あっという間に水の中へと引きずり込まれていた。
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