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16 一人と一匹で向かう場所
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アロイヴが水浴びをするとき、紫紺は進んで見張りをしてくれる。
昨日あんな目に遭ったこの森で無防備な格好を晒すのはどうかと思わなくもなかったが、紫紺に舐めまわされた身体をそのままにはしておけなかった。
紫紺は少し不満そうだったが、そこは許してほしい。
別に獣臭いということはないのだが……むしろ、紫紺の体から香るのと同じ、甘くいい匂いがすることのほうに問題があった。
「この匂い、ずっと嗅いでると頭がぼーっとしてくるから……」
少量であれば落ち着く香りなのだが、これだけ濃いと思考がぼんやりとしてきてしまう。
落ち込みやすい夜はそれが安眠効果を発揮してくれるのだが、四六時中、ぼーっとしているわけにはいかない。
「傷、本当に全部治ってる」
水場に足をつけ、身体を洗い流しながら、アロイヴは自分の身体を見下ろした。
魔獣から逃げるときについた傷でボロボロだった身体は、紫紺のおかげですっかり元通りになっている。切り傷や擦り傷だけでなく、打ち身や捻挫なども、すべて完璧に治癒していた。
「……それだけ、舐めまわされたってことなんだけど」
紫紺は傷を治してくれようと必死だったのだろうが、あれはあれで拷問だった。くすぐったいのとも少し違う変な感覚に、声を堪えるのが大変だった。
これからはあまり怪我をしないようにしようと、アロイヴはこっそり心に誓う。
「なんか、痩せた気がするな」
元々細身だったアロイヴだったが、この数日間でさらに痩せてしまっていた。あばらがはっきりと浮き上がるほどだ。
ただ、森を歩き続けたおかげか、足だけは少し筋肉がついたようだった。
それでも、ようやく人並みといったところだったが。
「……元々、力仕事が向いてそうな身体じゃないもんね」
両親もそんなに身体が大きな人ではなかったと思う。兄も剣を振るうのは苦手だと言っていた記憶があるので、力仕事に向いていないのは、きっと血筋的なものもあるのだろう。
とはいえ、この世界で生き残る力が足りないというのは困る。
魔獣に勝つ力をつけるのは難しいとしても、自分の身を守る力ぐらいは欲しい。
「それがあれば、ケイも……」
あの日のことを思い出しかけて、アロイヴは首を横にふるふると振った。
今さら考えても仕方ないとわかっているのに、ふとしたとき、つい暗い考えに引きずり込まれそうになる。
紫紺と楽しく笑っているときでも、自分にこんな風に笑って過ごす権利などあるのかと――そんなことを考えてしまうのだ。
そして、決まって胸が痛む。
鳩尾を締めつけられるような痛みにうずくまって、アロイヴはぎゅっと唇を噛み締めた。
「……どうするのが、正解なんだろう」
自分の生き方を決められない。
自由を与えられたところで、定められた称号が〈魔王の生贄〉であることに変わりはないのだから。
「わかんないよ……この世界で、どうやって生きればいいのかなんて」
それが、今のアロイヴの本音だった。
◆
「これが、この辺りの地図か……」
洗った服を乾かしている間、アロイヴは紫紺が洞穴に持ってきてくれた地図を眺めていた。
猿型の魔獣にやられた一団が持っていたものだ。
アロイヴにあの場所に戻る勇気はなかったが、代わりに紫紺が様子を見にいってくれた。そのときに拾ってきてくれたのが、この地図だった。
「かなり簡易的なものだけど……これが今いる森で、ここに書いてあるナルカっていうのは町の名前……なのかな?」
地図といっても、そこまで精密なものでない。
大雑把に位置関係を示しているだけのものにすぎなかった。
それでも、何もわからずに森を歩いていたアロイヴには新しい発見ばかりだ。
「このマークは教会みたいだね」
地図には教会を示すマークも書かれていた。
ナルカという町のあたりに一つ、そして森の向こう側にも一つ。
おそらくは森の向こう側にあるのが、これまでアロイヴが暮らしてきた場所だろう。
「でも……自分たちが今いる場所がわからないんじゃ、地図もそんなに意味はないか」
森を出たところに町があるのはわかっても、それが今いる場所から近いか遠いのかはまではわからない。
頭を抱えるアロイヴの隣で、紫紺がのそりと顔を上げた。
地図に鼻先を押しつける。
「ん? ……もしかして、今はここだって言ってる?」
肯定するように紫紺が頷く。
どうやら、紫紺は自分たちがどこにいるのかを正確に把握しているらしい。しかも、地図まで読めるなんて。
「それが本当なら、ナルカっていう町まではそんなに遠くないね。もしかして、そこに僕を連れていこうとしてたの?」
その質問の返答に、紫紺は少し迷っている様子だった。
目を伏せて、きゅうとか細い声で鳴く。
紫紺がそんな反応をする理由に、アロイヴはすぐに思い至った。紫紺の体に腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。
「町についても紫紺とさよならしたりしないよ。だから安心して。僕は、紫紺と離れる気なんてないから」
アロイヴの言葉を聞いて、紫紺の尻尾がぱたぱたと嬉しそうに揺れ始める。
自分も離れる気はないと言わんばかりに頭を押しつけてくる紫紺の仕草に、アロイヴはなんだか泣きそうな気持ちになった。
「とはいえ……一度、町には立ち寄ったほうがいいよね」
乾いた服を身につけながら、アロイヴは溜め息混じりに呟いた。
服がただの布切れになりつつあったからだ。教会から支給されていた服はそれなりにいい素材のものだったが、森歩きには向いていなかったらしい。
さらには魔獣から追われていたときに転んだせいで、膝から下はずたぼろに破れてしまっていた。
「この魔石がどのぐらいの価値かわからないけど……とにかく人のいる場所に行って、服は手に入れないと」
魔獣にやられた商人たちの荷を漁るなんて手も一瞬考えたが、良心が痛んで実行できなかった。
死者の荷物を奪うなんて……地図を持ってきてもらうのすら、アロイヴにとってはギリギリの決断だった。
「じゃあ、行こうか」
紫紺の示した位置が正確なら、ナルカまでは歩いて二日ほどの距離だ。
屋敷に引きこもっていた頃のアロイヴなら途方もない距離に思えただろうが、これまでずっと森の中を歩いてきたアロイヴにとってはそこまで大した距離に思えなかった。
紫紺の取ってきてくれたマンゴーに似た果実に齧りつきながら、紫紺のすぐ隣を歩く。
今日の紫紺は大きな姿のままだった。
「そういえば……その町にも教会があるんだったな」
地図にはそう書かれていた。
今のアロイヴは教会から逃げている身だ。
情報がどんな風に伝わったいるかはわからなかったが、教会の建物には絶対に近づかないほうがいいだろう。
「危険なことがあったら、すぐに教えてね」
こちらを見上げる紫紺の頭を撫でる。
一人と一匹は、ナルカを目指して森の中を進んだ。
昨日あんな目に遭ったこの森で無防備な格好を晒すのはどうかと思わなくもなかったが、紫紺に舐めまわされた身体をそのままにはしておけなかった。
紫紺は少し不満そうだったが、そこは許してほしい。
別に獣臭いということはないのだが……むしろ、紫紺の体から香るのと同じ、甘くいい匂いがすることのほうに問題があった。
「この匂い、ずっと嗅いでると頭がぼーっとしてくるから……」
少量であれば落ち着く香りなのだが、これだけ濃いと思考がぼんやりとしてきてしまう。
落ち込みやすい夜はそれが安眠効果を発揮してくれるのだが、四六時中、ぼーっとしているわけにはいかない。
「傷、本当に全部治ってる」
水場に足をつけ、身体を洗い流しながら、アロイヴは自分の身体を見下ろした。
魔獣から逃げるときについた傷でボロボロだった身体は、紫紺のおかげですっかり元通りになっている。切り傷や擦り傷だけでなく、打ち身や捻挫なども、すべて完璧に治癒していた。
「……それだけ、舐めまわされたってことなんだけど」
紫紺は傷を治してくれようと必死だったのだろうが、あれはあれで拷問だった。くすぐったいのとも少し違う変な感覚に、声を堪えるのが大変だった。
これからはあまり怪我をしないようにしようと、アロイヴはこっそり心に誓う。
「なんか、痩せた気がするな」
元々細身だったアロイヴだったが、この数日間でさらに痩せてしまっていた。あばらがはっきりと浮き上がるほどだ。
ただ、森を歩き続けたおかげか、足だけは少し筋肉がついたようだった。
それでも、ようやく人並みといったところだったが。
「……元々、力仕事が向いてそうな身体じゃないもんね」
両親もそんなに身体が大きな人ではなかったと思う。兄も剣を振るうのは苦手だと言っていた記憶があるので、力仕事に向いていないのは、きっと血筋的なものもあるのだろう。
とはいえ、この世界で生き残る力が足りないというのは困る。
魔獣に勝つ力をつけるのは難しいとしても、自分の身を守る力ぐらいは欲しい。
「それがあれば、ケイも……」
あの日のことを思い出しかけて、アロイヴは首を横にふるふると振った。
今さら考えても仕方ないとわかっているのに、ふとしたとき、つい暗い考えに引きずり込まれそうになる。
紫紺と楽しく笑っているときでも、自分にこんな風に笑って過ごす権利などあるのかと――そんなことを考えてしまうのだ。
そして、決まって胸が痛む。
鳩尾を締めつけられるような痛みにうずくまって、アロイヴはぎゅっと唇を噛み締めた。
「……どうするのが、正解なんだろう」
自分の生き方を決められない。
自由を与えられたところで、定められた称号が〈魔王の生贄〉であることに変わりはないのだから。
「わかんないよ……この世界で、どうやって生きればいいのかなんて」
それが、今のアロイヴの本音だった。
◆
「これが、この辺りの地図か……」
洗った服を乾かしている間、アロイヴは紫紺が洞穴に持ってきてくれた地図を眺めていた。
猿型の魔獣にやられた一団が持っていたものだ。
アロイヴにあの場所に戻る勇気はなかったが、代わりに紫紺が様子を見にいってくれた。そのときに拾ってきてくれたのが、この地図だった。
「かなり簡易的なものだけど……これが今いる森で、ここに書いてあるナルカっていうのは町の名前……なのかな?」
地図といっても、そこまで精密なものでない。
大雑把に位置関係を示しているだけのものにすぎなかった。
それでも、何もわからずに森を歩いていたアロイヴには新しい発見ばかりだ。
「このマークは教会みたいだね」
地図には教会を示すマークも書かれていた。
ナルカという町のあたりに一つ、そして森の向こう側にも一つ。
おそらくは森の向こう側にあるのが、これまでアロイヴが暮らしてきた場所だろう。
「でも……自分たちが今いる場所がわからないんじゃ、地図もそんなに意味はないか」
森を出たところに町があるのはわかっても、それが今いる場所から近いか遠いのかはまではわからない。
頭を抱えるアロイヴの隣で、紫紺がのそりと顔を上げた。
地図に鼻先を押しつける。
「ん? ……もしかして、今はここだって言ってる?」
肯定するように紫紺が頷く。
どうやら、紫紺は自分たちがどこにいるのかを正確に把握しているらしい。しかも、地図まで読めるなんて。
「それが本当なら、ナルカっていう町まではそんなに遠くないね。もしかして、そこに僕を連れていこうとしてたの?」
その質問の返答に、紫紺は少し迷っている様子だった。
目を伏せて、きゅうとか細い声で鳴く。
紫紺がそんな反応をする理由に、アロイヴはすぐに思い至った。紫紺の体に腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。
「町についても紫紺とさよならしたりしないよ。だから安心して。僕は、紫紺と離れる気なんてないから」
アロイヴの言葉を聞いて、紫紺の尻尾がぱたぱたと嬉しそうに揺れ始める。
自分も離れる気はないと言わんばかりに頭を押しつけてくる紫紺の仕草に、アロイヴはなんだか泣きそうな気持ちになった。
「とはいえ……一度、町には立ち寄ったほうがいいよね」
乾いた服を身につけながら、アロイヴは溜め息混じりに呟いた。
服がただの布切れになりつつあったからだ。教会から支給されていた服はそれなりにいい素材のものだったが、森歩きには向いていなかったらしい。
さらには魔獣から追われていたときに転んだせいで、膝から下はずたぼろに破れてしまっていた。
「この魔石がどのぐらいの価値かわからないけど……とにかく人のいる場所に行って、服は手に入れないと」
魔獣にやられた商人たちの荷を漁るなんて手も一瞬考えたが、良心が痛んで実行できなかった。
死者の荷物を奪うなんて……地図を持ってきてもらうのすら、アロイヴにとってはギリギリの決断だった。
「じゃあ、行こうか」
紫紺の示した位置が正確なら、ナルカまでは歩いて二日ほどの距離だ。
屋敷に引きこもっていた頃のアロイヴなら途方もない距離に思えただろうが、これまでずっと森の中を歩いてきたアロイヴにとってはそこまで大した距離に思えなかった。
紫紺の取ってきてくれたマンゴーに似た果実に齧りつきながら、紫紺のすぐ隣を歩く。
今日の紫紺は大きな姿のままだった。
「そういえば……その町にも教会があるんだったな」
地図にはそう書かれていた。
今のアロイヴは教会から逃げている身だ。
情報がどんな風に伝わったいるかはわからなかったが、教会の建物には絶対に近づかないほうがいいだろう。
「危険なことがあったら、すぐに教えてね」
こちらを見上げる紫紺の頭を撫でる。
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