【完結】魔王の贄は黒い狐に愛される

コオリ

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10 襲撃の悪夢

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 夜も更ける頃。
 アロイヴは、ふわふわと柔らかなものに頬を叩かれて目を覚ました。

「……何してるの、紫紺」

 アロイヴの頬に当たっていたのは、紫紺の尻尾だった。
 名前を呼ぶと、きゅうと鳴き声が返ってくる。
 紫紺がこんないたずらをするなんて珍しいことだった。それに、まだ自分の部屋に紫紺がいたことにも驚いた。
 紫紺はアロイヴが眠ったらすぐ、自分の寝床に戻っているのだとばかり思っていたのに。

「紫紺、どうかしたの?」

 紫紺の様子がいつもと違う。なんだか落ち着きがないのだ。
 アロイヴは身体を起こし、紫紺を両手で抱き上げる。宥めるように背中をさすってやっても、紫紺は落ち着くどころか、きゅうきゅうとか細い声で鳴き続けた。

「…………?」

 ふと、嗅ぎ慣れない臭いが鼻を掠めた気がして、アロイヴは眉根を寄せた。
 紫紺が鳴いている原因はこれだろうか。
 窓を開け、外の香りを嗅いでみたが、さっき感じた臭いはどこにも見つからない。
 紫紺を一旦ベッドに下ろし、ガウンを羽織る。扉に近づいたアロイヴは、ドアノブに手をかける前に強くなった違和感に顔を顰めた。

「何かが……燃えてる臭い?」

 扉を少し開いただけで、焦げ臭さは一気に増す。
 廊下に火元や煙は見えなかったが、間違いなく何かが燃えている臭いがだった。火事だろうか。
 だが、こんなときに誰より早く異変を察知して飛んできそうなケイの姿がどこにも見えない。
 アロイヴと同じように臭いに気づいたらしき他の少年たちが、部屋でベルを鳴らす音が聞こえてきたが、やはり世話係は誰も姿を現さなかった。

 ――なんだか、嫌な予感がする。

 アロイヴは一旦、部屋の中に戻った。
 屋敷で何かが起きているのは間違いないが、世話係が誰も姿を現さないのはどう考えても変だ。

 ――世話係全員で消火に当たってるのかもしれないけど……いや、それはないか。絶対に誰か一人は、僕たちの様子を見に来るはずだ。

 それが来ないということは、彼らがここに来られない理由が別にあると考えるべきるだろう。

「どうしたらいいんだろう……」

 すぐにでも避難したい気持ちはあったが、この違和感を無視できない。
 これはきっと、無視してはいけないものだ。
 きゅう、と紫紺が高い声で鳴いた。心細くなったのかもしれない。
 アロイヴは自分も一旦落ち着くために、紫紺を胸に抱き上げる――そのときだった。

「――ッ!?」

 バンッ、と閉めたはずの扉が勢いよく開いた。
 音に驚いて振り返ったアロイヴの視線の先にいたのは、見知らぬ男だ。

 ――誰だ、この男。

 見るからに、野蛮そうな男だった。
 手に抜き身の大剣を持っている。その刃は何か汚れがついていた。
 アロイヴは無意識に腕の中の紫紺を強く抱きしめる。

 ――なんだ……?

 不思議なことに、正面に立っているアロイヴと男の視線は一度も交わらなかった。
 男はずかずかと部屋に入ってくると、ベッド下やクローゼット、机の下といった人が隠れられそうな場所を乱暴に暴いていく。
 一通り見終えたところで、チッと大きく舌打ちをした。

「クソ、逃げられた。部屋にはいねえぞ! あの男が連れて逃げやがったんだ!! やっぱりあんとき、とっ捕まえて殺しときゃよかった!」

 男が廊下に向かって叫んだ物騒なセリフに、アロイヴは紫紺を抱きしめたまま震えていた。
 男がどうして目の前にいるアロイヴに気づかないのかはわからないが、探されているのは間違いなく自分だ。
 しかも、男の行動には明らかな悪意がある。
 それに目的を同じとする仲間もいるようだった。

 ――何が、起こってるんだ……これはまた、夢?

 メンネのときのように、また夢を見ているのだろうか。
 でも、腕の中から伝わってくる紫紺の鼓動は本物としか思えなかった。
 部屋に流れ込んでくる焦げ臭さも、廊下から聞こえる男たちの怒声も――現実のものとしか思えない。
 廊下から聞こえる声に、悲鳴が混ざって聞こえ始めた。
「やめて」「離して」「助けて」と口々に叫んでいるのは、他の少年たちだ。

「目立つところに傷はつけんなよ。依頼主はそのガキどもをご所望なんだ。連れてくだけで金が手に入るんだからな」

 ガッハッハ、と下品に笑う声が続く。

 ――男たちの狙いは、生贄の称号を持つ人間……?

 しかも、男たちにこんな指示を出した人物は他にいるらしい。
 こんなことを考える人間がいるなんて。
 アロイヴは紫紺を抱きしめたまま、ベッドの足元のほうへと移動する。開きっぱなしの扉からちょうど死角となる位置にしゃがんで身を隠した。
 全身の震えは止まりそうにない。頭の中も恐怖でいっぱいだ。
 でも、今の状況について考えないことには、次にすべきことの判断もつかない。

 ――まずは、落ち着かないと。

 腕の中の紫紺がいてくれることだけが、唯一の救いだった。
 男が入ってきたとき、紫紺を抱き上げておいてよかった。
 もし、怒声に反応した紫紺が男に飛びかかってしまっていたら――反撃され、殺されてしまっていたかもしれない。

 ――そういえば、あの物騒な男……殺しとけばよかったって言ってたけど。

 あれは、誰のことだったのだろう。
 男たちの標的がアロイヴたち、生贄の称号を持つ人間なのは間違いない。その邪魔となる相手――彼らに立ち塞がる相手がいるとすれば、それは世話係たちだ。

 ――もしかして、みんな先にやられた……とか?

 これだけ騒ぎになっているのに、彼らがいまだに誰一人として姿を現さないのは絶対におかしい。
 彼らが真っ先に襲われたと考えるのが自然だった。

 ――ケイもやられちゃったってこと?

 最悪の想像に奥歯がガチガチと音を立てはじめる。
 いつの間にか、廊下は静かになっていた。
 遠くからかすかに男たちの怒声が聞こえてくるので絶対に安全というわけではなさそうだが、動くなら今しかないだろう。

「――っ!」

 急いで立ち上がろうとしたアロイヴは、よろけて机に足をぶつけてしまった。ガタン、と机が音を立てた瞬間、開いた扉から何者かが飛び込んでくる。

「いるんですか、アロイヴ様」

 それは、ケイだった。

「ケイ……」
「よかった。無事だったんですね。影狐と一緒ですか? その子に術を解くよう伝えてほしいのですが」
「術……?」
「影狐がアロイヴ様を守るために〈姿消し〉の術を使っているんです。その子に『今は安全だ』と教えてあげてください」
「紫紺、今は大丈夫だから……術を解いて」

 言って通じるかはわからなかったが、アロイヴはケイに言われたとおり、紫紺に話しかけた。
 すると、ずっと視線の合わなかったケイがこちらを見て、「ああ」と安堵の息をつく。アロイヴの前で膝をついた。

「ご無事だと信じていました」
「ケイこそ……あいつらに襲われたんじゃ」
「そうですね。卑怯なことに寝込みを襲われましたが、なんとか無事です。その腕に抱いているのが、影狐なんですね」

 ケイの視線は、アロイヴが胸に抱いている紫紺に向けられていた。
 紫紺はケイを見て、きゅうきゅうと鳴いている。
 威嚇の鳴き声ではない。アロイヴに何か伝えようとしているときの鳴き声だ。

「どうしたの、紫紺」
「ああ。私から血の匂いがするから落ち着かないのでしょう。魔獣は血の匂いに敏感なので」
「血の匂いって……ケイ、怪我をしてるの?」
「かすり傷なので心配ありません」

 ケイはそういうと、いつもと変わらない穏やかな表情をアロイヴに向けた。
 緊迫した状況は変わらないはずなのに、傍にケイがいてくれるだけで安心感がまるで違う。

「あ、そうだ。怪我なら紫紺が治せるかも。ね、紫紺……紫紺?」

 そう紫紺に話しかけたのに、紫紺はアロイヴの背中に隠れてしまった。
 か細い声で鳴きながら、首をふるりと横に振る。

「紫紺、どうしたの?」
「その子には、癒しの力があるのですか?」
「そうなんだけど……どうしたんだろう。だめみたい」
「おそらく、術を使える条件があるのだと思います。私なら大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

 ケイは、アロイヴと紫紺の両方に礼を言った。
 紫紺はしばらくケイに対して警戒している様子だったが、アロイヴが撫でているうちに少し緊張が解けたのか、アロイヴの腕の中からケイを見つめている。

「アロイヴ様、すぐに荷物を纏められますか?」
「荷物? どうして」
「ここから逃げるためです。今、ここに安全な場所はありませんので」

 確かにその通りだ。
 この場に留まっているわけにはいかない。

「でも、荷物って何を持っていけば」
「引き出しの中身――その子がくれた魔石をできるだけお持ちください。そうすれば、しばらく路銀には困らないはずです。どこに逃げるかは、その子に任せるのがいいでしょう」
「待って。行き先を紫紺に任せるって、ここから出て別の教会に行くんじゃないの? それに、ケイは? ケイも一緒に行くんじゃ」

 ケイの話は何かがおかしかった。なんだか噛み合っていない気がする。
 生贄の称号を持つアロイヴは教会に預かられてる身だ。自由はない。逃げることなんて許されないはずなのに――どうして、そんなことを言うのだろう。

「ケイは何か知っているの? これは、ただの賊の仕業じゃないの?」
「アロイヴ様は本当に鋭いですね。ええ……私もまだ確信があるわけではないですが、この襲撃には……教会の人間が関わっているとしか考えられないのです」
「嘘、そんな……それって、神父様も敵ってこと?」
「いいえ。神父様は真っ先に殺されました。上の計画に反対する邪魔者だといって。それは……そういう意味に聞こえませんか?」

 ――教会の中にも、派閥のようなものがあるってこと……?

「もしかすると、教会は無関係かもしれません……ですが、真相がわかるまで、アロイヴ様は身を隠したほうがいいと思います。誰が敵で誰が味方かわからない今、教会を頼るのは危険でしょうから」

 ケイの言いたいことはわかる。
 そんなやり取りを見せつけられれば、教会を疑うのも仕方ないのかもしれない。
 でも、それでも――、

「僕に、他に行く場所なんて」
「だから、その子に任せるんです。その子ならきっと、アロイヴ様に新しい世界を見せてくれるでしょう。そのために草花や魔石をずっと送り続けてきたんじゃないですか? アロイヴ様が外の世界に興味を持つように」

 きゅっ、と紫紺が力強く鳴いた。
 二人の会話が全部わかっているような反応だ。
 まさか、紫紺の贈り物にそんな意味があったなんて……アロイヴは腕の中の紫紺に視線を落とす。

「あなたに、アロイヴ様を任せていいですか?」

 ケイが直接、紫紺に話しかけた。
 こくこくと頷く紫紺は、やっぱりケイの話していることがわかっているようだった。

「では、荷物を纏めて早くここを出てください」
「だったら、ケイも一緒に」

 アロイヴが言い終わる前に、ケイはゆっくりと首を横に振った。

「その子が術で姿を隠せるのは、触れている相手一人だけです。私が一緒にいては、やつらに見つかってしまう。それに囮役も必要です」
「囮って、そんなの危ないんじゃ」
「大丈夫。奴らをおびき出して、逃げるぐらいなら余裕ですよ。だから……生きてまた会いましょう。アロイヴ様」

 これ以上、何を言ってもケイの気持ちは変わらない。
 わかっていても、素直に頷くことだけはどうしてもできなかった。
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