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第8章 決断のとき
41 本能の選択
しおりを挟む空が少し白み始めた時間から、純嶺たちは動き始めた。
結局一睡もできなかったが、一晩ぐらいなら何度も徹夜して踊り続けたことのある純嶺にとっては大した問題ではない。ただ、蘭紗の体調は気がかりだった。
薬を飲んだ後に少しは眠っていたように見えたが、調子はどうなのだろう。聞けば平気だと返されるが、その言葉もどこまで信じていいものなのかわからない。
昨日の夜、純嶺もSubだと打ち明けてからは気を許してくれてはいるが、やはり遠慮があるのか、そういう本音は隠している気がする。
ただ、強がることで自分を守っている場合もあるので、あまり無理には踏み込めなかった。
「……っと、ごめん」
木の根に足を取られ、蘭紗がよろめく。
隣を歩く純嶺が腰を支えたおかげで転倒は免れたが、こうなるのはもう四度目だった。
立ち止まった蘭紗が自分の太腿とトントンと拳で叩いている。
「休むか?」
「…………そうする」
これ以上の無理はできないと、蘭紗も判断したようだ。
ちょうど近くに二人並んで座れそうな岩があったので、先に蘭紗を座らせる。足の調子を確認するために、純嶺は蘭紗の足元にしゃがみ込んだ。
「全体が張ってるな」
「……情けないよね。そんなに歩いたわけでもないのに」
「慣れない山道だしな。それに、きちんと休めてないのもあるんだろう」
蘭紗は前の晩もあの小屋で過ごしたのだ。
この二日、きちんと休めていないというのは大きい。早くゆっくり休めるところに連れていってやりたかったが、相変わらず自分たちがいる場所もわからないままだ。
「……巻き込んで、ごめんね」
「珍しく弱気だな」
「ボクだって、キミをこんな目に合わせて悪かったと思ってるんだから」
別にもう、そんなことは気にしていない。
だが純嶺がそう言っても、蘭紗は気にするのだろう。逆の立場なら純嶺もそんな一言で納得できる気はしない。
「なあ、聞いてもいいか?」
「何を?」
「こうなった、きっかけがなんだったのか」
蘭紗の隣に腰を下ろす。
純嶺の問いに蘭紗は一瞬考えるような素振りを見せたが、短く息を吐き出してから言葉を選ぶようにゆっくり話し始める。
「……些細なことだよ。中間審査の評価がボクより低かったのが気に入らなかったって……最初はそう言われた」
「そんなことで……?」
それをいうなら、染以外は蘭紗より下だ。
しかも、技術の差は圧倒的だった。
その悔しさをバネにして自分も努力するならまだしも、恨みを持つとはどういう感覚なのだろう。
「お前の実力は本物だった」
それは純嶺にも断言できることだった。
染という、さらにずば抜けたダンサーがいるせいで影に隠れてしまってはいたが、チームとしてのクオリティはもちろん、蘭紗個人のパフォーマンスも目を見張るものがあったのは確かだ。
「そんな風に思ってたの? キミは春日之以外、見てないと思ってたのに」
「あいつはレベルが違いすぎるだけだ」
「そうだね……でもそれは、キミもだと思ってた」
「……おれも?」
意外だった。
それこそ蘭紗も、純嶺のことなど視界に入っていないと思っていたのに。
「意識してなかったら、あんな風に突っかかったりしないよ」
「そうだったのか」
純嶺に突っかかった自覚はあったらしい。
「だよ。それでもボクは、キミたちのチームに負けるつもりはなかった……って、ムキになった結果がこれ。真栄倉はずっと忠告してくれてたけど、そんな生ぬるいやり方じゃ絶対に勝てないのはわかってたから」
「で、チームのやつと衝突したのか」
蘭紗は無言で、こくんと頷く。
その表情は苦々しげに歪んでいた。
「……それも、何度もね。相手が怒ったときのグレアに反応しちゃって、ボクがSubだってわかってからは、かなりヤバいこともされた。コマンドを使って『このオーディションを辞退しろ』って脅されたこともある。あいつらのランクが低くてよかったよ」
「…………」
あまりにひどい内容に、純嶺は言葉も出なかった。
Domからそんな悪意を向けられて、自分だったら無事でいられただろうか。想像しただけで身体が震え始める。
「キミってこういう話、苦手?」
「慣れてないのは確かだな」
「悪意を向けられ慣れてない感じがするもんね」
それは慣れていていいものなのだろうか。
そう思ったが、口には出さなかった。
蘭紗もわかっていないわけではないだろう。ただ慣れるしかなかった。これは今までそういう状況に置かれ続けてきた結果なのだ。
「……おれは周りに恵まれていたんだな」
「そうだよ。しかも、同じSubだったなんて。嫌味も言いたくなるでしょ」
「今度は開き直りか?」
「いいでしょ、それぐらい」
くすくすと蘭紗が笑っている。
蘭紗のこんな表情を見るのはこれが初めてだった。
顔色はあまりよくないままだが、不安症はかなり落ち着いているようにみえる。これならば少し休めば体調も回復しそうだ。
そんなことを考えていたときだった。
がさり、と不自然に草が揺れる音が耳に届く。その音はまだ遠かったが、純嶺だけでなく蘭紗もびくりと身を竦めた。
「…………」
嫌な緊張が走った。
二人は音を立てないように立ち上がると、音がしたのとは反対側の岩陰に身を隠す。
「もうーいいーかーい」
聞こえてきた声に蘭紗と二人、顔を見合わせた。
犯人の声だ。しかも意外に距離が近い。
――まさか、こんなに早く追いつかれるなんて。
「逃げる……?」
「動けるか?」
「たぶん……でも、一緒に走るのは難しいかも」
それは純嶺も心配していたことだった。
蘭紗の足はもう限界だ。全力で追いかけられたら、おそらく逃げ切れない。
「……それなら、しばらくここに隠れていろ。おれが囮になって犯人を引きつける。足音が離れたら場所を変えて助けを待て」
「キミは?」
「おれ一人なら逃げ切れるから、心配するな」
そんなやり取りをしている間にも、犯人の足音が近づいてきていた。
わざと聞こえるように音を立てているとしか思えないぐらい、ガサガサと草を掻き分ける音が聞こえる。
こちらの不安を煽ろうとしているのだろう。
――あのDomも一緒なんだろうか。
青年が先輩と呼んでいたDom、その存在だけが純嶺の不安材料だった。
でも、この作戦しかない。
「行ってくる」
短く告げてから、純嶺は岩陰を飛び出す。
犯人に居場所を知らせるためになるべく足音を立てながら、背の高い草むらの中へと駆け込んだ。
追ってくる犯人を完全に引き離してしまわないよう、気をつけながら走る。今は蘭紗の隠れている場所から犯人を引き離すことが先決だった。
とはいえ、純嶺が捕まってしまっては元も子もない。
――どのぐらい、引き離すべきか。
その判断が難しかった。
身体の疲労もだが、得体の知れない相手から追いかけられるという精神的な疲労も蓄積し始めている。このままでは身体の限界より早く、心に限界が来てしまうかもしれない。
――相手の様子を見るか。
一度どこかに身を隠し、追ってくる犯人の様子を確認しておきたい。
そう思って、走る方向を変えようとした瞬間だった。
「……ッ、あ」
急に膝から崩れ落ち、純嶺はぺたりと地面に座り込んでしまった。
何かに足を引っ掛けたわけではない。
身体に疲労は感じていたが、急に足がもつれさせるほどでなかったはずなのに。
「みーつけた」
「……っ」
犯人の一人が姿を現した。
ランニングコースで純嶺が蘭紗のことを尋ねた、あの青年だ。グレーのつなぎに、キャップを被った姿もあのときと同じ。
見間違えるはずがなかった。
「――やっぱり、君もSubなんだ」
青年のその言葉に、足に力が入らなくなった原因がわかった。
Domの放ったグレアだ。
急に強いグレアを当てられたせいで、身体から力が抜けてしまったのだった。
――Domは、どこだ。
見える範囲にいるのは青年だけ。肝心のDomの姿が見当たらない。ぐるりと辺りを確認したが、人影さえ見つけることはできなかった。
「誰を探してるの? 今ここにいるのはオレと君だけだよ」
にっこりと笑った青年の顔に、薄ら寒さを覚える。
――違う、これは……グレアだ。
ぞわぞわと身体の内側から不快感が込み上げてくる。
地を這うように忍び寄ってくた冷気のような支配が、足先から纏わりついてくるようだった。
目には見えないそれを、純嶺は必死で払いのける。
眼前に立つ青年は一定距離を保ったまま、じっと純嶺のことを見下ろしていた。キャップの影になっていてよく見えないが、青年の目から強い支配の気配を感じる。
「……お前もDomだったのか」
もう一人がDomであることにはすぐに気づけたのに、青年には全くDomである気配を感じていなかった。
それでも油断していたわけではない。
むしろ気をつけていたはずなのに、こんなにも簡単に自由を奪われてしまうものだったなんて。
「君ってあんまりランクが高くないの? 青髪のお友達のほうは結構強いって聞いてたのになー」
「……お前、連れはどうしたんだ」
「ん? 連れ? ああ、先輩なら『割に合わない』って言って帰っちゃったから安心していいよ」
「信じると思うのか?」
「んー、それはわかんないけど。オレは本当のことしか言ってないよ」
青年は楽しそうに笑っている。
だが、グレアを緩めることはしない。気を抜けば心ごと搦め捕られてしまいそうな感覚を跳ね除けるように、純嶺は必死で抵抗する。
「…………くそっ」
幸いなことに、グレアを当てられても前のような恐怖感はない。ただ、目の前にいるDomに支配されることを本能が拒んでいる感覚だけは、ずっと感じていた。
「必死で抵抗して、可愛いね」
「お前は、なんで……こんなこと。頼まれただけなんじゃないのか」
「そうだよ。でもさ、せっかくこんなとこまで来たんだから、Subと楽しく遊んで帰らないと損だよねー」
――話が通じない。
青年は見た目よりもずっと危険な人物のようだった。
距離を取るように後退る。
純嶺が逃げようとしているのに気づいても、青年は口元に笑みを浮かべたままだ。それが一層、不気味に思える。
「まだ鬼ごっこする?」
「…………」
「いいよ。オレは逃げる獲物を追うのが大好きだからさ」
その言葉と同時に、青年がグレアが弱めた。
身体が動かせるようになってすぐ、純嶺は受け身を取るように地面を転がると、背の高い茂みへと逃げ込む。姿勢を低く保ったまま身体を隠せる場所の多い、木々が密集する場所を目指した。
――あの男に、支配されるのは嫌だ。
そう思うのに、身体がうまく動いてくれない。
立ち上がっても足がすぐにもつれてしまい、走ることができなかった。前に進むだけで精一杯だ。
「っあはは、全然動けてないじゃん。情けないなぁ」
青年が余裕の様子で、笑いながら純嶺を追ってきた。
グレアは弱まったはずなのに、Domからの支配に簡単に捕らわれてしまいそうになる。
自分のSub性が恨めしい。
「ほら、《おすわり》しなって。支配されちゃったほうが楽だよ?」
青年がコマンドを口にした瞬間、今度は急に吐き気が込み上げてきた。
ここに連れてこられてから何も食べていない純嶺の胃は空っぽだ。何も吐くものなんてないはずなのに、ぎゅうぎゅうと胃を絞り上げられるような気持ち悪さが止まらない。
目の端から涙もこぼれ始めた。
「う、ぐ……っ」
「そんなに嫌がらなくてもいいじゃん。傷ついちゃうなぁ」
――嫌だ、絶対に嫌だ。
あのDomに支配されたくない。
今、ここで足を止めるわけにはいかなかった。
口に溜まる胃液と唾液をゲホゲホと吐き出しながら、純嶺は必死で前に進む。
グレアに対する恐怖は抑えられているはずなのに、不快感は増すばかりだ。無数の見えない手が純嶺に向かって伸び、絡みついてくるような気持ち悪さだ。
触れた場所から純嶺を支配しようと、無理やり侵食してくるようだった。
「強情だなぁ……でも、そういうSubを屈服させるって興奮するよね」
「やめろ、来るな……」
――嫌だ。おれは、あいつじゃないと。
ふと、脳裏に浮かんだのは染の顔だった。
そうだ。こんなにも支配されたくないと思うのは、このDomのグレアが恐ろしいからじゃない。
自分を支配しようとしているDomが、染ではないからだ。
――染以外に、支配されたくない。
顔に似合わない穏やかなグレアと、心配になるぐらい控えめなコマンド。
気の抜けたような笑顔を浮かべながら、頭に触れるあの手の感触を思い出すと、ぎゅっと胸の奥が痛む。
――染を裏切りたくはない。
――おれを支配していいのは、染だけだ。
そう感じるぐらい、純嶺にとって染はもう特別な存在だった。その気持ちに本能が反応していたのだ。
こんなときになって、それに気づくなんて。
染以外のグレアなんて知りたくなかった。
あんなDomの足元に跪くなんて、もってのほかだ。考えるだけで嫌悪感に震えが止まらなくなる。
――そんなことに、なるぐらいなら。
もう立つこともできなくなっていた。
這うようにして純嶺が辿り着いたのは、高さ二メートルほどの斜面の上だ。
純嶺は一瞬も躊躇うことなく、そこから身を投げる。
「っぐ! ……はぁ」
斜面を転がるように落ち、背中を強く打ったが、受け身を取ったおかげで大きな怪我は免れた。ただ、当てられ続けたグレアと望まぬコマンドのせいで、純嶺の呼吸はかなり弱くなっている。
拒否反応である、強い不安発作が起き始めている証拠だった。
「ねえ、何やってんの。大丈夫?」
斜面の上から、青年がこちらを覗き込んでいた。
純嶺が無事なのを確認して、青年がほっとした表情を浮かべている。だがすぐ純嶺が手に持っているものに気づいて、顔を強張らせた。
「君、それはだめだって!」
純嶺が握っていたのは、ペン型の注射器だった。
青年はそれの中身がなんなのか、知っているようだ。さっきまで自分が純嶺に危害を加えようとしていたのに、止めようとするなんておかしい。
そんな青年の叫びを無視して、純嶺は再び全く躊躇うことなく行動に移した。
注射器の先端を自分の太腿に押し当て、そのままボタンを強く押し込む。
「あの男は、ばかだって……言うだろうな」
でも、今はこの方法しか思いつかなかった。
この薬を使えば、明日のステージに立つことは絶望的になってしまう――そうわかっていても、染以外に支配されることを純嶺は拒むと決めた。
ダンスを蔑ろにしたわけではない。
ただ、自分の心を守るためにはこうするしかなかった。これが、純嶺の考えた最善の選択だった。
「う…………ぁ」
薬液を流し込んだところから、身体が急激に冷えていくのを感じる。
震えが止まらず、息がうまくできない。身体を折り曲げて強く咳き込んでも、肺に空気がうまく入ってきてくれなかった。
意識が遠のいていく。
底のない沼に沈んでいくようだ。
でもそんな暗闇に吸い込まれるような感覚の中でも、純嶺の気持ちは不思議と穏やかなままだった。
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