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第8章 決断のとき

40 月の下で

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 外はもう、日が陰り始めていた。
 すぐにでも暗くなってしまいそうな雰囲気だ。
 気を失う前に手に持っていたはずのスマホはどこかで落としてしまったのか、それとも犯人に奪われてしまったのか。小屋のどこを探しても見つからなかったので、正確な時間を知るすべはない。
 それでも日の傾き具合からみて、午後五時を過ぎたぐらいではないかと予想できた。
 純嶺すみれはしばらく空を見上げてから、自分たちが閉じ込められていた小屋のほうを振り返る。
 長年使われていないとしか思えない、今にも崩れ落ちてしまいそうな古びた小屋だった。
 周りに人の気配もない。
 ここで待っていても、助けが望めるとは到底思えなかった。それより先に、犯人が戻ってくる可能性のほうが高いだろう。

 ――ここから離れたほうがいいだろうな。

 念のため、日の沈む向きを見て方角を確認しておく。
 自分のいる場所がわかっていないので意味はないかもしれなかったが、完全に方角を見失ってしまうよりはいい。
 次に地面を確認する。
 空は晴れているのに、足元は少しぬかるんでいた。純嶺が気を失っている間に、通り雨でも降ったのだろうか。
 そのせいで、空気も冷えているような気がする。寒いと感じるほどではなかったが、外で一夜を過ごしたいと思える気候ではなかった。

蘭紗らんしゃ、行くぞ」
「……行くって、どこに? ここがどこなのか、わかるのか?」
「わからない。ただ、この小屋からは離れたほうがいいだろうからな」

 純嶺の答えに、蘭紗は一瞬不安げな表情を見せたが、他にいい案が浮かばなかったのか、黙って純嶺の後ろをついてくる。
 足元の悪さが気になるのか、ずっと下ばかりを気にしていた。
 時々強く吹く風が、蘭紗の長い髪を乱す。

「足跡を残すなよ」
「……言われなくても、わかってる」

 地面が濡れているので、どうしても足跡が残りやすい。
 なるべく乾いた場所を踏むように心がけながら、身を隠せる場所を探して進んだ。
 本当は合宿所を目指したかったが、ここがどこかもわからない状況では難しい。安全な場所で、誰かに見つけてもらえるのを待つしかなかった。
 幸い純嶺が蘭紗の捜索中だったことは、田中たちが知っている。
 連絡もないまま、こんな時間まで戻らなければ、きっと只事ではないと気づいてくれるはずだ。

 ――大ごとにはしたくなかったが。

 だが、これはもう純嶺がどうこうできる問題ではない。
 本当に大変なことになってしまう前に、蘭紗をあそこから救出できただけでもよかったと思うべきだろう。

「ねえ……」
「どうした?」
「キミの頭の傷……本当に大丈夫? 結構、血が出てたんだけど」

 蘭紗は純嶺の頭の傷が気になっている様子だった。
 目の前で頭から血を流して気を失っていた純嶺を、眺めることしかできなかったことを気にしているのだろうか。
 やはり、そういうところは憎めない性格のようだ。真栄倉と少し似ている。
 純嶺はおもむろに後頭部へと手をやった。
 傷があるらしきところに指を滑らせてみたが、ひどく痛むことはない。髪に触れてもこびりついていた乾いた血がボロボロと落ちただけで、新たな血が指につくことはなかった。

「これぐらいなら大丈夫だと思う」
「気絶するぐらいの力で殴られたのに? ……キミって、石頭なの?」

 心配して損した、と呟く蘭紗は呆れた様子だった。はーあ、と溜め息をつきながら、足元に転がっていた小石をこつんと蹴飛ばす。
 純嶺を追い越すように転がっていった石を目で追っていると、その耳に自然界のものではない異質な音が届いた。
 車のエンジン音だ。
 
「――ッ」

 純嶺は即座に判断し、自分の後ろを歩いていた蘭紗の腕を引いた。
 近くにあった木に身を寄せて隠れる。
 エンジンの音が少しずつ、こちらに近づいてくるのがわかった。
 この音が純嶺たちを探しにきた者である可能性は極めて低い。犯人が小屋に戻ってきたと考えるほうが正しいだろう。
 その音は純嶺たちのほうに近づいてくることはなく、小屋のほうへ向かったようだった。

「犯人が戻ってきたのか」
「……そうみたいだね」

 すぐに見つかる危険がなかったことに、ほっと息を吐き出し呟いた純嶺の声に蘭紗が答える。
 間一髪だった。
 純嶺は蘭紗の腕から手を離すと、木の脇から顔だけ覗かせるようにして、木々の向こうに見える小屋のほうに視線を向ける。
 白いバンが止まっているのが見えた。
 予想はしていたが、やはりあの車に犯人が乗っていたのだ。あのとき、話しかけた二人組の顔を思い出す。
 気を失う直前の記憶がようやくはっきりとしてきた。

「相手は三人組か?」
「ううん。四人だよ。つなぎを着てた二人は今日、合流したんだ」

 純嶺はどうやら、その合流現場に居合わせてしまったらしい。
 蘭紗を探していると話したのが、巻き込まれるきっかけになったのだろう。

「信頼できる仲間を呼んだ、って言ってたけど」
「あとの二人は?」
「…………オーディションの参加者だよ」

 相手は自分をこんな目に合わせた人間なのに、蘭紗はそれを口にすることに抵抗がある様子だった。
 でも、その気持ちはよくわかる。
 同じ合宿の参加者にこんなことをする人間がいるなんて、考えるだけで嫌な気持ちになる。

 ――やっぱり、あのときの二人組なのか?

 Subを蔑んでいた二人が今回の犯人だろうか。
 むしろ、そうであってほしかった。
 別の人間だなんて、思いたくもない。

「戻ってきたのは、二人だけだな」

 遠目に確認できた人影は二つだけだった。
 それは向こうからもこちらを視認できる可能性を示していたが、音を立てなければこちらの居場所がバレることはないだろう。
 一応、それぐらいは小屋から離れている。

「……あの二人はみんなに疑われないように、練習には参加してるだろうからね」
「ああ……そういうことか」
「元々あんまり真面目に練習するやつらじゃなかったけど……なんであんなやつらが、ここまで勝ち残れたんだろ。信じらんない」

 吐き捨てるように言った蘭紗のほうに視線を向けた。
 俯いている蘭紗の表情はよく見えないが、こんなことになって気分がいいわけがない。

「行くか」

 堂々と小屋の扉を蹴破って出てきたので、二人が逃げ出したことに犯人たちはすぐに気づくだろう。その後どうするのか、それは想像もつかない。
 ただ、ここでぼんやりと立ち止まっている場合ではないのは確かだった。

「……ん」

 蘭紗がこくりと頷いたのを確認してから、純嶺は再び移動を開始した。
 極力、音を立てないように気をつけながら、今はとにかく犯人たちから離れることだけを考える。
 そのときだった。

「ねえー、まだ近くにいるー?」

 小屋のほうから張り上げるような声が聞こえた。誰に向かって呼びかけているのかは明確だ。
 その声には聞き覚えがある。
 ランニングコースで純嶺が蘭紗のことを尋ねた、あのつなぎの青年の声だった。

「これってかくれんぼー? 十数えたら、探しにいってもいいのかなー?」

 犯人である青年は純嶺たちがいないことに気づいても、慌ても怒りもしていなかった。
 どこか楽しげに聞こえる声に、かえって不気味さを覚える。

「何、あれ……」
「いいから、行くぞ」

 こんなふざけた問いに答えてやる筋合いはない。
 純嶺は戸惑いの隠せない蘭紗に短く促すと、歩く速度を上げた。



 すぐに日が落ち、すっかり夜になってしまった。
 月の光があるおかげで完全に真っ暗というほどではないが、これでは足元の安全を確認することが難しいので、無闇に移動することはできない。
 純嶺たちは風をしのげる樹齢何百年と経っていそうな大木の根本に腰を下ろすと、そこで夜を明かすことに決めた。

「日が出たら、もう少し移動したほうがいいだろうな」

 犯人たちがどこまで純嶺たちを追ってくるかはわからない。
 だが、こういう場合は最悪を予想しておくべきだろう。

「蘭紗?」
「あ……うん。そう、だね」
「大丈夫か?」

 蘭紗の反応がおかしい。
 昨日からずっとこんな状況なのだから疲労は溜まっているのだろうが、それにしても声の弱々しさが気になった。
 覗き込むようにして、蘭紗の様子を伺う。
 慌てて顔を隠そうとした蘭紗の動きに、すぐに一つの予想に辿り着いた。
 純嶺は腰を上げると、蘭紗の正面に回り込む。身体を折り曲げ、顔を両側から挟むように手を添えると、月の光の下でもはっきりその顔が見えるように、強引に上を向かせた。

「な、何して……」
「もしかして、不安症か?」

 蘭紗の目の下にはクマがくっきりと浮かび上がっていた。寝不足だけが原因ではないだろう。
 その証拠に、純嶺の言葉を聞いて蘭紗が短く息を呑む。大きく目を見開いて純嶺をしばらく見つめた後、ふっと今度は自嘲めいた表情を浮かべた。

「……なーんだ。キミ、知ってたんだ。ボクがSubだって」

 弱々しい力で、純嶺の手を払いのける。今度はぐっと唇を噛み締めた。
 あまり知られたいことではなかったのだろう。
 それは純嶺だって同じことだ。
 Subであるということを知られるのは決定的な弱点を握られるのと同じ――ずっと、そう思って生きてきた。
 今だってまだ、Subであることを自分から明かすことは難しいと感じている。

「……悪い」
「別にいいけどさ……間違ってはないし。不安症なのも、間違いないよ」
「薬は?」
「あるわけないじゃん。そんなの、あいつらが見つけて取り上げないわけないでしょ」

 その言葉を聞いて、純嶺は慌てて自分のジャージのポケットの中を探った。そこに入っているものを確認して、ほっと胸を撫で下ろす。
 犯人たちは純嶺がSubであるとは気づかなかったのだろうか。
 奪われていなかったものを取り出して、蘭紗へと差し出す。

「昼に飲み忘れててよかった」
「……え、これって」
「強い薬じゃないが、ないよりはマシだろう」

 それは純嶺が昼に飲むはずの薬だった。
 食堂を慌てて出てきたせいで飲み忘れていたそれを、ずっとポケットにしまっていたのだ。
 そのポケットの中には一緒に緊急用の鎮静剤が入った注射器もあったが、あえてそれを勧めることはしなかった。
 蘭紗の症状はそこまでひどくない。
 それに今その注射を使えば、副作用が最終審査に影響してしまう心配がある。

「……キミ、Subだったの?」
「ああ。そういえば、まだ言ってなかったな」

 肝心なことを説明し忘れていた。
 こちら見上げる蘭紗は純嶺の言葉が信じられないのか、何度も目を瞬かせている。
 じっとこちらを見る視線に耐えられなくなり、純嶺は蘭紗に薬を無理やり握らせると、木に背を預けて座り直した。

「ボク以外にもSubがいるなんて……全然、考えもしなかった」
「おれだって、誰かが話してるのを聞いてなきゃ、お前がそうだって気づかなかったし……そんなもんなんじゃないのか?」

 自分たちが気にしているほど、周りは気にしていないものなのかもしれない。
 でも当事者は、そんな風には考えられないものだ。
 だからこそ必要以上に周りを威嚇し、悩み、苦しむことになる。

「……あいつらみたいなのもいるけど、案外そうなのかもね」
「ああ」

 犯人たちのようにSubを差別する人間ばかりを気にして生きていても、何もいいことはない。
 それはむしろ、自分の可能性を狭めてしまうことだった。
 でも、純嶺もこのオーデションに参加する前は同じように考えていた。自分はSubだから仕方ないと言い訳して、ダンサーとしての自分を諦めようとすらしていた。

「このオーディションは、そういうことを知る上でもいい経験になったな」

 それにもう一度、自分に希望を見出すことができた。
 きっかけをくれたのはコウとアキラだが、純嶺に再び前を向こうと思わせてくれたのは皆、この合宿で新たに出会った人たちだ。
 人を信じることの大切さや、頼れる相手がいることの尊さを知れたのだって、このオーディションに参加したおかげだった。

「そのせいで、こんな目に遭ったのに?」
「これはあまり嬉しくない経験だが……だからといって、諦めようとは思わなくなった。むしろ、見返してやるつもりだ」
「それは、ボクも同じだね。Subだからって負けるつもりはない。そのためにまずは、この状況をどうにかしないといけないけど」
「そうだな」

 力強い蘭紗の言葉に、純嶺も大きく頷く。
 夜明けが待ち遠しい。
 闇を照らす月の光を見上げながら、純嶺は心配しているだろう仲間たちのことを考えていた。
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