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第7章 成長と羽化
35 理想の歌声
しおりを挟む件のソロパートは、そんなに長いフレーズではない。すぐに歌い終えたのに、聞いていた叶衣はなぜか全く微動だにしなかった。
三角座りで純嶺の顔を見上げたまま、ぽかんと口を開いて間抜けな表情を浮かべている。
――そんなに、ひどかったのか?
まだ人に聞かせられるレベルではなかったのだろうか。だとしても、反応ぐらいはしてほしかった。
二人きりの部屋で、この沈黙はあまりに痛すぎる。
しばらく叶衣の発言を待ってみるか悩んだものの、やはりすぐに耐えきれなくなった。
「で……どうだった?」
純嶺のほうから切り出す。
ハッと表情を変えた叶衣が、大袈裟に身振りでパチパチと手を叩き始めた。
「すごい!! すごかったです!!」
そう叫んで、先ほど自分がうまく踊れたときよりも弾けるような満面の笑みを浮かべる。
「いや、そうじゃなくて……おれが確認したいのは、地声と裏声の切り替わるところなんだが」
手放しに賞賛されて嬉しくないわけではないが、どちらかといえば照れのほうが強かった。欲しかった助言に話題を誘導すると「そうでした!」と、叶衣がようやく拍手を止める。
かと思えば今度は首を傾げながら、小さく唸り始めた。顎下をぽりぽりと掻きながら、むーっと唇を尖らせる。
「……このままじゃ、だめなんですか?」
ぽつりと呟いた言葉は、助言でもなんでもなかった。
叶衣の表情は相変わらず、何か悩んでいる様子で浮かない。
「いや、できてなかっただろ。裏声のところ」
「でも歌えてましたよね? おれには問題があるように思えなかったんですけど……」
確かに歌えてはいる。
だが、叶衣のようには歌えていない。
今回の課題曲で仮歌を担当したのは、叶衣だった。
仮歌とは全員の手本となる、いわば練習用サンプルのようなものだ。
本来はメロディーラインとリズムの参考にするためのものだったが、叶衣の仮歌は純嶺の想像する完成形に非常に近いこともあって、純嶺はずっとそれを真似するように練習を続けていた。
そんな理想を歌いこなす叶衣から「問題があるようには思えない」と言われたことに、純嶺は戸惑いが隠せない。
「この答えだと、納得できませんか?」
「納得できないというか……今の歌い方がいいと言われるとは思ってなかったから」
自分の思うレベルに達していないものを「いい」と言われても、素直に受け入れられるわけがなかった。
ぐっと眉根を寄せて俯いていると、叶衣が覗き込むように純嶺の顔を見上げてくる。
「純嶺さんの歌い方、おれとしては理想の形なんですよね。地声のまま滑らかに高音に移れるなら、無理に裏声にしないほうが、スッと入ってくる感じがしてよくないですか?」
「じゃあ、お前はなんでそう歌わなかったんだ?」
純粋な質問のつもりだったが、純嶺の問いに叶衣は先ほどよりさらに唇を尖らせた。
ふんっと鼻から大きく息を吐き出して、首をふるりと横に振る。
「歌わなかったんじゃなくて、歌えないんですよ。おれは裏声じゃないと」
「え……?」
「純嶺さん、本当にわかってないんですか? その歌い方、簡単に真似できるものじゃないですよ?」
「そう、なのか?」
「そうですよ!! おれの理想は純嶺さんの歌声かもしれない! それぐらい感動してるんですから!! あ、でも、前はそんな歌い方じゃなかったですよね?」
「ああ……染に言われて、歌い方を変えて」
「すごくいいと思います!! さすがは染さん!!」
ヒートアップしていく叶衣の勢いは止まらない。
途中からは立ち上がり、純嶺に詰め寄って、ぎゅっと両手を握ってきた。至近距離に顔を近づけられたせいで、荒い鼻息まで聞こえてくる。
「純嶺さんの歌声がこんな素敵だったなんて!!」
「……そんなにか?」
「自覚ないんですか!? 素晴らしいところ、一つずつ語ります!? 全部で一時間……いや、二時間ぐらいかかりますけど!!」
「いや、そこまでは……いい」
叶衣の熱気にあてられて、汗が止まらなかった。
本気で踊った後と変わらないぐらいの汗が、純嶺の額から噴き出している。
なんとか叶衣の手をほどき、タオルでがしがしとその汗を拭った。その間も叶衣は興奮しっぱなしの様子だ。
「でも嬉しいなぁ! 純嶺さんがあのパートを歌ってくれるなんて!」
「……それ、お前はいいのか?」
「いいって、何がですか?」
「このパート、お前が歌うつもりだったんじゃ」
「違いますよ?」
決定事項だと思っていたのに、本人からすっぱりと否定されてしまった。
驚いている純嶺の顔を見て、叶衣は少し気持ちが落ち着いたのか「ちょっといいですか」と言うと、壁際のほうへと純嶺を手招く。
並んで腰を下ろした。
「あそこのパートなんですけど、元々はこんな感じじゃなかったんです。もっと無難な歌詞とメロディーラインで……たぶん、あのままだとみんなからオッケー貰えなかったんじゃないかな」
ぽつぽつと叶衣が語り始めたそれは、純嶺も初めて聞く話だった。
叶衣も特に話すつもりはなかったのか、言葉を選びながら話しているのがわかる。
「あの日、純嶺さんの考えた振付を見せてもらって……あのときは、情けないことも言っちゃいましたけど――それより何より、純嶺さんが遠慮なく本気をぶつけてきてくれたってことが嬉しくって……期待に応えたいって、そう思ったんです」
「……そうだったのか」
「はい。それで、その日のうちに作った歌詞をヤミトと一緒に全部見直して……あの振付に一番ぴったりなものに作り直そうって――そう思ってできたのが、これです」
そんな想いがこもっていたものだとは知らなかった。
振付と歌詞がピッタリ合っていたのは、そんな二人の思惑があったからだったのだ。
――なんだか、嬉しいな。
これまでは、歌や演出に合わせた振付ばかりだった。
自分の振付に合わせて歌詞を考えてもらうなんて、初めての経験だ。
こちらが発信したものを受け取り、そこからまたイメージを広げてもらうことが、こんなにも嬉しいことだなんて。
「だから勝手に『ここは純嶺さんが歌えばいいのに』って思ってたんです。それが叶うなんて、嬉しくないわけないじゃないですか! それに……おれの本気に純嶺さんがこうして応えてくれたことにも、めっちゃ感動してます。おれも、純嶺さんに同じ気持ちを味わってもらえるように頑張りますね!!」
向けられた真っ直ぐな眼差しに、純嶺の胸も熱くなっていった。
◇
どんなにうまくいっていても、眠る前になると、ふと不安になることがある。
そういうときは早く眠ってしまうのが一番だったが、今日は少し興奮しているせいでうまく眠れる気がしなかった。
一度ベッドから降りて、部屋に備え付けられている洗面台へと向かう。いつの間にか、じっとり額にかいていた汗を水で洗い流していると、背後に人の気配を感じた。
「起こしたか?」
「まだ寝てなかったよ」
後ろに立っていたのは染だった。
廊下の壁にもたれて腕を組み、じっとこちらを見つめている。
「どうかしたか?」
「それはアンタのほうだろ。眠れねえの?」
「なんだろうな。特に理由はないのに、たまに不安でこうなる」
些細な不調であっても、染に隠すことはやめた。黙っていることは、周りの足を引っ張ることにしかならないとわかったからだ。
染にも、そうするように話してあった。
それがお互いのためにもなる。
「Domにはないのか? そういうこと」
「不安ってのはあんまないけど……感情のコントロールがうまくいかねえときは面倒だな」
こんな風に軽口で二次性の話ができるなんてことも、今まででは考えられなかった。
だがそうするだけでも、随分と楽な気持ちでいられるのがわかる。隠さなければいけない――そう思うことも、純嶺には不安に繋がる要素だったらしい。
「眠れないなら、一緒に寝る?」
「は?」
「俺、アンタが近くにいたほうがよく眠れるみたいなんだよね。アンタはそういうのない?」
「おれは別に――」
相変わらず突拍子もない染の提案を否定しかけて、ふと途中で言葉を止める。
純嶺にも、いくつか思い当たることがあったからだ。
「もしかして、アンタもそう?」
「……っ、だからといって、一緒に寝る必要は」
「何もしないからさ――……お願い」
急にそんな、しおらしい声を出すのはやめてほしい。
無下に断れなくなってしまう。
――おれが、こういうのに弱いって知ってて。
こちらを見つめてくる染の表情を、ちらりと窺い見る。
目の下に浮かび上がったクマを見つけて、純嶺はすぐに観念した。
「わかった……本当に何もするなよ」
「アンタが誘惑しなきゃ、大丈夫だって」
頷いた瞬間、強い力で手を引かれた。
染の表情や態度に、先ほどまでのしおらしさは微塵も残っていない。見間違いだったかと思うぐらいだ。
でも、クマがあるのは見間違いではない。
あまりよく眠れていないというのは、真実なのだろう。
「プレイ、するか?」
「……アンタさぁ。誘惑しないでって、今言ったとこなんだけど?」
「誘惑なんかしてない。助け合うんだろ」
立ち止まり、困ったような表情を浮かべた染の腕を、今度は純嶺が引っ張った。
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