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第7章 成長と羽化

34 進化と成長

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 その足で、レッスン室へと連れ込まれた。
 電子ピアノの置いてある完全防音のボイストレーニング用の個室だ。
 ここまでダッシュしてきて息も上がっているのに、純嶺すみれの手を引くせんの横顔はどこか楽しげだった。

「……っあはは。こんな全力で走ったの、久々だわ」
「もう手を離せ」
「なんだよ。手ならちゃんと洗ったじゃん」
「関係ない」

 手を洗ったかどうかの話ではない。
 いや、虫に触れた手で触わるのは絶対にやめてほしかったが、今はその話ではない。

 ――なんだか、ざわざわする。

 さっきの失態を見られたからだろうか。
 どうにも気持ちが落ち着かなかった。
 歌が苦手なだけじゃなく、虫が苦手なことまでバレてしまうなんて。
 思い出すと、今度は背中がむずむずしてくる。染が手を洗っているときに、純嶺も濡らしたタオルで背中を強めに擦ったのに――あの感触はなかなか消えてくれなかった。

「俺のTシャツ小さかった?」
「……いや」

 肩をもぞもぞ動かしていたら、染が首を傾げて覗き込んでくる。
 純嶺が今着ているTシャツは染のものだった。
 別に純嶺から頼んで交換してもらったわけではない。一度脱いだTシャツをどうしようかと悩んでいたら、染のほうから提案されたのだ。

 ――落ち着かないのは、これのせいもあるのか?

 Tシャツのサイズは全く同じ、着心地にだって大差はない。ただ自分の着ているものから、常に染の匂いが香ってくるというのは、どうにも不思議な気持ちになる。
 変なことを意識をしてしまったせいか、顔まで熱くなってきた。

「……なんだ、その顔は」
「べーつに。なんでもねえよ」

 なんでもない、という顔ではない。 
 にやけた表情でこちらを覗き込んでくる染のことを睨みつけてやったが、効果は全くなかった。
 なかなか離してくれない手を少し乱暴に振り解くと、染が「おっと」とオーバーアクション気味に驚いてみせる。無視して顔の汗を拭っていると、涼しい表情に戻った染が電子ピアノに近づいた。
 電源ボタンを押し、鍵盤に指を置く。

「なあ、息整ったらでいいから、音に合わせて声出してみて」
「……お前、ピアノ弾けるのか?」
「バレエより先に辞めたから、弾けないのと変わんねえよ」

 ――経験はあるんだな。

 染の経歴は意外なものばかりだ。
 ピアノとバレエを習っていたなんて、今の染の見た目からは想像もつかない。

 ――でも、しっくりくるから不思議だ。

 まだ鍵盤に指を置いただけなのに、その仕草はやけに様になっていた。
 試しに音を鳴らし、どこか懐かしげに目を細めている。その横顔から目が離せない。

「習い事は全部、嫌なもんばっかりだったな」
「なぜだ? 楽器が弾けるなんて、面白そうじゃないか」
「っふは。アンタって無関心に見えて、実は結構いろいろ興味持つタイプだよね」
「そんなに無関心に見えるか?」
「気にするの、そっち?」

 笑いながら、染は無造作にピアノ前の椅子を引いた。
 どかりと腰を下ろす動作は乱暴なのに、ピアノに向かう姿勢は美しく見える。
 バレエもピアノも、嫌と言いつつ真面目にやっていたのではないだろうか。そんな幼い染の姿を想像して、純嶺はふっと表情を緩めた。

「そろそろ、いけそう?」
「ああ」

 ポーン、と染が最初の音を奏でた。



「アンタが何を苦手としてんのか、わかったわ」

 軽く一巡、発声練習をしただけなのに、染には純嶺が歌を苦手としている理由がわかったらしい。

「ちょっといい?」

 そう言って椅子から立ち上がり、すぐ傍まで来る。
 隣に並ぶと、純嶺の鳩尾に手を添えた。

「アンタって腹式呼吸はちゃんとできてんのに、声にそれが乗ってねえんだよな」
「……どういう意味だ?」
「技術よりも気持ちの問題? 誰かに『歌が下手』とか言われたことあったりする?」
「…………あ」

 すぐに思い至った。
 あれは、声変わりしてすぐの頃のことだ。
 身体の変化のせいで前にできていたことが急にできなくなって、気持ちばかりが焦っていた。無理に高いキーの曲を歌おうとして、盛大に声がひっくり返って――それを周りにいた友人たちに笑われたのだ。
 誰も悪気はなかったと思う。
 自分だってもし他の誰かがそうなっていたら、一緒に笑ってしまったかもしれない。
 ただそれが、そのときは自分だったというだけで。

「心当たりあるんだ?」
「別に……下手とか、そういうことを言われたんじゃない。ただ、失敗したことを笑われて――それだって今、お前に聞かれるまで忘れてたぐらいのことで」
「でも思い出したってことは、それが原因なんだろうな」

 否定はできなかった。
 染の言葉は、すとんと胸に落ちてくることが多い。今回もそうだった。
 自分だけでは言語化が難しい感情を、染はうまく読み取ってくれる。それが染の傍にいる心地よさに繋がっているのだろうか。

「思い切って、声出してみろよ。それだけで変わるんじゃねえかな」
「そんなことで……?」
「音程もリズムも大きな問題はないからな。ちゃんと音も聞けてるし、滑舌はちょっと甘いけど」
「……よく聞いてるんだな」
「アンタのことだしな」

 またそんなことを、事もなげにいう。
 染のさりげない一言に、いちいち引っ掛かってしまうのは自分だけなのだろうか。
 ぐっと眉根を寄せた純嶺に、染は気づいていない様子だった。純嶺の傍を離れ、再び着席すると電子ピアノに向かう。
 適当な和音を響かせた。

「怖がらずに声を出す、ってのが当面の目標になりそうだな。無意識の癖ってのは、そう簡単にどうにかなるもんじゃねえだろうし」

 それは純嶺も同意だった。
 そもそも、自分がそんなにも声を出せていないという自覚もなかった。マイクを通せばそれなりに聞こえるのもあって、自分の声はこんなものだろうと思っていた。

「ほら、いくぞ」
「……ああ」

 染の音に合わせて、さっきより大きな音になるよう意識して「あー」と声を出す。
 だが、さっきと変わった感じはしなかった。かえって出始めの音がブレてしまっている気がする――これは失敗なのではないだろうか。
 それでも染が音を止めない限り、純嶺は必死に声を出す。
 また少し、音の高さが上がる。

「あ、肩にさっきの虫が」
「ひぁ――ッ」
「悪い、今の嘘。っつうか、やっぱ根本の発声の仕方が違うみたいだな」
「え……嘘? 虫、いない?」
「いねえよ。ってか、アンタすげえ瞬間移動したな。しがみつかれるとは思ってなかった」

 指摘されて、慌てて染から離れる。
 言われるまで、染の身体にしがみついてしまっていることにも気づいていなかった。
 嘘だと言われたが、自分の肩が気になってしかたない。ふとした拍子に首に触れた自分の指に、純嶺はびくりと身体を揺らした。

「アンタ、本当に虫がだめなんだな」
「……うるさい」
「でも、今のでわかったろ? 声の出し方が根本的に違うって」
「それは……そうだな」

 嫌がらせに近い荒療治だったが、確かに今のはわかりやすかった。
 喉の感覚からして違う。普段の声は喉の上のほうばかりを使っているイメージだが、今のはもう少し下のほうから出ているような感覚だった。
 その感覚を忘れないうちに、何度か同じように声を出してみる。
 そんなに喉に力を入れていないのに、いつもより強く響く自分の声に驚いた。

「ほら、音に合わせていくぞ」
「ああ」

 久しぶりに、歌うことの楽しさを思い出せそうだった。


   ◇


「純嶺さん、すみません! さっきのとこ、もう一回お願いできますか?」

 全体練習の後、純嶺は叶衣かなえの個人練習に付き合っていた。
 既に激しい練習を済ませた後なので、身体への負担も考えて、時間は一時間までと決めてある。
 今日の練習時間は残り十分だ。

「そこ、なんかおれだけ違う振りに見えるんですよね」

 純嶺が見せた手本を真似して身体を動かしながら、叶衣が首を捻っている。その違いを口で説明するのは簡単だったが、自分で気づいたほうが成長に繋がるのは間違いない。
 純嶺は手本を踊ってみせるだけで、あとは叶衣がどうするかに任せていた。

「こうして、こう……で、ああ! ここか!!」

 三度ほど踊ってみて、気づいたらしい。
 叶衣は一度理解すると、そこからの成長速度が著しいタイプだ。昨日までは動きについてくるだけで必死だったのに、今日は周りのダンスを見る余裕まででてきている。
 そこから自分の振りの違和感に気づけるなんて、なかなかできることではなかった。

「よし! できたー!!」

 満足のいくダンスになったらしい。
 まだまだ課題ばかりだが、叶衣の動きは日に日によくなっている。キラキラとした笑顔を向ける叶衣に、こちらまで嬉しくなってくる。

「じゃあ、今日はここまでにしとくか」
「そうですね。いつもお付き合いありがとうございます!」

 お礼ならいつも言われているのに、毎回深々と頭を下げてくるのが叶衣らしかった。
 叶衣の頭をポンッと軽く叩いてから、壁際へと移動する。
 置いてあったドリンクボトルを手に取り、叶衣にも手渡した。

「あ、ありがとうございます。本当に純嶺さんにはお世話になりっぱなしで……おれにも、純嶺さんの力になれることがあったらいいんですけど」
「……それなら、一ついいか?」
「はいっ、なんですか?!」

 珍しく純嶺から質問をしたからか、叶衣がずいっとこちらに身体を乗り出してくる。
 その勢いに少し後退りつつ、純嶺はおもむろに口を開いた。

「……アドリブ部分のソロパート、あっただろ」
「はいっ! あの鬼難易度のダンスパートですね」
「じゃなくて、歌のほう」
「歌?」

 鬼難易度という表現も気になったが、今は聞きたいことのほうが先だった。
 歌の話をされると思っていなかったのか、叶衣がキョトンとした表情でこちらを見ている。
 一つ咳払いをして、話を続けた。

「あのパート、地声から裏声に切り替わるところがあるだろ? あそこにコツはあるのかと思って」
「ん? んん? もしかして、純嶺さん歌ってくれるんですか? あそこ!」
「いや、そういうわけじゃ……ただ、興味というか」
「一回聞かせてください! 聞きたいです!!」

 叶衣の変なスイッチを押してしまったらしい。
 染と朝の歌唱レッスンを始めて四日ほどになるが、純嶺がそのパートを練習していることはまだ、染以外の誰にも話していなかった。
 ある程度、人に聞かせられるレベルになったらメンバーにも相談するという約束で、染のことも口止めしていたのだが――ここにきて、自分のやり方だけでは上達が難しくなっていた。
 歌い方を変えて前より声は出るようになったし、一人でも練習を続けていたが、この辺りが個人でできる限界のようだ。

「じゃあ、歌うけど……」
「はいっ! ぜひ!!」
「そんなに見られると、恥ずかしいんだが」
「ダンス見てくれるときの純嶺さん、こんな感じですよ!」
「…………今度から気をつける」

 いつもと逆の立場になって叶衣は楽しそうだが、純嶺としては複雑な心境だ。でも実際聞いてもらうのが、一番的確に助言をもらえるのは間違いない。
 迷ったが、すぐに覚悟を決めた。

「まだうまく、歌えないが……」

 そう前置きしてから、すうっと息を吸い込む。
 純嶺の第一声を聞いて、叶衣がぱちりと大きくまばたきをした。
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