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第6章 新たなスタート
29 欲求と葛藤
しおりを挟むひゅっ、と息が詰まり、気づけば膝から崩れ落ちるようにフローリングの床に座り込んでいた。逃げるように身体を動かしたものの、後ろにあった壁にすぐに背中がぶつかる。
近づいてきた染の影が純嶺に重なった。
間近に立ち、こちらを見下ろす染の視線に混ざるグレアが、さらに強くなったのを感じる。内側から無理やり、得体の知れない感覚を引きずり出されるようだ。
どくどくと心臓が脈打つたびに、全身に痺れのような感覚が駆け抜けていく。
「……っ、あ」
純嶺は完全に混乱していた。
そんな純嶺に向かって、染が身体を屈める。壁に腕をついた状態でこちらに迫り、あんぐりと大口を開けた。
先ほどの言葉どおり、純嶺のことを食おうとしているかのようだ。
ぎゅっ、と目を瞑る。
来るかもしれない衝撃に備えて身構えたが、純嶺の身体のどこにも痛みが走るようなことはなかった。
代わりに、ふわりと染がいつも纏っているエキゾチックな香りが純嶺の鼻を掠める。
こつりと額に何かがぶつかった。
「……冗談だって。真に受けてんじゃねえよ」
ごく近くから、染の声がした。
いつも飄々としている染らしくもない、余裕のない、絞り出したような声だ。
冗談だと言われても、信じられる声ではない。
――それにグレアだって。
今はもう感じないが、さっきは間違いなくグレアを感じた。それもうっかり漏れたような少量のものではなく、意図的に発せられたとしか思えない量のグレアだった。
鈍感な純嶺でも、先ほどの染の言葉や行動が冗談でなかったことぐらいはわかる。
そっ、と瞼を開く。
どこか苦しそうな表情を浮かべる染の顔がすぐ目の前にあった。
「……嘘をつくな」
「そこは冗談として流せよ。アンタって、マジで不器用だよな」
「お前に嘘をつかれるのは嫌だと思っただけだ」
「なんだよ、それ……あー、もう」
染が考えていることはわからなかったが、その葛藤は嫌というほど伝わってきていた。
肩に触れたままの染の手が小刻みに震えている。
顔色も悪い気がして確認するように覗き込んだが、すっと視線を逸らされてしまった。
「今、アンタは見ないほうがいい」
「グレアなら出てない」
「必死で抑え込んでんだってば……わかれよ」
そう言ってまた、苦悶に表情を歪める。
染が戦っているものの正体がすぐにわかった――己の中にある欲だ。
――Subだけじゃ、ないんだな。
当たり前のことなのに、全く気づけていなかった。
二次性の持つ特殊な欲に振り回されているのはSubだけじゃない。それはDomも同じなのだ。
相手を支配したいという欲求が一体どういうものなのか――自分とは正反対の性質を持つ人間の感覚は想像もつかなかったが、その欲に振り回される苦しさならわかる。
Subが抱く不安に似た感情とはきっと種類が違うのだろうが、Domもまた欲が満たされないと苦しいのだろう。
染は詳しく語ろうとしなかったが、額にじわりと滲んだ汗がそれを物語っていた。
「……プレイ、するか?」
「は? ……アンタ、何言って」
「おれはお前に何度も助けられてる。プレイをしてお前が少しでも楽になるなら、おれは別に構わない」
染はわかりやすく驚いた表情を浮かべていた。
口をぽっかりと開き、ぱちぱちと何度も目を瞬かせている。淡い青灰色の瞳に、いつもより強く青みが差している気がした。
「お前が苦しそうなのは、Domの欲求のせいなんだろう?」
「そう、だけど……でも、アンタにそんなことをさせるのは違うだろ」
「なぜだ。お前がおれにしてくれたことと何が違う? お前はおれを助けてくれたのに、おれがそうするのはだめなのか?」
染は純嶺の提案に乗るつもりはないようだったが、純嶺も折れるつもりはなかった。
染が身体を引こうとした気配を感じ、今度は純嶺から染の両肩を掴む。その身体を無理やり自分のほうに引き寄せ、逃がすまいと背中に腕を回した。
「……っ」
染が息を呑んだのが、触れた肌越しに伝わってくる。
身体も少し強張っているようだった。
「自分の前では楽にしていいと、そう言ったのはお前だ。お前も、おれの前ではそうすればいい」
助けられるだけの立場というのは、性に合わない。
染に弱みを握られているとまでは思わなかったが、微妙な居心地の悪さは感じていた。自分にもできることがあるならそうしたい――そう思っていたのも事実だ。
「……まさか、アンタにそれを言われるとはな」
観念したのか、染はそう吐き捨てると純嶺の肩口に顔を寄せる。
まだ力は抜けきっていなかったが、少しでも落ち着けるように、純嶺は染の背中をそっと撫で続けた。
◇
「悪かったな」
十五分ほどで、染はいつもの調子に戻っていた。
その表情に無理をしている様子はない。
染は純嶺から身体を離すと、お礼とばかりに純嶺の頭をくしゃりと撫でた。
「プレイはしなくて大丈夫なのか?」
「平気だよ。ま、アンタが煽りさえしなきゃだけどな」
「……さっきのは、やっぱりおれのせいなのか?」
「っふは、冗談だって」
真面目に受け取った純嶺を、染が軽く笑い飛ばす。
ぺしぺしと純嶺の肩を叩きながら、ふと視線をスタジオの壁掛け時計のほうへ向けた。
「もうこんな時間か。振付やらねえとな」
「そうだな……おれはもう少し、動けそうにないが」
「そっちは間違いなく俺のせいだな」
悪びれもなくそう言って、また笑う。
純嶺の身体には、まだ染のグレアの影響が残っていた。
特に下半身がまだうまく動かせそうにない。普通に立って歩くぐらいなら支障はなさそうだったが、踊るのはまだ難しかった。
「んじゃ、お詫びに踊るかな」
「――えっ」
「なんだよ、嬉しそうな顔すんじゃん。アンタって本当にダンス馬鹿だよな」
揶揄うように指摘され、思わず顔を背けていた。
嬉しいと思ったのは間違っていない――だが、それが顔に出ているとは思わなかった。
付き合いの長いコウやアキラですら『お前は何を考えているか、よくわからない』とよく言われるのに、染には純嶺の表情の変化がわかるらしい。
「……何を踊るんだ?」
「即興のつもりだったけど。なんかリクエストある?」
「いや、即興がいい」
この気まずい空気をなんとか誤魔化そうとしたことも、染にはバレているのだろう。それでも、不必要に揶揄ってくることはない。
染と話していて不快に感じることが少ないのは、そういうところだろう。
「じゃあ、アンタのために踊りますか」
茶化すようにそう言ってから、すっと目を閉じ、短く息を吐き出す。
次の瞬間、染の作り出した世界に一気に引き摺り込まれていた。
深い青色の世界が見えた気がした。
ゆらゆらと揺らめく、あれは水底から見上げた景色だったのだろうか。
染の踊りは、純嶺に不思議な感覚を与えてくる。
今回も無音だったはずなのに、染が踊り終えた瞬間、ずっと流れていた音楽が止んだような――そんな感覚がした。
「……お前の踊りは、綺麗だな」
放心状態で、ぽつりと呟く。
綺麗――そんなチープな言葉でしか表せないことに、じれったさを感じながらも、純嶺は染の作り出した美しい世界の余韻から抜け出せないでいた。
「綺麗? そうか?」
本人に自覚はないらしい。
ボトルの水を一気に飲み干した染が、Tシャツの裾で汗を拭きながら、こちらに近づいてくる。
純嶺の正面に胡座をかいて座った。
「ああ、おれは綺麗だと思う。踊り方も構成も……何より、他のダンサーと違って、指先の動きにまで視線を奪われるというか」
「あー……それはたぶん、バレエの癖が抜けてねえだけだな」
答えながら、染がひらりと手を動かした。
バラバラに指を動かす動作はそれだけで一つの踊りのように見える。長い指一本一本が、まるで別の生き物のようだ。
「バレエ……そうか。昔、やってたんだったな」
「ああ。うち、親父がバレエダンサーなんだよ。それもあって小さい頃からやらされてて。昔は神童とかいって騒がれたこともあるんだぜ? まあ、本気で続ける気はなかったけど」
「どうしてだ?」
「嫌いだったからな。バレエ」
意外な答えが返ってきた。
染も自分も同じで、物心ついたときから踊りに魅入られてきた人間なのだとばかり思っていたのに、どうやら違ったらしい。
嫌い、という言葉にチクリと胸が痛む。
「やらされてる感っつうの? あれが全然抜けなくてさ。毎日のレッスンが嫌で嫌で、よく抜け出してた」
「それで……やめたのか?」
「そうそう。あと、他にやりたいことが見つかったってのもあったけど」
「……やりたいこと?」
「ああ。運命と出会ったんだよ。そのとき初めて、自分の目の前が開けたような気がした。そのおかげで、今の俺がいる」
「それが、お前が今こうして踊ってる理由なのか?」
「そういうことだな」
染が懐かしむように目を細めた。
柔らかく微笑んだ染の表情に、とくりと一拍、鼓動が乱れる。同時にまた、小さな痛みが胸に走り、純嶺は首を傾げた。
「さてと……無駄話はこんぐらいにしとかねえと。結構、時間食っちまったな。アンタ、身体はどんな感じ?」
「そろそろ大丈夫だと思う。あと、振付もほとんど固まったから心配ない」
「え?」
「お前の踊りがいい刺激になった。これなら、いいものになると思う」
◇
「――なんて言ってさ、マジですぐにできると思うか?」
染がくだを巻くように絡んでいるのは、銀弥だ。
次の日の朝、純嶺たちは早速出来上がった振付をメンバーたちに披露した。
出来上がったといっても、まだ完成形ではない。歌唱パートに合わせたフォーメーションや、歌詞に合わせた微調整はこれからだ。
その打ち合わせも兼ねて、今日は朝からチームのメンバー全員にスタジオに集まってもらっていた。
「この振付を、たった半日だけで……か」
「やべえよな」
「やばいな」
「だろ? 正直、ビビったっつうの」
振付は各々が練習しやすいように録画もしておいた。
それぞれの端末に送った動画を、メンバーが食い入るように見つめている。
染は昨日散々、純嶺と一緒に振付を確認したはずなのに、銀弥のタブレットを横から覗き込みながら、興奮したように話し続けていた。
「……別にそこまですぐってわけじゃなかっただろ。その後も調整には時間がかかったし」
「調整は、な。全体の動きは、ほぼ一発だったじゃねえか」
反論すると、今度はこちらが標的になった。
でも言い返さずにおけば、染の話はどんどん勝手に膨らんでいく。あることないこと――ではなかったが、あまり大袈裟に話されるのも、純嶺としては困る。
「マジ、どんどん楽しみになってくるわ」
ぶるりと身体を震わせた染が、心底楽しそうに笑った。
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