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第3章 合宿オーディション初日
09 春日之 染
しおりを挟むさらに一時間ほど走ったところで、純嶺たちを乗せたバスは一度サービスエリアに立ち寄ることになった。
景塚プロダクションの合宿所までは、まだかかるらしい。
「スミレちゃんも降りるー?」
「ああ」
「売店売店ーっと。何があるかなー」
鼻歌混じりのドラと共に、純嶺も一旦バスを降りる。
食べ物を買いに行くというドラとバスを降りたところで別れると、純嶺は一人、売店とは反対側にある展望台のほうへと足を向けた。
「……見事に山しかないな」
展望台といっても、階段を十数段ほど上った先のこじんまりとしたバルコニーのような場所だった。特に美しい風景を見られるような場所ではないので、純嶺の他に人の姿はない。
だが気分転換をするのには、ちょうどよさそうだった。
純嶺は車に酔ったりする体質ではないが、長時間のバス移動となるとさすがに疲れが出てくる。狭い座席にじっと座ったままというのは、それだけでなかなか苦痛だった。
普段からほとんどの時間をダンスに費やしている純嶺だからこそ、余計にそう感じるのかもしれない。
「ん……っ」
両腕を上に伸ばし、上半身を後ろに反らす。
気持ちよさに思わず声が出た。
充分に背中を伸ばしてから肩甲骨を緩めつつ、ぐるりと大きく首を回す。今度はあくびが一緒に漏れた。
――昨日、ほとんど眠れなかったしな。
夕食の後、主治医に処方された安定剤はきちんと飲んでいたが、それでも緊張であまり眠れなかった。ベッドに横になって眠ろうとは努力したものの、合宿のことで思考が止まらなかったのだ。
瞼が重い。しかし、まだ午前中だ。
今日は合宿所に到着後、オリエンテーションや個人面談があると先に伝えられている。
昼寝などをしている時間はないだろう。
――バスの中で寝るのは……無理だろうな。
今のうちに寝ておくのが一番得策なのだろうが、バスの中はどうにも眠れる環境ではない。参加者の間には、今も微妙な緊張感が漂っていた。
真栄倉が純嶺に絡んできた原因も、おそらくはそれだろう。
不安や緊張は伝播する。
Subはただでさえ、相手の負の感情を強く受け取ってしまう性質があるというのに――この状況はSubである純嶺にとって悪影響でしかなかった。
「……もう少し、柔軟しとくか」
身体を動かせば、少しは気が紛れるはずだ。
純嶺は展望台の手すりに踵を引っ掛けるようにして片足を持ち上げると、上半身を倒し、その足にぴたりとくっつけた。
縮こまっていた太腿の裏から腰、背中の大きな筋肉が、ぐっと伸びるのを感じる。
「バレエ、したことあんの?」
「――ッ」
こんな場所、他に誰も来ないと思っていたのに――純嶺は慌てて声のほうを振り返る。
展望台の階段をゆったりとした足取りで上ってきたのは、集合場所で一番目立っていた十八人目のオーディション参加者だ。
――名前は確か……春日之染。
全員分のプロフィールが書かれた名簿を貰って、一番に確認した名前だった。
同じことをした参加者は、きっと純嶺の他にもいるはずだ。
それでも、そこから知れたこの男の情報は名前だけ。プロフィール欄はほとんどが空欄のまま、経歴も何も書かれておらず真っ白だった。
それでも、この男がダンス未経験者だとは思えない。
純嶺のように本当に無名というわけではなく――おそらくは、自分の経歴を隠しているのだ。
理由まではわからなかったが。
「聞いてる?」
「……前に、少しレッスンを受けたことがあるだけだ」
「へえ――ね、俺も隣いい?」
「…………」
純嶺の返事を待たずに、染は純嶺のすぐ隣に立った。
ふわりと鼻をくすぐったのは、染のつけている香水の匂いだろうか。どこかエキゾチックなその香りは、染の雰囲気によく似合っている。
純嶺の視線に気づいた染が、ちらりと横目でこちらを見た。
珍しい青色の混ざった薄い灰色の瞳。どこか異国の血でも混ざっているのかもしれない。その目からは、やはりグレアの気配が感じられた。
――やっぱり、この男はDomで間違いない。
今回は、先に心の準備をしていたので手が震えてしまうようなことにはならなかったが、それでも緊張することに変わりはなかった。
動揺を悟られないようにするだけで精一杯だ。
「そういえば、自己紹介がまだだっけ。俺は春日之染――染でいいよ」
「芦谷純嶺だ……好きに呼べばいい」
「わかった。そうする」
自己紹介は、名前を交換するだけの簡単なやり取りで終わってしまった。
軽薄でいかにもお喋りが好きそうなタイプに見えたのに、実は違っていたのだろうか。肩透かしを食らったような気分だが、染との間に落ちる沈黙は不思議と不快ではない。
――まだ、よくわからないな。
謎の多い男だ。
こっそりと横目で観察する純嶺の視線に気づいているのかいないのか、染も純嶺と同じように展望台の手すりをバレエのバーに見立てて、ストレッチを始める。
「……お前こそ、バレエ経験者か?」
染の動きは、純嶺よりも身体に馴染んでいるように見えた。
本人の派手な見た目や軽い印象とは裏腹に、天に伸びるような立ち姿は美しく、驚くほど様になっている。
「こんだけの動きでわかるんだな――そうだよ。小さい頃に習ってた。今じゃ、たまにバーレッスンをやるぐらいだけどな」
そう説明しながら、いくつかバレエ特有の足のポジションを純嶺に向かって披露する。
関節が驚くほどに柔らかい。ポジションチェンジもかなり滑らかだ。本人は「たまに」なんて言ったが、今も欠かさずにレッスンをしているとしか思えない動きだった。
「アンタは? なんでバレエのレッスンなんか受けたんだ?」
純嶺に興味を持ったらしい染が、まっすぐ純嶺の顔を見ながら問いかけてくる。
「……自分の表現を広げたかったんだ。踊りっていうのは、知れば知るほど奥が深いからな」
純嶺はその質問に素直に返答した。
それ以外、どうすべきか思いつかなかったからだ。
「わかるわ、それ。俺も同感。ゴールなんて、多分ねえんだろうな」
「お前もそう思うのか」
「踊りに魅入られた人間なんて、誰だってそんなもんだろ」
――この男も、踊ることが好きなんだな。
瞳を輝かせながら語る染の顔に、緊張がふっと緩んだ。
ちらりと純嶺の顔を見た染が何かに気づいたように、ぱちりと目を見開く。
「ずっと、そういう顔してりゃいいのに……でも、顔色はあんまよくねえな」
「……え? あ」
染の手が純嶺の頬に触れた。
不意打ちのことに、うまく反応できない。
純嶺の動揺には気づいているはずなのに、染は気にする様子もなく純嶺の目元に指を滑らせる。
「クマができてる。寝不足?」
「…………少し」
「そうか。んじゃ、バスに戻んぞ」
「あ、ちょ――ッ」
染はそう言うと、純嶺の腕を掴む。
あとは無言のまま、駐車場に向かって歩き始めた。
◇
染と一緒にバスに乗り込む。
出発時間まではまだ十分以上あったが、ほとんどの参加者がバスに戻っていた。
ドラも先に席に戻っている。純嶺がそちらに視線を向けると、売店で買ってきたのであろうメロンパンを夢中で頬張っているところだった。
二人が通路を歩く音に気づいたのか、ドラがおもむろに顔を上げる。
染に腕を引かれている純嶺を見つけて、ぽかんと間抜けな表情を浮かべた。
「え、と……スミレちゃん?」
純嶺を呼ぶドラの声に、先に反応したのは染だった。
「コイツ、俺のほうで預かるわ」
ドラにそう短く告げて、純嶺をバスの一番奥の座席へと連れ込む。
右端の座席に純嶺を座らせると、自分もそのすぐ隣にどかりと腰を下ろした。
「ほら、寝ろ」
「……え?」
「いいから。寝不足なんだろ?」
一度は離れた染の手が、再び純嶺の手首を握った。
ここから逃がすつもりはない――そんな意思が伝わってくる。
「おやすみ」
染はそう言うと、自分も寝る体勢に入った。
自由な男だ。
――おれは、なんでこいつに従ってるんだろう。
バスに戻ると言われたときもそうだ。
手を振りほどこうと思えば、簡単にできた。染はそんな強い力で、純嶺の腕を握っていたわけではないのに――なぜか、抵抗する気すら起きなかった。
――こいつがDomだからか?
いや、コマンドは一度も使われていない。
グレアだって、わずかに漏れ出ているぐらいのもので、Subを無理やり従えるような強制力はないはずなのに。
ならば、どうして。
「…………」
隣に座る染の横顔を見つめる。
しっかりと閉じた瞼に開く気配はない。すぐに規則正しい寝息が聞こえてきた。
本当に眠ってしまったらしい。
――変なやつだな。
変わっている――だが、嫌な感じはしなかった。
それに、不思議と気持ちが安らいでいる。
バスの中の緊張感は何も変わっていないのに、ピリピリと肌を刺すようだった不快感が今は全く感じられなかった。
――これなら、眠れるかもしれない。
座り直して、背もたれに頭を預けた。
ちょうどバスも発車したらしく、心地よい揺れが純嶺の眠気を増幅させる。
触れられた場所から染のぬくもりを感じながら、気づけば深い眠りに落ちていた。
「……ん」
ぬくもりが離れていく感覚で、純嶺は意識を覚醒させた。
目を開くと、遠ざかっていく染の姿が視界に入る。その背中におもむろに手を伸ばしかけて、ハッと我に返った。
――何をしようとしてるんだ、おれは。
バスはいつの間にか、合宿所に到着していた。
オーディションメンバーが荷物を手に、次々とバスを降りていく。純嶺も自分の荷物を肩に担ぐと座席を立ち、その後ろに続いてバスを降りた。
「合宿所は正面の階段を上ってすぐの建物です。各自ロビーで部屋割りを確認して、荷物を部屋に置いたらすぐ、一階にある食堂へ集合してください」
そう声掛けをしているのは、バス移動にも同伴していたスタッフだ。
太い黒縁の眼鏡をかけたあまり目立たない容姿の男性だが、はっきりと通る声で言葉も聞き取りやすい。演劇の経験があるのかもしれない。
目が合うとニコリと微笑まれたが、純嶺は軽く会釈だけを返し、正面の階段を目指した。
――あの建物が、そうか。
階段を上ると、すぐに建物が見えてきた。
合宿所だといって連れてこられたが、その建物は立派な別荘やホテルのようにしか見えない。
建物はこの一棟だけではなく、奥にもいくつか同じような建物が並んでいた。
どこまでが景塚プロダクションの持ち物かはわからなかったが、随分と金がかかっているオーディションだということだけは間違いなさそうだ。
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