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第八章

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 その手紙が来たのは、イルティアが邸を去って、しばらくのことだった。

 リュクス・フォルミスからザフラ・シュヴァーユへ、渡したいものがある、とのことだった。

 ザフラはわざわざ、その日の予定を全て別日に振り替え、彼の到着を待つ。朝から籠っていた執務室の扉が叩かれたのは、昼を過ぎた頃だった。

 執事から、応接間に通したと聞いて、彼は真っ直ぐ向かう。部屋に入る間際、その執事に人払いを頼んだ。

 扉を開けると、来客用のソファにリュクスの姿がある。他に従者も部下もいなかった。

 彼も自分と同じことを考えたのだと、直感的に感じた。ザフラは静かに息を吐いて、再び歩き出す。

 近づくと、一つに結んだコーラルの髪を揺らして、リュクスが窓際に向けていた金色の瞳をゆったりと動かした。

 服装は、ラフな白シャツに黒のボトムス。商談で来たわけではなさそうだ。ザフラが自身のジャケットを軽く整え正面に行くと、彼も同じタイミングで立ち上がった。

「忙しい時にすまなかった」

 その一言に、彼を一瞥したザフラは腰を下ろす。

「そうだね。君のおかげで、離縁の手続きもしなくちゃいけなくなったから」

 そう言った彼は、一拍置いて、鋭い視線を投げ掛けた。

「よく僕の前に顔を出せものだね。ある意味、感心するよ」

 自分の感情を隠そうともしないザフラを、リュクスは無言のまま見つめる。だが、しばらくしてフッと表情を崩すと、ゆっくりソファに座り直した。

「そうだな。けど俺は、自分の行動に後悔していない。当然、謝るつもりもないな」

 その言い分に、ザフラは憎々しげに言葉を吐き出す。

「……開き直るんだね。図々しいことだ」

 彼は、長い足を組んで続けた。

「僕は君を訴えるつもりだよ。そうなれば、君の家にも、事業にも影響が出るだろうね」

 けれど、その言葉にリュクスは顔色一つ変えない。それどころか、強い眼差しを返した。

「好きにすればいい。さっきも言ったはずだ。俺は全てを含めて行動した。だから当然、その責任も取る」
「…………」

 その言い方が、一瞬、イルティアと重なった。ザフラは眉を顰め、視線を逸らす。

 同じように、話を変えた。

「……それで、今日は何の用だい? 君を見てるのも気分が悪くなる。手短に頼むよ」
「そうか。なら、余計な話は無しだ。手紙にも書いたが、アンタに渡したいものがある。今日はそれを持ってきたんだ」

 そう言って、テーブルに出したのは品の良い灰白色かいはくしょくの樹木で作られた小さな箱。ザフラが眉根を寄せる。

「注文した品は無いはずだけど……」
「ああ。だがこれは、アンタへ納品すべき品だ」

 リュクスが、ゆっくりと蓋を開ける。柔らかい紺のベルベット生地で作られたクッションの上に、小さな装飾品があった。

 細かな彫刻が施された半円の台座。その金の台座には、錨が模されていた。その中央に、五枚の花びらが可憐に開くユリリアスの花と、濃い紅茶に似た色の宝石がはめこまれている。

 ザフラが首を傾げると、リュクスは淡々と説明を始めた。

「懐中時計のチェーン先につける飾りだ。錨は平穏と安定を。そのユリリアスの花は……思い出の花だそうだ」
「思い出の花?」
「使われている石はマデイラシトリン。アンタの瞳に合わせたらしい」
「僕の……」

 そこまで言って、言葉を詰まらせる。ザフラがそっと手を伸ばすと、さりげなくリュクスが、箱を彼の元へ近づけた。

「石に彫られている紋章の半分は彼女が、後は、俺が仕上げさせてもらった」
「…………」

 手に持つと、わずかな重みを感じる。煌めく宝石の中に、雪の結晶と一本の剣が描かれていた。ザフラは、手の中でそれを転がしながら、やがてギュッと握り締める。

「これを……今更、僕にどうしろと?」
「それは自分で決めろ。俺は、預かった品を届けに来ただけだ」
「無責任だね」
「どう言われても構わないさ。ただ……」

 迷うように、一度口を閉じた。けれどすぐ、続ける。

「そこに込められてる彼女の想いは本物だから。それだけは信じて欲しい」
「……」

 リュクスの言葉に、ザフラは動きを止める。次第に落ちていく視線。そのまま何も言わなくなった彼に、しばらくしてリュクスは、テーブルへ手をつき立ち上がった。

「じゃあ、確かに渡したからな」
「……」

 そう言って、彼は背を向ける。歩き出す間際、ザフラが引き留めるように小さな声を出した。

「すまなかった……」

 その言葉に立ち止まる。振り返ると、リュクスは眉間にシワを寄せて、疑問を口にした。

「どうしてアンタが謝る?」
「僕は……」

 顔を上げたザフラが、真っ直ぐ視線を向ける。けどすぐに、逃げるように逸らした。

「僕は、弱かったんだ」
「……」

 リュクスが改めてソファへ座り直すと、ザフラは額に手を添えた。

 誰にも言えなかった想い。何故だかそれを、今……口にしたくなった。胸のつかえを取り除くように、彼は、ゆっくりと言葉にしていく。

「ずっと……彼女の苦しみに気づいていたんだ。だけど僕は……その苦しみに気付いていながら……何もしてあげられなかった」

 打ち明けられたその心情に、ひとつ息を吐いてリュクスは静かな声で応えた。

「……それは酷いな」
「……」

 ザフラは、その言葉を噛み締めるように瞳を閉じて、同意する。

「そうだね。だから、君の元に行くようになって正直……ホッとしていたのかもしれない」
「それでも彼女は、アンタを想ってた」
「ああ。けど、それに甘えてしまったんだ」
「だろうな」

 リュクスは、腕を組んで続ける。

「アンタが、俺を許せないのは分かってる。だが俺も、ティアを傷つけたことは許さないつもりだ」
「あれは……」

 再び、手の平の中を見つめる。変わらない輝きを湛える宝石に、彼は瞳を細めた。

 呼び起こされる記憶の中、リエンラからの報せを思い出す。

 下働きの者が邸を訊ねたこと。その応対を夫人が行ったこと。謝罪に行きたいが、行けば更に迷惑をかけてしまうだろうということ。

 ザフラは、小さく溜め息を吐いて続けた。

「あの時の僕は……どうかしてたんだ。変わっていく彼女に戸惑って、臆病になってしまった。向き合うことを怖れてしまったんだ」

 その言葉に何かが含まれていることは、リュクスも感じ取っていた。だが彼は、訊くことも、責め立てるわけでもなく、一言返しただけだった。

「そうか」

 ザフラは、淡然としたその言葉に救われる思いがした。
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