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第六章

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 朝、玄関ホールまで降りてきたイルティアが、出掛ける間際のザフラへと声をかける。

「ザフラ、今日はアルガー様がいらっしゃるけど、時間は平気?」
「大丈夫。その時までには戻ってくるから」
「そう。なら待ってるわ。行ってらっしゃい」
「ああ、いってくるよ」

 イルティアが、再び外に出なくなってしばらく。シュヴァーユ邸は、変わらず平穏を保っていた。

「…………」

 保っているかに……見えた。

 けれど、当主を見送った彼女は、静かに溜め息を吐く。視線を移した廊下は、シンと静まり返っていた。

 あの日、リュクスの別邸へ迎えに来たザフラは、何も言わなかった。リュクスの手前、言えなかったのかは分からない。だがイルティアもまた、何かを告げることはなかった。

 そうして、様々なことが有耶無耶うやむやになったまま、以前と同じ生活が戻ってくる。邸内を守る妻と、領内の運営に勤しむ夫。

 はたから見れば、なんら変わらない夫婦。だが、その心には互いに触れられない……触れることの出来ないものがあった。

「っ……」

 イルティアはスカートの裾を翻し、その廊下を進む。午後には来訪がある。準備に入らなければならない。

 彼女は真っ直ぐ、応接間を目指した。

*  *  *

 日の仕事を終え、執務室にいたザフラは、不意に声を出す。

「イルティア。来週、コレッジに行こうと思うんだけど、どうかな?」

 ちょうど、資料を戻しに来た彼女を引き留めるように、問いかけた。その提案に、イルティアは振り返り首を傾げる。

「コレッジ? 新たな仕事でもあったかしら?」

 王都の北にあるコレッジは、古代の遺跡が多くある神秘的な地。観光するには最適だが、事業開拓にはあまり向かない。彼女の様子に、ザフラが苦笑する。

「僕は、仕事人間とでも思われてるのかな」
「あら。否定出来ないのではなくて?」
「まあ、そうだけど」

 それで、と、彼が続けた。

「今は領内も安定してる。明日には、鉱業権も手続きが終わる予定だし、どうせ承認をもらうにはファイラント公と争わなきゃいけない。だからその前に、どこかでのんびりしないかなって」
「…………」

 確かに今は、領内が落ち着いていた。

 ザフラが得た情報のおかげで、一連の事態に関係していたワイドリア伯爵を警戒し、その証拠を掴んだ。と、同時に、その狙いも防ぐことが出来たということだ。

 彼等は、ファイラント公爵と繋がっており、シュヴァーユ家領に手を出すことで、動揺させ、鉱業権放棄を狙っていたらしい。

 さらに彼等は、その鉱業権に対しても手を回していた。次々と協力辞退の申し出が届いたのは、ワイドリア伯爵に通じていた者が、脅した結果。だが、イルティアの手紙に心動かされ、繋がりが絶たれることはなかった。

 おかげで今は、どれも順調に事が進んでいた。

 だから、イルティアにも、彼の申し出に異論はなかった。

 むしろ、嬉しいくらいだった。でも、一瞬迷ってしまう。

 罪を犯した自分が、こうして、喜びを得ても良いのだろうか、と。

 返事のない彼女に、ザフラが再び問いかける。

「嫌……かな?」
「!」

 弾かれたように顔を上げ、慌てて首を振る。

「そんなことないわ。けど、私も行っていいの?」

 その問いに、彼は軽く笑った。

「おかしなことを聞くね。君は僕の妻だよ。僕が共に行きたいと思うのは、君以外いないよ」
「ザフラ……」

 瞳を細めて見つめる彼が、そっと手を伸ばす。

「おいで」

 その声に、わずかに逡巡する。けどすぐに、応じた彼女が傍に向かった。

 椅子に座っている彼に手を引かれ、膝に乗る。腰を抱かれて、視線を交わす。少しして、触れるだけの口づけをした。

 瞬間、胸がチクリと痛む。

 イルティアは、浮かんだ困惑を隠して、誤魔化すように口を開いた。

「……コレッジは」
「ん?」
「あの場所は、きっと今、美しく彩られているのでしょうね」

 もうすぐ寒季が終わり、暖かい時季がやってくる。その間際なら、空気が澄んで遺跡を照らす陽の光も、一層綺麗に見えることだろう。

 イルティアは、想いを馳せるように遠くへ視線を向けた。

 そんな彼女を見つめたザフラが、ふわりと微笑む。

「そうだね。だから……」

 言いながら彼は、彼女を抱き締め、その首元に顔を埋めた。

「今、君と行きたいんだ」
「…………」

 ザフラはそうして、互いのわだかまりが解消出来ると思った。以前の二人に戻れることを、期待していた。

 イルティアも、そっと彼の頬に手を添える。

「そうね。私も楽しみにしてるわ」

 そう言葉を残した彼女は、静かに手を離す。そのままスッと立ち上がり、離れていく。部屋を出るその後ろ姿を見送った彼は、しばらくして小さく息を吐いた。
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