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 プロローグ 長雨の 触れし人肌懐かしき 幾世の夢を望む鬼

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 『おい!』
 太陽の見せない空は、黒く重い雲が垂れ込めている。
 生暖かい雨が身体を濡らし、体温を削りながら無情に芯から冷やした。
 『おい! 生きてるか?』
 男は久方振りに人の声を聞いた。
 雨の生臭い臭いに、ふわりと優しい香りと温もり。
 ――何の香りだろう。
 嗅覚と聴覚はどうにか機能していることに自分で驚きながらも、身体はピクリとも動かない。
 顔を上げて香りの元を確認しようとしても、指の先も眉の毛も動いてくれない。
 ――怠い。
 重い鉛を全身に背負っているようだ。
 それでは力自慢だろうが到底無理であろう。
 『――酷い熱だ。俺の家が近いから、辛いと思うけど連れて行くよ?』
 ふわりと暖かい物が身体を覆った。
 香りと同じく柔らかい口調の声は、男の力を失った腕を自分の肩に回して抱え起こすと、ふらつきながら一歩足を動かした。
 『――……』
 男は離れようにも声も出ない。
 このままでは声の人間を潰してしまう、と触れる身体の細さにヒヤヒヤした。
 ――ああ……自分はまだ人を気遣える程の余裕を持っているのか。
 口を僅かに開くと、そこに頬を伝って雨が滑り込んでしまい、気管に不時着してしまった。
 思わず咳き込むと、声の人間が息を切らしながら声を掛けてくれた。
 『だ、大丈夫、か?』
 しかし、咳き込むので限界を迎えてしまった男は、そこで意識を飛ばした。



 ビルとビルの隙間。
 男は人通りから見えない場所に踞っていた。
 ――もう歩けない。
 ずっとさ迷っていた気がする。
 いつからさ迷っていたのか、当の男ですら既に分からない。
 空腹で、雨に体力を奪われ、裸足で、血に染まって――。
 いつから何も口にしていないのか、いつから裸足なのか、いつから――雨が降っているのか。
 気付いた時には雨は降っていて、裸足で、空腹で。
 でも。
 ――どうでもいい。
 人知れず死ぬのだろう、と意識が薄れる中で思った。
 それでも良い。と思った。
 ――もう充分生きた、充分。
 だのに――。
 男に気付いた人間がいた。
 ――気付いてしまった。 
 男も気付いた。
 ――気付いてしまった。
 温もりに。
 優しさに。
 もう二度と味わうことの無い筈の生きた人の感触に。
 数百年も昔に味わった切りの、いとおしい人間の心に――。
 

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