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 第32話

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 身体が重くて、痺れて、痛くて……。
 助けを呼ぼうとしても、声も出ない。
 目だけがギョロギョロと動いて、目の前に先生が倒れているのが見えた。
 『――ぜ……ん、ぜ……』
 指先を動かすだけでも、キリキリギリギリと痛む。
 先生は目を閉じていた。
 少し開いた口から血が流れ、先程の陰陽師達を蹴散らした気迫も無く顔が紙のように白い。
 『ぜん……ぜ……』
 何が起きたのか分からなかった。
 左京とか清水とか錬太郎さんとか。
 皆の声がとても遠くて、寂しくなる。
 寒くて、寒くて、寒くて。
 呼んでも。
 呼んでも。
 先生の目は開かない。
 雨足が強くなって、体温も奪われていくのが犇々と脳に伝わる。
 このままでは、マズイ、と。
 ――先生……。
 僕の瞼も勝手に下りていく。
 重くて堅くて意思を無視する瞼は舞台の緞帳のように、ゆっくりゆっくり、ギギギと。
 ――先生……。
 キリキリギリギリ――。
 ――先生……。
 『――一度は耳にしたことがあるかもしれないが、アメーバとかミドリムシとかも単細胞生物だ。最近ミドリムシを活用したサプリメントや食品が売られてたりするな』
 『――へ?』
 ふと気付くと、学校にいた。
 パチパチと瞬きを繰り返す。
 教室に僕と先生。
 生徒は僕一人だが、先生は教壇に立って普通に授業をしている。
 初めて受ける先生の授業は、先生の担当科目の理科だ。
 『あ、れ?』
 蝉が鳴いている。
 窓が少し開いていて、そこからちょっと涼しい風が流れてきた。
 『単細胞生物ってのは、一つの細胞だけで運動、食べること、不要物の排出等全てを行っているんだ。アメーバとミドリムシの他にゾウリムシ、ミカヅキモ、ケイソウって云うのもいる』
 黒板にコンコンと音を立てながら、上手いのか下手なのか分からない細胞のイラストを書いていく。
 歪な楕円形の中に更に細長い丸を描き、矢印で外に『運動のはたらき』『水分の調整』と書き添えていく。
 『――……』
 『それで俺等人間は一番最初に云った――』 
 上の方に『単細胞生物』『多細胞生物』と書かれていて、先生の持ったチョークが『多細胞生物』を示した。
 『この多細胞生物ってのになる。沢山の細胞から出来ていて――』
 漸く僕の異変に気付いたらしく、眉根が少し上に上がった。
 『上総、どうした?』
 先生は暑そうにワイシャツの首元を掴んでパタパタと風を通そうとしている。ネクタイがズボンのポケットからはみ出していた。
 チョークを持った指が白い。
 僕は一番前の席に座って、シャープペンシルを握っていた。
 『何か分からない所があるの?』
 黒板にはすでに沢山の文字やイラストが書かれていて、黒板消しの跡もある。
 『え、と……これは、夢、ですか?』
 僕の質問に先生は驚いた。
 『ん? もしかして目を開けながら寝てたのか?』
 『そんな器用ではない、筈、です』
 この席は先生がクジで射止めた僕の席。
 多分、僕は中学二年生で蝉が鳴いてるから、夏。 
 『いきなり連絡してきて、時間が開いたから勉強教えろって云ってきたのは上総だろ?』
 チョークを黒板の下に置いて、軽く指に付いた粉を払った。
 『す、すみません。あの……』
 状況が飲み込めない。
 夏だ、完全に夏。
 先生と僕が倒れてから二ヶ月近く経っていることになる。
 その間の記憶が無い。
 どういうことだ?
 『上総、少し休憩しようか』
 『え』
 隣の席に座った。
 隣の席の持ち主は誰であろうか。
 名前も性別すら知らない。
 僕は以前会った佐藤友菜しかクラスメイトは知らなかった。
 『今年は特に暑いらしいからな。勉強したい気持ちも分かるが、休憩挟まないと頭がオーバーヒートする』
 『――……』
 『そういうことじゃ、ないって顔だな?』
 先生は顔を近付けた。
 『仕事、行き詰まってるのか?』
 いつもの笑顔は何かを隠している時の顔ではない。
 僕の大好きな笑顔だ。
 『先生、あの、訊いて良いですか?』
 『ん?』
 長い前髪を耳に引っ掛け、耳を傾けた。
 髪が少し延びてる気がする。
 だったら、やっぱり時間は経過していて、例の問題も収束したのだろうか。
 『あの時――僕達が倒れた直後、何があったんですか?』
 『――あの時?』
 『里の襲撃で、置き土産だって……』
 ああ、と先生は僕から少し離れた。
 『訊きたいのはそれだけ?』
 瞬きせず茶色い机の一点を見ている。
 『あと――呪いは本当に何に使うつもりだったんですか?』
 『呪い……』
 まだある。
 沢山ある。
 ――先生……。
 『沢山、沢山訊きたいことあります。僕の質問に包み隠さず答えてくれますか?』
 見せた顔は本当に嬉しそうに笑っていて、良い笑顔で――何故か僕は悲しくなった。
 『俺が
 『?』
 『呪も
 『先生、何云ってるんですか? 先――』
 痛い。
 身体が重い。
 キリキリギリギリ。
 痛くて重くて怠くて、机に突っ伏してしまった。
 『せ、んせ――?』
 ――先生……。
 蝉の鳴き声は、よく聞くと雨の音だ。
 ザァザァザァ。
 窓の外はどしゃ降りで、晴れていた空は真っ暗。
 先生は立ち上がると教壇に戻ると教卓を撫でた。
 『一度でいいから、ちゃんと上総と授業したかったんだ』
 教科書を開く。
 『俺は小さい頃、教師でなく動物学者になりたかったんだけど』
 パラパラパラ、ページが次々と捲れていく。
 『でも俺は沢山の人と関わりたくて、沢山の人とお喋りして笑って楽しい時間を作れたら良いなって考えていたら、教師になろうって思ったんだ』
 パタリと教科書を閉じてしまった。
 『上総、俺が守るから、お前はお前の思う通りに動くんだ。俺のことは考えるな。大老會とか当主とか気にするな。上総はもう立派な陰陽師なんだから』
 先生の伸ばされた掌が僕の頭をいつものように撫でると、身体が突然軽くなった。
 『先生』
 ザァザァザァ。
 ザァザァザァ。
 雨の音。
 一瞬の瞬きで目の前には黒板の黒い盤面が広がるだけだった。
 分かっている。
 これはよく見る夢の一部。
 僕の願望だったり、出てくる人達の過去だったり、願いだったり。
 『僕の願望――』
 いつもの笑顔で、先生の授業を受けてみたい、と願う僕の願望。
 それがこんな形で現れたのだ。
 先生のいた場所には教科書と数枚の紙が落ちている。
 紙には難しい言葉や他国の言葉らしき単語が綴られていて、僕の頭では理解出来ない文章が上から下までギッシリ埋まっていた。
 『呪を引き起こす要因と可能性、ならびに対処法と撃退法――?』
 これは先生の物なのだろうが、どうして僕の夢の中に?
 『先生……』
 全ての紙を拾い廊下に出ると、白い猫がいた。
 『にゃぁ』
 見たことがない、綺麗な猫。
 真っ白で毛が長くて左右の瞳の色が違う。
 僕を見るなり鳴いて、背を向けて歩いて行ってしまった。
 『あ』
 『にゃぁ……』
 振り向いてまた鳴いた。
 『え、もしかして、着いて来いって云ってるの?』
 『にゃう』
 おとぎ話みたいな展開に動揺しつつも、淡い期待は拭えない。
 『にゃぁ!』
 ひたすらに長い廊下を着いて行くと、猫が鳴いて止まった。
 『案内お疲れ様』
 そこには猫を抱き上げ、少年が一人。
 『上総、あとは一人で行けるだろ?』
 前方に光が見える。
 『あ、の?』
 僕と同い年位の少年は猫の喉を撫でている。
 『ここは君の願望ではないよ。健司の心のだ』
 『先生の?』
 『そう』
 にっこりとする顔がどこか先生にそっくりなのは気のせいだろうか。首を傾げていると、背中を押されてしまった、猫に。
 『全く、あたしと道世の貴重な時間を邪魔しないでよね!』
 『こらこら、深雪みゆき、驚かせたら駄目だよ』
 『あ――』
 僕は頭を深く下げて光に向かって走った。
 
 



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