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十六
しおりを挟むサァァァ――耳元で雨が音を奏でている。
強くなったり弱くなったり時折一瞬止んだり。
酷く不安定な雨はそれでも青い空だけは、ちっとも見せてくれはしない。
通常なら「恵みの雨」となるのだろうが、今ばかりは随分と意地悪な天気だ、と浩司は忌々しげに鼻を上向かせて黒い雲を見た。
これで舌打ちをしようものなら、隣にいる宏保が緊張して身体を強張らせて良いことは何一つない。
いや適度に緊張するのは良い。もしかしたら殺人犯と出会うかもしれないのだから。
だからと余計な舌打ちで大人の苛立ちを誇張させて、青年が使い物ならない状態になってしまっては元も子もない。彼には自由に動けるように精神を保ってもらわなくてはならないのだ。
精神を保ってとは思うがこの最悪の状況下、正常な人間は保っていられないであろう。しかし、ここで駄々を捏ねても殺人犯の思う壺でしかない。酷ではあるが、一番反射神経の良いであろう青年に動いてもらう他ないのだ。
そう、どんなに浩司が先陣きって犯人と対峙しようとしても、四十路手前の運動不足の体力では瞬発力に自信は無いし、どれだけ文系だと本人が云ったとしても断然宏保の方が犯人に抵抗するだけの体力があるのは分かりきっている。
危険なことをしようとしているし、させようとしているのは承知しているが、ここで保守的になっても家族の恐怖は増すばかりで何の解決も対策もありはしない。動ける男がいるのだから、二人も殺害した犯人をこうして捜して捕まえるべきなのだ。
「私がドアを開けて先に中に入る。君は様子を見て入るんだ」
「!?」
特殊警察じみた動きなんて出来る筈も無いからどうすれば最善なのか、通常より冷静さを欠いた今の状況下ではどんな行動が正解なのか全く分からない。宏保には状況を判断して行動をしてもらうしかなかった。
シン――と物音一つしないプレハブの物置小屋。
雨音だけが耳にまとわりつく。
窓は無いから外から中の様子を窺えない。
木質系の材料で壁や床、天井が組み立てられていて薄っぺらな扉の前で二人は息を殺し中の気配を探るが物音一つ無く、もしかしたら向こうもこちらの様子を窺っているのかもしれない、と嫌な錯覚が起きる。
いるのか、いないのか――。
侵入するタイミングが掴めない。
このままでは埒が開かない、と一度深呼吸をして宏保に目配せをした。
汗か雨か、それとも両方か。
モップを握る掌が濡れて、ふとすると柄が滑ってしまう。
少し錆付いた取っ手をゆっくりと押し、一歩中に踏み込んだ。
ギギギギギィ――。
外側へと軋む扉。
昨日何度も開閉した扉は雨をふんだんに含んで、やけに重たい。
扉を引きながら浩司は後悔した。
思いの外扉を上手く開けられなくて、これでは犯人がいたら向こうの思う壺だ。こちらの姿がチラリとでも見えたら犯人側は完璧に攻撃を仕掛けられる。
しかし――。
ゴクリと唾液を飲み込む。
「――……」
雨と少々の黴臭さが鼻についた。
晴れている時は気にもならなかったが、黴が存在する小屋の中に食材が置いてあるのだと知り、管理者に抗議しなければな、と浩司は日中頭の片隅に自動的にインプットさせていたことを今思い出した。
昼間に行動に移していれば管理人の不在ももっと早く知れたであろうし、居ないならば管理人室から自宅に連絡もできたであろう。
もう遅いが。
暗がりの倉庫内を懐中電灯で照らし人間がいないか確認するも、そう広くない空間には人間一人が隠れるスペースも、左右の壁に常設されている棚と壁の間にも隙間は無い。
入り口脇にある電気のスイッチを探り当て、明るくなった倉庫を再度確認して浩司と宏保は緊張を解いた。
「――いませんね」
「ああ、残念ながら、ね」
殺人犯がいてくれれば危惧していた仲間内の犯行でないことが明らかになるのだが、これではまた考えを改めなければなるまい。
プレハブの狭い小屋の中、二人は無言で目を合わせる事なく、目の前の雑多な工具やらを無意味に見詰めた。
木箱や段ボールに入った野菜や果物。
どうやら管理者は食材を予定より多めに用意してくれているようだ。コテージの冷蔵庫にも肉類や乳製品がやたらと入っているのを、妻の沙織と苦笑しながら確認したのは昨日のこと。
食材の向かいの棚には鋸や金槌、木片等の工具や材料。
バーベキューに必要な炭やコンロが整頓されている。本来ならば晴れていれば昨日の夜に使用するつもりだった。
「――小屋の周辺も見ましょうか?」
静寂が堪らず宏保は提案した。彼もまた疑惑を拭いきれずにいるのだ。
隣の人の良さそうな浩司が殺人犯かもしれない、と。
浩司も隣の好青年が殺人犯かもしれないと、疑いを消すことは出来ない。
「そうだな」
そろりと小屋を出た二人は左右に別れて小屋の裏手に廻り込んだが、ものの数秒で何事も無く再会を果たした。
何も無い。
犯人はいなかった。
犯人捜しに気付き一足先に森へ逃げ込んでいる可能性も無くはない。無くはないが、雨の中森を捜索するのは非常に困難なのは昨日の龍の捜索で思い知ったばかりだ。
可能であるならば森には入りたくない。
龍が大怪我をした虎ばさみが一つだけとは限らないのだし。
「小屋の中に鋸とかあったよな、それをコテージに運ぼうか」
「?」
「終わってくれれば良いが、絶対にもう起きないとは言い切れないだろ?」
ああ、と宏保は頷いた。
誰もが使える状態のまま凶器となり得る鋸や金槌を放置していては、殺人犯がそれらを使用して犯行を重ね兼ねない。それならば隠してしまおう、という浩司の判断だ。宏保もすぐに同意した。
と言っても鋸と糸鋸、金槌くらい。あとは少し錆びた釘。
さすがに釘は使わないだろう、二人は逡巡したが殺人者の行動が読めない中で「大丈夫」という言葉は簡単には出すことは出来ない。ズボンのポケットに大量の釘を突っ込み二人は小屋を出た。
「キャンプ場の入り口も確認しよう」
未だに降り続ける雨。
昨日と変わらず――もしかしたら深夜また崩れたのだろうが――手や足で触れるだけでもパラパラと上から小石や水分を含んだ土が頭に降り掛かってくる。
キャンプ場からの脱出は危険だ。
「電波もやっぱり無いですね」
分かりきったことだが確認せずにはいられない。
都会の喧騒を離れて自然豊かな地で子供達の情操教育をしよう、それが当初の目的だ。電波も何も無い、用意もしてこない、仕事の話もしない、大人達の暗黙のルールもあって数年毎年夏の長期休暇期間に四家族が集まって出掛けていたのである。
それらが完璧に仇となってしまった。
連絡が取れないのは非常にまずい。
まずいが。
どんな理由であろうと見知った人間が殺されるなんて考えもしないし、こんな事態になるのは小説の中だけだと未だに夢の中を、ふわふわとあてどなく漂っている気持ちがどこかにある。
「戻ろう」
流石に管理人も、利用している客を放置せずに今頃大惨事のキャンプ場を目の当たりにして、警察に連絡してくれている筈だ。
ここから出られるのも時間の問題だろうが、入口の土砂を取り除くのに時間が掛かるのは目に見えている。全員が脱出するまで殺人犯が黙って見過ごしてくれるか、浩司は不安から抗いきれなかった。
コテージに戻った二人を見た孝之や沙織は案外早く戻ってきたことに、すぐさま察して乾いたタオルと労いの言葉を与えた。
しかし手には鋸や金槌を持っている。
「浩司君、犯人、いたのか?」
いや、とテーブルの上に鋸と錆びかけた大量の釘を置く。
鋸も釘同様に多少錆が目立ち、犯人と戦った痕跡は微塵も無い。
一瞬の期待は脆くも崩れ去った。
状況をありのまま説明した浩司は、そこに信夫ら木内家族の姿が無いことに気付き沙織に説明を求めると、苦し気に綺麗な顔を歪ませ親友の今起きたばかりのことを話した。
「そうか」
それだけ云うと浩司も疲労を露にし、ぐったりと椅子に座り込んだ。
「ご飯が出来てるの、少しでも皆食べて」
沙織と美幸が木製のトレーにサンドイッチを乗せて運んで来てくれた。暫く食べていないせいか、誰かの腹が鳴る。
小さな笑いが漏れ、タマゴサンドとハムサンドにそれぞれ手を伸ばした。
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