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十五
しおりを挟む先程から啓子の様子がおかしい。
二階に待機していた時から黙ったままで、皆で昼食の準備をしよう、と声を掛けても、食べたくない、お腹空いてない、と部屋から出てこない。
旦那の信夫と娘の直子は手伝ってくれているのに、啓子だけが部屋に閉じ籠っている。
そんな啓子を誰も責めはしなかった。
責められる筈がない。
元々、他人の目を気にし極端に人見知りのする性格の人間ではあるが、沙織や美幸等の特定の人間とならばランチに出掛けたり他愛ない話や子育ての大変さに花を咲かせるのに夢中になった。
「啓子さん、大丈夫でしょうか?」
「事が事ですから……」
啓子の夫の信夫はケトルに水を淹れてコンロに置いた。
「ちょっと様子を見て来るので」
「コンロ見ておきますね」
パンのミミを切っていた美幸が返事をした。
美幸はどうだか知れないが、沙織は啓子のことを一番の友達、親友だと思っている。
「美幸さん、私も行ってくるわ」
残る美幸に断りを入れて、沙織も信夫の後を追った。
女優業を辞めた直後からの付き合いで、啓子は一切色眼鏡で見ること無く、どこにでもいる新婚さんとして接してくれた。それが嬉しくて沙織は勝手に啓子を一番の親友だと決めつけていたのだが――どうやらその気持ちは一方通行なのだと、知ってしまった。
いや、きっとこんな事態になっているからだ、と沙織は信じたい。
信じている。
部屋の隅に踞り、声を掛けようものなら「よそよそしい」「挙動不審」その単語が相応しい今の目の前の啓子に心配して声を掛けたが、沙織を見る啓子の瞳はまるで犯罪者を見ているようだった。
ショックだ。
こんな状況にあろうとも親友の啓子は自分を信じてくれる、何があっても助け合うものだと思っていた。
のに――。
「け、啓子さん?」
「来ないで!」
肩を震わせ、大粒の涙が頬を伝った。
「無理よっ! 帰りたい、帰りたい……怖い怖いっ……!」
「お母さん!」
直子が慌てて母の肩を抱いた。
「どうしてこんな目に遭わなきゃいけないの? どうしてよ、なんでよっ! 私達が何をしたのよ!」
「啓子、落ち着きなさい」
信夫の顔が先の一件で蒼白くなっているのに、更に紙のように真っ白に変わっていく。
「貴方! 帰りましょ! こんな怖い所もういられない! 早く帰りましょ!」
「落ち着きなさい、啓子。帰ろうにも崖が崩れてしまっているんだ、すぐには帰れないよ」
優しい声色で妻を宥めるが、啓子は子供がイヤイヤするように首を激しく左右に振った。
「こんな誰が人殺しか分からないのに、ご飯なんか食べられない! 毒が入っているかもしれないのよ!?」
「!?」
「沙織さん、済みません。ちょっと席を外してもらっても宜しいでしょうか。私達の昼食は気にしなくて良いので」
信夫はそう云って直子と三人、二階の一室のドアを閉めた。
「――……」
暫くドアを見詰めたままの沙織に向かいの部屋にいたあやめが不安そうに母親の服の裾を掴んだ。
子供達には凄惨な現場は勿論見せていない、美幸も啓子も見ていない。見たのは確認のために細川夫妻と男達だけ。それでも過敏な子供達や繊細な啓子には重く歪んだ空気を感じ取り、どれだけ酷い状況なのか分かってしまう。いや、全員気付いていた。
明美と智子が殺害された時点で殺人犯がいる。限られた空間の中で二人を殺害した人間がさも無実です、と言わんばかりに仲間のフリをして紛れ込んでいる可能性が非常に高いのだ。
啓子のこの言動も当然の反応なのである。
誰も殺人犯かもしれない人間の作った物を食べようという気にはならないだろう。
沙織がいくら「私は違う、犯人じゃないから安心して」と説得しても、信用出来よう筈もない。例え仲の良い友人、親友であろうと結局は赤の他人でしかない。
「――……」
仕方の無いことなのだ、と割り切るにはあまりにも非日常過ぎて頭が追い付かない。沙織は小さく息を吐いた。
「お母さん――?」
「ああ――ごめんね、あやめ。大丈夫よ、大丈夫。今お父さんが犯人をやっつけに行ってくれているから、何も心配ないわ」
優しく抱き締めて頭を撫でる。
何度も何度も「大丈夫」を繰り返した。
「龍、凛子ちゃん」
別室にいる二人の名前を呼びドアから顔を覗かせると、暗い部屋の中で凛子は両膝を抱いて踞っている。龍は背をこちらに向けてベットに横になっていた。
いつもお喋りな凛子もあやめも暗い顔だ。
「凛子ちゃん、もうすぐお昼ご飯が出来るから手伝ってくれるかしら?」
「あ、はい……」
緩慢な動作で立ち上がった凛子に多少の違和感を覚えた。
「凛子ちゃん?」
「お母さん」
こちらを向いた龍の顔色は相変わらず良くはない。
「龍起きてたのね。具合どう?」
「それより、凛子も体調悪いみたいなんだ。布団敷いても良い?」
凛子が驚いて龍を見た。
ドングリ型の大きな瞳だ。
「やだ、本当なの、凛子ちゃん?」
「あ、え、えっと……」
俯いてしまった。
「凛子、我慢するなよ」
上身を起こして龍は凛子の頭に手を乗せた。
「我慢――してない――もん……」
唇を噛むと大きな瞳に涙が溜まっていく。
「凛子ちゃん」
沙織とあやめが駆け寄り凛子に抱き着いた。
「ごめんね、大変なことに巻き込んじゃったのに気付かなくて」
沙織までもが目に涙を溜めている。
しかし頬を伝わないのは、覚悟と責任を沙織自身が心の中で誓ったからだ。
本来なら巻き込まれずに済んだ筈の凛子をこうしてキャンプに誘うのを提案したのは他ならぬ沙織である。自分が云わなければ凛子は恐怖に震えることも不安に押し潰されそうになることもなかった――目の前の凛子が体調が優れないのは凛子が体調管理を怠ったせいではなく、呼んでしまったからだ――沙織はだから、子供達は凛子も含め自分か何としても護らなければならない、と小さく震える少女を抱き締めながら誓った。
「ここにお布団敷くけど構わないかしら?」
息子の龍に尋ねると、コクりと僅かに首を動かした。
「ご飯サンドイッチだけど食べられる?」
龍は昨日のお昼にカレーを食べたきりだから空腹であろうが、暫し思考した後またコクりと動いた。
消化に良い物の方がいいな、布団を敷きながら再び背を向けてしまった息子を慮った。
「あやめはお母さんと下に降りて、ご飯のお手伝いお願い出来るかしら?」
「う、うん……」
一階に二人が降りて行くと、龍が上から凛子の顔を覗いた。
「凛子」
「何よ?」
「――宿題……」
「え?」
「夏休みの宿題、どこまで終わった?」
「――それ、今訊くこと?」
訊いてきた龍が困った顔をしている。
「算数と国語のドリルは終わったんだけどさ」
読書感想文はキャンプから帰ってから、自由研究はこのキャンプ場で始める予定だった。幸い昨日直子から太宰治の「人間失格」を貰ったばかりだから、読む本は決まっている。
「私も同じだよ。まあ、自由研究は帰ってからやるつもりだけど」
「何すんの?」
「決めてない」
凛子は基本的にギリギリに取り掛かる性格だがキャンプに行くからと、ドリルだけは終わらせてきた。読書感想文も自由研究もいつも適当に一応形にはして提出している。
自由研究と云っても龍が本格的に何かしらの研究をするのに対し、凛子は紙粘土で貯金箱を作ったり交通安全のポスターを制作する程度に押さえている。「これも立派な自由研究だ」昨年凛子が担任の先生に云ったのを龍は笑いながら見ていた。
「龍はさ、何の研究するつもりだったの?」
「ん? うーん、最初は昆虫の翅の模様に何か意味があるのか、あるんだったらいろんな種の昆虫の翅に共通点があるのか、とか調べようと思ったんだ」
「難しそう」
「まあ、もう既に調べられているかもしれないけど、一から自分で調べるのも面白いかなって」
でもね、と龍は続けた。
「でも、やめようと思ってる」
「え?」
枕元に置いていた虫かごを持ち上げた。
中には紫色の翅を持つオオムラサキ。
昨晩見た時と変わらず、ゆっくり翅を開いたり閉じたりをして、人間達を無言で見ている。
「研究と云って虫の命を幾つも消しちゃうのは、それって人間の傲慢だよなって。虫か人間かの違いだけなんだよな」
「――……」
凛子には難しいことは分からない。分からないが、こんなことが起きなければ龍は云わなかっただろうことだけは分かった。
「虫にも感情はあるのかな」
ボソリと龍は呟いた。
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