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九
しおりを挟む雨が止まない。
雷こそ鳴らなくなったが「豪雨」の言葉が相応しい天候は続いている。
午後六時過ぎ。
崖が崩れた先には舗装された道路が長く延びているが、辺りは暗く鎮まり車一台通らない。
森に、山に、生き物達は息を忍ばせ嵐が過ぎるのを心待ちにしている。
道路は大粒の雨に打たれるばかり。
望む救急車の姿も無い。
「龍――」
依然として目を覚まさない息子の手を沙織は握り締めた。
手も腕も足も拭いてはみたが、爪の間に泥が入り込みしっかり洗わないと取れないだろうし、拭けば拭く程身体中の擦り傷や切り傷が出てくる。
「信夫さんはさっき目を覚ましたそうだ。意識もハッキリしているから彼は問題ないだろう」
「そう、良かったわ」
報告に来た夫の表情は浮かない。
「どうしたの?」と訪ねると「良くない報告だ」と低く声を発した。
「信夫さん管理室に行っただろ? そこには管理人さんの姿は無かったそうだが、それならそこにある電話を借りて自分達で救急車を呼べば済む話だったんだが――……」
唇を噛んだ。
眉間に皺も寄っている。
「電話線が切れていたそうなんだ」
「――え?」
沙織は意味が理解出来ずに首を傾げた。
「救急車を呼ぼうとしてくれて、使ったんだけど反応が無くてね。電源が抜けていると思って辿ったらコードが切れていたそうだ」
「な、なんで?」
「それは俺も知りたい。コードなんてそう易々と切れるものではないだろ? それも信夫さん不審に思ったらしくて、コードの先をよく見たそうなんだ。それで……コードは何者かが切ったんだと云っている。何者かって――どういうことなんだ?」
龍の眠るベットの端に座り、頭を抱えた。
「あ、でも――それじゃ……」
「ああ、救急車に連絡出来ていない」
「そんなっ……」
息子の顔を見る。
頭と足の包帯。顔の絆創膏。
このキャンプ場に医療の心得を持つ人間は勿論いない。
コテージに固定電話も無い。
一向に目覚める気配のない龍に、不安が募るだけだった。
「雨が止めば俺が龍を背負って、あの土砂を登って病院に連れて行くよ。大道路に出れば車は通っているだろうし。頼み込んで病院まで連れて行ってもらうしかない。君には悪いが俺がいない間、あやめと凛子ちゃんを頼んだよ。森には絶対入らないようにな」
「――ええ、浩司さんも気を付けて」
最愛の妻の小さな顔を両手を包むと、沙織は涙目になった。
「ちょっと! 子供の前でイチャイチャしないでよ」
ドアの前で憤慨したあやめと、しどろもどろで赤面している凛子が立っていた。
「あやめ」
「アタシは平気だよ。さっきはお兄ちゃんの姿見て動揺しちゃったけどさ、もう大丈夫だから。お母さんはアタシが守ってあげる」
胸を反らし意気込む娘に浩司と沙織は笑った。
「なんで笑うの!?」
「いやいや、頼もしくて驚いたんだよ。ありがとうな、あやめ」
ふふん、とあやめは頭を撫でられて嬉しいのか鼻を鳴らした。
「凛子ちゃんも、折角のキャンプなのに大変なことに巻き込んじゃってごめんなさいね」
「ううん、私は平気です。それより龍はどうですか?」
「まだ眠っているよ。お寝坊で困ったね」
「今は静かにしておいてあげよう」と浩司は皆を部屋から出した。
「沙織、ちょっと」
「?」
「悟志君なんだがな」
孝之と誠が森の中を捜索していた。信夫が目を覚ました情報と一緒に、捜索から戻った孝之達の情報も聞いた。
「悟志君、見つかっていないんだ」
「え?」
雨雲で空が低く垂れ込め、夏場の夕方は真っ暗で夜と大差なく不気味ですらある。そんな天候の中を長時間もの間、しかも薄着で森をさ迷っているとは考え難い。
森は広大だ。
心許ない懐中電灯の小さな灯りで森の中を探すのは困難しかないのに、悟志は何の装備すら持っていなかった。
荷物もコテージに置きっぱなしである。
「そもそもなんで森なんかに? 龍の昆虫採集なら分かるけど」
「そうだな。森に入って行くのを見たって云う情報だけだ。直子ちゃんが森に入って行く悟志君の後ろ姿を目撃しているんだがな」
森に入って遊ぶような歳でもない。また、仲の良い明美や智子と屯っているイメージしかない悟志にとって、単独で森に入るのは想像の付かない行動だ。
「直前に明美ちゃんと智子ちゃんと一緒にいたようだから話を訊いたんだが、森に入った理由は分からないらしい」
「――もしかしたら、だけど」
沙織は考えたことを言葉にした。
「もうキャンプ場にいないかもしれないわ」
「ん? どういうことだい?」
「これだけ探してもいないんですもの。雨が降る前にキャンプ場から出たってこともあり得るんじゃないかしら」
「可能性はなくはないが、極めて低いんじゃないかな。キャンプ場の外には大きな道路はあるが、都会と違って車が無いと空港にも行けやしない」
空港からキャンプ地まで車で数時間の距離。歩いては帰れない。
「そうだったとしても誰にも云わずに外に出るなんて」
沙織の突飛な発想に呆気に取られはしたが、どれだけ探しても見つけられないのだ。
「可能性としては非常に低いが、ゼロではないか……ともかく、沙織は子供達を気に掛けていてくれ。あやめはああやって元気に振る舞っているが、ショックは大きい筈だ。凛子ちゃんも」
「そうよね。ごめんなさい、浩司さん」
「いや」と浩司は沙織の額に口付けをした。
「夕飯、どうしましょう? 結局気力が無くて作ってないけど、子供達はお腹空かせているわよね。ああ、そうだ。今日は下の畳であやめと凛子ちゃんと三人で眠るわね」
「そうだな、あやめ達の食べたいのを作ってあげると良いぞ」
「そうするわ」
物置小屋にはとれたての野菜が、コテージの冷蔵庫には肉と魚が詰まっている。これだけあれば子供達が何を食べたがっても対応出来るだけの食材だ。
「雨降る前にある程度野菜を持ってきておいて良かったわ」
一階にいるあやめと凛子に質問すると、即座にあやめは「オムライス」と答えた。
「いつもと同じなのね」
あやめの大好物だ。
「夕飯に何が食べたい?」の質問には必ず「オムライス」と云う。沙織は少しホッとした。
大人達の間で不穏な空気が流れ、それはまだ小さいあやめにも伝わってしまっている筈だ。いつもの「答え」が返ってくるだけでも沙織は胸がジンジンと痛んで「守らなければ」と使命感が芽生える。
「凛子ちゃんは? 何か食べたいのある? お腹空いたでしょ?」
「え、えと……」
ほんの一瞬、階段の先、二階を見た。
龍が心配で堪らないのだろう。
「龍なら大丈夫よ。きっとすぐに起きて、お腹空いたって云うわ」
「……はい」
インドアな龍はよく本を読んでいて時間を忘れるなんて、しょっちゅうある。空腹でお腹を盛大に鳴らしながら「お腹空いた」と訴えてくるなんて日常茶飯事だ。
沙織もあやめも、それを望んでいる。
何食わぬ顔で、大きく欠伸をしながら――。
「――お腹――空いたな……」と。
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