雨上がりの蝶

藤極京子

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 六

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 ザァザァ、ザァザァ。
 ザァザァ、ザァザァ――。
 懐中電灯の明かりが風でまるで生き物のように蠢く草木を照らす。
 浩司は、つと、腕時計で時間を確認した。
 水滴が付いていて拭わなければならない。
 煩わしい。
 「チッ!」
 珍しく舌打ちをした。
 同僚の前でも家族の前でも舌打ちなんてしたことがない。きっと三八年生きてきて、舌打ちをした回数なんて片手で余る程だ。
 浩司は穏やかだと定評がある。
 そんな男だから、沙織は惚れた。
 女優をしていた沙織は、これからという時期に浩司と出会い、大恋愛の末結婚し芸能界を引退した。「大好きな女優という仕事を辞めてでも浩司と一緒になりたかった」と龍が産まれ社宅住まいに慣れてきて頃、啓子や美幸に語っている。
 「龍! 返事しろ! 龍!!」
 豪雨でなければ、まだ太陽が見えてる時刻。
 元気な子供達の声が聞こえてくる時刻。
 なのに――。
 聞こえるのは雨の音。雷の音。
 しかも尋常でない。
 ザァザァ、ザァザァ。
 ザァザァ、ザァザァ――。 
 コテージを出て三十分経っていた。
 見つからない息子に、焦りが募る。
 「もしや返事が出来ない状況ではないのか?」どれだけ呼び続けても、浩司と信夫の声は嵐の前では叫んでないも同じだった。
 「龍ー!!」
 ザァザァ、ザァザァ。
 ザァザァ、ザァザァ――。
 息子の顔が脳裡に浮かぶ。
 最近反抗的になってきたが、不貞腐れる顔も怒る顔も笑う顔も、浩司にはいとおしい。将来の夢を語ってくれた時は嬉しかった。嬉過ぎて妻の沙織に自慢したら既に知っていて残念だったが、同僚の信夫にも孝之にも話した。きっと話している最中の浩司の顔はデレデレになっていただろう。
 それも数日前の事だ。
 ザァザァ、ザァザァ。
 ザァザァ、ザァザァ――。
 身体に纏わり着く冷たい雨。
 レインコートを羽織っても、服はすっかり濡れてしまって体温を奪っていく。
 浩司がこんな状況だ、龍と悟志は全身ぐしょ濡れで凍えているだろう。早く見付けてやらなければ。
 浩司が水を含んで重くなった靴を一歩前に出した時、後ろで声がした。
 「浩司!」
 一緒に捜索していた信夫だ。
 息を切らし慌てたように浩司の肩を強く掴んで進行を妨げた。
 「浩司、あれを見ろっ!」
 右手の川のすぐ側に、森に似つかわしくないが地面に落ちていた。
 「あれはっ!」
 龍が持っていた虫かごだ。
 黄緑色のプラスチック製の、この時期どこでもよく見る虫かご。
 少し大きなカブトムシが二匹入ったら、一杯一杯で中のカブトムシが可哀想になる。そんな小さな虫かご。
 持ち上げると、虫かごの中には蝶が一匹入っていた。
 「蝶――?」
 青紫色の光沢の翅。
 翅の裏面が黄色い。
 少し小振りだが、立派な国蝶オオムラサキのオスだ。
 浩司は首から虫かごを掛けて、捜索に専念した。
 「雨が降ったから、どこかに雨宿りするために走ったか何かで虫かごを落としたのかな?」
 「だったら網も近くに落ちていてもおかしくないだろ」
 周囲に網は落ちていない。
 そもそも走れるような場所ではない。
 「だけど――」
 将来の夢は昆虫博士になることだ、と龍は云っていた。そんな子供が蝶の入った虫かごを落とす筈がない。
 今の浩司のように首から掛けているだろうに、これはどうしたことなのだろう。
 虫かごの中のオオムラサキはゆっくりと濡れている翅を開いたり閉じたりしながら、じっとしている。
 「虫かごがここにあるってことは、近くにいる可能性が高いな。ここら辺を重点的に探そう」
 そう云って浩司は声を張って息子の名を叫んだ。
 一層雨足は強くなっている。
 足元の地面は泥濘、草だけでなく地面までも人間の邪魔をした。
 「龍ー!!」
 ザァザァ、ザァザァ。
 ザァザァ、ザァザァ――。
 がむしゃらに叫び、心許ない小さな懐中電灯の明かりで暗闇の森を灯す。点る先は小さな小さな、生きるもの全てが息を潜め死の嵐が過ぎ去るのひたすら待つ淋しい世界。
 一度ひとたび外に出れば、槍のような鋭い雨がその身に突き刺さり息の根を止めに襲って来るだろう。
 虫達は息を殺し、嵐が人間が過ぎて行くの待っている。
 「龍! 龍どこだ!? 頼む、返事してくれっ!」
 濡れた雑草を素手で掻き分ける。
 葉で皮膚が切れようが構わない。
 どれだけ呼んでも探しても見付からない我が子のことばかりが浩司の頭の中を締めていた。
 そんな必死な浩司の後ろを心配気に着いて行く信夫の懐中電灯の先に一瞬、異物が入り込んだ。
 「こ、浩司……」
 震えた。
 懐中電灯を持つ右手が震えた。
 足が震え、胴が震え、顔が震える。
 退くん、と大きく心臓が脈打つ。
 懐中電灯が震える手を無視して、義務とばかりに森の異物に明かりを照らした。
 「――あ……」
 深い緑の植物の中に埋もれる白い肌。
 大雨の中、微動だにしないは、生きた人間なのか、ただの人形なのか――区別が付かない。
 だが。
 知っている。
 知った顔だ。
 ほんの数時間前まで元気な笑顔を見せていた。
 「どうして……」
 明かりの先に探していた少年。
 真っ白な顔で、天を仰ぐ顔に容赦無く雨がぶつかっていく。
 「龍君っ!!」  
 

 時刻は十五時三十五分――。






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