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第8話 狼を狩る獣⑧

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「……」

 雲が月を隠した夜。ガルオッシュ家の人々が使用人も含めてすっかり寝静まった真夜中に一人、何者かがジラモランの部屋を我が物顔で闊歩していた。

 目指すはジラモランの寝室、目当ては彼の寝室に不気味な程至る場所に飾られた人物不明の女性の描かれた画布である。

「…あぁ、姉さん」

 侵入者は薄い月明かりしかない暗い部屋を進み、散財した骨董品や家具類に躓くことなく歩み寄ると、眼前にある画布を抱き着くようにして頬ずりした。

「姉さん、姉さん、姉さん、姉さん……!」

 最初は人の姿をしていたそれは、画布に描かれた女性に頬を擦り付ける度にその姿を変え、いつしか夜に溶けるような黒い毛を画布に擦り付けていた。

 彼の顔だけでなく、その腕や脚にも同じような黒い毛が湧き出し始め、爪は刃物の様に鋭く尖り、歯は杭の様に突き出し始めた。顔の横にあった平たい耳はいつの間にか尖った形に変わって頭上へと移動し、臀部からは剛毛の尻尾がしゅるりと現れた。

 その姿は正しく狼であった。

 人が狼の毛皮を着ているのか、それとも狼が人の皮を破ってその姿を露わにしたのか。そのどちらかは定かではなかったが、狼の様な歯や爪を持ち、人の様に二本足で立ち、しかも、人の姿だった時よりもその体は数倍にも膨れ上がっている。

 これが人狼である。

 人の知性と狼の凶暴さ、その二つを掛け合わせた人間の裏切り者にして、人間の敵。獣の本能のままに生きる汚らわしき生き物がそこに居た。

「あぁ!姉さん、漸く復讐の続きができるよ。先ずはあの役立たずの兄を殺した。だから次は…その弟だ!前みたいに失敗はしない。一夜一夜、一人一人確実に喰い殺す!あぁ、そうすればもう僕と姉さんだけになるね…。ずっと、ずっと二人きりだよ…姉さん…」

 画布に毛深い頬を擦り付けていた人狼は、今度はその長い舌で画布に描かれた女性をべろりと舐める。画布を舐めた所で画材の味しかせず、常人なら吐き気を催すだろうが、その人狼は最早“人”ではない。この人狼にとってここにある画布はまさに蜜の味であった。

 この人狼にとって自分の姉が、自分が愛した姉が描かれた画布は二つとないご馳走の味だったに違いない。

ドンッ

「あ……あが?」

 しかし、そのご馳走から舌を離した途端、人狼の胸に衝撃が走り目の前にあった画布が紅く染まる。厳密に言うと、人狼の背中側から胸に掛けて何かが貫通し人狼の胸に大きな穴を開けたのである。

ドンッ

「うがぁッッ!!?」

 そして、もう一発。間髪を入れずにまたしても後方から発砲音が轟くと、今度は人狼の右足をその丸太の様に太い太ももから粉砕して肉を撒き散らし、再び画布に紅い鮮血が広がった。

「ああああッ!?い、痛い!?痛い!?いやぁッ!?これは、熱いッ!!?ゴボッ、ゴボォッ!!?」

 幸か不幸か、その傷で死ぬことはなかったが死ぬ程に痛かった。いっその事死ねたら楽になるのだろうが、殺さない程度に調整された銀の弾丸は人狼にこの世のものとは思えない苦痛を与えていた。

 多少の衝撃であれば鉄の様に固い毛が防ぎ、例え肉を切られたとしてもすぐに筋肉が収縮してすぐに傷は完治する。そんな無敵の体に生まれ変わり調子に乗っていた人狼は、突然襲ってきたこの苦痛にただただ子どもの様に喚くしか成す術が無かった。

「黙れ、この獣が…」

 すると、今までじっとジラモランの寝室の隅に隠れていたのか、四隅の影からするりと現れた一人の男が、喚き散らし床を転げる人狼の胸をどんと踏みつけ、その狼の頬に銀色の銃を突き付ける。

「ティア…さん!?い、いつの間に…!?」

 人狼は口や胸や脚から血を垂れ流しながら、自分の目の前に現れた狩人、ティアの姿に驚愕した様子だった。

「狩人は夜に寝ないんだよ、ミモリティ」

 一方で単発式大型拳銃を片手に、まるでゴミでも見るかのように冷たい瞳をしたティアは、彼の足元で蠢く人狼、ミモリティと名乗ったあのひ弱そうな青年だった獣を見下しているが、特に驚いた様子は微塵も無かった。

「な、なぜ…僕が人狼だと?」

「ミモリティ、お前は素人過ぎる」

「し、素人…?」

「人狼はな。最初の狩りに固執したら終わりなんだよ。狩人の格好の獲物に成っちまう。また同じ狩場に戻ってくる獲物程、狩りやすい獲物はいないぜ」

「…ぐッ!?だが、この程度の傷…今の僕なら!!」

ドンッ

「ぐがぁッッ!!?」

 幾ら銀の弾丸と云えども人狼を即死させる力は無く、その強靭な肉体を無効化するに過ぎない。人狼の皮膚を紙の様に裂き、中の肉を簡単に焼く銀であるが、生物として人狼の首を飛ばすか心臓を潰さない限りはやはり人狼は死ぬことはなく、また銀で焼かれた傷も所詮傷なので時間を掛ければ人狼は完治してしまう。

 その結果、もう先程の傷が塞ぎ始めたミモリティは不意打ちでティアを引き裂こうと考えた。だが、そのためにピクリと動いた筋肉の僅かな振動がティアの足裏に伝わってしまい、彼は何の躊躇いもなく新しい銀の弾丸を今度はミモリティの左肩に撃ち込んだ。

「動くな、お前には聞きたいことがある。殺すのはその後だ」

 キンッという小さな金属音と共に、単発式大型拳銃の銃身を折りその衝撃で空の薬莢を吐き捨てると、ティアは再び銀の弾丸を装填して銃口をまたミモリティの頬に突き付ける。

「……ッ!?」

 人狼であるミモリティにとって目の前にある銀の銃口は震える程に恐ろしかったが、それ以上に恐ろしく思えたのはティアの装填速度であった。

 人間に比べて身体能力が遥かに向上された人狼はその動体視力も飛躍的に上がっている。だからこそ、人間の時には目で追えなかったものも人狼になれば容易に捉えることができ、その身体能力と相まって回避能力もずば抜けている。こんな至近距離に居る人間の動作など、今のミモリティには止まっているかの様にも見えた。

 しかし、そんな人狼の身でありながらもミモリティにはティアの装填動作が一瞬にしか見えず、気が付けば装填中という大きな隙を付けずにただ床に突っ伏したままであった。

「わ、分かりました…!全て話します!どうやってあいつを殺したのか、そしてその理由を…、だからこれ以上撃たないでッ!」

 銀の銃口に怯えながら、ミモリティはその狼の口で今回の事件の真相を語ろうとしたが、一方でティアは左手で銀の短刀を逆手に抜くとそのまま振り上げた衝撃でミモリティの尖った耳を切り落とす。

「ぐぁぁぁッ!!?な、何でですか!?は、話すって言ったじゃないですか!!」

「お前がどうしてジラモランの殺したか何てどうでもいい」

「…え?」

 右手には単発式大型拳銃、左手には銀の短刀。どちらの手にも人狼を殺せる武器を持ったティアの顔がぐいっと近づき、人より遥かに強くなったはずのミモリティはその言い知れぬ恐怖に震えた。

「てめぇがジラモランを殺したのはただの怨恨だ。そんなの馬鹿でも分かる。俺が気にしていたのはあの絵の女が生きていて、人狼であるお前と手を組んでいなかったかだけだ。手を組む人狼は然程珍しくもない。てめぇをぶっ殺した後にまだ他の人狼が居たら面倒だろうが。だが、あの絵の女、お前の姉貴はもう死んでいた。殺したのはジラモラン。奴は自分の使用人、特に女に暴力を振るう屑だった。それ故にお前の姉貴は死んだ。証拠はあの使われていない使用人の部屋にあった不揃いの小物類。姉貴以外にも何人か女の使用人が死んでいるが、それもジラモランの所為だろう。そして、それに怒りを覚えたお前は奴に復讐しようと考えた。だが、下民のお前が手ごろな武器を手に入れる手段はない。だから人狼に成った、違うか?」

「……あ…あぁ」

 淡々と語ったティアの口ぶりはまるでミモリティとその姉が受けてきた仕打ちを見てきたかの様であったし、実際ほとんどその通りだった。その光景にミモリティは存在しか知らなかった狩人という生き物に改めて畏怖と恐怖を感じた。

 だが、そこまで調査済みであったとして、果たしてティアがミモリティから聞き出したかった話とは一体何だったのであろうか?そんな疑問がミモリティの頭の中で渦巻いた。

「俺が知りたいのはただ一つ。てめぇは誰から“人狼血”を貰った?」

「“人狼血”…?」

 そして、再び銀の銃口を押し付けてティアはそれだけを冷たく言い放った。

 人狼は突然降って湧いて出る存在でも、蟲のように卵から生まれ出る存在でもない。人狼は人狼からその血を与えられることにより生まれ出る存在だと、狩人の間ではそう語り継がれている。例え人畜無害で何の取り柄もない無価値な人間であったとしても、人狼の血を受ければその者は人を喰らうことに違和感すら覚えない、ただの一匹の獣へと生まれ変わることが出来るのだ。

 つまり、一体の人狼から数多の人狼が生まれる。例え千万の人狼を殺したとしても、一体の人狼が生き残っている限り無限の連鎖に終わりはない。無論、その確証はないが、そうとしか思えない程に人狼は日に日に数を増していることだけは確かであった。

「そ、それは……」

「早く言えッ!!この獣がッ!!!」

 言い淀むミモリティに、苛立つティア。

 しかしその時、徐々に屋敷内全体が騒がしくなる音を一人と一匹は感じ取った。それもそのはずで、人が寝静まる夜に一匹が暴れ、一人が銃を放ったのである。これだけの騒ぎが起こって騒がないのであれば余程の能天気か阿呆、もしくはその両方であるだろう。

 そんな人が集まる音を聞いて焦るミモリティに対し、だがティアはというと何故か声色をがらっと変えて優しい口調でミモリティの欠けていない方の耳元で囁く。

「正直俺はてめぇが死のうが生きようがどうでもいい」

「…え?」

「誰から“人狼血”を貰ったかさえ話せば見逃してやる。ほら…あそこにある窓が見えるだろ?」

 そう囁いたティアの指先、そこには大きな窓があった。あの夜、ミモリティがジラモランを殺したその夜、ふと我に返った彼が焦って飛び出したあの大きな窓である。あそこからなら確実に逃げ出せる。嘘か真かは分からないが、このままではティアに殺されるのは明確だった。

「…姉さんが死んだ次の日のことです。ぼ、僕は町に買い出しに行かされたんです。その時偶然…あ、あの男と出会いました。少し世間話をした後に、彼が僕に笑ってこう言ったんです。『人より出でて狼に堕ちる』って。い、意味は分かりませんでしたが、その後小さな紅い液体の入った小瓶を渡されて、気が付けばそれを飲み干していて。そ、それで…それで…自分の中に一匹の獣が這い出て来るのを感じました」

「その男…その男は“鴉の仮面”を付けた男だったか!」

「鴉?……あぁ!そうです!黒い鳥の様な、先の尖がった不気味で不吉な仮面で顔を隠していました」

 ミモリティの口から望んだ答えを聞いた瞬間、ティアは満面の笑みを見せた。ティアの笑みは一瞬だけであったが、人狼のミモリティですら「人の笑みではない」と心の中で怯えてしまう程に、狂気満ちた笑みであった。

「…行け」

 そして、それだけを言うと宣言通りティアはミモリティから数歩離れ、手にしていた単発式大型拳銃の銃口を窓へと向けた。正に九死に一生を得たミモリティは再生し掛けた身体を引きずりながら逃げるようにして窓へと向かう。そして、その大きな手で窓枠を掴んで飛び降りる…かと思いきや、その手は空を切ってぐるりと回転し、勢いを付けてティアへと向けられた。

ドンッ

「ごがッ!!!?」

 ミモリティのまさかの行動に急いで銃口を向け直したティアであったが、今度はミモリティの方が一足早かった。火を噴いて放たれた銀の弾丸はミモリティの顔を掠めて壁に当たり、一方でミモリティの巨腕から放たれた一撃はティアの体の肉を抉り骨を砕き臓を破壊し、そのまま彼を寝室の壁へとぶち当てた。

「…ぐッ!ぶはぁッ!!?」

 たった一撃で内臓まで破壊されたティアは、壁に打ち付けられた状態で床に大量の血反吐を吐く。霞む視線の先、眼にしたのは爪を立て歯を剝き出しにし襲い掛かる一匹の人狼の姿であった。

「ははっ!油断したな、狩人ッ!!」

 最早心まで狼に堕ちたのか、新しい人の血の匂いを嗅いで完全なる人狼と変貌を遂げたミモリティに、あの気弱そうな彼の面影は最早どこにも無かった。

「銀の武器を持って!いい気になった様がこれだッ!!それにな、死ぬ前に一つ教えてやる名探偵さん。姉さんも他のメイドも、ただジラモランに殺されたわけじゃないッ!!!」

 血だらけのティアを片腕で掴み上げ、彼の耳元で叫ぶミモリティ。ティアが負った傷でもう死んでいようがいまいが関係ない。ミモリティは胸の奥からこみ上げる怒りに叫ぶしかなかった。

「あの面汚しは!訳の分からない手前勝手な芸術のために自分のメイドを殺したんだ!!そして、その生き血で絵を描いた!!本物の生きた絵を描くとかほざいてぇよぉッ!!自分を天才芸術家だとか信じ込んで!!やってきたのはただの人殺しじゃないか!!あいつの方が…よっぽど人狼よりも獣だろぉッ!!!」

 そして、怒りを吐いたまま大きく開いた人狼の顎がティアを襲い、血に染まった部屋に再び鮮血が舞った。

 だが、その血はティアの血ではなかった。

「ガタガタうるせぇんだよ…獣が…」

 声にならない声で鳴き、ごっそりと引き裂かれた腕部から噴き出る血を抑え悶え苦しむミモリティの目の前で、投げ出されたティアは気だるげにゆっくりと立ち上がる。

 月明かりが生み出したその影は人のものではなかった。

 狼の様な頭に耳、牙、爪が生え、狼の様な尻尾が揺れている。その姿は人狼に酷似していた。というよりも、その影もその姿も人狼そのものであった。ミモリティは常闇の様に暗い毛をしていたが、対照的にティアから生える毛は月明りの様に怪しくも美しい白銀の毛をしていた。

「お、前…は…!?」

ドンッ

 お互いの血で、血生臭い匂いの充満する部屋で対峙する二匹の人狼。一匹の人狼が銀の弾丸を放ち、もう一匹の人狼はそれを頭で受けて内容物を飛び散らかした。人狼の頭は落として粉砕された果実の様になり、頭を失った巨体が二、三度びくりと震えたがその後はびくとも動かなくなった。

「……はぁ」

 漂う硝煙の煙に巻かれながら、血の海と化した部屋で息を吐くティア。二匹の人狼の死闘の結果は、物言わぬ少女の絵だけが見つめていた。

「な、何者…何だ…君は?」

 ふと怯えた様なか細い声がした方を見ると、そこにはガルオッシュ家の当主であり、兄ジラモランを殺した人狼捜索を依頼した男エルメールが寝間着のまま青い顔をして開いた扉の前で立ち尽くしていた。また、その後方では廊下で数多の人が慌て騒いでいるのが、その眼で見えなくとも人狼のティアには容易に感じ取れた。

「俺は、人狼だ。人狼を狩る人狼。ただの獣さ」

 そう言い、ティアは自称気味に笑う。その笑みは半分が人で半分が狼、正に“人狼”の笑みであった。
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