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第一章 吉原沙織の場合
第四話 生と死と、それと。
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(ピピピピ! ピピピピ!)
沙織はスマホのアラームの音で目を覚ました。眠い目を左手で擦りながら、右手でスマホの行方を探した。右手にヒヤリとした感覚を見つけ、片手間にアラームを切った。
「さおちゃん! ご飯よー!」
一階から祖母の優しい怒号が響く。矛盾しまくりだが、これがおそらく最適な表現だろう。
優しい祖母がこんなにも大声を出すのは少し珍しいことだった。でもそれもスマホを見て納得した。もうとっくに七時を過ぎて、もうすぐ半になろうとしている頃だった。
祖母は遅起きが嫌いだ。七時にはすでに朝食ができていて、沙織ももちろん本当なら食卓にいるはずである。が、今日はどうやらスヌーズをしてしまったようで今時分になってようやく目が覚めたのだった。
「ごめん、おばあちゃん! 今行く~!」
沙織も大声で応え、慌てて布団から飛び出る。三月とは言え、まだ冬の寒さが残る今の時期は、布団から勢いよく出る覚悟を決めないとどうしても起きられない。
とりあえず『勢い』がキーワードだ。とにかく急いでパジャマを脱ぎ、下着を身につけ、制服を着る。髪を整えるのはあとだ。まずは、軽く顔を洗い、眠気で呆けた顔を整える。
鏡を見ると、先週鼻頭にできたニキビもようやく落ち着いてきていた。どうやら今日はマスクをしなくてもいいようだ。
(トントントン)
階段を降りる音がリズミカルに響いた。
「さおちゃん遅かったからお味噌汁冷めちゃったじゃない。大丈夫? 学校間に合うの?」
「うん、自転車ならなんとか間に合いそう」
「そう、ならよかったわ。ちゃっちゃか食べちゃいなさい」
そう言って祖母はまた食器洗いに戻った。
祖父はもうとっくに食べ終わっているようで、新聞を読みながらテレビを観るという離れ業をしていた。
「沙織、今日も遅いのか?」
「うーん、そだねぇ、商店街の集まりがあって、いつもより遅いかも」
「そうか、無理はするなよ」
「うん、ありがと」
祖父は寡黙で普段からの会話は少ないが、口調とは裏腹にとても優しい。最近ではなかなか会社の方も忙しく、家に帰るのも遅くなってしまう沙織だが、それを咎めず、全力で応援してくれる祖父母は本当に優しい。
(この人たちが悲しむ様なことをしてはならない)
沙織は強くそう思いながら味噌汁をすすった。
ゆっくりもしてられないので、パパッと口に食事を詰め込み、味噌汁でまた流してを繰り返し、ようやく食べ終えると、椅子の横に置いておいたスクールバッグを持った。
「行ってきます!」
「「いってらっしゃい」」
優しい声が沙織に響いた。
家の前の自転車にふわりと乗り、全力で漕ぐ。
沙織は自転車が好きだった。漕げば必ず前に進み、漕げば漕ぐほど速く進む。社会はそうはいかない。どんなに努力しても、報われないことがあることを昨日十七になったばかりの沙織はよくわかっていた。
目の前の信号が赤だと気付き、沙織は足を止めた。
しかし、それでも……、と沙織は思う。
(しかし、それでも、私は前に進まなければならない)
そんな決意を胸に、沙織はまた自転車を漕ぎ始めた。
さらさらと流れていく風を心地よく感じながら、沙織は高校まで五分の目印である小学校を通り過ぎようとしていた。
これなら学校に間に合いそうだ、なんてことを考えていたが、ふと耳にざわざわとした音が聞こえた。
それは通り過ぎて行く予定だった小学校の校庭から聞こえてきていた。
見ると、人だかりができている。
(おかしい……)
沙織は直感的にそう思った。
すぐさま自転車を降り、校庭の人だかりに向かう。正門には警備員もおらず、そこからあからさまな異変があることを察した。
より一層の不安を募らせ、足をより速く前に踏み出した。
人だかりには子どもに交じり、大人もいて、声を張っていた。しかしテンパっているのか、声もうわずっているし、カミカミで何を言っているのかさっぱりわからない。そして、その声と視線の先には……
屋上に立つ男の子の姿があった。
なぜ屋上に鍵をかけてないのか。柵が越えられてしまうことを想定して対策をしていないのか。
沙織は憤りを覚えていた。
以前地域の集まりがあった際あれだけ言ったのに対策をしなかったこの小学校に。
彼の苦しみに気づいて、寄り添ってやることのできなかった周りの人間に。
そして、何より、自らの経験を何も活かすことの出来なかった己自身に。
「死ぬなああああ!!!!」
沙織は目一杯の、自分の出せる最大限の超えで叫んだ。誰よりも自分だけが知っている苦しみを、ただ、叫んだ。自分にしか届けられないものがあると知っている沙織にしか言えない言葉だった。
そして沙織は走った。沙織の声に驚き動けない子どもたちをかき分け、下駄箱を抜け、階段を上り、とにかく走った。
必死の形相で、死ぬな死ぬな、と叫びながら、醜く、汚く、走った。
屋上へ続くドアは開いていたが、数名の教師が立ち尽くしていた。ドアの向こう側からはまた何を言っているのかさっぱりわからない滑舌の悪い声が聞こえてきた。
「邪魔! どいて!」
「なんだ、君は! 部外者は立ち去りなさい!」
「うるさい!!」
何もできない教師どもを跳ね除け、屋上へ出る。
晴れて澄んだ空気が、沙織の汗を撫でた。
またもやいる教師の目線の先には、やはり先程の男の子がいた。
「涼太! そんなことやめなさい! 命がどんなに大切かわかるだろ? だからそんなバカなことをやめるんだ!」
教師が言う。
やっぱり、この人たちは何もわかってない。
「バカなことなんかじゃない!!」
沙織はまた叫んだ。
聞き覚えのない女の声に驚いたのだろう、さっきまで息を乱しながら校庭ばかりを見ていた少年がこちらを見た。
沙織はニコリと笑った。
「おはよう。私、吉原沙織。涼太くんって言うの?」
その場にいた皆がポカンとした顔で沙織を見ていた。
沙織はそんなこと一切気にせず、涼太の方へと歩み始めた。
「こ、こないで! 来たら死ぬから……!」
「死ぬなんて、ほんとに死ぬ人はそんな簡単に言えないよ」
沙織の声には少し凄みがあった。そのためか、涼太は目を逸らした。
沙織はもうすでに柵にまで来ていた。そして、手をかけ、登り始める。
「私ね、お母さんが自殺してるんだよ」
沙織は登りながら言う。
涼太は目を逸らしたままだ。が、ヒステリックに何かすることもなく、黙って沙織の話を聞いていた。
「お母さんが自殺するちょうど一週間前、私の誕生日でさ、一緒にケーキ作ってくれたんだ。そう、あれ確か涼太くんと同じくらいの頃だったな。十歳の時。遺書みたいなの全然なくて、理由とかわかんないけど、多分働きすぎて疲れちゃったんだと思う。私のうち、お父さんいなかったから」
柵のてっぺんを越え、柵からゆっくり降りる沙織からは、涼太がどのような表情をしているか見えなかった。しかし、黙って話を聞いてくれていることは確かだった。
「そんなお母さんも、死ぬなんて絶対言わなかった。ねえ、涼太くん。私は君がどんな辛い想いをして、君がどれだけの決心をしてここに立っているのかはわからない。でも、私は、自ら命を絶つほどの辛い想いを聞いて、うんって頷いて、辛かったねって抱きしめたいんだ。私にはそれしかできないけど、それで救われる人がいるかもしれないって思うから」
沙織は頬に水滴が垂れるのを感じる。どうやら雨が降ってるらしい。キツネの嫁入りみたいだ。
涼太は両の手で拳をギュッと固く握った。そして、空を見つめ、その口を開いた。
「オレ……、オレ別に、キモく……ねえし……! なんっ……だよっ……! オレがっ! オレが誰が好きとか、関係ねえじゃん……! それを、あいつらが……。あいつらが、オレの物美波に投げたりするから…」
地面に足がつき、沙織は柵からゆっくりと手を離した。下を見ると、何十人もの人だかりが見えた。
足が無意識に震え、力が入らなくなる。
(こんな恐怖と闘って……)
目の前の小さな命は、懸命に悪意に抗っていた。なんの罪意識もない、一般人からの悪意に。
思わず沙織は涼太を抱きしめた。
「うん……うん……! 辛かったね! 苦しいよね……! 好きなことは、何も悪くないよね……!」
誰のためにか、沙織は泣く。
涼太のため。涼太と同じ気持ちで悩む誰かのため。亡くなった母のため。沙織のため。
「それでも、私は、君に死んで欲しくないんだよ……! 辛いと思う……。苦しいと思う……! それでも、残った人は、もっともっとずっとずっと辛いって! ほんとに何度も何度も死のうか考えるくらい苦しいって! 私は知ってるから!だから──」
「う、うるさい!」
突然の出来事だった。
沙織の腕に抱かれていた涼太は、それを振り払い、身を投げ出した。沙織は驚きつつも、なんとか涼太を引き戻そうと手を伸ばし、身体を掴んだ。
「死なせない……! 私はもう二度と……! 誰かを私の前で死なせない……!」
そう、沙織は誓った。母を殺した無邪気な沙織は、変わるのだと。誰も死なせない。そのためなら自らの命も賭さない。強く、優しく、誰かを助けることのできる人に、なるのだと。
(そのためなら私は……死んでも……!)
沙織は涼太を一気に自らに引き寄せ、抱きしめた。
目を閉じるその刹那、目の前に真っ青な空を見た。どこまでも透けて見えるような、そんな青だった──
「これで記憶は終わりっすね」
ガキツキは海馬に手をかざした。天井に映っていた記憶は消え、イツキも沙織に目を戻した。
沙織は、泣いていた。意識したわけではなく、自然と。
「あれ? 涙? あっはは、そっか、私、死んだんだ。涼太くん助けて。私、しん……!」
嗚咽が抑えられなかった。どうしても受け入れられなかった。何もかもが。
「でもイツキさん、どういうことなんすか?こいつ自殺じゃないっすよね?」
「いや、一応分類上は自殺だ。こいつは死ぬ前に『死んでもいい』と思って身を投げ出した。これは立派な自殺に当たる」
「あっ、あの……!」
「なんだ?」
「涼太くんっ、は、どうなったんですか……」
「ガキツキ、記録」
「うす!」
そう言われると、ガキツキは胸ポケットから手帳らしきものを出し、イツキに渡した。
「うーん、それらしきやつは来てねえな。まだ来てないのか、それとも死んでねえのか……。少なくとも、もし死んでたらうちにくるのは間違いねえ」
「そう……ですか」
沙織は倒れていた椅子を起こし、座った。それを見て彼らもまた座った。
「んで、どうするんすか、死亡動機」
「それが問題なんだよ。こいつ、『死んでもいい』だろ。別に『死にたい』じゃねえんだよ。くそっ、だりいなぁ。そんなやつに動機もクソもねえんだよ。なあ、お前、この後どうしたい」
「……えっ? 私、ですか?」
「お前以外に誰がいるってんだ。選べ、死ぬか、死なないか」
「選べるんですか……!」
「今回限りの特例だ。死亡動機がないんじゃ俺たちも扱えん。さあ、どうしたい」
「そんなの……」
そんなの、決まっている。私には、悲しませてはいけない大切な祖父母がいて、やるべきことが残ってて、救えるかもしれない人がいる。私は、私は……!
「私は、死なない……!」
途端に、目の前がぼやけ、身体を感じなくなり始めた。耳もだんだん遠くなっていく。
「なんだ、未練たらたらじゃねぇか」
「あっそうだ、そう言えば。おそらくだが、お前当てに言付けを預かっている」
(えっなんですか?)
そう言おうとしたが、声にならない。
「お前の母親が──」
(……!母が……!母がどうしたんですか……!)
言おうとするも声にならない。何も聞こえない。そして、だんだんと、私は──
気づくと、白い部屋だった。右から微かに音が聞こえる。
それはだんだんと声になる。
「さおちゃん! さおちゃん!!」
「沙織!! 沙織!!!!」
ああ、祖父母だ。泣かせないと決めたのに。ごめんなさい。
慌ただしく周りが動いていく。しかし、沙織の頭はそれを処理するほど働かなかった。そしてまた、気を失った。
目醒めてから数日が経った。祖父母は、いいよ、と言っているのに毎日のように見舞いに来てくれる。友人も何人も来てくれて、とても幸せな生活を送っていただけていると改めて実感する。
沙織はどうやらあのあと、涼太を庇って校庭に落ちていったらしい。一時は命を落とす危険もあったそうだ。しかし今は劇的な回復を見せ、もう来週末には退院できそうだ。
一方涼太はまだ昏睡状態にあるらしい。下敷きになった沙織よりなぜかダメージが大きいらしく、いつ目覚めるかもわからない。
が、沙織だけは知っている。涼太はきっとあの二人に会っているのだ。あの小太りと細身のサラリーマン風の死に神に。
どうなるのかわからない。死亡動機も、沙織には結局詳細なことは聞けなかった。
それでも、なんとなく涼太は戻ってくる気がした。彼らなら返してくれる気がした。
そう、きっと彼らなら苦笑しながら言うんだろう。
「なんだ、未練たらたらじゃねえか」
って。
沙織はスマホのアラームの音で目を覚ました。眠い目を左手で擦りながら、右手でスマホの行方を探した。右手にヒヤリとした感覚を見つけ、片手間にアラームを切った。
「さおちゃん! ご飯よー!」
一階から祖母の優しい怒号が響く。矛盾しまくりだが、これがおそらく最適な表現だろう。
優しい祖母がこんなにも大声を出すのは少し珍しいことだった。でもそれもスマホを見て納得した。もうとっくに七時を過ぎて、もうすぐ半になろうとしている頃だった。
祖母は遅起きが嫌いだ。七時にはすでに朝食ができていて、沙織ももちろん本当なら食卓にいるはずである。が、今日はどうやらスヌーズをしてしまったようで今時分になってようやく目が覚めたのだった。
「ごめん、おばあちゃん! 今行く~!」
沙織も大声で応え、慌てて布団から飛び出る。三月とは言え、まだ冬の寒さが残る今の時期は、布団から勢いよく出る覚悟を決めないとどうしても起きられない。
とりあえず『勢い』がキーワードだ。とにかく急いでパジャマを脱ぎ、下着を身につけ、制服を着る。髪を整えるのはあとだ。まずは、軽く顔を洗い、眠気で呆けた顔を整える。
鏡を見ると、先週鼻頭にできたニキビもようやく落ち着いてきていた。どうやら今日はマスクをしなくてもいいようだ。
(トントントン)
階段を降りる音がリズミカルに響いた。
「さおちゃん遅かったからお味噌汁冷めちゃったじゃない。大丈夫? 学校間に合うの?」
「うん、自転車ならなんとか間に合いそう」
「そう、ならよかったわ。ちゃっちゃか食べちゃいなさい」
そう言って祖母はまた食器洗いに戻った。
祖父はもうとっくに食べ終わっているようで、新聞を読みながらテレビを観るという離れ業をしていた。
「沙織、今日も遅いのか?」
「うーん、そだねぇ、商店街の集まりがあって、いつもより遅いかも」
「そうか、無理はするなよ」
「うん、ありがと」
祖父は寡黙で普段からの会話は少ないが、口調とは裏腹にとても優しい。最近ではなかなか会社の方も忙しく、家に帰るのも遅くなってしまう沙織だが、それを咎めず、全力で応援してくれる祖父母は本当に優しい。
(この人たちが悲しむ様なことをしてはならない)
沙織は強くそう思いながら味噌汁をすすった。
ゆっくりもしてられないので、パパッと口に食事を詰め込み、味噌汁でまた流してを繰り返し、ようやく食べ終えると、椅子の横に置いておいたスクールバッグを持った。
「行ってきます!」
「「いってらっしゃい」」
優しい声が沙織に響いた。
家の前の自転車にふわりと乗り、全力で漕ぐ。
沙織は自転車が好きだった。漕げば必ず前に進み、漕げば漕ぐほど速く進む。社会はそうはいかない。どんなに努力しても、報われないことがあることを昨日十七になったばかりの沙織はよくわかっていた。
目の前の信号が赤だと気付き、沙織は足を止めた。
しかし、それでも……、と沙織は思う。
(しかし、それでも、私は前に進まなければならない)
そんな決意を胸に、沙織はまた自転車を漕ぎ始めた。
さらさらと流れていく風を心地よく感じながら、沙織は高校まで五分の目印である小学校を通り過ぎようとしていた。
これなら学校に間に合いそうだ、なんてことを考えていたが、ふと耳にざわざわとした音が聞こえた。
それは通り過ぎて行く予定だった小学校の校庭から聞こえてきていた。
見ると、人だかりができている。
(おかしい……)
沙織は直感的にそう思った。
すぐさま自転車を降り、校庭の人だかりに向かう。正門には警備員もおらず、そこからあからさまな異変があることを察した。
より一層の不安を募らせ、足をより速く前に踏み出した。
人だかりには子どもに交じり、大人もいて、声を張っていた。しかしテンパっているのか、声もうわずっているし、カミカミで何を言っているのかさっぱりわからない。そして、その声と視線の先には……
屋上に立つ男の子の姿があった。
なぜ屋上に鍵をかけてないのか。柵が越えられてしまうことを想定して対策をしていないのか。
沙織は憤りを覚えていた。
以前地域の集まりがあった際あれだけ言ったのに対策をしなかったこの小学校に。
彼の苦しみに気づいて、寄り添ってやることのできなかった周りの人間に。
そして、何より、自らの経験を何も活かすことの出来なかった己自身に。
「死ぬなああああ!!!!」
沙織は目一杯の、自分の出せる最大限の超えで叫んだ。誰よりも自分だけが知っている苦しみを、ただ、叫んだ。自分にしか届けられないものがあると知っている沙織にしか言えない言葉だった。
そして沙織は走った。沙織の声に驚き動けない子どもたちをかき分け、下駄箱を抜け、階段を上り、とにかく走った。
必死の形相で、死ぬな死ぬな、と叫びながら、醜く、汚く、走った。
屋上へ続くドアは開いていたが、数名の教師が立ち尽くしていた。ドアの向こう側からはまた何を言っているのかさっぱりわからない滑舌の悪い声が聞こえてきた。
「邪魔! どいて!」
「なんだ、君は! 部外者は立ち去りなさい!」
「うるさい!!」
何もできない教師どもを跳ね除け、屋上へ出る。
晴れて澄んだ空気が、沙織の汗を撫でた。
またもやいる教師の目線の先には、やはり先程の男の子がいた。
「涼太! そんなことやめなさい! 命がどんなに大切かわかるだろ? だからそんなバカなことをやめるんだ!」
教師が言う。
やっぱり、この人たちは何もわかってない。
「バカなことなんかじゃない!!」
沙織はまた叫んだ。
聞き覚えのない女の声に驚いたのだろう、さっきまで息を乱しながら校庭ばかりを見ていた少年がこちらを見た。
沙織はニコリと笑った。
「おはよう。私、吉原沙織。涼太くんって言うの?」
その場にいた皆がポカンとした顔で沙織を見ていた。
沙織はそんなこと一切気にせず、涼太の方へと歩み始めた。
「こ、こないで! 来たら死ぬから……!」
「死ぬなんて、ほんとに死ぬ人はそんな簡単に言えないよ」
沙織の声には少し凄みがあった。そのためか、涼太は目を逸らした。
沙織はもうすでに柵にまで来ていた。そして、手をかけ、登り始める。
「私ね、お母さんが自殺してるんだよ」
沙織は登りながら言う。
涼太は目を逸らしたままだ。が、ヒステリックに何かすることもなく、黙って沙織の話を聞いていた。
「お母さんが自殺するちょうど一週間前、私の誕生日でさ、一緒にケーキ作ってくれたんだ。そう、あれ確か涼太くんと同じくらいの頃だったな。十歳の時。遺書みたいなの全然なくて、理由とかわかんないけど、多分働きすぎて疲れちゃったんだと思う。私のうち、お父さんいなかったから」
柵のてっぺんを越え、柵からゆっくり降りる沙織からは、涼太がどのような表情をしているか見えなかった。しかし、黙って話を聞いてくれていることは確かだった。
「そんなお母さんも、死ぬなんて絶対言わなかった。ねえ、涼太くん。私は君がどんな辛い想いをして、君がどれだけの決心をしてここに立っているのかはわからない。でも、私は、自ら命を絶つほどの辛い想いを聞いて、うんって頷いて、辛かったねって抱きしめたいんだ。私にはそれしかできないけど、それで救われる人がいるかもしれないって思うから」
沙織は頬に水滴が垂れるのを感じる。どうやら雨が降ってるらしい。キツネの嫁入りみたいだ。
涼太は両の手で拳をギュッと固く握った。そして、空を見つめ、その口を開いた。
「オレ……、オレ別に、キモく……ねえし……! なんっ……だよっ……! オレがっ! オレが誰が好きとか、関係ねえじゃん……! それを、あいつらが……。あいつらが、オレの物美波に投げたりするから…」
地面に足がつき、沙織は柵からゆっくりと手を離した。下を見ると、何十人もの人だかりが見えた。
足が無意識に震え、力が入らなくなる。
(こんな恐怖と闘って……)
目の前の小さな命は、懸命に悪意に抗っていた。なんの罪意識もない、一般人からの悪意に。
思わず沙織は涼太を抱きしめた。
「うん……うん……! 辛かったね! 苦しいよね……! 好きなことは、何も悪くないよね……!」
誰のためにか、沙織は泣く。
涼太のため。涼太と同じ気持ちで悩む誰かのため。亡くなった母のため。沙織のため。
「それでも、私は、君に死んで欲しくないんだよ……! 辛いと思う……。苦しいと思う……! それでも、残った人は、もっともっとずっとずっと辛いって! ほんとに何度も何度も死のうか考えるくらい苦しいって! 私は知ってるから!だから──」
「う、うるさい!」
突然の出来事だった。
沙織の腕に抱かれていた涼太は、それを振り払い、身を投げ出した。沙織は驚きつつも、なんとか涼太を引き戻そうと手を伸ばし、身体を掴んだ。
「死なせない……! 私はもう二度と……! 誰かを私の前で死なせない……!」
そう、沙織は誓った。母を殺した無邪気な沙織は、変わるのだと。誰も死なせない。そのためなら自らの命も賭さない。強く、優しく、誰かを助けることのできる人に、なるのだと。
(そのためなら私は……死んでも……!)
沙織は涼太を一気に自らに引き寄せ、抱きしめた。
目を閉じるその刹那、目の前に真っ青な空を見た。どこまでも透けて見えるような、そんな青だった──
「これで記憶は終わりっすね」
ガキツキは海馬に手をかざした。天井に映っていた記憶は消え、イツキも沙織に目を戻した。
沙織は、泣いていた。意識したわけではなく、自然と。
「あれ? 涙? あっはは、そっか、私、死んだんだ。涼太くん助けて。私、しん……!」
嗚咽が抑えられなかった。どうしても受け入れられなかった。何もかもが。
「でもイツキさん、どういうことなんすか?こいつ自殺じゃないっすよね?」
「いや、一応分類上は自殺だ。こいつは死ぬ前に『死んでもいい』と思って身を投げ出した。これは立派な自殺に当たる」
「あっ、あの……!」
「なんだ?」
「涼太くんっ、は、どうなったんですか……」
「ガキツキ、記録」
「うす!」
そう言われると、ガキツキは胸ポケットから手帳らしきものを出し、イツキに渡した。
「うーん、それらしきやつは来てねえな。まだ来てないのか、それとも死んでねえのか……。少なくとも、もし死んでたらうちにくるのは間違いねえ」
「そう……ですか」
沙織は倒れていた椅子を起こし、座った。それを見て彼らもまた座った。
「んで、どうするんすか、死亡動機」
「それが問題なんだよ。こいつ、『死んでもいい』だろ。別に『死にたい』じゃねえんだよ。くそっ、だりいなぁ。そんなやつに動機もクソもねえんだよ。なあ、お前、この後どうしたい」
「……えっ? 私、ですか?」
「お前以外に誰がいるってんだ。選べ、死ぬか、死なないか」
「選べるんですか……!」
「今回限りの特例だ。死亡動機がないんじゃ俺たちも扱えん。さあ、どうしたい」
「そんなの……」
そんなの、決まっている。私には、悲しませてはいけない大切な祖父母がいて、やるべきことが残ってて、救えるかもしれない人がいる。私は、私は……!
「私は、死なない……!」
途端に、目の前がぼやけ、身体を感じなくなり始めた。耳もだんだん遠くなっていく。
「なんだ、未練たらたらじゃねぇか」
「あっそうだ、そう言えば。おそらくだが、お前当てに言付けを預かっている」
(えっなんですか?)
そう言おうとしたが、声にならない。
「お前の母親が──」
(……!母が……!母がどうしたんですか……!)
言おうとするも声にならない。何も聞こえない。そして、だんだんと、私は──
気づくと、白い部屋だった。右から微かに音が聞こえる。
それはだんだんと声になる。
「さおちゃん! さおちゃん!!」
「沙織!! 沙織!!!!」
ああ、祖父母だ。泣かせないと決めたのに。ごめんなさい。
慌ただしく周りが動いていく。しかし、沙織の頭はそれを処理するほど働かなかった。そしてまた、気を失った。
目醒めてから数日が経った。祖父母は、いいよ、と言っているのに毎日のように見舞いに来てくれる。友人も何人も来てくれて、とても幸せな生活を送っていただけていると改めて実感する。
沙織はどうやらあのあと、涼太を庇って校庭に落ちていったらしい。一時は命を落とす危険もあったそうだ。しかし今は劇的な回復を見せ、もう来週末には退院できそうだ。
一方涼太はまだ昏睡状態にあるらしい。下敷きになった沙織よりなぜかダメージが大きいらしく、いつ目覚めるかもわからない。
が、沙織だけは知っている。涼太はきっとあの二人に会っているのだ。あの小太りと細身のサラリーマン風の死に神に。
どうなるのかわからない。死亡動機も、沙織には結局詳細なことは聞けなかった。
それでも、なんとなく涼太は戻ってくる気がした。彼らなら返してくれる気がした。
そう、きっと彼らなら苦笑しながら言うんだろう。
「なんだ、未練たらたらじゃねえか」
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