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雨の日はいつだって母の匂いがする
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ある晴れた朝のことだった。
本当に気持ちの良い、晴れた朝だった。
僕はなぜかその日、目覚ましの鳴る一時間前に目を覚まして、時間を持て余していた。いつも寝覚めの悪い僕には考えられないほど妙に意識がはっきりしていて、二度寝しようにもできそうにない。かといって変に携帯をいじると隣で寝ている妹を起こしてしまうかもしれない。
そんなことを悶々と考えていた暇な僕はなんとなく思いつきでジョギングでもすることにした。
朝のすっとした空気に身を震わせながらジャージに着替え、仏壇に手を合わせた。食卓に用意した夕飯に全く手をつけてないところをみると、どうやら父は昨日は帰れなかったようだ。忙しい時期だし仕方ないのだが、やはり日曜の朝に家族揃わないのは少し寂しい気がした。
「タカにい、ごはぁん」
後ろからは妹の寝言が聞こえてきた。どうやら妹も家族での美味しいご飯をご所望のようだ。
なるたけ音を立てないようにゆっくり立ち上がり、忍び足でそろそろと玄関に向かった。ドアを開けると、キィーと小さく音を立てて冷たい風が部屋に入り込んできた。うちは築三十年選手のボロアパートで、建物はギッシギシなのだが、その分通気性が良い。冬なんかは良すぎて泣きたくなるほどだ。
冷気が入り込まないようすぐに外に出てドアを閉めた。もう三月とは言えど、やっぱりまだ朝は寒い。
寒さを少し紛わす意味でも、軽くストレッチをしたいのだが、身体が思うように動かない。
「歳かな」
まだ高二の僕はそんなことをポツリと呟き、走り始めた。
やっぱり、朝は好きだ、と僕は思った。普段起きられないが、やはり朝、町に誰もいないこの空気は世界を独り占めした気分になってちょっぴり嬉しかったりする。朝の、晴れている癖にたまに霧が視界を曇らせるところなんかは、何か起こりそうな気配を匂わす。
そんなセンチメンタルなことを珍しく考えていた。
近所の住宅街を抜けると、川沿いに出た。ランニングしているおじ様方がいらっしゃるかなと思っていたが、どうやら今日はお休みのようだ。こんな気持ちのいい日に。もったいない。
川沿いはいっそう冷えた匂いが漂っていた。朝霧も心なしか少し濃くなっている気がする。しかし今の僕にはそんなことは気にならなくなっていた。
「フッフッフー」
走るリズムに合わせて、呼吸を整え、前へ前へと足を弾ませる。たったそれだけのことに僕は夢中になっていた。
「楽しい……」
誰もいないから独り言はつぶやき放題だった。
「少年、何が楽しいんだい?」
いや、いた。全然つぶやき放題なんかじゃなかった。普段そんなことをしないから急に恥ずかしさが込み上げてきた。足が止まった。
「あれ? 走るのやめちゃうの?」
いつの間にやら並走していた彼女は言った。ピンクのジャージ姿の、若い人だった。おそらく三十はいってないだろう。見た目では二十代前半に見えなくもなかったが、話し方になんとなく歳を感じた。
「なんだ、せっかく久しぶりに若い子見つけたから一緒に走ろうと思ったのに」
だんだんと霧が晴れてきていたのが分かった。周りを見渡すと、先ほどからずっと続く川と見覚えのない古びた公園があった。どうやら知らないうちに見慣れない所まで来てしまったらしい。
「あっさてはお姉さんの話聞いてないな」
「お姉さん?」
「ほー、生意気なやつだなこんにゃろ!」
「うわっちょっと何するんですか!」
彼女は突然僕の両の頬をつまみ、引っ張った。さっきまで走っていたせいか火照った身体にはその手はとても冷たく感じた。
「ひはいれふ! ひゃべてぷばざい!」
「ぷっははっ、何それ」
彼女は豪快に笑い飛ばしながら手を離した。
「はー笑った。面白いね、少年。少し話していかない?」
「何ですか? 新手のナンパですか?」
「まあまあ、そう訝しげな顔をするなって。お姉さん、今日誕生日なんだよ。でも朝っぱらから走ることしかないんだから。ちょっと付き合うくらいいいでしょ?ね、おねがーい。」
なんなんだこの人は。変態か?変態だな。よし、通報しよう。
僕はすぐさまポケットから携帯を取り出し、百十番を…したかった。が、どうやら携帯を忘れたらしかった。取り出したポケットティッシュがいつもの何倍も頼りなく見えた。
「……どうぞ」
「あははっ! なんでティッシュ! 面白いなぁ、ほんと」
「いやまあ、なんとなく? 寒いんで、汗すぐ拭かないと風邪ひきますから」
「ふふっありがと」
そう言って彼女はティッシュを数枚取って、汗を拭いはじめた。と言っても、肌にほぼ水滴は見られず、むしろ今まで走っていたのかと思うほど白く美しい姿をしていた。そしてティッシュでさっさと汗を拭き終えると、公園のゴミ捨て場へと駆け足で向かっていった。
僕もティッシュを数枚手に取り、だらだらにかいた汗を拭きながら公園へと足を運んだ。
公園といっても、川沿いに数種類の遊具がポツンと置いてあるだけのただの空き地に過ぎない。だが、なぜかはよくわからないが、どうも懐かしい感じがした。
先についたゴミ捨てを終えた彼女は、すべり台に腰掛けていた。
「そんなところでいいんですか?」
「うん、ベンチとかないしね。まあ……、すべり台にはちょっと思い出もあるし」
「……! 奇遇ですね、僕もです」
「あらそう? まっとりあえず座りなさいよ」
「そんな小さいすべり台に二人も座る場所どこにあるんですか?」
「いいのよ、膝の上でも」
「高校生捕まえて何言ってるんですか」
僕はそのまますべり台を通り過ぎ、その後ろゴミ箱へ向かった。ティッシュを丸めて、シュートを決めた。はずだったが、ボールはその遥か後方へ飛んで行ってしまった。全く。サッカー部が変にバスケの真似事なんてやるべきじゃなかった。
ため息を吐いてゆっくりティッシュを取りに向かった。
「いつも走ってるの?」
「いいえ、今日はなんか、たまたま」
「……そう」
「おば……」
「ん?」
「……いえ、『お姉さん』は? いつも走ってるんですか?」
「ううん、全然。今日は、特別な日だったから」
「そっか、誕生日」
何かが自分の中に引っ掛かった気がした。が、そんな違和感もティッシュを発見したことですぐに過ぎ去ってしまった。
「やっぱり……、一人は寂しいよね」
「いやほんとに僕年上無理なんで」
「その歳で年上無理だったら誰でも無理よ」
「初めて会う方にこんなこと言うのもあれですけど……」
「あによ?」
「あの、なんかいい人とかいないんですか? すごく失礼な質問ですけど、ほんと」
「まあいるんだけどね……。もう、会えないから……」
「ああ、そうです、か……」
人にはそれぞれの事情があるんだな、と思った。そして同時に、自分にも聞かれたくないこと、触れられたくないことがあるにも関わらず、そんな愚かなことを聞いた自分が恥ずかしくなった。
「すみません……」
「いいのよ、謝らなくて。話題振ったの私だし」
「お姉さん、いい人ですね」
「あれー? ナンパー?」
「断じて違います」
「ふははっ。いいね、少年」
出会って数分の人だったが、とても不思議な心地を生み出す彼女に僕は少し惹かれていた。恋愛感情とかでは断じてないのだが、包容力と表すれば良いのか、その人柄をとても気に入っていた。この人になら何にでも話せる。そんな気にさえさせてしまう人だった。
今度はしっかりゴミ箱にティッシュを捨て、すぐ隣のブランコに腰をかけた。ブランコは一台しかなく、このご時世には珍しく周りに柵もなかった。
「お姉さん、僕のすべり台の思い出聞きます?」
「いいよ、どうせ暇だしね」
「思い出って言っても全然僕覚えてないんですけど……」
「えーなにそれ」
「母との思い出なんです。僕が五才のときに亡くなった母との」
「……そっか」
彼女はすべり台を逆走して上まで登り、また座った。今度は階段に、僕の方を向いて座った。
「覚えてないのに、なんで思い出なの?」
「うーん、思い出って言うのも違うかな。なんか、母を……殺してしまったのって、僕らしくて」
少しはに噛んで言った。言いにくさを誤魔化したつもりだった。というより、こうしないと言えなかった。
彼女は何も言わず、ただ黙って聞いていた。表情はちょうど影になって見えなかった。
「僕が五才のとき、妹と母がちょうど退院したばかりだったんです。妹は産まれたばかりで、めちゃくちゃ可愛くて……。でもやっぱり僕も子供だったからそんな妹ばかりに母が構ってることに嫉妬しちゃって……」
足を地面から離すと、ブランコがきいきいと心配になる音を立てた。やっぱり彼女の表情は見えなかった。
「ある日とうとう限界が来て、思わずわがままを言ったんです。母と公園に行きたいって。思いっきり泣いて、駄々こねて……。子供ですよね、ほんと。でも母は優しかったから、そんな僕にも困った顔しながらも、笑って、いいよって言ってくれたんです。わざわざお隣さんに妹を預けて」
僕はブランコを降りて、すべり台に向けて歩き始めた。多分見たかったんだと思う。会ってすぐに突然こんな話をして、一体どんな顔をしているのか。知りたかったんだと思う。一体どう思っているのか。
「それで、近くの寂れた公園に来て、僕はすべり台に乗ったらしいんですよ。ちょうどこんな感じの公園だったのかな、きっと」
すべり台に触れるとやはりひんやりとした感触が伝わってきた。背も高くなったものだ。こんなチンケなすべり台ならてっぺんはもう目線と同じくらいの高さだった。
「すべり台に乗って遊んでたんだけど、だんだん飽きてきて……。きっと気を引きたかったんだと、思います。すべり台の上から、ジャンプしようとして……。でもっ……、は、母がっすぐ気付いてっ、くれてっ……! ぼく、を! 受け、止めた拍子にっ……。母が……頭を……!」
聞きたかったんだと思う。彼女の優しさに甘えて。きっと言ってくれるだろうと。彼女なら、笑って、きっと……必ず言ってくれると……
「悪くないよ。悪くない。タカは何にも悪くないよ」
すべり台のてっぺんにいる彼女を見上げた。彼女は僕の頭にそっと手を置いた。やっぱり彼女の表情は見えなかった。
「っ……。あ、あれっ……? おかしいなっ……。今日は晴れてたんだけどっ……、雨が……、雨が降って、るっ……! みたいだっ……!」
なぜこんな話をしてしまったんだろう。きっと自分がこうなってしまうのは分かっていたのに。迷惑をかけてしまうのに。それでも、僕は彼女に言わなければならない気がした。
「ごめんっ……、ごめんなさい……! ごめんなさい……! ごめんっなさいっ……!」
「……私もあるよ、すべり台の思い出。私はね、別になんもすごい人じゃなくて、本当に何もできなくて、大切な人にもいっぱい迷惑かけちゃったの。でもね、すべり台で私の大切な人のうちの一人がすごく楽しそうに遊んでる姿を見て、とても嬉しくなったの。それは、私の人生の中で、本当に大切な思い出。だから、大丈夫だよ。安心して、いいんだよ」
拭っても拭っても、僕には前が滲んで見えなかった。見なければならなかった。僕は、彼女の顔を。表情を。
「僕はっ……! あなたにっ、会いたくて……! あなたにっ……! 母さんに!!」
首筋にヒヤリとしたものが当たった感覚がした。触れると水が付いていた。
気づくと身体中が濡れていた。周りの音全てが雨音に変わり、まるで壊れたラジオかのようにざーざーと繰り返されていた。
公園は、なかった。見渡すといつもの川があり、振り返るとそこには朝のランニングで通った住宅街の道があった。
我に返りきれない僕は夢うつつのまま帰路に着いた。
「あー! タカにい遅ーい! 雨の中どこ行ってたの!」
ドアを開け、玄関に入ると、妹がもう起きていた。時計を見るととっくにいつも起きる時間を過ぎていた。
「いやぁ悪い悪い。ちょっと前までは晴れてたんだけど……」
「えー嘘だよ! 私いつも起きる時間よりも三十分もはやく起きたけど、もうその時にはざーざー降りだったよ。っていうか、なんなら雨は夜から降り続けてたみたいだし」
「えっ?」
そんなはずはない。少なくとも出かけてから三十分となると、ちょうどあのよくわからない白昼夢で母らしき人物と遭遇していた頃だ。何より今朝は晴天だったはずだ。
「えっまさかタカにい夢遊病~? やめてよー! 今うちそんな余裕ないんだから」
「あはは、まさか。寝ぼけてたのかな」
妹からタオルを受け取り、身体を拭きながら考える。
あれは夢だったのか。僕が見たいように見た、都合のいい…。
着替えてから、仏壇へ向かった。遺影には、先ほど会ったはずの母がいた。二十八で亡くなった、若く見える母だった。
「あっ!」
「うおっ! びっくりした……。急におっきな声出さないでよ、もう。」
なんだ、そういやそうだった。すっかり忘れていた。
「今日お前予定あるか?」
「何? タカにいほんと大丈夫?」
「いいから! あるのか?」
「いや別にないけど」
「そうか、じゃあ僕も今日部活休むよ」
「は?何言ってんの急に。まじ、どうした?」
机の上に出しっぱなしにしていた携帯を手に取り、父に電話をした。
「もしもし、父さん? 今仕事? そっか、ならよかった。あのさ、墓参りしない? 家族で。うん、僕部活休むから。急じゃないよ。だって今日は、」
なぜ忘れていたんだろう、こんな大切な日を。去年も、一昨年も忘れていた。
だから、きっと寂しかったんだ。そうだ、そう言ってたじゃないか。今日は……
今日は母さんの誕生日じゃないか。
雨が降っていた。部屋に少し懐かしい匂いがする。僕は覚えてないけど、きっとこれは母の匂いだ。
終
本当に気持ちの良い、晴れた朝だった。
僕はなぜかその日、目覚ましの鳴る一時間前に目を覚まして、時間を持て余していた。いつも寝覚めの悪い僕には考えられないほど妙に意識がはっきりしていて、二度寝しようにもできそうにない。かといって変に携帯をいじると隣で寝ている妹を起こしてしまうかもしれない。
そんなことを悶々と考えていた暇な僕はなんとなく思いつきでジョギングでもすることにした。
朝のすっとした空気に身を震わせながらジャージに着替え、仏壇に手を合わせた。食卓に用意した夕飯に全く手をつけてないところをみると、どうやら父は昨日は帰れなかったようだ。忙しい時期だし仕方ないのだが、やはり日曜の朝に家族揃わないのは少し寂しい気がした。
「タカにい、ごはぁん」
後ろからは妹の寝言が聞こえてきた。どうやら妹も家族での美味しいご飯をご所望のようだ。
なるたけ音を立てないようにゆっくり立ち上がり、忍び足でそろそろと玄関に向かった。ドアを開けると、キィーと小さく音を立てて冷たい風が部屋に入り込んできた。うちは築三十年選手のボロアパートで、建物はギッシギシなのだが、その分通気性が良い。冬なんかは良すぎて泣きたくなるほどだ。
冷気が入り込まないようすぐに外に出てドアを閉めた。もう三月とは言えど、やっぱりまだ朝は寒い。
寒さを少し紛わす意味でも、軽くストレッチをしたいのだが、身体が思うように動かない。
「歳かな」
まだ高二の僕はそんなことをポツリと呟き、走り始めた。
やっぱり、朝は好きだ、と僕は思った。普段起きられないが、やはり朝、町に誰もいないこの空気は世界を独り占めした気分になってちょっぴり嬉しかったりする。朝の、晴れている癖にたまに霧が視界を曇らせるところなんかは、何か起こりそうな気配を匂わす。
そんなセンチメンタルなことを珍しく考えていた。
近所の住宅街を抜けると、川沿いに出た。ランニングしているおじ様方がいらっしゃるかなと思っていたが、どうやら今日はお休みのようだ。こんな気持ちのいい日に。もったいない。
川沿いはいっそう冷えた匂いが漂っていた。朝霧も心なしか少し濃くなっている気がする。しかし今の僕にはそんなことは気にならなくなっていた。
「フッフッフー」
走るリズムに合わせて、呼吸を整え、前へ前へと足を弾ませる。たったそれだけのことに僕は夢中になっていた。
「楽しい……」
誰もいないから独り言はつぶやき放題だった。
「少年、何が楽しいんだい?」
いや、いた。全然つぶやき放題なんかじゃなかった。普段そんなことをしないから急に恥ずかしさが込み上げてきた。足が止まった。
「あれ? 走るのやめちゃうの?」
いつの間にやら並走していた彼女は言った。ピンクのジャージ姿の、若い人だった。おそらく三十はいってないだろう。見た目では二十代前半に見えなくもなかったが、話し方になんとなく歳を感じた。
「なんだ、せっかく久しぶりに若い子見つけたから一緒に走ろうと思ったのに」
だんだんと霧が晴れてきていたのが分かった。周りを見渡すと、先ほどからずっと続く川と見覚えのない古びた公園があった。どうやら知らないうちに見慣れない所まで来てしまったらしい。
「あっさてはお姉さんの話聞いてないな」
「お姉さん?」
「ほー、生意気なやつだなこんにゃろ!」
「うわっちょっと何するんですか!」
彼女は突然僕の両の頬をつまみ、引っ張った。さっきまで走っていたせいか火照った身体にはその手はとても冷たく感じた。
「ひはいれふ! ひゃべてぷばざい!」
「ぷっははっ、何それ」
彼女は豪快に笑い飛ばしながら手を離した。
「はー笑った。面白いね、少年。少し話していかない?」
「何ですか? 新手のナンパですか?」
「まあまあ、そう訝しげな顔をするなって。お姉さん、今日誕生日なんだよ。でも朝っぱらから走ることしかないんだから。ちょっと付き合うくらいいいでしょ?ね、おねがーい。」
なんなんだこの人は。変態か?変態だな。よし、通報しよう。
僕はすぐさまポケットから携帯を取り出し、百十番を…したかった。が、どうやら携帯を忘れたらしかった。取り出したポケットティッシュがいつもの何倍も頼りなく見えた。
「……どうぞ」
「あははっ! なんでティッシュ! 面白いなぁ、ほんと」
「いやまあ、なんとなく? 寒いんで、汗すぐ拭かないと風邪ひきますから」
「ふふっありがと」
そう言って彼女はティッシュを数枚取って、汗を拭いはじめた。と言っても、肌にほぼ水滴は見られず、むしろ今まで走っていたのかと思うほど白く美しい姿をしていた。そしてティッシュでさっさと汗を拭き終えると、公園のゴミ捨て場へと駆け足で向かっていった。
僕もティッシュを数枚手に取り、だらだらにかいた汗を拭きながら公園へと足を運んだ。
公園といっても、川沿いに数種類の遊具がポツンと置いてあるだけのただの空き地に過ぎない。だが、なぜかはよくわからないが、どうも懐かしい感じがした。
先についたゴミ捨てを終えた彼女は、すべり台に腰掛けていた。
「そんなところでいいんですか?」
「うん、ベンチとかないしね。まあ……、すべり台にはちょっと思い出もあるし」
「……! 奇遇ですね、僕もです」
「あらそう? まっとりあえず座りなさいよ」
「そんな小さいすべり台に二人も座る場所どこにあるんですか?」
「いいのよ、膝の上でも」
「高校生捕まえて何言ってるんですか」
僕はそのまますべり台を通り過ぎ、その後ろゴミ箱へ向かった。ティッシュを丸めて、シュートを決めた。はずだったが、ボールはその遥か後方へ飛んで行ってしまった。全く。サッカー部が変にバスケの真似事なんてやるべきじゃなかった。
ため息を吐いてゆっくりティッシュを取りに向かった。
「いつも走ってるの?」
「いいえ、今日はなんか、たまたま」
「……そう」
「おば……」
「ん?」
「……いえ、『お姉さん』は? いつも走ってるんですか?」
「ううん、全然。今日は、特別な日だったから」
「そっか、誕生日」
何かが自分の中に引っ掛かった気がした。が、そんな違和感もティッシュを発見したことですぐに過ぎ去ってしまった。
「やっぱり……、一人は寂しいよね」
「いやほんとに僕年上無理なんで」
「その歳で年上無理だったら誰でも無理よ」
「初めて会う方にこんなこと言うのもあれですけど……」
「あによ?」
「あの、なんかいい人とかいないんですか? すごく失礼な質問ですけど、ほんと」
「まあいるんだけどね……。もう、会えないから……」
「ああ、そうです、か……」
人にはそれぞれの事情があるんだな、と思った。そして同時に、自分にも聞かれたくないこと、触れられたくないことがあるにも関わらず、そんな愚かなことを聞いた自分が恥ずかしくなった。
「すみません……」
「いいのよ、謝らなくて。話題振ったの私だし」
「お姉さん、いい人ですね」
「あれー? ナンパー?」
「断じて違います」
「ふははっ。いいね、少年」
出会って数分の人だったが、とても不思議な心地を生み出す彼女に僕は少し惹かれていた。恋愛感情とかでは断じてないのだが、包容力と表すれば良いのか、その人柄をとても気に入っていた。この人になら何にでも話せる。そんな気にさえさせてしまう人だった。
今度はしっかりゴミ箱にティッシュを捨て、すぐ隣のブランコに腰をかけた。ブランコは一台しかなく、このご時世には珍しく周りに柵もなかった。
「お姉さん、僕のすべり台の思い出聞きます?」
「いいよ、どうせ暇だしね」
「思い出って言っても全然僕覚えてないんですけど……」
「えーなにそれ」
「母との思い出なんです。僕が五才のときに亡くなった母との」
「……そっか」
彼女はすべり台を逆走して上まで登り、また座った。今度は階段に、僕の方を向いて座った。
「覚えてないのに、なんで思い出なの?」
「うーん、思い出って言うのも違うかな。なんか、母を……殺してしまったのって、僕らしくて」
少しはに噛んで言った。言いにくさを誤魔化したつもりだった。というより、こうしないと言えなかった。
彼女は何も言わず、ただ黙って聞いていた。表情はちょうど影になって見えなかった。
「僕が五才のとき、妹と母がちょうど退院したばかりだったんです。妹は産まれたばかりで、めちゃくちゃ可愛くて……。でもやっぱり僕も子供だったからそんな妹ばかりに母が構ってることに嫉妬しちゃって……」
足を地面から離すと、ブランコがきいきいと心配になる音を立てた。やっぱり彼女の表情は見えなかった。
「ある日とうとう限界が来て、思わずわがままを言ったんです。母と公園に行きたいって。思いっきり泣いて、駄々こねて……。子供ですよね、ほんと。でも母は優しかったから、そんな僕にも困った顔しながらも、笑って、いいよって言ってくれたんです。わざわざお隣さんに妹を預けて」
僕はブランコを降りて、すべり台に向けて歩き始めた。多分見たかったんだと思う。会ってすぐに突然こんな話をして、一体どんな顔をしているのか。知りたかったんだと思う。一体どう思っているのか。
「それで、近くの寂れた公園に来て、僕はすべり台に乗ったらしいんですよ。ちょうどこんな感じの公園だったのかな、きっと」
すべり台に触れるとやはりひんやりとした感触が伝わってきた。背も高くなったものだ。こんなチンケなすべり台ならてっぺんはもう目線と同じくらいの高さだった。
「すべり台に乗って遊んでたんだけど、だんだん飽きてきて……。きっと気を引きたかったんだと、思います。すべり台の上から、ジャンプしようとして……。でもっ……、は、母がっすぐ気付いてっ、くれてっ……! ぼく、を! 受け、止めた拍子にっ……。母が……頭を……!」
聞きたかったんだと思う。彼女の優しさに甘えて。きっと言ってくれるだろうと。彼女なら、笑って、きっと……必ず言ってくれると……
「悪くないよ。悪くない。タカは何にも悪くないよ」
すべり台のてっぺんにいる彼女を見上げた。彼女は僕の頭にそっと手を置いた。やっぱり彼女の表情は見えなかった。
「っ……。あ、あれっ……? おかしいなっ……。今日は晴れてたんだけどっ……、雨が……、雨が降って、るっ……! みたいだっ……!」
なぜこんな話をしてしまったんだろう。きっと自分がこうなってしまうのは分かっていたのに。迷惑をかけてしまうのに。それでも、僕は彼女に言わなければならない気がした。
「ごめんっ……、ごめんなさい……! ごめんなさい……! ごめんっなさいっ……!」
「……私もあるよ、すべり台の思い出。私はね、別になんもすごい人じゃなくて、本当に何もできなくて、大切な人にもいっぱい迷惑かけちゃったの。でもね、すべり台で私の大切な人のうちの一人がすごく楽しそうに遊んでる姿を見て、とても嬉しくなったの。それは、私の人生の中で、本当に大切な思い出。だから、大丈夫だよ。安心して、いいんだよ」
拭っても拭っても、僕には前が滲んで見えなかった。見なければならなかった。僕は、彼女の顔を。表情を。
「僕はっ……! あなたにっ、会いたくて……! あなたにっ……! 母さんに!!」
首筋にヒヤリとしたものが当たった感覚がした。触れると水が付いていた。
気づくと身体中が濡れていた。周りの音全てが雨音に変わり、まるで壊れたラジオかのようにざーざーと繰り返されていた。
公園は、なかった。見渡すといつもの川があり、振り返るとそこには朝のランニングで通った住宅街の道があった。
我に返りきれない僕は夢うつつのまま帰路に着いた。
「あー! タカにい遅ーい! 雨の中どこ行ってたの!」
ドアを開け、玄関に入ると、妹がもう起きていた。時計を見るととっくにいつも起きる時間を過ぎていた。
「いやぁ悪い悪い。ちょっと前までは晴れてたんだけど……」
「えー嘘だよ! 私いつも起きる時間よりも三十分もはやく起きたけど、もうその時にはざーざー降りだったよ。っていうか、なんなら雨は夜から降り続けてたみたいだし」
「えっ?」
そんなはずはない。少なくとも出かけてから三十分となると、ちょうどあのよくわからない白昼夢で母らしき人物と遭遇していた頃だ。何より今朝は晴天だったはずだ。
「えっまさかタカにい夢遊病~? やめてよー! 今うちそんな余裕ないんだから」
「あはは、まさか。寝ぼけてたのかな」
妹からタオルを受け取り、身体を拭きながら考える。
あれは夢だったのか。僕が見たいように見た、都合のいい…。
着替えてから、仏壇へ向かった。遺影には、先ほど会ったはずの母がいた。二十八で亡くなった、若く見える母だった。
「あっ!」
「うおっ! びっくりした……。急におっきな声出さないでよ、もう。」
なんだ、そういやそうだった。すっかり忘れていた。
「今日お前予定あるか?」
「何? タカにいほんと大丈夫?」
「いいから! あるのか?」
「いや別にないけど」
「そうか、じゃあ僕も今日部活休むよ」
「は?何言ってんの急に。まじ、どうした?」
机の上に出しっぱなしにしていた携帯を手に取り、父に電話をした。
「もしもし、父さん? 今仕事? そっか、ならよかった。あのさ、墓参りしない? 家族で。うん、僕部活休むから。急じゃないよ。だって今日は、」
なぜ忘れていたんだろう、こんな大切な日を。去年も、一昨年も忘れていた。
だから、きっと寂しかったんだ。そうだ、そう言ってたじゃないか。今日は……
今日は母さんの誕生日じゃないか。
雨が降っていた。部屋に少し懐かしい匂いがする。僕は覚えてないけど、きっとこれは母の匂いだ。
終
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寝る前に読んでみたら、部屋内が暑かったせいか、目から汗がぶわっ、と……。汗です。(笑)
悲しいだけでなく優しさや愛情が伝わってくる、心が温まる物語でした。
相談に乗ってくださった上、感想まで……。あれ?私の目からも汗が……。部屋寒いのですが……。
感謝しかないです!ありがとうございます!
私も読ませていただいていますが、読むのが遅くて、もう少しかかりそうです。すみませんが、もう少し時間をください。
また、これからも仲良くしていただけると嬉しいです。よろしくお願いします!