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#3 ブラックボックス

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 店内放送が、何時もより甲高く聴こえるのは、わたしの卑屈さがそうさせているのだ。
 何をやっているのだろう、と自分を恥じた。周りや友人、カップル、家族連れで賑わっており、それが失くしたものに見えてじくじくと痛い。いや、元々持っていないのだから、後ろふたつは失くしてなどいないが。ここに来て、まだそんなことを考えている自分に驚き、再三恥じた。
 ここはショッピングモールのフードコートだ。
 四人用のテーブル席を、悔しいのでひとりで占領してやっている。浅慮せんりょな女だった。
 誰もいない静かな空間の、隅っこに坐っていたい。こういう人混みは落ち着かない。なら何処ならば好いか──真っ先に浮かんだのは、やはりというか何というか。あの美術室だった。
 我ながらどうかしている。病気なんじゃないのか。病名については、敢えて考えなかった。
 さすがに世間様と、それを通して己を見るのが辛くなってきたので、音楽でも聴こう。そう考える。ポケットから有線イヤホンを取り出し、もう片方からスマホ────

「ない」

 そこでハッとした。わたしの鞄、ベンチに置きっぱだ。
 あー……、と濁点付きの声が口から漏れ出る。やってしまった、これ、今更取りに行けないでしょ。ユウカの性格なら……絶対持ってくるよな。明日、学校に。
 合わせる顔がない。そうなったら恥ずかし過ぎて死ぬ。
 もう中身は諦めるしかないか。お金はユウカと遊ぶときだけ、何が起こっても良いよう、何時も余分に入れている。だからそう易々やすやすと無視できない額が、現在財布に入っているのだ。それに、スマホの中には色々と暴かれたくない秘密が……。
 パスワードは掛けてあるけれど──ユウカの誕生日なんだよな、アレ。──ああああ! マジで叫び出したい。死にたい。バレてたら、ロック解除できちゃってたらどうしよう。
 頭を抱え、煩悶はんもんとする。そうしてこれまでの思考が、未だ総て『神崎ユウカ』を中心にまわっていることを自覚し、より悶絶してしまう。

「はぁ…………」

 溜息と同時に、ぐぅ──と腹の虫が鳴いた。
 忘れていた空腹が、音を皮切りに意識させられ、余計にお腹が空いた。土砂降りの中を疾走ったせいで、全身びしょびしょで寒い。風邪を引きそうなほどである。このまま飢えと寒さで、死んでしまうのも悪くない──と思ったが、ふたつ隣の席の子供が大はしゃぎする声を聴いて、それも馬鹿馬鹿しくなる。
 本っ当に。……何やってんだろうな、わたし。
 することもなく暇になってきたので、今度はフードコートの向かいに在る、ゲームセンターを眺めた。忘れもしない。ユウカと最初にお出掛けしたときに、来たことが有る。
 クレーンゲームが下手くそで、手こずっていたわたしを助けてくれた。あのとき取ったキーホルダーは確か……。ああ、それも忘れた鞄の中に在るのか。
 ──ちょっと多めの札束。
 ──誕生日がパスワードのスマホ。
 ──初めて貰ったキーホルダー。
 あの鞄には、ユウカへの想いや思い出が、沢山詰まっていたんだな。わたしは失くして初めて気が付いた。ならば、なおのこと良いじゃあないか。
 あの鞄を手放せば、彼女への想いも思い出も、全部手放せる気がした。
 ああ、でもやっぱり──、

「ああ! やっぱりここに居た!」

 背後からそんな声がした。周囲の視線が集まるが、そんなのはお構いなし。彼女は何時だって、堂々と、彼女らしく振る舞う。その動作ひとつひとつには、芯が有って──。可愛げが有って──。気品が有って──。

「ちょっとちょっと、そんな泣きそうな顔しないでよ……」
「だって、だってさ……ひっく」
「はいはい。よしよーし。寂しかったねぇ、お姉さんの胸を貸してあげよう。でっかいぞう」

 やっぱり、手離したくないな。



X  X  X  X



 年甲斐としがいもなく号泣してしまった。
 周囲の視線もはばからず、激しく嗚咽おえつを繰り返しながら泣いたので、さすがにユウカに怒られた。

「あのねぇ、ひとりで突っ走り過ぎ!」
「はい……ごめんなさい……」

 ぷりぷりと怒る彼女もまた可愛いな──なんて思ってしまい、思わず顔がほころぶ。それが反省していないと受け取られたらしく、またこっぴどく叱られた。
 それから始まったのは質疑応答タイム。
 この事件のあらましを、つまびらかに説明することを求められ、わたしは渋々、語り出した。
 二週間前のストーキングから、どういうことを考え、どういう気持ちで犯行に及んだのか。その中に少なからず有った、嫉妬などの歪んだ感情──それらも赤裸々に語る。
 中には『友情』と呼べる範疇を、大きく逸している動機も有って。だからわたしの『慕情ぼじょう』が、バレていないかハラハラしながら話した。
 そのかん、ユウカは終始無言で、真面目な彼女の一面を知ってはいるけれど、それでもギャップは大きく……。それをわたしは、怖くも嬉しくも感じた。
 二週間。たった二週間。されど二週間。
 取り留めのない言葉になってしまったけれど、わたしはわたしの中の総てを、話し終える。開口一番、彼女は言った。

「思い詰め過ぎ。抱え込み過ぎ」

 それから矢継ぎ早に、

「てか、自分が辞めたら相手も辞めるだろうだなんて、ちょっと自意識過剰じゃありませんかね~、アマネさん? まあ、心配してくれてたのは、素直に嬉しいけど」

 と、茶化しながらに言う。
 彼女の言う通りだった。わたしの中心が彼女になり過ぎて──何時の間にか、彼女の中心もわたしであるかのように、錯覚していたのかも知れない。
 本当、お前は何処までも烏滸がましい。

「ごめん……」それしか返す言葉がなかった。

「だからそれは怒ってないんだって。私が怒ってるのは、アマネが自分を責め過ぎってこと。こっちが心配になるんだよ。潰れ掛けの人に助けられるほど、ハラハラすることってないんだから」
「反省します……」
「だいたい逃げた先が、初めて一緒に来たショッピングモールて! まさかとは思ったけど、見付けてくださいって言ってるようなモンじゃん!」
「はい……、全くその通りです……」
「ちょーし狂うなー、もう。何時ものチョップはどうしたんだ~? おら、何時ものアマネ返せ~、むにむに~」

 ユウカは頬っぺたを摑んで、ぐにぐにする。わたしは無抵抗でそれを受け入れた。

「やへへほゆふは、ほっへはほひはう」
「……ぷっ、あははは!」

 ユウカは大きな声で笑った。つられてわたしも、大笑いする。
 この感じ。もう味わうことができないと思っていたから、わたしは今にも崩れ落ちそうで。彼女のふところの深さが、暖かくて。また泣きそうになるのを、必死に堪えた。
 わたしたちは息ができなくなるくらい笑って、一段落して、慌てて息を吸い込む。新しい酸素とともに、呼吸を忘れるくらい笑い合える幸せの実感が、じんわりと身体からだに染みる。

「ぜぇ、はぁ……、はぁ。笑った笑った」
「笑ったね。……これからどうしようか」
「取り敢えず、ハンバーガーでも食べて落ち着こう。はい鞄」
「あっ……、ありがとう」

 慌ててスマホをチェックしようとしたら、横から「何も見てないよ」とユウカ。全く、彼女には敵わない。

「もう立てるの? お金くれたら、パシられるけど。私ら荷物も有るし」
「あー、じゃあお願いしようかな。正直わたし、今めちゃくちゃ腰抜けてるんだ。……緊張の糸が切れたっていうか、そういうので」
「おけまる水産、からの行ってきマンモス!」

 絶妙に古いギャグを挟んで、彼女は行ってしまった。軽やかな足取りでゆく、彼女の背中は大きかった。何時しかわたしも彼女のように、誰かを安心させられる背中になりたい。そんなことを考える。
 列に並ぶユウカの横顔を、ぼう──と眺めていると、不意にユウカがこちらを振り向く。そして、ニッと笑みを零した。思わず顔を伏す。
 し……、心臓に悪いでしょ。あんなの。
 泣いているときとは別の、懐かしい熱が、身体の芯からぽわぽわと湧いてきた。本当、病気みたいだな。風邪でも引いたのかも知れなかった。ゆったりと、時が流れるのを感じる……。

 ──……ヴィィィン……、……ヴィィィン……。

「──ハッ!」

 い、いけないいけない。危うく眠るところだった。
 ユウカから荷物の見張りを頼まれているのに、何たることか。慌てて音の正体を探ると、どうやらユウカの鞄の中──スマホの、ヴァイブレーション機能によるものだった。
 誰かから電話かな? 出たほうが良いのだろうか? いやでも勝手に出るのはさすがにちょっとな。知らせに行こうにも、この時間は人も多いし、荷物を持って席を立てば、坐れなくなりそうだ。
 どうしたものか、と迷っていると、何時の間やらユウカが隣に立っていてびっくりする。

「あ、ユウカ。誰かから電────」
「えいっ」

 電源を切った。え? えええ?

「な、何やってんの……? 電話は?」
「言ったでしょ。家が厳しくって、たぶん門限だよ。こりゃカンカンでしょーねー、きっと」

 良かったの? わたしがそう訊くのを読んでか、先回りして彼女は「私、家族が居ない夜ご飯、コレが初めて」と答えた。それはもう、心底愉快そうに。その笑顔が見れたので、わたしは何も言わないことにした。
 ユウカはハンバーガーとポテト、それからコーラを乗せたトレイを机に置き、ドカッと坐る。そして自分のぶんのポテトを摘み始めた。

「バーガー、適当に決めちゃったけど、そういやアレルギーとか」
「ないよ。好き嫌いとかもあんまりないから」
「そっか、なら良かった」

 わたしはバーガーの包み紙を開けて、かぶりつく。

「おお、アマネさんはバーガーから行く派ですかぁ。性格が出ますなぁ」
「どんな性格だよ」
「早とちり」
「うぐっ…………」

 ユウカはまたアハハと笑う。それからポテトを三本、一気に口内へと放り込んだ。

「いやぁ。帰ったらド叱られるだろうなぁ。私たち、これで『きょーあくはん』だね!」
「それを言うなら共謀犯だ……」
「いやいや。悪を共有すると書いて、『共悪犯』」
「オリジナルよりずっと凶悪な字面だな!?」

 共悪犯。その響きに、ささやかな独占欲が充たされる。
 彼女と深いところで、繋がっている。そう思える気がするのだ。我ながら浅ましくて、重たい女だなあと思う。けれど今は、それで良いじゃないか。
 あっ。
 そんなことを考えていたとき、わたしの頭に閃きが疾走る。余りにも馬鹿馬鹿しくて、浅ましくて、ガキっぽいアイデアだけれど。

「…………それなら、もっと凶悪なコト、してみない?」
「お、アマネにしては随分悪い顔だね。良いねイイネ、何する何する?」
「ふっふっふ」

 わたしは諧謔かいぎゃくっぽく笑ってみせたあと、言葉を続けた。

「カラオケ行って、朝帰りしよう」

「ほほう、つまりお泊まりデートですな?」彼女はニヤニヤと笑った。



X  X  X  X



 カラオケボックスに入ると、その暗さが、深夜の空気を先取りしているかのように思えた。ユウカは朝帰りが初めてと──そもそも夜更かしを余りしないとも──言っていたけれど、わたしだって朝帰りはしたことがない。
 つまり、お互いに、初めまして。
 ついでに言えば、閉店までショッピングモールに居たことも。コンビニでふたりでビニール傘を買ったことも、お互い初めてだという。心の奥底で、何かネツっぽいのが膨れ上がっていくのを感じる。
 そういうことも相俟あいまって、わたしたちは午後十時半にして、すっかり深夜テンションだった。

「勝負だぜアマネン」
「誰だそれ」
「六時間ぶっ続けで朝まで歌って、点数高かったほうの勝ちじゃあい!」

 小指を立ててマイクを持ち、ユウカはそう高らかに宣言すると、パッドを操作し、早速曲を入れる。

「それでは聴いてください。神崎ユウカで‪『✕‬‪✕‬‪✕‬‪✕‬』──」

 彼女が入れたのは、老若男女問わず知れた、演歌だった。何で?
 まあ、ユウカのことだし、一曲目は絶対にふざけると思っていたけれど。上手いのが逆に腹立たしい。液晶に映し出される音程バーは、外れることを知らず、こぶしやしゃくり、ビブラートといった記号がここぞとばかりに付けられている。
 本当に何でもできるんだな、ユウカ。本当に羨ましい。

「うぇ~い見てみて私98点! おい、おーい、アマネさん……?」

 それが段々悔しくなってきたので、わたしは矢継ぎ早、次の曲を入れた。わたしが好きなアニメの主題歌だ。一番聴き込んだ曲で、ユウカにかじり付いてやる。
 前奏が流れる。わたしはすぅ──と息を深く吸って、

「あ、そのアニメ私も知ってる。百合アニメだったよね? そういうの好きなの?」
「あなァた──ッ、の~……その指が~~…………」

 めちゃくちゃ上擦った。突然の質問に声が震える。リズムも音程もめちゃくちゃになり、取り戻すのに時間が掛かった。
 結果は81点。カラオケで出す点にしては、低いと言わざるを得ない。

「あちゃー。こりゃあ、やってんねぇ。ドンマイ!」

 誰のせいだ、誰の!
 言えるはずもないので、わたしはむくれることしかできない。

「くそう、次の曲こそはッ!」
「え? あれ? 私の番は?」

 強引にマイクを奪い、次の曲へ。次はアップテンポながらも、歌詞は暗く、世の中への不平不満をぶちまけるかのような合成音声楽曲だった。怒りや恥辱を、この歌声に乗せる──ッ!
 結果は惨敗だった。

「ぐっ、何故だ。何故上手くいかない…………」
「駄目だよアマネ、力入れて歌っちゃあ。喉の筋肉が締まって、高音も出ないし、息もしづらくなるんだよ。なるべく喉開いて、リラックス。リラーックス~」

 わたしの背中をバシバシ叩くユウカ。ゲラゲラと笑う声が室内に響いている。く、悔しい。何としても勝ちたい。勝ちたいけれど、このままでは負けてしまう。そもそもカラオケに来たことも、あんまりないわけだし。
 はいはい。分かりました、わたしの負けです降参です。今日の件も、最初からこうしていれば良かったのに。遅れながらそう思った。わたしは何処まで鈍くて、頭の悪いヤツなんだろう。
 わたしはパッドをめ付けるのを辞め、不服ながらにユウカのほうを向いた。

「ねぇユウカ。勝負はわたしの負けで良いから、歌い方……──」

 どさ。
 一瞬、何が起こったのか分からなかったが、わたしはユウカに押し倒されている。わたしの頭の横に、彼女の両の腕が在って。それらはソファを強く押し込んでいた。

「ゆ、ユウカ……?」
「リラックス。リラックスだよ、アマネ。深呼吸して」

 重力によって、彼女のサイドテールが垂れ落ち、頬をくすぐる。至近距離まで迫った彼女の顔面。カラオケの青紫の灯りが、鼻筋や、目尻や、頬の膨らみなどを薄く塗り潰す。より一層、その整い具合が見て取れた。
 遊び回ったり、雨の中わたしを探したりしたからか、髪や肌は少し乱れている。その荒れが、逆になまめかしくわたしには写った。

「深呼吸。ほら、早く」

 息を呑む。息を吐く。
 上手く呼吸ができず、それらは浅いものとなってしまう。
 互いの呼吸が頬を掠め合うほどの、そんな距離。心臓はこれまでにないほど五月蝿うるさくて。目を開けていると、吸い込まれそうな黒い瞳に写るわたしが見えて、眩暈がした。

「だから、力入れ過ぎなんだって」

 言いながら、彼女は緩やかに落下を始めた。
 ……否。降下だ、落下ではなく、これは、自分の意思で……。
 迫りくる吻の、熱量。弾力。粘っこさ。
 それらにわたしは身を委ねて──。



X  X  X  X



 夢が醒めるのも、熱が冷めるのも、一瞬のことだとは言った記憶が有るけれど。これを望んでいたわけではない。
 視界がかすんで、カラオケの宣伝がぼんやり耳に入ってくると、今までのことは総て夢だったのだと確信する。
 ううん……、喉がちょっとイガイガする。怒りを叫び、びしょ濡れで全力疾走、おまけに慣れない歌まで歌った。喉を壊すのも無理はない。
 わたしは身体を起こそうと……。ふうわり──頭の感覚が鮮明になる。目蓋まぶたを開けて天井を見ると、見慣れた顔がそこには在った。

「おはよう。よく寝たね」
「うおッ!?」

 飛び跳ねるように起き上がろうとして、失敗して、床に転げ落ちた。痛みが全身を襲う。ひざまくっ、ひざまくらじゃないのか今の!?

「いででで……っ、いまなんじ?」
「四時半前。そろそろ出ないと不味いよん」

 立ち上がり、背中に付いた汚れをパッパと払う。やおらユウカのほうを見れば、彼女がやけにニヤ付いていたので、ちょっとむくれた。

「仕方ないじゃん。慣れないこと色々して、疲れてたんだもん」
「そだねー、怒ったり泣いたり、あんましないもんねー」
「ううう~~」

 言い返せないわたしへ、更に追い討ちを掛けるかのごとく、ユウカは「ねえ、知ってる?」と喋舌り出す。「寝言って、疲れてると言いやすくなるんだってさ。元々夢を見るのは浅い眠りだけらしいし、当たり前っちゃあ当たり前だけど」

 何故その話を、今突然……?
 そこまで考えてハッとする。ニヤニヤの正体が分かった。
 何を、何を口走ったんだわたしは……!?

「そーゆーコトに興味をお持ちでしたかぁ、アマネさん。昨夜は随分お楽しみでしたね」
「ど、何処まで言ったの? てか何処まで……。う、うわぁぁああ!」

 わたしは叫んだ。その隣で、ユウカは笑い叫んでいた。

「さぁて、何処までがホント・・・でしょう・・・・?」

 悪戯いたずらっぽく口角を吊り上げ、彼女は言う。わたしは身体にも言えぬモワモワが疾走って、叫んだだけでは足りなくって、このまま暴れ出しそうになる。
 赤面が頂点に達し、火山になったわたしを、ユウカは覗き込んだ。

「てか、好意自体は気付いてたよ?」
「へ?」
「アレで隠してるつもりなのが可愛くって……、ついつい黙ってちょっかいかけてた。反応素直過ぎでしょ、男子中学生かっ」

 最早「あ、あ……」と譫言うわごとを繰り返すことしかできない。何とか意識を保ち、絞り出すように問う。

「い……、何時からお気付きになられてらっしゃったのですか?」
「教室出待ちするようになった辺りかな。妙によそよそしさと、馴れ馴れしさが増したみたいで。明らかに挙動不審だったから、そこでもしかして……って」

 ガッツリ初期のほうだった。
 マジかわたし。マジなのかわたし。そんなに分かりやすい反応してたのか? 恥ずかしくて死にたい。火山が噴火しそう。

「これからも、どうぞ末永くよろしくお願いします」
「ど、どういう意味で言ってるの、ソレ!?」
「さてどうなのかな?」
「~~~~ッ!!」

 気を抜けば意識を失ってしまいそうだった。バレていないと思っていなのに、筒抜けで、しかももてあそばれていたなんて。弄ばれる……、筒抜け……。言葉が反芻するたび、またどんどんと何かネツっぽいものが膨らんで、破裂しそうになる。
 溢れ出るその衝動を紛らわすため、彼女の脳天へ連続チョップをお見舞いした。

「ちょっとちょっと、これこれ辞めなされ。いたい、痛いたいたいッ! 待って、ごめん悪かったからマジで痛い痛いってばアマネ許して痛い痛い痛い痛い許してぇ!!」

 五分前の電話が鳴るまで、わたしは愛をひたすらに込めた。
 店を出て、帰路に着く。駅に着くころには五時くらい──始発の時間だ。
 雨はもうすっかり止んでいて、晴ればれとした気持ちになる。

「全くもう。照れるとスグそーするっ」
「いや、ごめんごめん。つい力込めちゃって。愛も込めてたけど」

 空が徐々に暗がりから抜け、雲の向こうに、眩しさが見る。それに照らされ、輝く地瀝青アスファルトの道を、一緒に歩いた。

「愛が痛いよこの女! それに、叩かれ過ぎて、私が馬鹿になっちゃったらどうするんだっ!」
「ユウカが馬鹿になったら……、──そのときは、わたしがお世話する、したいな」
「ちょっと恥じらいつつマジトーンで言わないで! ハチャメチャに重たいよこの女ッ!」

 乗車券を買って、改札機を通り。ホームへ続く廊下を、手を繋いで歩く。その温もりが、唐突に離れた。

「じゃあ、私こっちのホームだから。このまま学校に行きたいけど、制服じゃないし」
「お風呂にも入りたいね」
「長湯してられないけどなぁ。間に合わなくなっちゃう」

 取り留めのない雑談は、刻一刻と終わりを迎えていた。
 それが少し寂しくて。でも、また次が有るって分かれば、それも悪くはない。わたしは個展の入り口の、あの絵を思い出していた。
 不安と期待。不満と満足。焦りと高鳴り。蒼と橙が熔けて、ぐるぐる、ぐるぐる、混ざり合う。その気持ちが分かる気がした。
「ねぇ──、」彼女はこちらを真っ直ぐ見詰める。

「卒業したら、絶対同じ美大に行こう。そんでどっちかが落ちたら、……そのときは逃げちゃおうか。ふたりでニッポン一周の旅ッ! いえーい!」

 また馬鹿なことを。わたしは笑ってしまう。
 それからゆっくりユウカに近付き、手を振りあげ、

「いえーい。……ちょっと、何だその反応は」

 彼女は頭のてっぺんを手で抑え、上目遣いでこちらをうかがっている。

「チョップが来るかと思いました」
「何時もチョップしてすみませんでした」

 そんな条件反射するほどだったのか。わたしはちょっとバツが悪くなる。そうして分からないなりに、次の言葉を探した。

「文字通りの浪人にならないよう、頑張ろう」

 そう言うと、ユウカはゆっくり頷いて、笑みを浮かべる。
 柔らかい、包み込むような微笑みだった。わたしはこれを、護りたい。護れる自分で在りたいと、思ったのだった。
 タイヤがパンクしたような、空気の抜ける音が聴こえる。
 彼女は「じゃあまた学校で」などと叫びながら、階段を駆け抜け、ホームへと向かった。名残惜しい石鹸の香りを残して。
 続くように、一段一段わたしも降った。
 こちらのホームにはまだ電車は来ておらず。
 ワイ字屋根の上が、少しづつ照らされてゆく。

 ふるくなった夜が去り、新しい朝が来た。
 しかしわたしたちは現在いまもまだ、夢の途中に立っている。
 その立場はあやふやで、とても立っていられない。くらくら眩暈がするほどだ。けれどそれも大丈夫。例え未来が見えずとも、自分の手許てもとくらいは──握る、黒鉛に汚れたあの白い手だけは、どんな夜でも見えるから。
 世界に橙色オレンジの陽射しが堕ち、ふうわり──と舞う砂埃が、一足先に夜の星空を撮していた。

 今夜は好い夢、見られそうだな。
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