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#1 知ってること、知らせないこと
しおりを挟む一緒にイラストレーターになろうね。
そういったのはどっちだったか、もう憶えていない。
ふたりきりの美術室に橙色の陽射しが堕ち、ふうわり──と舞う塵が、一足先に夜の星空を撮していた。
並べられた、教室とは趣の違う長机は、三十前後のヒトを坐らせることができた。けれど今は不要ない。窓際で、先生もいないのに、後ろのほうで肩を並べる。そのぽかんとした大きな余白が、放課後のわたしたちを表しているようで、それはとても気分が好い。
削りたての鉛筆が放つ、檜の匂いと。それに混じって、仄かに石鹸の香りがした。ユウカの顔がこちらに向いたからだ。それを察して、わたしも其方のほうを向いた。
長く艶やかに伸びた髪は、深海に繋がっているみたいに青々とした黒色。瞳は宝石のごとき光と、吸い込まれそうになる闇が、混在している黒だった。それらと明暗を描くようにして、肌は驚くほど白い。差し色は、頬と吻の熟れたような赤。
「どう、スゴいでしょう」
童話の白雪姫の容貌を思わせる、御伽噺みたいな彼女は、とても俗っぽく無邪気に笑った。すらっと高い鼻の、その穴から。今にもふんす──と空気が漏れ出そうである。
白く細い手は、黒鉛に鈍く染まっている。
その手でスケッチブックを摑んで、描かれた内容を見せてきた。力強くそれでいて繊細な筆致で、少女が笑みを湛えている。明るさと儚さを兼ね添えた、幻想的なそのイラストは、まるで、作者の雰囲気をそのまま落とし込んだかのような。
「うん。凄く、綺麗……」
わたしは其方を向いて、ぼぅ──と見蕩れてしまう。
「でしょでしょー。中々の力作なんだよね」
「へぇ。モデルとか、参考にした絵とか有るの?」
何となしに訊く。すると彼女は少し気恥ずかしそうに「アマネ」とだけ応えた。アマネ……? それが誰の名前であることを理解するのに、数秒の時間を要した。
「……、わたしじゃん……」
もう一度、イラストに目を向ける。長い髪が緩やかに宙を舞うそのさまが、見事に表されている。正に力作だった。それを見て、相変わらずユウカは上手いなあ、と心底思う。わたしのほうが先に絵を描き始めていたのに、今や彼女の画力は、とてもわたしが手の届かないところに在る。もはやプロレベルではないだろうか? それが少しだけ妬ましいようで、誇らしいようで。
ともかく、イラストの女の子はとても美しく描かれている。しかし──、
「わたし、こんなに髪長くないよ?」
「アマネに似合うかなって思って」ユウカの顔がわたしの顔に近付く。「色々考えてたら」石鹸の好い匂いがふうわり、くゆる。「スゴいアイデア降ってきちゃった。ねね、スゴくない?」彼女はニコッとはにかみ、顔の横でブイサインを作った。
──さら。
わたしの短く切り揃えた髪を、ユウカが撫ぜる。顔面から火が噴き出そうになり、火山になったわたしを見て、彼女は「?」と不思議そうに小首を傾げた。待って待って、心臓が持たない。ばくばくして、まるで持久走のあとみたいだ。
「体調悪いの?」
「いえ……、なんでもごさいません……」
「えー、本当? アマネ、絶対なんか誤魔化してる顔してるー!」
「いやいや。本当に何でもないからっ!」
もう叫び出したい気分だった。叫び出したい気分だったが、それでは彼女に嫌われてしまいそうな気が──なくとも変な目で見られそうなので、辞めておいた。
わたしとユウカは親友だ。少なくとも、今現在は。
何時からだろう。彼女の行動が、わたしの行動の中心になり始めたのは。最初はきっと、帰るのを出待ちするくらいの──いや、これも充分キモいな。ともかく、わたしの芯は彼女である。
わたしの中に通る芯、ドロドロした醜い感情の名は、思うにきっと恋である。けれどユウカはそれを知らない。知ってしまえば、知らせてしまえば──もう後戻りできなくなる。踏み出した床が抜けて、そうなるとわたしは、二度と前へは進めない気がした。
「てかあれ、そういえば」
ユウカは思い出した、という風な顔をわざとらしく作った。
「前に髪伸ばすとか言ってなかったっけ? 辞めちゃったの?」
「ああ、それは──」
刹那、喉が真空になったような錯覚が走る。
「似合わないかなって、辞めちゃった」
「ええーっ、絶対似合うのに! かくなる上は、アマネが寝てるときに大量の育毛剤を塗りたくって……」
「辞めなさい」
ぽかっ。わたしはユウカの頭目掛け、軽くチョップをする。
「いったぁ~い!」
「うそつけ」
定番になりつつある、このやり取り。わたしはこれが好きだ。内輪ノリってのは、他人がしているのを見ると寒疣が立つけれど、いざ自分が当事者になれば、安心する。わたしの場合、ふたりだけの当たり前が有る──という優越感が強いのは否めない。
それももう直ぐ終わるとなると、幾ら下らないやり取りでも、何だか感慨深く感じる。
敢えて、髪を短く切り揃える意味だなんて、そんなのひとつしかないだろう。でもそれを彼女は気付かない。それで良い。
頭を抑え、過剰に痛がるふりをするユウカは、その台詞に対してとても、とても愉快そうだった。その横顔を見て、わたしは決心する。
ユウカとわたしは、
「個展」
上手く言葉が紡げず、単語だけが喉から排出された。
言え、言うんだわたし。そう、ユウカとわたしは、
「こてん?」
「──そう。個展。今度の日曜日、近くで、有名なイラストレーターさんの個展が有るらしいの。ユウカも知ってるでしょ? ✕✕✕✕さん」
「あっ、知ってる! その人の描く絵好きだから、プクシブとかイソスタとかもフォローしてるよ! んで、それがどうかしたの?」
「鈍いなぁ…………」
わたしは諧謔っぽく落胆してみせたあと、言葉を続けた。
「一緒に行こうってこと」
ユウカとわたしは、一緒に居ちゃいけない。
「ほほう、つまりデートですな?」彼女はニヤニヤと笑った。
X X X X
それは偶然だった。
今年の夏休みが終わった頃なので……、もう二週間前になるのか。
いつもわたしより先に美術室へ来ているユウカが、その日は居なかった。これはたぶん、初めてのことだった。わたしは少し気になって、ユウカを探しに行ったのだ。
行き違いになる可能性も有ったのに。だから探しに出たのも、ほんの気紛れで。偶然に身を任せると痛い目を見るってことを、いたく痛感させられた。
廊下を慎ましく歩く見慣れた後ろ姿を見掛け、わたしに安堵と不安と高揚が、同時に降り掛かった。ここに居たんだ──。何処へ行くんだろう──。丁寧で、品の有る歩き方だな──。
──という具合に。
確かユウカの家はお金持ちで、ご両親はとある大企業に勤めているらしい。おちゃらけた言動行動に反し、成績も運動神経も良く。動作のひとつひとつに気品を感じられたので、なるほどな、と妙に納得した記憶が有る。
「おー…………ぃ」
わたしは声を掛けようとして──踏み留まった。
待て待て。部活動中の今、わたしが急に現れたら、まるでストーキングしてるみたいじゃあないか? 嫌われてしまわないか? わたしは渋々物陰に隠れ、やり過ごすことにした。
あれ、よりストーカー度が上がってしまっているような……。
こそこそと後を付けていくと、思わずわたしは「うっ」と唸ってしまう。
──生徒指導室だ。
彼女は生徒指導室へと入っていったのだ。
二年後期に入った今日この頃、進路は学生たちの大きな悩みの種となる。それはわたしも例外ではなく……。
テスト順位が万年三桁のわたしは、未だ進路が決まっていない。ここで言う『決まっていない』とは、何処を受けるかが決まっていない──とかではない。もっと漠然としたところで、全然決まっていないのだった。ゆえに、この教室は苦手である。
それに比べてユウカは真面目だなぁ。と、しみじみ感心した。
いやしかし、彼女はどういう道を選ぶのだろう。
家が厳しいみたいだし、やはり良いところの大学へ行き、有意義に学ぶのだろうか。それとも、わたしと交わした『一緒にイラストレーターになる』約束を選んで、絵の道に進むのか。はたまた全く別のことをするのか。
だがわたしは漠然と、二番目なら良いのにな。そう思っていた。思ってしまっていた。
気が付くと、わたしは指導室のドアの前へと移動していた。バレない身を屈め、息を殺して。これじゃあ本当にストーカーじゃないか……。
自分を責めつつも、扉からは離れなかった。耳を欹てる。
「神崎、お前、画家を目指すそうじゃないか」
神崎──というのはユウカの苗字である。
「はい。画家というニュアンスは、少々異なるのですが……。絵の道に進むことは確かです。それが何か。そもそも、先生は何故それを?」
ユウカは何時ものおちゃらけた態度とは打って変わって、凛とした口調でそう言った。互いに威圧的な感じがして、何だがギスギスしているみたいだった。わたしはごくり──、と固唾を嚥下した。
「お前の親御さんから聞いた。先日電話が来てな」
「先生まで止めるつもりですか? 言っておきますが、私に進路を変更する気は有りません」
「いや……、別に神崎が進みたい道を進むのが一番良いんだが……。ほら、クリエイターなんてプロになれるのは、ほんの一握りだ。しかも、それでも食べてけるかは分からん」
「存じています。その上で」
「それに神崎は成績が良いから、この学力なら旧帝大も夢じゃない。お前はもっと上を目指せるんだよ」
窘めるような。諭すような。
ユウカは黙っていた。その沈黙の意味するところは、わたしには分からない。彼女の顔が──分からない。ユウカ、貴女は今、何を思っているの?
そう疑問が浮かぶと、今度はわたしが分からなくなった。
お前は何をやっているんだ──?
進路なんて碌に決めず、ただただ漠然と『イラストレーターになろう』なんて、馬鹿馬鹿しいにもほどが有る。イラストレーターという職業を、先生はよく知らないようだったけれど、その実情は概ね的を得ていた。
なれるか分からず、なれたとしても、それだけで生きていけるかと訊かれれば、頭を振らざるを得なかった。あやふやで、危険で、分からない。
もし『あの約束』が彼女を縛っていて。わたしを裏切るのが後ろめたくて、進路を狭めているのだとしたら? いや、それはさすがに烏滸がましいにしたって、絵をユウカに教えたのはわたしだ。
貴女は成績優秀で、人柄も良くて何時も人に囲まれている。運動神経も抜群だ。非の打ちどころがない。加えて奇蹟と思えるほどに、美しい。太陽みたいな明るさと、月のような儚さ。わたしにとっての、光。
ならわたしは、ユウカにとって何者なんだろう。
わたしは彼女の、善き友人で在れているのだろうか。
テストの順位は何時も三桁台。友達と呼べるのはユウカくらいしか居ない、我ながら偏屈な人間だと思う。ドッチボールは直ぐさま外野行き。二度と内野に戻ることはない。容姿については、言うまでもなく。
ここまで来ると、友達と思っているのは、実は一方的なものなのかも知れなかった。ユウカにとってわたしは、大勢の中のどうでも良いひとりなのではないのか。
わたしがこれまで感じてきた、数々の友情や、独占欲や、恋愛感情は──友達が少ないわたしが知らないだけで、実は当たり前のものなんじゃないのか。
神崎ユウカを、貴女を不幸にしているのは、誰だ。
厳しいご両親か? 対応の不出来な教師か? それとも……、アマネか?
連鎖的に弾ける思考。エンジンは一度掛かると止まらない。
足許が急に泥濘んで、立場があやふやになる感覚。とてもじゃないが、立っていられなくなって、眩暈がして、悚然とした。
その日の部活は休んだ。
帰路で感じたスマホの震えを、知らないフリして、何時の間にか朝だった。
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