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【第九章、白蝶貝】
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学校が休みの日、当主の許可を得て、レーヴは再び、帝都へ向かった。
前回の別れ際に、アンナリーズから頼まれた、衣類や化粧品を差し入れるためだ。
再会した彼女は、少しやつれていたが、目は死んでいなかった。
ヘンドリカの母が住み込むことになったことと、獣化の事実を伝えた。
「なるほどね。生きた人間と黒灰石の融合か――。理屈上は確かにあり得るかもだけど、現実に試した神経を疑うよ」
「どうにか石を取り出せないかなって、考えてるんだけど」
「治癒のソーサラー頼みで、無理やり切ってみる、とか?」
「外側から何かのアビリティで壊せないかな」
「身体の内側にあるものを、どの力で壊すつもり?まさか火炎とか言うんじゃないよね」
「重力制御、とか?」
「あれは落下の方向と速度を変化させるものなんでしょう?だったら、動かせない物には役に立たないと思うけど」
「確かに。だったら――」
そこまで口にしたところで、彼女は不機嫌そうにその細い指をレーヴの唇に押しつけた。
「他の女の心配ばかりだけど。あんたには、他に大事なことがあるんじゃないの?」
そう言って、両手を広げた。
「ごめん、まだ。助ける方法を思いつかないんだ。何かオレにできることある?食べたい物とか」
「お風呂に入れないことが耐えられない」
おそらくは何の含みも持たずに、ただ不満を言ったのだろうが、条件反射で、屋敷で見たあの情景を思い出してしまった。
「何であんたが顔を赤くするの」
鋭い指摘に思わず狼狽し、ポケットから、普段そこにはない貝が落ちた。
ヘンドリカたちの婚約の儀の予備にと、フリッツが持っていた物だ。一度目で成功したからと、押しつけられたのだ。
カランと心地良い音が無人の廊下に響く。
慌てて拾い上げたが、アンナリーズは真夏の太陽光線のような鋭い眼光でそれを睨んでいた。
帝国の女で、それが何かを知らない人間などいないという。
彼女は意外そうな表情をしたあと、謎を解き明かした名探偵のような笑みを見せた。
「なあんだ。そういうことなのか。別に恥ずかしがることじゃないよ」
「え……っと。何のこと?」
「今さら隠す必要はないでしょ。前に、わたしのそばから一生離れないって言ってたから、もしかして、とは思ってたんだけど」
想定外の方向に、話題が急加速したのはわかった。
勘違いしている、と訂正しようとして、相手の追撃が圧倒的に先だった。
「いいよ、婚約してあげる。年も一緒だしね」
目線をわずかにそらせながら、そう言った。
まさかとは思ったが――。そんなに即決していい事案なのだろうか。
喜んで飛び上がるとでも思っていたのか、何の反応も見せなかったレーヴに、彼女は怪訝そうに小首を傾げた。
「何で棒立ちなの?」
「一つだけ聞いていいか。それって、オレがナヴァルの王子だから?」
「それはそうだよ」
そんな返事をするのだろうと思っていたが、彼女は予想とは少し違う答えを返した。
「お父様が亡くなる前だったら、確かにそれは大きな理由になったかもね。でも、今は誰かの目を気にする身分ではなくなったんだ。だから純粋に、あんたが、レーヴがこの世界でわたしに一番必要だからだよ」
そう言ってはにかんで見せた笑顔は、これまで彼女と出会ってから目にしたどの表情よりもあどけなく、しばらく瞬きも忘れて見入ってしまった。
必要というフレーズが、頭の中で何度もリフレインして、やがて意味がわからなくなった。
「と、とりあえず、ここで儀式をするわけにはいかないわけだし――」
「婚約と婚姻は囚人であっても、認められている権利だよ。確か留置場の警護の兵士に、ソーサラーがいたはずだから、呼んできて」
いつになくテキパキした指示を与えると、廊下の先を指さした。
反論せず、言われるままになったのは、ヘンドリカとジルドを見たあとで、何かを感じていたからだと思う。
あるいは、まだ斬首刑の可能性が残っているにもかかわらず、普通の男女が行う、ありふれた儀式に、希望を見出した彼女への敬意があったのかもしれない。
入り口まで戻ると、歩哨の一人が蛍光する赤い指輪をしていた。
果たしてどんな反応を見せるのかと、おそるおそる事情を話すと、無精ひげを生やした彼は、おっくうそうに立ち上がり、黙ってアンナリーズの房の前までやってきて、紙とペンを差し出した。
二人がそれぞれに名を書くのを待って、白蝶貝の上にそれを重ねた。
「古より連綿と伝わる神の御言によりて、その霊験なる力を顕現せよ。ルミナス」
貝殻の上に手をかざしながら、おざなりな詠唱をすると、用紙の名前の部分が溶け落ち、それが貝殻に転写された。
彼は無造作にそれをアンナリーズに押しつけ、あくびをしながら去って行った。
「あとは、わたしがここから出れば万事解決だ。そっちは任せたから」
貝殻の一片を差し出し、レーヴの背中を押した。
おそらく、今起きた事の重大さを理解していないんだろうな、などと自問しながら、すっかり通り慣れた官舎の廊下を、出口に向かって進んでいたときだった。
通りかかった部屋の扉が、蝶番をきしませながら開いた。
前回の別れ際に、アンナリーズから頼まれた、衣類や化粧品を差し入れるためだ。
再会した彼女は、少しやつれていたが、目は死んでいなかった。
ヘンドリカの母が住み込むことになったことと、獣化の事実を伝えた。
「なるほどね。生きた人間と黒灰石の融合か――。理屈上は確かにあり得るかもだけど、現実に試した神経を疑うよ」
「どうにか石を取り出せないかなって、考えてるんだけど」
「治癒のソーサラー頼みで、無理やり切ってみる、とか?」
「外側から何かのアビリティで壊せないかな」
「身体の内側にあるものを、どの力で壊すつもり?まさか火炎とか言うんじゃないよね」
「重力制御、とか?」
「あれは落下の方向と速度を変化させるものなんでしょう?だったら、動かせない物には役に立たないと思うけど」
「確かに。だったら――」
そこまで口にしたところで、彼女は不機嫌そうにその細い指をレーヴの唇に押しつけた。
「他の女の心配ばかりだけど。あんたには、他に大事なことがあるんじゃないの?」
そう言って、両手を広げた。
「ごめん、まだ。助ける方法を思いつかないんだ。何かオレにできることある?食べたい物とか」
「お風呂に入れないことが耐えられない」
おそらくは何の含みも持たずに、ただ不満を言ったのだろうが、条件反射で、屋敷で見たあの情景を思い出してしまった。
「何であんたが顔を赤くするの」
鋭い指摘に思わず狼狽し、ポケットから、普段そこにはない貝が落ちた。
ヘンドリカたちの婚約の儀の予備にと、フリッツが持っていた物だ。一度目で成功したからと、押しつけられたのだ。
カランと心地良い音が無人の廊下に響く。
慌てて拾い上げたが、アンナリーズは真夏の太陽光線のような鋭い眼光でそれを睨んでいた。
帝国の女で、それが何かを知らない人間などいないという。
彼女は意外そうな表情をしたあと、謎を解き明かした名探偵のような笑みを見せた。
「なあんだ。そういうことなのか。別に恥ずかしがることじゃないよ」
「え……っと。何のこと?」
「今さら隠す必要はないでしょ。前に、わたしのそばから一生離れないって言ってたから、もしかして、とは思ってたんだけど」
想定外の方向に、話題が急加速したのはわかった。
勘違いしている、と訂正しようとして、相手の追撃が圧倒的に先だった。
「いいよ、婚約してあげる。年も一緒だしね」
目線をわずかにそらせながら、そう言った。
まさかとは思ったが――。そんなに即決していい事案なのだろうか。
喜んで飛び上がるとでも思っていたのか、何の反応も見せなかったレーヴに、彼女は怪訝そうに小首を傾げた。
「何で棒立ちなの?」
「一つだけ聞いていいか。それって、オレがナヴァルの王子だから?」
「それはそうだよ」
そんな返事をするのだろうと思っていたが、彼女は予想とは少し違う答えを返した。
「お父様が亡くなる前だったら、確かにそれは大きな理由になったかもね。でも、今は誰かの目を気にする身分ではなくなったんだ。だから純粋に、あんたが、レーヴがこの世界でわたしに一番必要だからだよ」
そう言ってはにかんで見せた笑顔は、これまで彼女と出会ってから目にしたどの表情よりもあどけなく、しばらく瞬きも忘れて見入ってしまった。
必要というフレーズが、頭の中で何度もリフレインして、やがて意味がわからなくなった。
「と、とりあえず、ここで儀式をするわけにはいかないわけだし――」
「婚約と婚姻は囚人であっても、認められている権利だよ。確か留置場の警護の兵士に、ソーサラーがいたはずだから、呼んできて」
いつになくテキパキした指示を与えると、廊下の先を指さした。
反論せず、言われるままになったのは、ヘンドリカとジルドを見たあとで、何かを感じていたからだと思う。
あるいは、まだ斬首刑の可能性が残っているにもかかわらず、普通の男女が行う、ありふれた儀式に、希望を見出した彼女への敬意があったのかもしれない。
入り口まで戻ると、歩哨の一人が蛍光する赤い指輪をしていた。
果たしてどんな反応を見せるのかと、おそるおそる事情を話すと、無精ひげを生やした彼は、おっくうそうに立ち上がり、黙ってアンナリーズの房の前までやってきて、紙とペンを差し出した。
二人がそれぞれに名を書くのを待って、白蝶貝の上にそれを重ねた。
「古より連綿と伝わる神の御言によりて、その霊験なる力を顕現せよ。ルミナス」
貝殻の上に手をかざしながら、おざなりな詠唱をすると、用紙の名前の部分が溶け落ち、それが貝殻に転写された。
彼は無造作にそれをアンナリーズに押しつけ、あくびをしながら去って行った。
「あとは、わたしがここから出れば万事解決だ。そっちは任せたから」
貝殻の一片を差し出し、レーヴの背中を押した。
おそらく、今起きた事の重大さを理解していないんだろうな、などと自問しながら、すっかり通り慣れた官舎の廊下を、出口に向かって進んでいたときだった。
通りかかった部屋の扉が、蝶番をきしませながら開いた。
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