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【第六章、決断】

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「閣下。万が一、撤退することがあれば、テューダーの娘を身代わりに残してはいかがでしょうか。背格好は皇女殿下そっくりでしたし、服と髪型だけそれらしくすれば、遠目にはわかりません。それに、もしものことがあったとしても元は罪人ですから」
 そう言った声には聞き覚えがあった。確か晩餐会場にいた、帝国の軍人だ。
 続けて、宰相の下卑た笑い声が響く。
「それはいい。近しい者から密告されるような貧乏貴族だ。どうせ、親も無事ではいられんのだろうしな」
 皇女は、士官学校の本校の生徒でもあると聞いている。将来、兵士の指揮官になる可能性もある中、無様に退却する姿を見せられない、という立場は理解できなくもない。ただ、レーヴにとって、もっとも身近な人間を、人形のように扱われた気がして、これまでに感じたことのない、怒りが胸に宿った。当主の部屋に女を連れ込み、好き勝手にしているという状況も我慢ならない。手にしていた酒瓶を床に叩きつけたい衝動にかられたが、その部屋の主が宰相を前に、感情を押し殺していた姿を思い出した。
 平常心を必死に保ち、屋敷にきて以来、もっとも低劣な任務をどうにか終えたが、胸の中にある熱の塊は冷え切っていなかった。
 それが決断の後押しをしたのだと思う。
 二階に駆け下り、元は夫人のワードローブで、今晩だけ、辺境伯の寝所になっている部屋を迷わず叩いた。
「入れ」
 彼は着替えもせず、壁際に置いた簡易ベッドに腰かけ、開けた窓に向かい、タバコをくゆらせていた。
「何の用だ」
「珍しいですね。当主様が吸われているの、初めて見た気がします」
「連れ合いが死んだとき、やめたんだ。よく煙たがられていてな。この部屋に久しぶりに入って――」
 彼はそこで口を閉ざし、タバコを灰皿に押しつけた。
 領地のほとんどの人間にとって、得にならないような政争に巻き込まれただけでなく、義弟が窮地に追い込まれた状況で、無力を感じているのだろうか。
「それで。何か用があったのだろう?」
「明日、オレも同行させてもらえませんか」
 カトリアを将とするエステルハージ隊は、テューダー隊から数えて、小隊で二つあとの配置だ。危険の度合いが著しく高いわけではないが、敵が未知である以上、もちろん、安全とは言えない。子供が行く必要はない、などと拒否するのだろうと予想していたが、クリストバルはまるで何の感情も声に乗せずにこう答えた。
「好きにしろ」
「え……。いいんですか?」
「カトリアが剣術の腕を見込んで、わざわざ士官学校に推薦したんだ。何か理由があるんだろう。それとは別に、お前が優秀であることは、十分にわかっている。だが、無茶はするな」
 あっさり許可されたことで、信頼されているような気になり、上階での不快感が一挙に薄まった。
 疲れてはいたが、軽くなった足取りで部屋を出る。
 早い朝に備え、すぐに寝ようと、一階へ戻ったときだった。
 廊下の油灯の下に、壁を背にした人の姿が見え、ぎょっとした。
「リーズ……。何しているんだよ。実家に戻ったんじゃなかったのか」
 だが、彼女は目を合わそうとしなかった。
 夕方に話して以降、それなりの時間が経っていたにもかかわらず、あのときと同じく負の気配しか感じない。
 果たして、その第一声はまたしても苛立った口調だった。
「カトリア姉様とも、仲が良いんだね。わたしには何も話しかけてこなかったくせに」
 そう言って、視線を落とした。
 姉様とも、ということは――やはりルノアからつながっているということか。
 そんな指摘を受けるほど、長く接していた記憶がない。そもそも、使用人の立場で、パーティの出席者に声をかけることなどできない。会話が成立するのは、相手から話しかけられたときだけだ。さらに言えば、カトリアがそばにいた時間より、フリッツと話していたほうがずっと長かった。
 その事実を簡潔に訴えようとしたとき、相手が再びレーヴに向き直る。
 一度何かを言いかけ、口をつぐみ、それから、静かに続けた。
「明日……あんたはどうするの?」
「同行を許可された」
「そう。それなら安心かな。お父様が危なくなったら、助けになってくれるよね」
 それまでとはまるで違って、沈んだ声でそれだけ口にすると、レーヴの返事を聞くことなく、小走りに、玄関へと駆けて行った。
 不安定な言動の理由は、逮捕され、心の整理をする間もなく父の出陣が決まったから。気が休まるときがなかったからだろう。
 だが、本当にそれだけだろうか。
 距離が近くなった気がしていたが、それは一方的な思い違いだったのだろうか。
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