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【第二章、エステルハージ家と士官学校】
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それから数日は、仕事を覚えることであっという間に過ぎた。
仕事内容は、洗濯や掃除、配膳にゴミ出しなど、およそ使用人と聞いて思いつくような内容ばかりで、最初の二日ほどで、与えられたほとんどすべての業務を把握しただけでなく、もっと効率的にできるのに、などと改善点を考える余裕もあった。
ヘンドリカは、仕事のできる人間ではあったが、同時に、なかなかにだらしない女だった。
使用人はバスルームを使えず、納屋のそばにある井戸の水で体を拭くことになるが、彼女はテオやレーヴの前でも、まるで恥ずかしがることなく、美しい裸体をさらすのだ。
「せめてシーツか何かで囲いをしてもらえませんか」
苦言を呈したが、「そんな時間はない」のひと言で即座に却下される始末だ。
帝国には女の恥じらいの概念がないのかとも思ったが、アンナリーズのあのときの反応を見ても、おそらくは特例だろう。多忙すぎて、感性が退化したのだと思う。
辺境伯は、テオの話していた通り、食事のときもずっと統領のことばかりを考えているようで、それ以外のことには、それがたとえ一人娘のことであっても、無関心だった。
それが前向きに作用したのは、ヘンドリカが、レーヴの就学のことについて尋ねたときだ。
「カトリア様からのご指示なのですが――編入手続きを進めてもよろしいでしょうか」
彼女がそう尋ねると、相手はひと言、「好きにしろ」とだけ答えたそうだ。
かかる費用は、レーヴの給金から出すとはいえ、保証人の立場で印章を押すことに何のためらいもないのは意外だった。ある意味、娘と従者を信頼している証と言えるかもしれない。
アンナリーズとは、あの小さな事件以来、完全に疎遠になった。レーヴと廊下ですれ違うと、あからさまに背を向ける。
どうやら彼女も士官学校の生徒らしく、それが理由で、この屋敷に逗留しているのだという。学校でも顔を合わせることになるかと思うと、憂鬱でしかない。
唯一、前向きな材料は、レーヴの記憶がおおむね再構築が済んでいて、それが他人の物だとは思えない水準になったことだ。
ただ、彼にも学校の経験はなく、その意味でも、学園生活を不安に感じていた日の夜だった。
一日の仕事を終え、自室でテオと雑談をしていたとき、ヘンドリカから呼び出しがあった。
使用人のうち、彼女の部屋だけは、二階にある。
中に入るのは初めてだった。
まさかとは思ったが――。
室内は信じられないほどに、荒れていた。
衣類は下着を含めて脱ぎっぱなしで、服の隙間から、使用済みの食器が見え隠れしている。
料理長が、最近、まかない用の皿の数が足りていないとレーヴを疑いの目で見ていたが、まさか上司が犯人だったとは。
かろうじて、寝床だけは、原型を維持していたが、ごみ置き場の中で眠る神経を心から疑うしかない。
「お話の前に具申してもよろしいでしょうか」
「手短に願います」
「屋敷の掃除のとき、ヘンドリカさんの部屋も加えたいんですけど――さすがにまずいですかね」
「誰がやるというのです」
「もちろんオレですけど」
「労賃は増やせませんよ」
「いりません」
足の踏み場がないことは、さすがに自覚しているらしく、足元のシャツを器用に蹴り上げて手に取ったあと、「それなら頼んでみますか」と、他人事のように言い放った。
「それで、ご用というのは?」
「ああ、そうでした。手続きが完了したのです。明日から通学して下さい」
三番の鐘から、午後の九番の鐘までの間、ずっと授業があるらしい。
当然だが、その間、屋敷の業務ができなくなる。
「朝の作業を、一番鐘から始めてもいいでしょうか」
「構わないですが、労賃は――」
「それは大丈夫です」
それから、彼女に手渡されたのは、どこかで見たような、黒の上下だった。
「制服です。場所はここから徒歩で四半時ほどのところにあります。アンナリーズ様についていくといいでしょう」
ああ――やはりそうなるのか。
一瞬、気が重くなったが、ルノアのことが頭に浮かび、うしろ向きな心を意志の力で追い払った。
彼女は寝床を確保できただろうか。食事はまともに取れているだろうか。
それに比べれば、気の強い女子に罵声を浴びせられる程度、まるで苦もないことなのだ。
仕事内容は、洗濯や掃除、配膳にゴミ出しなど、およそ使用人と聞いて思いつくような内容ばかりで、最初の二日ほどで、与えられたほとんどすべての業務を把握しただけでなく、もっと効率的にできるのに、などと改善点を考える余裕もあった。
ヘンドリカは、仕事のできる人間ではあったが、同時に、なかなかにだらしない女だった。
使用人はバスルームを使えず、納屋のそばにある井戸の水で体を拭くことになるが、彼女はテオやレーヴの前でも、まるで恥ずかしがることなく、美しい裸体をさらすのだ。
「せめてシーツか何かで囲いをしてもらえませんか」
苦言を呈したが、「そんな時間はない」のひと言で即座に却下される始末だ。
帝国には女の恥じらいの概念がないのかとも思ったが、アンナリーズのあのときの反応を見ても、おそらくは特例だろう。多忙すぎて、感性が退化したのだと思う。
辺境伯は、テオの話していた通り、食事のときもずっと統領のことばかりを考えているようで、それ以外のことには、それがたとえ一人娘のことであっても、無関心だった。
それが前向きに作用したのは、ヘンドリカが、レーヴの就学のことについて尋ねたときだ。
「カトリア様からのご指示なのですが――編入手続きを進めてもよろしいでしょうか」
彼女がそう尋ねると、相手はひと言、「好きにしろ」とだけ答えたそうだ。
かかる費用は、レーヴの給金から出すとはいえ、保証人の立場で印章を押すことに何のためらいもないのは意外だった。ある意味、娘と従者を信頼している証と言えるかもしれない。
アンナリーズとは、あの小さな事件以来、完全に疎遠になった。レーヴと廊下ですれ違うと、あからさまに背を向ける。
どうやら彼女も士官学校の生徒らしく、それが理由で、この屋敷に逗留しているのだという。学校でも顔を合わせることになるかと思うと、憂鬱でしかない。
唯一、前向きな材料は、レーヴの記憶がおおむね再構築が済んでいて、それが他人の物だとは思えない水準になったことだ。
ただ、彼にも学校の経験はなく、その意味でも、学園生活を不安に感じていた日の夜だった。
一日の仕事を終え、自室でテオと雑談をしていたとき、ヘンドリカから呼び出しがあった。
使用人のうち、彼女の部屋だけは、二階にある。
中に入るのは初めてだった。
まさかとは思ったが――。
室内は信じられないほどに、荒れていた。
衣類は下着を含めて脱ぎっぱなしで、服の隙間から、使用済みの食器が見え隠れしている。
料理長が、最近、まかない用の皿の数が足りていないとレーヴを疑いの目で見ていたが、まさか上司が犯人だったとは。
かろうじて、寝床だけは、原型を維持していたが、ごみ置き場の中で眠る神経を心から疑うしかない。
「お話の前に具申してもよろしいでしょうか」
「手短に願います」
「屋敷の掃除のとき、ヘンドリカさんの部屋も加えたいんですけど――さすがにまずいですかね」
「誰がやるというのです」
「もちろんオレですけど」
「労賃は増やせませんよ」
「いりません」
足の踏み場がないことは、さすがに自覚しているらしく、足元のシャツを器用に蹴り上げて手に取ったあと、「それなら頼んでみますか」と、他人事のように言い放った。
「それで、ご用というのは?」
「ああ、そうでした。手続きが完了したのです。明日から通学して下さい」
三番の鐘から、午後の九番の鐘までの間、ずっと授業があるらしい。
当然だが、その間、屋敷の業務ができなくなる。
「朝の作業を、一番鐘から始めてもいいでしょうか」
「構わないですが、労賃は――」
「それは大丈夫です」
それから、彼女に手渡されたのは、どこかで見たような、黒の上下だった。
「制服です。場所はここから徒歩で四半時ほどのところにあります。アンナリーズ様についていくといいでしょう」
ああ――やはりそうなるのか。
一瞬、気が重くなったが、ルノアのことが頭に浮かび、うしろ向きな心を意志の力で追い払った。
彼女は寝床を確保できただろうか。食事はまともに取れているだろうか。
それに比べれば、気の強い女子に罵声を浴びせられる程度、まるで苦もないことなのだ。
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