22 / 25
22、出立(後)
しおりを挟む「プハッ!」
「ハッ、ゼイ、ゼイ……。」
鳥居を潜った私たちが出てきたのは、当然の如く図書館ではなかった。いつもならば、紅い鳥居を潜った瞬間に広がるのは、銀砂の星々が煌めく、闇のカーテンに覆われた世界。しかし今宵ばかりはそんなものは目の前にはなかった。私たちを迎えたのは、ただ、静かな静かな—————井戸の底。
「……ふう。……私たちがいた井戸の底に戻っちゃうなんてね。しかも、なんか息が出来なくなってたし。」
「フン。このくらいは想定内だ。」
バシャン!
そんな効果音と共に水を被った私は、一瞬どうしたら良いのか分からなくなった。けれども、サラーダはそうではなかったようだった。水色の視界。周囲に揺蕩う透明な海藻。そこにはまだ、私が作った花輪がふゆふゆ浮かんでいた。それらを視界に認めるや否や、彼は私の腕を掴んで上へ上へと泳ぎ出した。
顔さえ出せば、後はこちらのもの。
井戸から這い出て、大きく息を吐く。
濡れた服を絞りながら改めて周囲を観察すれば、私たちは本当にただ戻ってきただけのようだった。秋カカシの森のただ中。井戸の側。鐘の音を聞く前の出発点に、私たちはいるようだった。
「それにしても……どうしよう。」
辺りには薮があり、青臭い植物の群れがざわりざわりとさざめいている。四方どちらを向いても、景色に変わりはないように思える。向かうべき先が、わからない。
「……知るか。少しは自分の脳味噌を使う努力をしろ。」
「そんな!サラーダくんこそ無責任じゃない?」
「……俺は。」
「ん?」
サラーダが、中々言い返して来ない。ぐ、っと詰まったような音が聞こえただけだった。私が不思議に思って彼の方を振り向くと、どこか様子がおかしかった。顔色が青い。薄茶色だった肌に血の気がなくなって、すうっと白っぽくなっている。
私は慌ててサラーダの顔を覗き込んだ。
「だ、大丈夫?!」
「……問題ない。」
「嘘だよね?明らかに顔色がひどいよ!どうしたの?!」
「本当に大丈夫だ。ただ、単純に、十二時を超えて外へ出ることはオバケの本能の根本問題として規制がかかっているだけだ。」
「全然意味分かんないよ!お願いだから一言で説明して!」
サラーダは、グッと詰まって視線を逸らした。そして数秒ほど躊躇うと、ほとんど聞き取れないほどの消え入りそうな声で呟いた。
「…………怖い。」
「へ?嘘でしょ?」
「っだから!オバケの精神構造は人間と違う!神の許可を得ずに俺たちが十二時を超えて外へ出ると、文字通り自分の命が端から溶けていく生々しい実感の波に襲われるんだ!他人を馬鹿にする前に、自分でそれを味わってみたら良い!」
「ご、ごめん。」
私は、慌てて謝った。
しかし良くない状況だな、と思う。サラーダが実際にこうなるまで自分に話してくれなかったのはきっと、羞恥心によるものだろう。または、根性で何とかなると思っていたのか。
なるほど恐怖心は、より強い感情で誤魔化すことが出来る。そして夜のエレーの神の世を守っていたものが恐怖心ならば、それを克服することは非常に重要なことだ。
「一応聞くけど、それ、本当に命が溶けてるわけじゃないんだよね?」
「……そんなことは有り得るものか。」
「それなら、良かった。糸を繋いでるし、いざとなったら私が守ることが出来る。でも……うーんと。」
どっちへ進もう。
私はぐるりと辺りを見渡した。前、薮。右、薮。後ろ、薮。左、…やっぱり薮。青々とざわめく草や樹木の影は、太陽の沈んだ薄闇には少し不気味だった。
しかし、決めなくては進めない。迷った挙句、私はある一点を指さす。
「あっちに……。」
刹那、私の背筋に凍りつくような悪寒が走って、私は背後を振り向いた。
「影……!」
ゆうらり。ゆらり。ざわあり。ざわり。草木だと思って安心していたら、これらはみんな敵だったようだ。
————キャラキャラ!
————クスクスッ!
————アハハハハッ!
不気味な笑い声を上げる影たち。真っ暗闇へと堕ちてゆく夜の世界で、それは不思議に美しかった。
影には色がない。そう思っていたのに、それは全くの誤解だった。紅葉の舞い散るように飛び出したのは、色とりどりのシャボンの泡。揚羽の蝶か吸血蝙蝠か、何とも変容し難い奇妙な生物。それから、鈴色の軍服に身を溶かした兵士の泥人形。
何なんだ、これは。
陳腐な感想になってしまうが、脳に浮かんだのはそれだけだった。
私は即座に、硬直するサラーダの前に踊り出て、化け物たちを散らした。彼が武器にと渡してくれた刺草の魔女のすりこぎ棒は、確かに強かった。やたらめったら振り回すだけで、影をやっつけることが出来る。的に向かって突き出せば、触れるか触れないかといったところで、既に向こうは崩壊を始める。ドッと鈍い手応えが腕に伝わった時には、もうぐしゃりと地面に潰れているのだ。
サラーダも状況を理解したのだろう。一拍遅れたが、私と同じように戦い始めていた。ダイヤモンドの透明な煌めきを武器に、腕全体を振り回して斬り捨てる。しかし、やはり顔色が青かった。今に膝が崩れ折れて嘔吐するのではと思うほどに追い詰められた顔をしている。
(やっぱり、夜の世界に飛び出るのは無茶だったかな。)
私はそう思った。そして同時に、(それぐらいの無茶が出来ないようなら、世界を救うことなど夢のまた夢だよね。)とも。
つまり、と私は結論付けた。外に出るなと言った雪の警告は本物だったけれど、きっとそれに反抗することこそが乗り越えるべき壁なのだ。
「サラーダ!」
「……っ!」
私は振り向きざまに大喝。一瞬怯んだカラフルな影たちを薙ぎ払うと、そこに立っていたサラーダを掬い上げた。幸い、彼の体自体は六歳の少年だ。そして私は人間。お姫様抱っこの要領で腕に抱き、そのまま戦線を離脱した。邪魔をする影は全部飛び越える。どうしても避けられないものはすりこぎ棒で倒す。
そして私は、走り出す。
獲物を追う狼のように。舞う土煙。靡く草。
途中で私はサラーダを背に背負った。どんどんと駆けてゆくと、風がびゅうびゅう頰を切る。涼しくて、心地良かった。もはや私は地を這う獣の脚では追い付けない程の速さだ。疾きこと鳥の如く。楽しきこと風の如く。そうして私は駆けてゆく。
「ねえ、大丈夫?サラーダくん。」
「あぁ。」
声すらも置き去りにする。
そのぐらい疾く、私たちは走る。
不思議だ。どうして私たちには、お互いの言葉が聞こえたのだろう。
「まっすぐ行くよ。」
「お前の好きなところへ行ったらいい。」
「ありがとう。」
私は見上げる。天を見上げる。
周囲のはもはや、里の景色ではない。とっくに離脱し、私たちは未知の場所を駆けている。
さやさやと揺れる黄緑色の草原。
どこまでもどこまでも。地平の果てまでエメラルド色の煌めきが小さな赤や黄の花と共に靡いている。波のように。しかし、もっと静かに。
「月が、出ているね。」
「……あぁ。人生で初めて見た。」
私は微笑む。そして見つける。駆けて駆けて駆け続けた先。うっすらと闇の中に浮かび上がる影を。
この世界に意図せずして足を踏み入れた、大元のキッカケ。記憶にあるそれよりも、グニョンと縦に引き伸ばされたシルエットが歪だが、間違いはない。
『エレー神殿』
私はほほえむ。やっぱり、あった。雪はないと断言したけれど、やはりこの世界にだって、これはあった。私が人間界からエレーの神の世に飛んだキッカケ。夜の帳も、そこにものあるという事実、すなわち存在自体を消せる訳ではないのだ。
私たちを待ち伏せしているのか。たまに、思い出したように影の残兵が襲って来る。地下にもぐら穴の秘密基地でもあるのかと思うような、突発的な不意打ちの奇襲だが問題はない。地面から降って湧いた飴玉や糸束の怪奇などに、遅れを取るような道理はない。
私は聳え立つ建物に、まっすぐに向かって行った。
「絶望の闇にこそ—————」
もうここは、エレー神殿の庭だ。何百キロも遠くの景色は、瞬きする間に目の前へと近づいてくる。私が勢い任せて神殿の壁をぶち破ることのないようにと配慮の心を抱き、走る速度を多少緩めた、その時。
またしても地面から影が湧いてきた。何か喋っているようだが、聞こえない。煩わしい。影でしかない、無力な虫め。そんな感情のままに私はすりこぎ棒を振るって対処しようとし。
「—————希望の光が宿るものだ。悪く思うな。」
その正体に気付いてぎょっとする。
油断した。
そう思った時には背後を取られていた。大事な武器のすりこぎ棒は掠め取られ、闇雲に突き出した蹴りは難なく躱される。ぐるん、と視界が回ってバンと大地に叩き付けられる。尋常でない速度で駆けていた私たちは、同じように尋常でない勢いで地面に激突することになった。
うっと呻いた途端に首根っこを押さえ付けられ、私はうつ伏せの姿勢で固定された。
ハッと気付いた時には、もう手遅れだった。渾身の力を振り絞っても一ミリと動けない。風よりも疾く走り、鳥も顔負けにジャンプした私が、全く歯が立たないのだ。そうこうしているうちに、さらに悪いことが起こった。
「サ、サラーダ……くんっ!」
サラーダが抵抗して暴れる気配が、ぷっつりと途切れたのだ。さっと青ざめ、私が無理やり頭だけ動かしそちらを見ると。片腕で私を拘束した黒マントの影が、サラーダの首に覆い被さるようにして、静かに吸血していた。
唇を付けられた途端、ギャッと小さく叫んだサラーダ。彼の体からは、見る間にだらんと力が抜けてゆく。彼の首に吸い付く黒マントは、どんなにサラーダが暴れても決して容赦をしない。とうとう意識を手放した、と見た時、その影はようやくサラーダの首から口を離した。
そして、フードを目深に被った頭がぐるりとこちらへ向いた。
「ひ……!」
「そう不安がるな。俺では人間に危害を加えることが出来ない。気絶させることすらもな。」
夜だからだろう。以前見た蝙蝠傘はその手にない。しかし状況としては、これ以上がないほど明白なものだった。分厚い黒マント。目深に被ったフード。高身長。武芸の達人。そして……吸血する習性。
私は、私たちは。
虎視眈々と私たちを捕える機会を狙って待ち伏せていたらしい最悪の障壁—————処刑人の闇笠に捕まったのだ。
どうすればいい。どうやって切り抜ける。どうしたら彼の拘束から抜け出せる。私が必死に頭を巡らせ始めた時だった。
闇笠が、私をきっちり抑え付けながら頭を低く下げた。
彼の背後に、もう一つの影が差したのだ。
「完了致しました。管理者殿。」
あくまで事務的な口調。しかしそこには、絶対的な権威への服従が滲み現れていた。
柔らかに、ひやりと涼しげな風が吹く。煽られて捲れた闇笠のマントが、バタバタとはためいた。
現れた影の主は、相変わらずの美貌だった。歌舞伎役者か、人形か。魔性の美しさを白粉で塗り固めた彼女は、薄水色の紗綾形の着物の袂を持ち上げてフフフと口元を隠し、狐の如くニイッと笑う。しかしその口が紡ぐのは、あくまでも普通の、どこにでもいるような少女の口調。
「あら、もう済んじゃったなんて。仕事が早くて助かるわ。」
「……それが数少ない私の取り柄ですので。」
「もー、どうして謙遜するのかしらね。あなたはとっても優秀なんだから、もっと誇って良いのに。」
優しく。いたわりと慈しみを込めて。
どこまでも自然な少女を演じる彼女は、今日も狂おしく笑うのだ。
「あと、敬語もいらないのよ。……ま、この頼みは、ほとんどみんな無視しちゃうんだけどね。悲しいわ。」
私は、絶望のどん底に突き落とされたような気分で、彼女を見上げた。
『氷魔女の雪』
彼女こそは、私がエレーの神の世で生き延びることが出来た立役者であり、最も感謝すべき恩人。そして、どんな手段を持ってしても殺さなければならないと決意したばかりの—————この世の最上位に君臨するオバケなのだった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活
XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。
45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる
よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です!
小説家になろうでも10位獲得しました!
そして、カクヨムでもランクイン中です!
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。
いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。
欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・
●●●●●●●●●●●●●●●
小説家になろうで執筆中の作品です。
アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。
現在見直し作業中です。
変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。
呪いをかけられた小国の姫は従者と共に旅に出る
結城芙由奈@12/27電子書籍配信中
ファンタジー
【世界は剣と魔法のファンタジーに満ちている】
辺境の国に住む美しく、心優しい姫レイリア。ある日国を襲った魔導士によって恐ろしい呪いを受け、外見も心も悪に染められてしまう。自身にかけられた呪いを解くために、新しく従者となったドラゴンと共にレイリアの長い旅が始まった——
※筆者、初期の作品です。新たに改稿しています
身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~
椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」
私を脅して、別れを決断させた彼の両親。
彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。
私とは住む世界が違った……
別れを命じられ、私の恋が終わった。
叶わない身分差の恋だったはずが――
※R-15くらいなので※マークはありません。
※視点切り替えあり。
※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
平凡冒険者のスローライフ
上田なごむ
ファンタジー
26歳独身動物好きの主人公大和希は、神様によって魔物・魔法・獣人等ファンタジーな世界観の異世界に転移させられる。
平凡な能力値、野望など抱いていない彼は、冒険者としてスローライフを目標に日々を過ごしていく。
果たして、彼を待ち受ける出会いや試練は如何なるものか……
ファンタジー世界に向き合う、平凡な冒険者の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる